3 新たな出会い
朝霧に貰った水筒の中身を飲んだ後、俺は神社を降りて、再び田舎道を歩いていた。
相変わらず蝉の鳴き声は煩いが、周囲には家がポツポツと点在しているだけで、他には何もない。田畑が広がり、草木が生い茂っているだけだ。
それでも、何処か独特の安堵感があり、心が落ち着いた。家を出て歩いてみるのも悪くない、そう思った。
その時だった。突然、後ろから大きな声が響いた。
「どいてくれーー!」
振り返ると、下り坂を自転車に乗って猛スピードで駆け下りてくる男がいた。
男は顔を歪め、必死にハンドルを握りしめている。瞬時に、自転車のコントロールが失われているのが分かった。
俺は左脚に全身の力を込め、跳ねるように回避する。
次の瞬間、男はT字路を通過し、勢いのまま真っ直ぐ田んぼに落ちていった。
「うおおおおおおお!」
男の叫び声が遠くまで響き渡る。
慌てて駆け寄ると、尻餅をついて泥に塗れた男の姿と、その周りに倒れている緑の稲穂が目に入った。
面倒事は避けたいが、こればかりは見過ごせる状況ではない。
「おい、大丈夫か?」
迷わず、反射的に声が出た。
「大丈夫じゃないな。はぁ……最悪だぜ……」
男は軽くため息をつき、ゆっくりと立ち上がる。そして隣に倒れている自転車を見下ろすと、一人では持てないと判断したのか、俺に助けを求めてきた。
「すまん、この自転車を道路に引き上げるのを手伝ってくれ」
しかし、俺は応えることができなかった。
だが、それは男を助けたい気持ちが無かったからではない。単純に、泥だらけの田んぼの中に入る勇気が、俺にはなかったのだ。
それに、これは言い訳かもしれないが、朝霧から貰った水筒を汚すのは少し気が引けた。
そんな俺を見て、男は俺の戸惑いを察したらしい。気を遣うように言った。
「別に田んぼに入って来なくても大丈夫だ。俺が自転車を上げるから、そこで受け取ってくれ。まぁ手は汚れるだろうが、後で礼はするからさ、頼むぜ」
その言葉に、心が痛むほどではないが、少し申し訳ない気持ちになる。
「ああ、わかった」
仕方なく、俺は水筒を道の端に置き、手を貸すことにした。朝霧の水筒も、布ではない。仮に汚れたとしても、最悪洗えばなんとかなるはずだ。
「ありがとな」
男は一言そう言うと、一気に自転車を持ち上げる。
俺はそれを受け取り、道路の上に引き上げた。
男が軽々持ち上げるのを見て、正直軽いのかと思っていた。だが、実際に持ってみると想像以上に重く、肘が軋み、泥が手につく感触はべっとりとして不快だった。
作業が終わり、男が「礼がしたい」と家に誘ってくる。
少し迷ったが、断る理由も見つからず、結局、俺は彼について行くことにした。
「着いたぜ」
男の声に導かれるようにして、目を向けた。
二階建ての家だった。外壁は一部色褪せていて、至るところにツタが生えている。
「いいところだろ?」
男は振り返り、どこか誇らしげに言ってきた。
別に、特別な感想があるわけじゃない。
でも、軒先にある風鈴が揺れると、チリンという澄んだ音色が響き、不思議と心に沁みるものがあった。
「ああ」
短く応えながら、俺は無意識に視線を外す。
「あー、いい忘れてたんだが、一人先客がいるな」
男は、急に何かを思い出したようだった。
「先客……?」
「まぁ、良いやつなんだがな。一応先に言っとくわ。変わったヤツだ」
「………」
変わった奴。一体どんな奴だろうか。男がわざわざ前置きしてくるあたり、相当クセが強いのかもしれない。
俺は少し身構えながら家の中へ足を踏み入れた。
すると、目の前に眼鏡の男が立っていた。彼はすぐに目を細め、泥だらけの男を見つめると冷ややかな口調で言った。
「遅い!……と言いたいところだけど、君はどうしていつも泥だらけなんだい?」
