2話 求愛
帝国暦349年 10月10日 バイオハ州 リューリス村
「このクソガキがぁ!」
「うぐっ!?」
リューリス村の外れにある粗末な家がある。雨風に晒され長く手入れもされていないのか痛んだ壁には隙間が見える。
そんなボロ家が吹き飛びそうな程の怒号に続き、衝撃が走った。
バルドロメがアレックスを壁に向かって蹴り付けたのだ。
アレックスはその衝撃を受け壁に叩きつけられる。
その衝撃は子供の身には余る。
しかしアレックスの体の頑丈さのおかげなのか胃袋の中身を吐き出すのみ。
「テメェ…水汲みもせず、尿瓶も捨てに行かずこんな時間まで何してやがった!」
「ごほっ…ご…ごべんなざい…」
アレックスは怒り狂うバルドロメに向けて謝る。
アレックスはローラという初めてできた友達と日が暮れるまで遊び続けてしまった。
その為、母親であるメリーやバルドロメに言い付けられた仕事を忘れてしまっていたのだ。
バルドロメが怒り狂うのはそれが理由だった。
怒り狂うバルドロメ。
その顔は鬼の様に恐ろしく、アレックスを痛め付ける四肢は筋骨隆々てしてまるで岩の様だ。
「ごめなざい…ごべんなざい…」
アレックスは大粒の涙を流しながら床に頭をつけバルドロメに謝る。
バルドロメはその頭を踏みつけた。
「謝って済む話か?ガキ…あ?」
「ご、ごめんなさい」
アレックスの小さな体を踏みつけ睨み付けるバルドロメ。
メリーは既に別の部屋に移動しこの場にはいなかった。
アレックスはたった一人で大男の暴力を一身に受ける事になる。
「弱い上に泣き虫、その上、命令も守れない無能が…俺の血がお前に流れてるのが情けなくなるよなっ!」
「うぐっ…」
バルドロメは跪くアレックスの小さな体を蹴りつける。
既にバルドロメの虐待が続き小一時間がたつ。
椅子を投げつけ、皿で殴り部屋の中はまるで廃墟の様に荒れ果てていた。
「はぁ…はぁ….」
息が上がり始めたバルドロメ。
普段ならそろそろ終わる頃。
しかしアレックスの蹲り、自分に怯える姿にバルドロメは愉悦を感じていた。
そのバルドロメはニタァと悪辣な笑顔を浮かべる。
「おい…アレックス、やり忘れた仕事はすぐにでもやらねぇといけないって思わないか?」
「はい…その通りです」
「ふはっだよなぁ…おいメリー!尿瓶を持ってこい!」
バルドロメは悪辣な笑顔を更に深め、奥の部屋にいるメリーに命令する。
「持ってまいりました…旦那様」
しばらく経つとメリーが尿瓶を持って部屋に入ってくる。
倒れ込み、救いを求める様にメリーを見上げるアレックスを無視しする。
メリーが持つ尿瓶には既に糞尿が溜め込まれ、尿の酸っぱい匂いと糞の臭さが蓋をしていても鼻につく。
「アレックスの前に置いて蓋を取れ」
「はい…」
その汚れ切った壺を倒れ込むアレックスの目の前に置き、蓋を開けるメリー。
その尿瓶の中には尿と人糞が混ざりドス黒い泥ができていた。
アレックスはその壺を見つめたあとバルドロメを見つめる。
「お…お父さん…」
バルドロメを見つめるアレックスの目に怯えが見える。
その怯えを感じたのかバルドロメは更に笑顔を深めた。
「飲め」
アレックスに無情に告げるバルドロメ。メリーも表情を驚愕に染める。
「え…うそですよね…」
アレックスはバルドロメに救いを求める様にそう言った。
「お前の仕事だろ?これの掃除は、そうだろよな」
「はい…旦那様」
バルドロメはメリーに同意を求め、メリーはそれに答えた。
「いや…だ…いやです」
アレックスはメリーのその答えに絶望していた。アレックスは無情は両親の足にしがみつき救いを求める。
「お願いします…お父さん…お願いします、お願いします」
「うるせぇ!」
バルドロメは足にしがみ付いてきたアレックスの首元を掴み上げる。
「家の中じゃなんだからなぁ、おい外に来い!メリーお前も来い」
