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夫の帰郷

作者: 吉川緑

「急いでくださーい! 慌てずに、ゆっくりとこちらへ……」


 駅は人の波で芋洗いの様相だった。私は人の波をかき分けようと進んだが、さすがに難しい。中年サラリーマンが急ぐように走る肩がぶつかり、私は体制を崩した。




(いやあ、実に大変だったなあ)


 私は乱れた髪とスラックスをぱたぱたと払う。思わずため息が出てしまった。

 しかし、こんな状況で幸せが逃げたとて、気にするものでもない。



洋子(ようこ)はもう四十路かあ。結衣(ゆい)は小学生だし、二人とも元気かな?」



 実に、何年ぶりだろう。家を出てから、ずっと帰れなかった。

 先日、出先から最後の荷物が自宅へ届いたことが分かり、ようやく長い旅路も終わるのかと感慨にふけったものだ。



「お父さんは外国にお仕事なのよ。一体、どこまで行ったことやら」



 洋子はきっと、ため息交じりにそんな言葉を結衣にかけていたことだろう。実に申し訳ないが、ようやく帰ってくるのだから、暖かく迎えて欲しい。



(しっかし、一体、どれだけの場所を転々としてきたことやら……)



 記憶にある故郷の風景と目の前の現実は、ずいぶんと様変わりしていた。


 廃墟同然にぼろぼろになっていた駅前のビルは綺麗に立て直されているし、ゴミやら何やらが積まれていた空き地は片付けられたのだろう。真新しいエンピツハウスが立ち並んでいた。


 旅立ちの日に見た光景は、もうすっかり、跡形もないように感じた。



「こんな建物あったっけなー。道わからなくなりそうだ」


 独り言ちながら、まるでおのぼりさんの様に辺りを見渡す。


(景色は変わったなあ。でも、この空気がどこか懐かしいような……)



 長旅でぼろぼろになって変に臭うジャケットとは対照的に、故郷の空気はまるで自分を浄化してくれるようだった。このまま寝転んでしまおうか、誘惑が頭をもたげるが、己の格好を見て思い直す。


 こんな格好を世間様に長々晒していたら、やたらと張り切って日差しをまき散らしているお天道様さまに、申し訳が立たない。



(それに……)



 職場の後輩にも、顔を合わせずに来たことを思い返す。自宅へ向かう途中には、後輩が住んでいる。彼とは数年来の付き合いで、度々、家へ訪れたこともある間柄だった。


 声をかけたら、彼は快く家へ迎え入れてくれたかもしれない。懐かしい顔に心は揺れたが、結局、私は後輩の家を素通りしてきた。後輩は家の庭で、子供と遊んでいたからだった。


 庭には、記憶の中と変わらない姿の奥さんもいた。微笑みながら、後輩と子供が遊ぶのを眺めている。私はその様子に、声をかけるのを止めた。


 この暑い時期に家族水入らず。

 そんな中に、わざわざ立ち入るのは、野暮でしかないだろうから。



 角を曲がると、足元に精霊馬が目についた。

 この角に住んでいた高齢の夫婦は、すでに亡くなられているのかもしれない。


 老旦那と最後に挨拶したのは、ちょうど仕事に出る朝だったろうか。

 頑固で厳しい顔立ちを少し緩め、しゅっとして見送ってくれたのを、昨日のように覚えている。精霊馬に立ち姿が見えた気がして、思わず手を合わせたくなってしまった。


 月日の流れと言うのは、人や家族の形、そのありようを、否応なく変えてしまう。成長やら老い、理由はいろいろとあろう。



(結衣はまだ小さかったけど、覚えていてくれるかな?)



 急に不安になった。言葉を覚えるのは早かったはずだけど、と私は唇をぎざぎざにして、腕を組む。私は、妻と娘の顔を一度たりとも忘れたことはなかったが、二人はどうだろうか。



(食材の買い物じゃないし、忘れてないといいけどなあ)



 麻婆豆腐を作るのに豆腐を忘れるのはありえないでしょ、洋子とそんな言い合いをしたことを思い出す。あの時は、茄子があって助かった。麻婆茄子は偉大である。

 さておき、会えない期間が長くなるほど、思いは募るもの。後輩が子供と遊んでいた光景、それを眺めていた奥さんを思い返す。



(これからは、ずっと近くにいられるもんな!)



 気持ちを入れ替えながら進んでいくと、どんどん自宅が近づいてくる。

もうすぐそこだと思うと、急に緊張が湧いてきた。慌ててジャケットをもう一度、羽織り直す。カッターシャツは乱れていないだろうか。思わず背筋が伸びてしまう。


 ここを曲がれば、見慣れた自宅だ。私は、ふうと息を吸う。



「あっ、おとうさん!」

「ん、急になんですの?」

 


 自宅の前では、娘の結衣ともう一人、見知らぬ人物が遊んでいた。

 結衣はきらきらと笑顔を浮かべながら、こちらを指さしている。


 幼かった娘は、私を覚えていているだろうか。そして妻は、長い間いなくなっていた私を、ちゃんと迎えてくれたろうか。


 そんな不安を抱えていた私は、目の前の光景に目頭が熱くなる。にわかに視界がぼやけてきた。零れ落ちそうな物を堪えながら、すっきりと晴れた広い空を見上げる。



(あぁ、良かった)



 私が安堵に胸を撫でおろしたちょうどその時、家の玄関が、がちゃりと開いた。

中から出てくるのは、娘同様、会いたかった懐かしい顔、洋子だ。



「ほら、もう、ご飯できたよ。早く家に入っちゃってー!」

「「はーい!」」



 仲睦まじく見える親子は、連れ立って玄関の中へ入って消えていく。



「うーん、今日のご飯も楽しみですわ」

「おかあさんのご飯、おいしいもんね!」

「本当ですわ! もう天然記念物みたいなもんですわ」

「それ言い過ぎー」

「あはは。結衣はなかなか手厳しくて敵いませんわ」



 もう、私に思い残すことはなかった。一目でいいから、再び会いたいと思っていた妻。ようやく、帰ることができたのだと、胸にこみ上げる。



「おとうさん、ばいばい」


「さっきから、結衣はどないしたん?」



 男は不思議そうに結衣を見ている。

 洋子は、このこてこてな関西弁の男と再婚したのだろう。当然のことだ。あの日、突然起こった災害。私はなんとか駅まで行ったが、そこで駅やビルの崩壊に巻き込まれてしまった。


 後輩の嫁さんも、この季節だから帰ってきていたのだろう。

 長らく埋もれて瓦礫や土とあちこち運ばれたが、ようやく無事に遺骨が全部届いた……という話だ。



「あぁ、うちにも精霊馬……。待っていてくれたのか」



 新しい旦那との邪魔にならなければいいな、私は天へと昇りながら、そんなことを思うのだった。


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