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悪意を持って君と接する

作者: 東都エリ

 パブロフの犬とは有名な実験で、ベルを鳴らした後、犬に餌を与えることをを繰り返していれば、いずれ犬はベルの音を聞いただけで唾液を出すようになるのだという。ちなみにこれを条件反射といい、簡単に言えば後天的に獲得する反射のことらしい。


 条件反射は犬だけに起きるわけではない。当然人間にも起きる。手を叩けば肩を跳ね、拳を振り翳せば目を瞑る。


 月子が僕を見れば逃げようとするのも条件反射だ。


「なんで逃げようとすんの」


 聞くまでもない。条件反射。パブロフの犬。痛くて辛くて苦しい思いが脳裏に浮かぶから。月子は俯いて声を吃らせながらゴメンと謝った。僕は舌打ちをする。


「声ちっさ。顔上げて喋れよ」


 月子は何も言わなかった。顔も上げない。目に映るのは廊下の汚れだけ。無理やり向けさせてもいいが、休み時間は廊下に出る生徒が多い。僕と月子の関係性を知ってなお、傍観する観客たち。退屈を吹き飛ばす一触即発の大事件を怯えたふりで待ち望む。無関係と主張する被害者面した加害者ども。僕は苛つき舌打ちをした。奴らを喜ばせる気は更々ない。


「どけよ」


 恐怖が目の前に迫っても、目線を逸らせる月子。動物的本能がそうさせるのか、決して目を合わせようとはせずに慌てて横に避けようとする。


 すれ違い際に肩をぶつけて月子は腕に抱えていた教科書を落とした。二組は次の時間、移動教室らしい。落ちた教科書から視線を戻し、僕は一組へと向かう。後方で大丈夫と心配する女子生徒の声が聞こえた。助けるならずっと側にいろよ。慣れた口から舌打ちが漏れた。


 月子とは幼馴染だった。小中高と同じで、彼女もうんざりしていることだろう。月子に対するイジメが始まったのは小学生の頃からだ。原因はわからない。


 月子と仲の良かった女子グループがある日突然牙を剥いたのだ。昨日までの友人が豹変する。僕ら鈍感な男子の間でも違和感をはっきり感じるほどに月子は仲間はずれにされていた。


 それを見て正義感を燃やすような男は存在しない。成長するにつれて男女の間には見えない溝が深まる。それは気安く越えられるものではなかった。特に小学生の間では男が女と仲良くするのをバカにする傾向があった。二人仲良く下校しているのを見た日には相当な優男でない限り鬼の首を取ったように騒がれる。僕らは見守るしかなかった。クスクスと笑い声がする険悪な教室が元のつまらないものへ戻るのを。


 しかし教師は火に油を注いだ。僕らでもわかるのだ。六限常にいる教師が教室の変化に気づかないはずがない。ある日、僕らは帰りの会に残されて現状把握と解決策を話し合わされた。それにより月子に対するイジメは止むことは当然なく、チクリ魔としてより過激で陰湿になった。


 中学に上がる頃、月子を更なる悲劇が襲う。事業に失敗した父親が暴力を振るうようになったのだ。地元の中学は小学校の同級生が多い。学校ではイジメられ、家に帰れば殴られる。月子は暗く臆病になっていった。


 僕はそれが心底腹立たしかったのだ。


 中学三年生ともなれば、皆おもちゃ遊びにも飽きて勉学に励むようになった。いや、本当はずっと前から月子は一人だった。陰口を叩かれる以上のイジメはない。


 何故なら僕が独占していたから。


 腹立たしかったのだ。弱いから。抵抗しようとしないから。されて当然と言わんばかりの目をしていたから。高校に上がっても、僕は月子に絡んだ。背中を丸めて陰鬱とした姿が無性に悔しくて、悔しかったのだ。


 放課後。月子は校舎三階の空き教室にいる。文芸部に入っているらしく、そこが部室なのだ。部員数は少なくない。それでも教室の中には月子しか居ない。理由は僕が来るからだ。


 月子がそこから逃げないのは、逃げ場がないからだ。校舎内に残れば僕が探しに来る。街に逃げても僕が来る。家に帰れば僕が来る。まるで清らかな恋心を持ったストーカーのように彼女を追う。月子は諦めた。何度も繰り返せば、学習する。パブロフの犬だ。


 部室に入り、扉の鍵を閉める。ガチャリという音に月子は体を強張らせて、読んでいた本の角を支えにぶつけた。月子が扉に鍵をかけないのは掛けても無駄だから。僕が愛おしい恋人を待つように教室の前で佇んでいるから。