「いやだ…いやだ…やめてよ!やめてよ父さん!お母さん!助けて」
「うるせぇっつてんだろ!お前が仕事し忘れたからだろうが!」
「いやだ!いやだぁ!」
バルドロメはアレックスをその腕で掴み上げ、家から出る。
扉の先の深み闇からは夜を裂くような絶叫が響いてきた。
○
「うげぇっ…うげぇっ…」
夜は既に深まり、空には星々が煌く静かな夜。アレックスはローラと遊んだ小さな川に逃げ込んでいた。
アレックスの表情はローラと遊んだ頃とは異なり絶望感が満たしている。
アレックスは川のそばに膝を突き、俯いていた。
岩に左手をつき、右手を喉奥に突っ込むと、すぐに腹の筋肉が刺激され、酸っぱい液体が喉を通り口にたまる。
吐き出した粘性の液体の色は夜の闇に隠され分からない。
アレックスは吐き出した後も、喉奥に手を入れるのをやめなかった。
不快な吐き気が小さな体を何度も襲う。
その姿は夜の闇とうげぇという鳴き声でまるで化け物の様。
アレックスはそれでも、なんとか胃袋から汚物を吐き出したかった。
(汚い、汚い、汚い、汚い!)
嗚咽を繰り返し、出るのは粘つく胃液のみ。
初めはドス黒い泥が止めどなく出ていたがもう既に出なくなった。
「出ろ…出ろぉ…うげぇっ」
それでもアレックスは吐くのをやめなかった。
既に吐き続けて一時間は経つ。
自分が汚れてしまったという絶望感から喉に手を伸ばすのを止められなかったのだ。
「うえっ…うぅ…出ろぉ」
アレックスは泣いていた。
実の両親から糞尿を胃袋に押し込まれたからだ。
自分の数倍の大きな体と数十倍の力をもつ実父に馬乗りにされた。
大きな左腕で口をこじ開けられ、大きな右腕でゆっくりと口に向かって糞尿を流し込まれた。
流し込まれる糞尿で息が出来ず、生きるために飲み込んだ。
アレックスの叫びは糞尿に押し込まれ、バルドロメの嘲笑にかき消され、メリーは黙ってそれを見ていた。
「うげぇっ…うげぇっ…」
止まらない涙と嗚咽はアレックスの叫びであった。
その自傷行為は夜が明るくなるまで続いた。
アレックスは糞尿の泥を既に吐き出した考え、力なく仰向けに倒れ込む。吐き続けたため消える気配のない四肢の痺れと夜の地面の冷たいが薄い服を貫くのを感じていた。
既に東の空は血の様な赤みを増し、青い星空を駆逐する様だった。
「っ…」
そんな空を見上げアレックスは大粒の涙を流す。
声を上げて泣く事を、彼は許されていなかった。
長く続いた自傷行為や生傷、空腹も相まって四肢は地面にくっ付いた様に動かせない。
「お父さんなんか嫌いだ…大っ嫌いだ!」
しかし、頑丈なアレックスはこのまま倒れ続ける事をしなかった。
口に残る不快な酸っぱさを感じながらも大きな声でバルドロメを罵る。
「死んじゃえ!死んじゃえばいいんだ!」
父の死を望み、星に吠えた。
「嫌いだ…お父さんも…お母さんも…きらっ…嫌いだ…」
アレックスは大粒の涙をポロポロ流しながらそう言った。
「くそっ…!汚い…汚い汚い!」
糞尿の汚泥でドス黒く汚れた服を掴み、破ろうと力を込める。
しかし、服は破られる事はなかった。
今のアレックスにその力がなかったのか、母にもらった最後のプレゼントだったからなのか。
「くそぉっ…なんでっ!なんで僕はこんなっ!こんな汚い服も破けないんだ!くそっ…破れてよ…」
アレックスは自身の弱さを呪った。
「弱い…弱いなぁ…僕は弱い」
未だ8歳のアレックス。
食事も充分に与えられず正常な成長をする事ができていない。
その汚れきった服を破り捨てる力が身体的にも心理的にもアレックスは欠けていた。
「弱い…弱いから…僕が弱いから悪いのか…」
アレックスは度重なる虐待と今回の地獄の様な仕打ちに理由を求めた。
なんでいつも殴られるのか、なんでこんなに尊厳を傷つけるのか、なんでいない者として扱うのか。
不条理な暴力が自分を襲う理由はなんなのか。
