6.咎人の想い
かつて、大罪を犯した魔女がいた。恩師を殺し、他者から視力を奪い、自分を思ってくれていた兄を殺し、自国の民を恐怖で支配し、たくさんたくさん、殺してきた。名を、テレーズ・ゼラティーゼという。
「あたしは……一体誰なの?」
テレジアのその問いはツルカに問いかけると同時に自身の中で蘇った過去の記憶に問うものでもあった。
「分からない……分からないの。あたしはテレジアのはずなのに、知らない記憶が頭の中で居心地悪そうに蠢いているの。お前は幸せになってはいけない、罪を背負わなければいけない、許されてはいけない、許しを乞うてはいけない、って。彼女がずっと耳元で囁いて……黙ってくれないの。そしたらあたしがどんどん分からなくなって……。あたしは、テレジアよね?」
縋るように問う彼女に、ツルカはグッと押し黙った。
テレーズとしての記憶が蘇り始めている。それだけではない。彼女の人格が混ざり始めているのだ。
テレジアという少女は仮初の存在だ。ただの人形に魂を入れて、偽物の記憶を植え付け、新しい名前を与えただけの。
ツルカとて、そんな仮初の存在がいつまでもそのままでいられるとは思っていなかった。だからエルに彼女を見張るように言っていたのだ。
こう言う肝心な時に役に立たないのが実に彼らしい話ではあるのだが、今はそれどころではない。
テレジアの心で起きている異変は至って単純だ。魂が肉体に慣れ始めているのだ。テレジアという一人格は、魂が入れ物と異なるものだからこそ成立していたものだ。その魂が、入れ物に慣れ始めている。つまり、蓋をしたはずのテレーズが顔を出そうとしているのだ。けれどそれはテレーズの記憶が蘇ってテレジアと成り代わるわけではない。テレジアとしての在り方は入れ物である人形に完全に定着しているし、今のところ話し方はテレーズのものに近いが、その言葉に彼女ほどの邪悪さをツルカは感じられなかった。
「……いつかはこうなることを予測して対応策を研究していたっていうのに。早すぎるわ。テレジア、何かあったの?」
そう言いながらツルカは彼女に手を伸ばした。落ち着かせてやる必要があった。きっと混乱しているはずだ。自分の中に自分のものではない記憶が湧き上がってくる。とてもではないが平静を保てるものではない。こんなとき、コレットならどうするだろう、と。そう思って震えるテレジアの身体を抱き寄せようとした。
「触らないでッ!」
しかしツルカの伸ばしたては、震えるテレジアの手によって拒むように払い除けられる。
「あっ、ごめんなさい……あたし、そんなつもりじゃ。でも……あれ?」
その挙動はテレジアの本心ではなかった。彼女が拒んだのではないのだ。ツルカの手を拒んだのはテレジアの中で蘇り始めたテレーズの記憶。そのことに気づいたツルカは振り払われた手を隠すように後ろに回し「大丈夫よ」と短く言う。
「なにが……大丈夫なの?」
低く、重くのしかかるような言葉だった。その言葉は確実にテレジアのものではなかった。どことなく発せられる殺気。ツルカに向けられたそれはまるで本物のナイフを突きつけられているようだった。
ツルカは詰まる息を吐き出し、額に滲む冷や汗を右手で押さえながらもう一度、長く息を吐いた。
「――テレーズ。私に言いたいこと、全部ここで吐き出しなさい。あなたが私を恨んでいるのは、知っているから。恨みは、後悔は、溜め込めば溜め込むほど増大して心を蝕んでいくから。全部全部、私にぶつけてちょうだい」
真っ直ぐに向けられたツルカの視線に、テレジアはどこか苦しそうに片手で胸を抑え込んだ。そしてそこを押して言葉を絞り出す。
「どうしてあたしの友達を……アセナを殺したの? どうしてあたしは人をたくさん殺したの? どうしてあなたはあたしを生かしているの? どうしてあたしの胸はこんなに苦しいの? 全部全部、分からない。今のあたしがテレジアなのか、テレーズなのか、記憶と思い出がぐちゃぐちゃに混ざりあって、テレジアとテレーズが混ざりあって……もう、分からないの。どうしてあたしは生かされていて、彼女は幸せそうにしているの? そんなの……ずるいじゃない。
あなたのことはよく分かっているわ、氷の魔女。あたしがこうして苦しんでいるのは、あなたの独善のせいよ。確かにテレジアとしての生活は楽しかった。幸せだった。植え付けられた記憶の中も、テレジアとして過ごした五年間も、輝いていた。けれどそれは同時にテレーズとしての生を否定することよ。だから最後に一つだけ問うわ。
あたしを生かすぐらいなら、どうしてあたしはあれほどまでに苦しんできたのかしら? ねぇ、教えてよ。この世で最年長の魔女なんでしょ? 答えられるわよね。いいえ、答える義務があなたにはあるわ。命を救うというのは同時にその命に責任を持つことよ。あなたはあたしを救って、その責任を背負えるのかしら?」
その言葉は既にテレジアのものではなかった。口調、表情、そのどれをとってもテレジアに当てはまらない。全て、テレーズのものだ。
「……テレーズの言いたいことは、それで全部かしら?」
ツルカは憎しみのこもったテレーズの視線を物ともせずに淡々と問い返す。
「あくまであたしの問いには答えないつもりなのね、氷の魔女。だったら、もういいわ。これでさようならよ。とは言っても、今のあたしにあなたを殺すような力はないわ。だからあたしが出て行ってあげる。顔を合わせない方が……お互いのためになるでしょう?」
それだけ言うと、テレーズはまるで逃げるように彼女の元を後にした。直後、玄関の扉が軋んだ音を立てて開き、ばたりと閉まる。
テレーズが出て行った玄関の方に視線を巡らせながら、ツルカは一つため息を吐いた。
「私の……大馬鹿者」
後悔、というものなのだろう。確かに、テレーズの言った言葉はあながち間違いではなかった。そう、独善なのだ。テレーズに幸せになってほしいからと、新しい名前と人生を与えた。誰にも頼まれていないのに。
「私、間違えちゃったよ。ねぇ、アデライド。あなただったら、どうしたのかしらね」
そんな問いに答える声はない。かつて自分を奮い立たせてくれた友はもうここにはいないのだ。大切な人を失い、生きていくことの辛さを知っているのに、テレーズのそれに気づいてあげられなかった自分が情けなくて仕方がない。
ツルカの中で増していく後悔と共に少しずつ空は白み、なんて事のない一日の始まりを眩しいほどの朝日が知らせていた。