 月子にとって、これから起こることは小中のイジメよりも軽いものなのだ。だから我慢できる。だから受け入れる。だが、それではダメなのだ。


「月子」


 名前を呼ぶ。肩を跳ねさせる。


「……な、なんですか」


 小さな声。舌打ちをして、ゆっくりと近づく。手が震えている。


「こっちを向け」


 震えた手は開いた本を固く握って、視線一つ寄越さない。舌打ちをする。


「こっちを向け」


 無機質な声色。怒りも悲しさも感じさせないその声に月子は恐る恐ると本を倒す。


「あの……」


 怯えた顔。綺麗な瞳。不安げな口。透き通った声。

 ああ、ダメか。舌打ちをする。


 僕は拳を振り上げた。






 パブロフの犬は、与える餌が不味ければ唾液を流さなかっただろうか。そんなはずはない。結局、餌は餌であり唾液は生理的反応なのだ。


 であれば、悪意に対する反応もそうであるべきだ。


 どれだけ小さな悪意にも恐怖し、身を守ろうとする。そんな条件反射が月子に生まれるだろうか。


「なに考え込んでんの」


 夕焼けが影を作る教室でツキネは人差し指で僕の頬を突き刺した。隣に寄り添い手を繋ぐ。ただそれだけで幸せな時間が過ぎていく。


「ちよっと実験が上手くいかなくてさ」

「実験?」

「いや、なんでもないよ」


 ツキネは「なによ」と不満げに頬を膨らませ、今度は僕がそれを突いた。


 整った顔。綺麗な瞳。笑う口。透き通った声。

 月子と瓜二つのツキネはただ一つ、明るかった。


 ひとしきり笑った後、ツキネは僕の肩に頭を乗せた。


「いつまでもこうして笑っていたい」

「そうだね」

「外に出てデートして」

「そうだね」

「ツキネはしたくないのか」

「したいよ」


 でもと言葉を続けるツキネはどこか寂しげだ。


「無理だよ」

「無理じゃないさ。きっといつか、二人で海にでも行こう」


 なんとか笑ってほしくて明るく振る舞うも、ツキネはやっぱり寂しそうに言った。


「二人でって私と? それとも月子と?」


 決まってる。もちろん君とだ。その言葉が言えないのは、寂しげで苦しそうな顔をしていたから。ツキネにとって月子は大切な人格だから。それをわかっていたから。


 中学生の頃、月子はクラスメイトと初めて喧嘩をした。今まで反抗してこなかった月子が感情的になって勇ましく戦った。しかし、月子はそれを覚えてはいなかった。原因は単純で、喧嘩をしたのが月子とは別の人格だったからだ。


 その人格は月子とはまるで別人だった。形容するならハリネズミのように来るもの全てを攻撃する荒々しさがあった。陰鬱だった月子の猫背はヤンキーがガンを飛ばすようになり、この世の全てに絶望したような顔つきは怒りに満ちていた。


 僕はそんな人格の月子を好きになった。


 その人格は、イジメられ、虐待された月子が身を守るために生み出したものだった。普段の月子をとは似つかないほど暴力的で、そのせいか月子に対するイジメも虐待も少なくなっていった。僕一人を除いて。


 月子をイジメればツキネに会えた。だから僕は月子をイジメる。ツキネは月子との記憶を持っていた。だから初めのうちは当然僕を敵視していた。今こうしてお互い身を寄せ合えるのは、奇跡と呼ばずしてなんというべきか。


「もう時間だ」


 まだ下校のチャイムも鳴っていないのに、ツキネは淡々と言った。


「……早すぎる」


 日々、ツキネに会える時間が少なくなっている。ツキネの記憶を月子は覚えていないが、僕との安らぎをどこかで感じているのだとツキネは言った。つまりは慣れだと。


 悪意が足りないのだ。小中のイジメよりも、実の親からの虐待よりも。いつだって殴るふりをして君を呼び出す。僕はそれが苦しい。だから、ベル(舌打ち)を鳴らした。小さな悪意に気づいてほしくて。


「うん。でもさ、私もいつか行きたいよ」


 不満をさらりと受け流し、ツキネは見えない未来に期待をのせる。「三人で」そう言い残してゆっくりと瞼が閉じてゆく。


 寝息を立てる月子の姿は、ツキネとも月子とも判断がつかなかった。

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