「弱い…弱いから…僕が弱いから悪いのか…」
ポツリと力が抜けた様に呟く。
アレックスは父と母を憎めなかった。
それどころか求めていた。
いつかその大きな手で頭を撫でられ、額にキスを、その温かな胸の中に抱き締められ、『アレックス、愛している』と言って欲しかった。
アレックスは、その一言が欲しくて欲しくてたまらなかった。
幼い子供に親の愛を諦める事などできはずもない。
結果、幼い彼は歪な答えを出してしまった。
自分を痛めつける事に理由などないという事実を隠す為に。
「僕は、俺は…!強く…強くなる…!強くなって…」
強くなって愛して貰う。
アレックスは拳を握り、力起こす。
体を捻り、地面に手を突き、足に力を込めて立ち上がる。
その小さな体には不相応な程の意思の力があった。
アレックスは村の外れ、自分の家に帰る為に一歩一歩、歩いて行く。
その姿は傷だらけ、足元も覚束ない。
にも関わらずその歩みは止まらず、腫れ上がった顔は戦士の顔をしていた。
それでも向かう先はあのボロ屋。
彼の居場所はあの家しかなかった。
戦士の顔と子供の心。
その歪さを誰も気づく事はなかった。
アレックスはフラフラと家に向かって歩く。古木の根に足を取られそうになるも力を振り絞る。
そろそろ日の光で家族が起きる頃だ。
アレックスはその前になんとか家に帰りたかった。
暗い森を抜け、家にたどり着いたアレックス。
庭と呼ぶにはあまりに粗末な家の前。
数時間前、この場に広がっていた地獄が嘘のように静かだった。
それでも異臭を放つ泥が広がり地獄の気配は残っている。
「…っ…」
アレックスは自身が飲みきれなかった汚泥から目を逸らし、早歩きで忘れ去ろうとした。家の前に立ったアレックスは、音を立てないようにそっとドアを押す。
キイキイと鳴くドアが憎たらしい。
「静かにしろよ……」
空気が擦れる様な声でポツリと呟いた。
「あったかい…そっか…もう秋か…」
アレックスは家の暖かさに秋を思い出していた。
奥の部屋からはバルドロメのゴゴゴと言う地震の様ないびきが聞こえてくる。
父を起こさない様に、ゆっくりとキッチンに近くアレックス。
(お腹すいた…何かあるか…)
この2日間、アレックスは何も食べていない。残飯にありつければ上々だった。
育ち盛りの子供にはあまりに少ない食事た。
キッチンの中にある鍋を覗き込む。
(あっ!やった!シチューだ!)
鍋の中には具の少ないシチューが残っていた。自分以外の三人が残すはずの無い程。その不自然な量と仄かな暖かさにアルフレッドは違和感を感じる事はなかった。
鍋を床に置きその側に座り込み、アルフレッドは匙も使わず素手でシチューを貪り食った。
(おいしい…おいしいよ…お母さん)
ポツリポツリと鍋に涙が落ちていく。アレックスはその事を気に留めず、一心不乱に掻き込んだ。
その姿には戦士の顔は見えず、ただ好物を描き込む小さな少年の姿だった。
その姿を見つめる影がある事に気づかずに。
○
「いちっ…にっ…さんっ…」
武器、それは人を殺すというただ一つの目的の為に進化し続けた狂気の結晶である。
より硬く、より鋭くただ己の敵を殺す為に。
武器と共に進化した物がある。
それは術だ。
武器の進化と共に、術は深く、また広く発展していく。
腕、足、腰、目線。自身の五体を駆使し、より効率的に効果的に己の敵を殺す為に。
「よんっ…ごっ…えっと…ななっ!」
アレックスはこの武器やその術が嫌いだった。
なんで人を痛めつける為の道具がいるのか、なんで簡単に痛めつけられる技がいるのか分からなかったからだ。
「はちっ…じゅうっ…!」
ただ昨晩、アレックスは理由を見つけた。
見つけてしまったと言うべきか。
それが彼にとって幸せな事なのかは誰にも分かる事ではなかった。
「いちっ…にっ…さんっ…」
彼は温かなシチューを食べた後、一睡もせずに素振りを始めた。
