1.外出の準備
――私を置いて行かないで。ねぇ、どこに行くの? 私を置いて、どうしてそんな暗い場所に一人で行こうとするの? どうして泣いているの? どうして傷だらけなの? どうして、どうして守ってくれたの? ねぇ、答えてよ。私の大切なお友達……。
§
瞼で覆われたテレジアの草色の瞳を擽ったのは刺さるような朝日の輝きだった。
胸のあたりまで垂れ下がった黒髪を揺らしながら体を持ち上げる。
頭が痛い。まるで誰かに問いかけるようなあの夢を見た日には必ずこうして頭が痛む。誰かが誰かに話しかけている。そんな夢。誰が誰に話しかけているのかなんてものはテレジアには分からない。ただその光景をどちらかの視点から覗き込んでいるような、そんな感じ。
「頭痛い……」
ついには頭に響くその鈍痛を口に零す。しかしまあ、いつもの通りであれば気がつけばこの痛みも消えている。
窓の外を眺めながら頭痛が治まるまで少しぼんやりしてからベッドを出ようなどと考える。
彼女の草色の瞳には爛々と輝く朝日が美しく反射し、その瞳が見下ろす窓の外には美しい街の景色が広がっている。
ネーヴェ王国にある診療所、そこがテレジアの現在暮らす家だった。普段は兄であるエルの住んでいるゼラティーゼのとある町に住んでいたのだが、最近できた恋人と遠くに旅に出てしまったため、実家であるこの診療所に帰ってきたのだ。ぽっと出の女に大好きな兄が取られて寂しいというのは誰にも打ち明けていない。
診療所を営む母コレットはどうやらすごい魔女だったようで〝草原の魔女〟と呼ばれていたらしい。草原である要素がテレジアには不明だったが、大人には大人の事情があるのだろう。その名前も彼女の弟子であるリル・リヴィエールに引き継がれている。父レヴォルに関しては、まあ、概ねどこにでもいる男性のそれである。若々しいコレットとは違い、年相応に小皺が増えている……のを気にしている。
頭の痛みが治まってきたなと思うと跳ねるようにベッドを出る。可愛らしいワンピースの寝間着を脱ぎ捨てて着替える。
鏡に映った自分の格好に「よし」と小さく呟く。鏡に映っているのは目がくりくりとした黒髪の女の子。
半袖ブラウスの上に瞳と同じ草色のケープを羽織っている。最後にチェック柄のスカートをはためかせて一回転。別に毎朝こんなことをするわけではないが、この服は先日十五歳の誕生日として母から貰ったものだったのだ。だからちょっと嬉しくて回ってみたりしただけである。小さい頃はぬいぐるみを貰っただろうか。遊びすぎていつの間にか失くしてしまったことが惜しい。しかし服であればそうそう無くなるようなこともないだろう。
新たな装いに頬を緩めながら、テレジアは階段を駆け下りて芳ばしい香りの漂う一階へ向かう。
今日は、と言うよりも昨日からなぜか診療所を休みにしているようで普段なら鼻をつまんでしまうほどの薬草の臭いも今日はほんの気持ちほど和らいでいるように感じた。
「おはようございます、お父さま、お母さま」
小さく頭を下げて挨拶すると、台所からレヴォルとコレットが一緒に顔を覗かせた。
「おはよう、テレジア」
「もうすぐ朝ご飯出来るから座って待っててね」
どうやら夫婦そろって朝食の支度をしているようだった。昔から思っていたことだが、この二人は随分と仲良しである。喧嘩をしているところをテレジアは見たことがなかった。
黙って席につくと、朝食が運ばれてくるのを待つ。台所はそれほど広くはない。手伝いに行ったらかえって邪魔になるだろう。ただ待っているだけというのも落ち着かないので、なんとなく窓の外に目を向ける。
綺麗な石畳の上を行きかう人々。彼らの表情は朝だというのに気怠さが感じられず、朝日よりも輝いていて爽やかだ。
ネーヴェ王国が良い国だというのは政治やらなんやらに詳しくないテレジアにも手に取るように分かった。この国を治める女王ツルカの方針で国中に魔術が溢れかえっている。そしてその恩恵を誰もが平等に受けられる。
だから人が飢えて死ぬこともないし、貧富の差が大きく開いてしまうことも身分に幅ができることもほとんどない。それはもちろん、仕事によって個人の収入に差はあるが、国がそこをうまい具合に埋めているらしい。
口を開けば誰もが女王ツルカの治世は素晴らしいものだという。百年にわたって国に平穏をもたらしているのだから、そう言われても無理はないかもしれないが、テレジアはこの国の女王がどこか苦手だった。時々診療所に顔を出してくるのだが、そのときは決まって部屋に閉じこもっていた。
「おまたせ、テレジアちゃん。はいこれ」
両手に皿を乗せてやってきたコレットからそれを立ち上がりながら受け取る。皿に乗っていたのはベーコンエッグだった。横にはジャガイモのサラダも添えられている。
「ありがとうございます」
両手で受け取ったそれを丁寧にテーブルに置くのと一緒に再び席についた。コレットが自分の席にもう一つの皿を置くのを眺めながら、テレジアは心に抱いていた質問を投げかける。
「今日は診療所はお休みですか?」
彼女のその問いにコレットは少しだけ顔をあげて「そうだね」と答えた。
テレジアがそんな疑問を抱いたのにはいくつか理由があった。まず一つ、朝がこれほどにまでのんびりと時間が流れていること。普段であればテレジアが起きてくるこの時間には既に朝食が出来上がっていて食卓に並べられている。コレットは診療所を開く準備をし、レヴォルは新聞を読んでいる。これが一つ目の理由。
二つ目の理由はあまりにも薬草の臭いが薄いからだ。準備をするにあたって、当然道具類の消毒や薬草の備品の再確認をする際に当然薬品棚の扉が開く。テレジアの苦手なその薬品棚の臭いが今日は薄いのだ。
「どこかにお出掛けするのですか?」
続けて問うとコレットは「うん」と短く答えて、
「テレジアちゃんにも一緒に来て欲しいの」
そう付け加えた。
一体どこに行くのだろうとテレジアが思案していると、いつの間にか前の席にはレヴォルも座っていた穏やかな朝食が始まっていた。
「目的地はゼラティーゼの南の大森林。そこに自生してる流通しない薬草を取りに行くの」
コレットのその説明にテレジアはなるほどと思った。
薬師であるコレットの仕事は薬を作り患者を診察して作ったそれを処方すること。ともするならば材料を集めることはとても大事なことだ。
「それで、本当だったら父さんと母さんで探そうと思っていたんだが、大森林は広いからな、テレジアにも手伝ってほしいんだ」
そういうことならばと思い、「もちろんです」とテレジアは答えた。別段断る理由もないし、ちょっと楽しそうだと思ったのだ。
「それじゃあ、朝ごはん食べたら準備しよっか」
テレジアの返事を聞くと、そう言ってコレットは柔らく微笑んだ。