8.サルビア
「寒いな」
口をついて出たのはその言葉だった。アルルが家の外に出たのは実に二か月ぶりである。二か月前に家を出たのは夜中だった。なけなしの木々の隙間から流れ星を見てやろうと温かいココア片手に外に出たのが最後である。
こうして家を出てからしばらく歩くこととなると十年そこらぶりであった。
朝、南の大森林は太陽が出ているにもかかわらず真っ暗だ。朝日など差し込む隙間もないのだ。だから当然空気は冷たいし森の中はジメジメしている。
アルルが突然「出掛ける」と言って家を出たのはもちろんテレーズを探すためだった。
彼女自身、テレーズと関りがあるわけではないし、むしろ無いと言っていい。しかしそれはあくまでテレーズという人格との間に、という話だ。
「ここにいたのか」
しばらく歩いた先に見覚えのある背中があった。黒い髪に草色のケープ、チェック柄のスカート。間違いなく探している人物だった。
アルルの声に彼女は振り返ると「人形師が何の用よ」と捨てるように言い放った。
「いや、なに。きみと話がしたくてね。それで、話をする前に確認しておきたいんだが……」
アルルは一つ咳払いをすると朝の冷たく湿った空気を肺に吸い込む。
「今の君はどちらだ?」
アルルのはっきりとした問いに、黒髪の少女は向き直りながら「分からないの」と小さく答えた。
「分からないのよ。今のあたしがテレジアなのかテレーズなのか。記憶の繋がりはテレジアなの。昨日のこともちゃんと覚えているし、自分の中で起きた変化も分かってる。でもその変化が、蘇った記憶があたしの経験じゃないはずなのに、あたしがやったことだっていう確信があるの。テレーズの魂がそれを覚えているの。だからあたしがどっちなのか、もう分からない」
「ではあえてテレジアと呼ばせてもらおう」
そう言うとアルルはテレジアの横まで来て「よいしょ」と掛け声を出しながら地面に座り込んだ。膝を抱えて座るテレジアの足先には握り拳ぐらいの大きさの石が一つ転がっていた。
「テレジア、きみに一つ昔話をしよう」
「興味ないわ」
「では、しがない人形師の独り言とでも思ってくれ」
そう言うとアルルは首後と視線を空に持ち上げる。とは言っても空は森の枝葉に覆われていて見えないが。まるで思い出すように過去を確かめるように口を開いた。
「私には子どもができなかったんだ」
「は?」
突拍子もない言葉にテレジアは横で話し始めた一人の人形師に視線を移す。
「理由はてんで分からない。ローランと将来を誓い、愛し合った。けれど子どもができなかったんだ。落胆したよ。一時期は自分が悪いのだと思うこともあった。そういった医学書も読んでみたりもした。しかし本を読んで知識を付けたからと言って子どもができるようになるわけでもない。しかし私は自分の子どもが欲しいという思いを捨てきれなかった。結果、どうしたと思う?」
「……人形を作った?」
「正解だ。私は人形を作った。幸い、当時私は魔女だった。人形を作り、そこに人工的な魂を定着させて子どもとして育てる。そういうつもりだった。そういうつもりで作ったのが、きみの――テレジアのその身体だ」
アルルが視線を送る自らの身体にテレジアは触れてみる。頬や体の質感は柔らかく、指先も人間のそれだ。その完成度は 人形の枠組みに収まるものではない。完全に人間だ。
「じゃあ、どうしてこの人形にはその人工的な魂とやらが入っていなかったのかしら。あたしがこうしてその器に入っているということはそういうことでしょう?」
「人工的な魂を作れなかったんだ。おそらくその行いは人の理に反する。それこそ、私が人間であることを辞めざるを得なかった。その覚悟が私にはなかった。だから魂を作る魔術は失敗し続けて、私は諦めた。そしてその人形を目の届かないところに仕舞ったんだ」
暫く流れる沈黙に、話が落ちたと思ったテレジアは短いため息を吐いた。
「それで、何が言いたいの?」
「私の子どもにならないか?」
そのとき、二人の間を一陣の風が吹き抜ける。一秒ほど間を置いてからテレジアの「は?」という空気の漏れる音が森の中の空気を小さく震わせた。
「何を言っているんだ、という顔だな」
「ええ、その通りよ。あなたは一体何を言っているのかしら。気でも触れたの?」
「ではもう少し詳しい話をしよう。今度はきみのことについてだ」
テレジアの方に首を向けるアルルの目を、テレジアは真っ直ぐに見つめ返す。
「テレジア、きみは今の自分が分からないと言ったな。テレーズなのかテレジアなのか。テレジアであるはずなのにテレーズの見てきたこと、感じたことがまるで自分が経験したことのように感じられると。魂が覚えていると。
