3 ルールブック
杉裏は部活が終わった後、一人で卓球専門店へ向かった。
部員たちは、目標の「も」の字すら興味を示さない状態だったが、卓球のことを少しでも知れば、少なからず興味が湧くかもしれないと考え、ルールブックを買おうと決めたのだ。
「こんにちは・・」
杉裏は遠慮気味に、店のドアを開けた。
「いらっしゃい」
奥のカウンターで座っている老人の女性が、そう言って迎えた。
「あの・・ルールブック、ありますか」
杉裏は中へ入り、そう訊ねた。
「あるよ」
老女は「よっこらしょ」と言い、面倒くさそうに立ち上がった。
「何冊かあるけど、どれがええの?」
老女は狭い店内を、掻き分けるようにして本棚のところへ行った。
店内はとても狭く、部屋で例えるなら十畳くらいの広さしかなかった。
入口の左側には、多くのラケットが壁に掛けられてあり、下の棚にはラバー類が並べられてあった。
中央の棚には、ユニフォーム、タオル、スポーツバッグなどが積み重ねて置かれ、右側には本棚と、梱包されたままの段ボールが積み上げられていた。
腰の曲がった老女は、背伸びをしながら棚から本を取り出そうとした。
「あの、私がとります」
杉裏は老女の横へ行き「どれがいいですかね」と言った。
「あんた、初心者なんか」
「はい」
「それやったら、あれがええわ」
老女は棚の、上から二段目を指した。
杉裏は言われた通り、その本を取り出した。
「それな、初心者向けや。言うとくけど、最新版やで」
「そうですか・・」
本の表紙には『卓球入門/これで君も強くなれる』と書かれてあった。
「ほな、これください」
「まいどおおきに」
老女はまた、荷物だらけのところを掻き分けてカウンターへ戻った。
「あんた、何型選手なんや」
老女はレジスターをカチャカチャさせながら訊いた。
「何型・・?」
「ペンか、シェイクか」
「えっと・・よくわかりません」
「ええっ!これはびっくりや。ペンやシェイクも知らんのか」
「ペンとかシェイクってなんですか」
「ペンいうたら、ペンホルダー・・あっ、あれやあれ」
老女は壁に掛けられてあるラケットを指した。
杉裏はそのラケットを見て「あっ、私が使ってるの、これです」と言った。
ペンホルダーとは、読んで字のごとく、四角型でペンを持つようにラケットを握るのでそう呼ばれていた。
現在の主流は、その殆どがシェイクハンドという丸型で、まるで握手をするように握るのでそう言われている。
ちなみに杉裏の時代は、ペンホルダーが主流だった。
「ほな、ペンやな」
「そうですか。ペンって言うんですね」
「あれが、シェイク。シェイクハンドラケットな」
「へぇー」
「あんた、ほんまに何も知らんのやな」
「すみません・・」
「謝ることないがな。卓球は暗いスポーツや言われてるからな。やる子が一人でも増えることは嬉しいことや」
老女はしわくちゃの顔を、更にしわくちゃにして微笑んだ。
「こんちわ~!」
そこに一人の女子高生が入ってきた。
「ああ、京子ちゃん。いらっしゃい」
「先生、頼んでたユニフォーム入りました?」
京子は、杉裏のことなど気に掛ける風もなかった。
「入ってるで」
老女はまた、「よっこらしょ」と言って立ち上がった。
「どこですか。私、やりますから」
「えっとな・・そこの段ボールあるやろ。表に学校名書いてあるから、探してんか」
「わかりました~!」
京子は積み重ねかれた段ボールを、一つ一つ確認していた。
「あの子な、小谷田高校の子やで」
老女は小声で言った。
「そう・・ですか・・」
「まあ、あんたは知らんやろけど、小谷田は大阪でベスト4やで」
「えっ・・」
杉裏は改めて京子をまじまじと見た。
松本が所属するバレー部でさえ、ベスト8で強豪と言われているのに、小谷田高校はベスト4なのだと、杉裏は驚いた。
「あったあった」
学校名を確認した京子は「先生、袋あります?」と訊いた。
「あるよ」
そこで京子は杉裏に気がついた。
「どうも」
京子は小さく頷いた。
「あ・・どうも・・」
杉裏もそれに応え、小さく会釈した。
「その制服、桐花やね」
京子が言った。
「はい・・」
「いとこがな、桐花行ってねん」
「そうですか・・」
杉裏はなぜか緊張して、怖気づいていた。
「あんたも卓球やってるん?」
「あ・・ええ・・まあ・・」
「何年生なん」
「えっと・・一年です・・」
「私もやで」
「そう・・ですか・・」
「京子ちゃん、これでええか」
老女は奥から紙袋を持って戻ってきた。
「先生、すみません。ありがとうございます」
京子は深々と礼をして、受け取った。
「一年生大会、もうすぐやな」
「そうなんですよ~」
「京子ちゃんも出るんか」
「出ます!」
「そうか。頑張らなあかんな」
「目標は優勝です」
「おぉ~これは頼もしいな」
杉裏は二人の会話に圧倒されて、口を開くことができなかった。
「ああ・・あんた、名前なんていうんや」
老女は杉裏に気を使い、声をかけた。
「杉裏汀子です・・」
「汀子ちゃんか。憶えとくわな」
「私、堀川京子。よろしくね」
「よ・・よろしくです・・」
「汀子ちゃんも一年生大会出るん?」
杉裏は、いきなり京子から下の名前で呼ばれたことに戸惑った。
けれども、なんとなく嬉しくもあった。
「ううん・・出ません・・」
「そうなん?」
「っていうか・・私、初心者なんです」
「試合は誰でも出れるよ。一年やったら」
「そんな・・試合なんて・・」
「京子ちゃん」
老女が声をかけた。
「なんですか」
「この汀子ちゃんな、ペンもシェイクも知らんのやで。試合なんかムリや」
「え・・」
京子はその言葉に唖然としていた。
「ここに来たんも、ルールブック買いにや」
「そうなんや・・」
そして京子は杉裏に「ごめん」と言った。
謝られた杉裏は、なんだかバカにされた気がした。
そして京子は、段ボールの中からユニフォームを取り出し、紙袋に入れ替えた。
「先生、支払いは後日、学校からしますので」
「わかった」
そして京子は「失礼します」と言って店を出て行った。
「あのユニフォームな、あの子ら一年生のや」
「そうですか・・」
杉裏は元気をなくしていた。
「あのな、誰でも最初は初心者や。やる気さえあれば、なんぼでも伸びる」
「・・・」
「慌てんでもええ。ルールをしっかり覚えて一生懸命練習することや」
「はい・・」
「頑張りや」
「あの・・」
杉裏は、あることが気になった。
「なんや」
「先生って呼ばれてましたけど・・」
「それがどうかしたんか」
「卓球の先生・・?なんですか」
「そんなこと、どうでもええ」
「すみません・・」
そして杉裏は店を後にした。
帰宅途中、電車の中で杉裏はルールブックの一ページ目を開いた。