「それがよぉ。久しぶりに自転車に乗ったんだが、ブレーキが効かなくてな、田んぼに落ちた」
「……何故試し運転をしない?」
「急いでたからに決まってるだろ!」
「はぁ、それで彼に助けてもらったというわけか、呆れたやつだね」
眼鏡の男は一つため息をつくと、今度は俺に視線を移す。
「それで、君は誰なんだい?」
当然の問いかけだった。だが、その問いかけに俺が答えるよりも早くーーー
「お、そういやまだ名前を聞いてなかったな。だが、何となく分かるぜ」
泥だらけの男が反応し、ニヤリと笑う。
「お前、水瀬だろ」
男の突然の言葉に驚き、俺は思わず言葉を失った。
「……どうして、それを?」
「そう警戒するなって。実はな、水瀬の婆ちゃんから色々と聞いてるんだ。事故で記憶を失くした孫がいるから仲良くしてくれってな」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
何故俺のことを話したのだろうか。いや、あのお婆ちゃんのことだ。きっと俺を気にかけたのだろう。
けれど、やはり複雑だった。
自分の知らないところで、自分のことが語られている。それが、無性に居心地が悪かった。
「そういえば、そんなことを言っていた気がするね。名前は確か……」
真正面に立つ眼鏡の男が、何かを思い出すように目を細め、ぽつりと呟く。
一体何人に俺のことを話したのだろうか。
「……杜遥だ」
「そう、杜遥だったね」
俺が名乗ると、眼鏡の男はどこか合点がいったように頷いた。けれど俺だけ何も知らないというのは、見透かされているような、奇妙な照れくささがある。
「ま、こっちだけ知ってるのも悪いし、ここはちゃんと名乗らせてもらうぜ。俺は荒河祐介、んで、こっちの口がキツイ眼鏡は烏山聡だ」
荒河という泥だらけの男はニッと笑いながら眼鏡の男を指さす。烏山はやれやれというように肩を竦めた。
「……紹介に悪意がある気がするけど、よろしく頼むよ」
「……よろしく」
俺は二人と軽く挨拶を交わす。
「水瀬の婆ちゃんには色々と世話になってるからな。何かあったら頼ってくれ」
「そんなこと言って、また君が助けられそうだけどね」
荒河が少し得意気に言うと、烏山がボソリと言った。
「おい、ちゃんと聞こえてるぞ」
そんな二人のやりとりに気が緩んだのかーーー
グーギュルルルルッ
俺のお腹が豪快に音を鳴らした。
それを聞き、荒河は玄関の靴箱の上に置かれた、小さな置時計に目をやる。
「お、もうこんな時間か」
それにつられて、俺も時計を見る。いつの間にか正午を過ぎていた。
「お腹空いたか?」
荒河は笑いながら言った。
「……少し」
俺は恥ずかしさを誤魔化すように、小声で答える。
「まぁちょうどいいな。助けてもらった礼に、昼飯をご馳走しようと思ってたんだ。昼の予定とかってあったりするのか?」
俺は少し考え、今朝のことを思い出す。
確か妹は「お昼は適当に食べてね」と言っていた。
つまり、荒河にご馳走してもらったところで、特に問題はないだろう。
「いや、特に予定はないな」
「よし、じゃあ先に家に上がっててくれ。俺は一回シャワーを浴びる」
「……わかった」
「あ、言っておくが、味は保証しないぞ?」
「……まぁ、別にいいよ」
味の保証はない。けれど、特に気にしなかった。
ご馳走してもらう身というのもあるが、何より今は空腹だ。食えないことはないだろう。
――この時の俺は、そう思っていた。
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※以前『World Without Memory ~生きる希望を探して~』として投稿していた作品をベースに、大幅に改稿した作品になります。