だからあえてこの問いをきみに投げかけよう。きみはどちらになりたいんだ? どちらでいたいんだ?」
テレジアはアルルの問いに顔を俯かせて「どっちも嫌よ」と小さな声で答えた。
「テレーズのような苦しみはもう欲しくないし感じたくもない。けどテレジアとしての温かさを今はどこか気持ち悪く感じるの。まるでテレーズがそれを許さないかのような。だから、どっちも嫌」
「コレットやレヴォル、女王陛下と顔を合わせるのは辛いか?」
「とても辛いわ。テレーズとしての記憶はみんな嫌いだし、でもテレジアとしての思い出はみんなのこと好きなんだもの。氷の魔女は別だけど。そのどちらもが共存して気持ち悪いの。息が詰まりそうなの。挙句逃げたくなってこんなところまで逃げてきて……」
「ならばどちらの名も捨ててしまえばいい。テレーズとしての記憶は嫌いなのだろう? テレジアとしての思い出も今は気持ち悪いのだろう? ようは今のきみはテレーズでもテレジアでもないと、私は思うんだ」
「だから、自分の子どもになれ、と?」
テレジアの問いにアルルは頷く。
「私個人はテレーズともテレジアとも密接に関りがあったわけではない。きみも息がしやすいはずだ。それにどちらの存在も嫌だと言うのなら、まったく別の存在になってしまえばいい。幸い、きみにはその選択肢がある」
「つまり……テレーズとテレジアが混ざりあった今のあたしに、三つ目の人生を与えようと?」
「ああ。テレーズのことは女王陛下に聞いている。かつてのゼラティーゼ国王が手を出した妾の子。視力を持たず、城ではいい目で見られなかったと。レヴォルのおかげで彼らの傍に居る時は普通の少女然としていたらしいが。
だからこれは私の独善だ。きみは頼んでいないと言うかもしれないし、コレットほどの愛情をきみに注ぐことはできないかもしれない。けれど私はきみの母親になりたいんだ」
テレジアはその申し出に戸惑った。
「母親に、なりたいの? あたしの?」
「ああ。きみが私の子どもになってくれたら嬉しい」
「嬉しいの?」
「もちろんだ」
「あたしは……誰かのために生きていいの?」
涙は自然と零れ落ちていた。テレジアの瞳を造る草色の宝石を濡らすその感情の正体をテレジアは正しく認識できなかった。けれど不思議と居心地の悪さは感じなかった。
「それが君の心を縛っていた鎖か。当たり前だ。人は誰だって誰かのために生きる権利がある。今、私はきみを必要としている。逆もまた然りだ。きみも誰かを必要として良いんだ。テレーズのときのように君を見捨てるようなことをする人はいない」
そうしてアルルは黒い髪の少女を不器用な右手を使って優しく抱き寄せた。
別に人格が二つあるというわけではないが、彼女の中に存在しているのはテレジアとテレーズの両方だ。
テレーズは愛情に飢えていた。親からの愛情など無いに等しく、兄から貰った愛情は取りこぼした。テレジアは愛されていた。きっと彼女がテレジアとして生き続けることができたのであれば、その愛は紛れもなく本物だっただろう。しかし彼女の魂に刻まれたテレーズはその愛情を拒絶した。
では一体、今の彼女はどうやって愛することができるのか。そんなもの、答えは簡単である。今の彼女を愛せばいいのだ。テレーズもテレジアも関係ない。今目の前ですすり泣く少女を抱きしめて愛するだけでよいのだ。
それが分かっているから、人形師は自ら作った人形の姿をしている少女を胸に抱き寄せるのだ。
「今のあたしを、テレジアもテレーズも、あなたは愛せるの?」
「当たり前だ。今ここに存在しているのはきみ以外に他ならない。テレーズでもテレジアでもない、きみ自身だ」
「……そう。あなたも、飢えていたのね」
テレジアはアルルの胸に自ら顔を埋めて、小さく微笑む。
「ねぇ、だったら新しい名前をちょうだいよ。テレジアでもテレーズでもない、まったく別の名前を。……いいえ、きっともう、名前がついていたのよね」
テレジアの問いにアルルは小さく頷くと一つの花の名前を口にした。
「サルビア。それが今日からきみの名前だ」
§
家に戻った二人は待っていた四人に事情を説明した。かつてテレジアと名付けられていた少女に新たにサルビアという名を与えたこと。彼女をアルルが引き取ること。
「まあ、そういうことだ」
「そういうことって、あなたねぇ……」
淡々と説明するアルルに終始口が塞がらなかったツルカだったが「まぁいいわ」と呆れ気味にため息を吐いた。
「テレジア……じゃなかった。サルビアがそれでいいのなら私が言うことは何もないわ。幸い、最悪の事態は起きなかったし。コレットもレヴォルもそれでいいわよね?」
そう言いながら二人の方を見やる。二人とも何か言いたげな表情を浮かべていたが、そのまま無言で頷いた。
