7.後悔
勢い余って飛びだしたことをテレーズは後悔していなかった。
記憶が完全に戻ったのだ。テレジアとは違い、南の大森林で過ごした記憶がある。あの家を飛び出したところで森の中で迷うようなことはあり得なかった。
そう、テレジアは完全に消えてしまったのだ。いや、完全に消えてしまったというと少々語弊がある。テレジアとしての記憶は今も尚彼女の中に存在し続けている。コレットやレヴォル、エルやリルとの楽しい記憶。それは頭の内側にしっかりと貼りついていて、離れることなどない。
そんな温かい記憶が、心底気持ち悪い。
なぜそう思うのかなんてのは簡単な話だった。
自分が、テレーズという存在が、幸せでいいはずがないからだ。彼女とて自身の過ちを現在は正しく認識できていないわけではない。我欲に塗れ、それを貪り続けた。結果大勢の人を殺してしまった。多くのものを奪ってしまった。
始まりはきっと単純な思いだったはずなのだ。兄に愛して欲しいと、そう願う純粋な気持ちだったはずなのだ。しかしそれは肥大化し、他者を傷つけるほどにまで肥え太ってしまった。
だからあの最期は自分には当然のものだと、その瞬間は飲み込むことができた。どうして自分がこんなひどい目に、とは思った。けれどそれがテレーズ・ゼラティーゼの人生だったのだ。だから後悔など意味をなさないはずだった。それなのに。
「あたし、あなたの所へは逝けなくなったわ。アセナ……あたしの、大切なお友達」
大森林の中、一本の木の根元に転がるその石は、傍から見れば何の変哲もないただの石だ。しかしそれはかつてテレーズが友と慕ったフォレストウルフであるアセナの墓標であった。
五年前にテレーズがネーヴェ王国を襲撃した際に、アセナはツルカによって殺された。しかしそれは、テレーズが空腹を満たしたくて、代わりの肉体を探したくて、行った襲撃だ。つまるところ、彼女が欲に駆られていなければ、アセナは死ぬことはなかったのだ。それがあのときは、分からなかった。
ふと、今の自分はどちらの存在なのだろうと考える。
友を失い、友を殺した相手を恨む自分は紛れもなくテレーズだ。けれどその悲しみが、恨みが心の底から目を覚ますように湧き上がってきたかというとそうではなかった。どこか他人事のような。分かりやすく言ってしまえばとある本を読んでいて、主人公にひどく感情移入しているような、そんな感じ。
アセナの死や自分が今までやってきたことに対する後悔はあくまでテレーズのものであってテレジアのものではない。蘇った記憶はその視点で見ているというよりは俯瞰で見下ろしている感覚だ。それでもその悲しみや恨みはありありと伝わってくるわけで。
そうなると、今の自分がテレジアなのか、はたまたテレーズなのか、もう分からなくなっていた。感情は混ざりあい、思考は混ざりあい、けれど記憶は別々の状態で頭の中に存在し続けている。どちらが本来の自分だったのか、もう分からない。
いや、本来の自分など、テレーズに決まっているのだ。あの罪を犯した魔女の名が自分自身なのだ。それなのに。
「どうしてあたしは幸せの温かさを知ってしまったのかしらね。あなたが傍に居なかったのに、この五年間、すごく温かったの」
悲しみや恨みを掻き消すように、知ってしまった温かさは心に張り付くように、覆い隠すように上塗りされている。
だから自分はテレーズじゃないのだと、けれど内側にあるものはテレーズだからと。では、今の自分は一体どっちなのだろう。
§
空が白む払暁のとき、ツルカに叩き起こされたコレットはレヴォルと共に寝室を出た。ツルカが叩き起こしてきた理由は明白だった。
一緒に眠っていたテレジアの姿が見当たらない。だから険しい顔をするツルカの言わんとしていることはすぐに分かったのだ。
「テレーズの記憶が蘇ったわ」
ツルカがその事実を告げたのは現状を共有するためだ。コレットを含むこの場にいるアルルやローラン、レヴォルも状況を察していた。ツルカがわざわざ事実を伝えたのは共通認識を持たせるために他ならなかった。
「私がテレジアちゃんを迎えに行きます」
そう言いながら玄関に向かうコレットの手を、ツルカは険しい表情を浮かべながら掴んだ。
「あなたが行ってどうなるの。あの子はもう、テレジアじゃないのよ。あなたから視力を奪ったテレーズ・ゼラティーゼなのよ」
「昔のことです。私はもう割り切ってます」
「コレットが良くてもあの子が良くないのよ。あなたにとっては二十五年も昔に経験したことでも、彼女にとっては生きたその全ての時間が思い出したくもない出来事なの」
「でもだからって放っておくわけには……」
そう言いながらもコレットは下を向く。ツルカの言い分に多少なりと同意する部分があったのだ。
自分が彼女の元に行ったところでどうにかなるものでもないし、テレーズにとってコレットは大切な兄を盗った泥棒猫だとかつて言っていた。そんなコレットが彼女の元に行くことは逆効果なのではないだろうか。過去の記憶を逆撫でするだけではないだろうか。
同じように下を向くレヴォルもどこかやるせなさを感じさせる声で「すまない」と呟く。
「僕がテレーズに人生をやり直して欲しいなんて思ったのが間違いだったんだ」
「そんな事ないわ。あなたは知恵を貸してくれただけだもの。私がテレーズを救いたいと思って、逆にあの子を苦しめた。私の独善よ」
そうしてツルカは自らの下唇を悔しげに噛んだ。
テレーズ・ゼラティーゼにとってツルカ・フォン・ネーヴェという存在は親友の命を奪った仇でしかないし、兄であったレヴォルは自分を見捨てた存在で、コレットはそんな兄を掻っ攫った泥棒猫。
そんな彼らがテレーズを救いたいと、そう思うことは憐れみからくる慰めだ。ただの独善や偽善の類だ。彼女自身が二度目の生を望んだわけではない。
だから彼女が自ら一人でいることを選ぶのなら、三人にどうこう言う権利はないのだ。
それが分かってしまったからレヴォルとツルカは動けず、コレットはテレーズを追おうとした足を止めた。
「まったく、黙って聞いていれば」
暫く漂った静寂を裂いたのはアルルのため息と呆れたようなその言葉だった。
「アルルさん?」
コレットが顔をあげるのとほぼ同時にアルルは座っている揺り椅子から立ち上がる。
「ローラン、私の杖を出してくれ。少し出掛ける」
「一人で大丈夫ですか?」
ローランが問うとアルルは小さく頷き「問題ない」と呟いた。彼が奥の部屋から取ってきた一本杖を受け取るとそれを左手に持ち、義足の左足を少し引きずるようにして玄関に向かった。
「アルルさん? どこに……」
その後姿を眺めていたコレットが彼女の後を追おうとした。アルルは右腕と左足が義手義足だ。かつてはそれを魔術で動くようにしていたらしいが既にその術は衰え、ただの飾りになっている。
そんな状態で険しい森の中を歩くなど到底不可能だ。
「大丈夫ですよ」
そんなコレットの行く手を阻んだのはローランの逞しい腕だった。
「でも……」
「心配いりませんよ。彼女は〝母親〟ですから」
落ち着いたローランの表情を不思議に思いながら「それはどういう……」という疑問の言葉を溢す。
「さぁ、お茶でも飲んで彼女の帰りを待っていましょう。時には待つことも大事ですよ」
そう言ってローランは台所横の戸棚まで歩み寄ると棚からティーセットを見せびらかすようにわざとらしく取り出した。