既に4時間は剣を振り続けている。
「よんっ…ごっ…ななっ!」
剣を振り上げて振り下ろす。
言葉にすれば簡単な作業。
アレックスは身の丈ほどある木刀を既に500回以上は繰り返していた。
数も数えられない幼い少年は食事も与えられず、常に傷を負っているにも関わらず、その素振りは止まる気配を見せなかった。
「はちっ…じゅうっ!」
握りも甘体幹は頼りなくフラフラと揺れる。そんな弱々しい素振りを繰り返すアレックスの姿は、あまりに心許ない。
しかし、見る者が見れば分かる。
煌々と輝く天凛の才の片鱗。一匹の龍の気配。
優しいアレックスはその才を授けたのは世界の祝福かあるいは血の呪いかは誰にもわからない。
「朝からうるせぇっ!クソガキっ!」
家が震える程の大きな声が響く。ドアが小さく見える程の巨漢、バルドロメがのそりと庭に出てきた。
アレックスをその岩の様な拳や木刀で殴りつけ、糞尿を実子に食わせた鬼。
アレックスにとって世界で一番恐ろしい存在だ。
アレックスは体が震え、手足が冷たくなるのを感じる。呼吸も早くなる。
アレックスはその弱さを意識で押し付けバルドロメに答える。
「つっ…ご、ごめんなさい!」
「またお前かぁ…まだお仕置きが足りないみ…何してる」
バルドロメはアレックスが自身の木刀を持っている事に気付いた。
その視線に気付いたアレックス
「は、はい…お父さんを真似て素振りを…」
「やってみろ……」
「え…?」
「やってみろって言ってんだ!聞こえねぇのか!?」
「は、はい…」
怒鳴るバルドロメに怯えながらもその身の丈に合わない木刀を構える。
アルフレッドの表情が変わる。冷たい水面の様な表情、その奥には戦士の熱。
「ふっ…!」
アレックスは鋭い息と共に剣を振るう。まだまだ未熟な剣術だ。握りが甘い。足腰はふらつき、体はその長い木刀に引っ張られる。
(だが…それだけか)
そう、それだけだ。
握り方も、足腰の位置、落とし方、振る際に力を込める一瞬。どれも完璧に近く、父であるバルドロメの剣術に似ていた。
(このガキ…見て盗んだか!)
バルドロメはアレックスの才には少しは気付いていた。その頑丈さだ。
バルドロメが少しは手加減をしていたと言ってもだった8歳の子供が耐えられる筈もない事は自覚していた。
だから頑丈だと考えていた。
しかしそれだけではない。アレックスはバルドロメの攻撃を見て、致命的にならない様にずらしていたとバルドロメは今、理解した。
「どう…ですか…?」
アレックスは自分を見下ろし、黙り続けるバルドロメを見て不安に感じたのか控えめに聞いてくる。
その言葉にバルドロメはギロリと目玉を動かしてアレックスの目を見つめた。その後バルドロメは手を伸ばす。
「その木刀を貸せ」
「は、はい…どうぞ」
木刀を要求してきたバルドロメにアレックスは木刀を渡す。
木刀を受け取ったバルドロメは、アレックスから少し離れた場所に木刀を突き刺した。
バルドロメはその木刀にナイフを向ける。
ゴウッと音をたてバルドロメの右腕がナイフを振るい、木刀を一閃した。
ちょうど半分ほどになった木刀。
切り口や握りをナイフで整えるバルドロメ。
それを大人しく見つめるアレックス。
バルドロメはアレックスが使うのにちょうどいい長さに整えた木刀をアルフレッドに渡す。
「お前にやる…これを使って稽古を続けろ」
「え…は…はい…」
アレックスはその木刀を抱き締める。
父親からの初めてのプレゼント。
アレックスは感激していた。
強くならなければならない。弱い自分が悪い。アレックスはそんな哀れな考えを更に増長させた。
「は…はい!ありがとうございます!」
「デケェ声出すんじゃねぇ!」
バルドロメは不機嫌そうにのそりのそりと歩き、アレックスは父から貰った木刀に強くなろうと誓った。
剣の本質を忘れたままに。