「……お願いだから、自分が悪いと思わないで」
二人の様子を見てそう口を開いたのは二人の前に座るサルビアだった。
「コレット……って呼ぶのは意外と口馴染みが悪いわね。あなたが心の底からあたしを愛してくれていたこと、知っているわ。だからそれはすごく嬉しかった。だからその感謝は伝えておくわ。レヴォル……お兄さま、にも。あたしがまだ城にいたころ、見捨てないでいてくれてありがとう。それと、誕生日のあの晩、あなたたちの思いを無下にしてごめんなさい。今更って思うかもしれないけど、一応。それで、最後になったけど……今のあたしはあなたたちのこと、好きよ。だから、自分を責めないで」
「私たちのこと、恨んでいないの?」
「さっきも言ったでしょ。あなたたちのことは好きだって。恨んでいないって言ったら嘘になるわ。けどそれ以上に二人の良い所をたくさん知っているから」
そうしてサルビアはコレットとレヴォルに微笑みかけた。
サルビアは大森林のこの家に、アルルの元に残ることにした。家族の元に残るのは当然だろう。ネーヴェ王国へと変えるコレットとレヴォル、そしてツルカには「エルとジャスミンによろしく伝えておいて」と伝言を託した。きっとそのうち会いに来るのだろう。
魔法の絨毯に乗って去っていく三人を見送ると、サルビアは横にいるアルルを見上げる。
「それで、子どもであるあたしにどんなことを教えてくれるのかしら。お母さん?」
「人形作りは教えよう。しかしその前に――」
そこまで言うとアルルはサルビアを挟んで横に立っているローランに視線を向けた。
「三人で朝食でも取ろうじゃないか。家族そろっての初めての朝食を」
§
とある平和な国の大きな森の中に一人の人形師がいた。胸のあたりまで伸びた綺麗な黒い髪に宝石のような草色の美しい瞳を持った腕利きの人形師。その人形師の名は――。
皆さんこんにちは。与瀬啓一です。このお話を最後まで読んでいただきありがとうございます。これを読んでいる皆さんは「赤い夜に、魔女は泣く」を読んでいらっしゃると思いますので、その体でお話しさせていただきます。
このお話は本編たる「赤い夜に、魔女は泣く」の後日談です。ほとんど語ることのなかった人形師アルルと、本編全体を通してコレットやエルを苦しませたテレーズについてのお話でした。
正直な話をいたしますと、このエピソードができたのは偶然に偶然が重なった結果です。今回明かされたアルルについての設定はあくまで「裏設定」のようなもので、本編でそれっぽい会話を少し挟むぐらいでした(本編173話の会話文参照)。
そしてテレーズについても、その後のことを書くつもりはありませんでした。全く違う名前で、記憶で生きていくことが彼女にとって幸せなのだと、本編を書き終えた私は思っていました。しかししばらくしてから、果たしてテレーズにとっての救いは別人として人生をスタートすることなのだろうかという疑問を抱くようになりました。そこでこの後日談の構想練りが始まりました。テレーズとしての記憶が蘇ることは話の本筋に必要としてそれをどう解決するか、どう結末に繋げるか、そもそもどんな結末を迎えるのか、それにひどく悩みました。理由としてはテレーズを真の意味ですくうことができる人物が思い浮かばなかったのです。彼女に関しては物語全体を通して登場いたしますし、全ての物語のきっかけと言っても過言ではありません。だからこそ、この物語はなるべく第5章までのコレットの物語の登場人物で固めたかったのです。
しかしその中の誰が一体彼女を救えるでしょうか。仮に手を伸ばしたとして、その手をテレーズが取るでしょうか。彼女にとっての救いとはどういう状態を指すのか。
そんなときにふと思い浮かんだのが人形師であるアルル・イリーでした。彼女は直接的にテレーズと関りはありませんが、テレーズの魂が入る器である人形を作ったのは他でもない彼女です。彼女が自分の子どもだと思って作ったものなのです。
ではアルルとテレーズに共通しているものは何か。それはきっと「愛に対する飢え」だったのではないかなと思ったのです。授けられることのない子の命を欲したアルルと、親からの愛情を知らずに育ったテレーズ。その二人の思いが重なったことで生まれたのがこの「赤い夜に、魔女は泣く ~Episode of Salvia~」です。
最後になりましたが、この物語を読んでくださって本当にありがとうございます。私自身、胸の中に刺さったままの棘が取り除かれたかのような清々しさを感じます。そしてこれからも「赤い夜に、魔女は泣くシリーズ」をよろしくお願いします。もしかしたらまた何かの拍子に別のエピソードを書く……かもしれません。
それではまた別の物語でお会いしましょう。