251 負け犬
やがて三組の試合が同時に始まったが、ダブルスは途中放棄、という予想だにしなかった幕開けのショックは、古沢も田神も梨田も同じだった。
古沢は、小島のカットを繋ぎはするものの、日置が言ったように、打ち抜くことなど出来ずにスマッシュミスを繰り返していた。
そして小島も思った。
なんでこんなチームがリーグに上がれたんや・・と。
小島もそうだが、桐花の彼女たちは、自分たちの実力を、この時点でも自覚してなかった。
もはや大阪では、三神に次ぐ強豪校になっていることを。
山戸辺には、最後の最後まで苦戦を強いられたが、それは芦田、重守という富坂が熊本から連れてきた選手がいたためだ。
もし栗山をエースとしての対戦であったならば、桐花は3-0で勝っていただろう。
中井田と小谷田と対戦しても、おそらく桐花の楽勝であったのは間違いない。
そして小島はあっという間に勝ちを収め、住之江西の三番の田神はカットマンであったため、杉裏は情け容赦ないストップで田神を叩き潰した。
四番の岩水対梨田も言うに及ばず、いわゆる「鈍らドライブ」しか武器がない梨田のボールなど、岩水はものともしなかった。
いや、けっして鈍らドライブではないのだ。
けれども為所や大久保といった、けた外れのドライブを受けてきた彼女たちにとって、梨田程度のドライブは、もはやドライブではないのだ。
それは岩水とて例外ではなかった。
こうして桐花は4-0と住之江西を圧倒し、一旦ロビーへ移動した。
「今の試合は、完璧だったね」
日置が彼女らに向けてそう言った。
「はいっ」
「だけど、まだ全国の切符を手にしたわけじゃない」
「はいっ」
「夕凪は、住之江西よりずっと上だよ」
「はいっ」
「ここに勝たないと全てが終わる」
すると彼女たちの表情は、厳しいものに一変した。
「それでダブルスは、為所さんと蒲内さんで行くからね」
「はいっ!」
「はぁ~い!」
「それとシングルは、外間さんと井ノ下さんを入れ替えて、後はさっきと同じオーダーね」
「はいっ」
「もう三神も、試合が終わった頃だろうから、今のうちにトイレへ行く人は行っておくように」
「はいっ」
そして彼女らは一旦解散し、フロアへ戻る者、トイレへ行く者に分かれた。
「おーい、慎吾よ」
日置がトイレへ行こうとすると、悦子に出くわした。
「ああ、えっちゃん、おはよう」
「あの子ら、調子よさそうやな」
「そりゃもう、バッチリだよ」
「さっきの試合、観てたけど、住之江西やったっけ、気の毒やったな」
「ああ・・まあね」
「ま、これが勝負の世界や」
「今日は、朝倉さん来てないの?」
「いや、観客席におるで」
「そうなんだ」
「それより慎吾さ・・」
悦子は小声になった。
「なに?」
「富坂な・・昨日、泥酔して路上で寝転んどったんやで」
「え・・」
「やけ酒や」
悦子は、あんたが原因やで、と言いだけだった。
「やけ酒・・」
「なんが日置とか・・言うてさ」
悦子は低い声を出して、富坂の真似をした。
「それで、富坂、どうしたの?」
「私とひなちゃんで、家まで連れて行ったっちゅうねん」
「あらら・・それは大変だったね」
「あいつ、あのままやったら、この先、ないと思うで」
「この先って?」
「監督やがな」
「ああ~・・」
「嫉妬に狂って私情を挟むやなんて、選手は着いて来んわ」
「えっちゃん」
「なに」
「僕に、どうにかしろって言いたいの?」
「いや・・そんなつもりはないで」
その実、悦子は昨日、朝倉にきつい言葉を浴びせられて肩を落とす富坂を気の毒に思っていた。
日置にとっても、迷惑な話だということもわかっていた。
悪いのは、勝手に嫉妬をし、大阪まで来て選手にあんな試合をさせた挙句、負けた富坂自身だということも。
「言っとくけど、僕、そんなお人好しじゃないよ」
「うん、わかってる」
「じゃ、試合だから行くね」
日置はそう言ってトイレへ向かった。
「頑張りや!」
悦子が言うと、日置は振り向いてニッコリと笑った。
そやな・・
慎吾がどうこうする話やないわな・・
せやけど・・富坂、どうすんねや・・
悦子は「ふぅ・・」とため息をつきながら観客席へ向かった。
―――その頃、東京の日置家では。
「それで、柿沼さんは、お見合いのことなんて言ってるの?」
日置の父親である孝蔵は、リビングで朝刊に目を通しながら佳代子に訊いた。
昨夜、遅くに帰宅した佳代子は、まだ大阪での話をしていなかった。
「それがね、貴理子さんは慎吾のこと気に入ってくれたのよ」
佳代子は孝蔵の向かい側に座り、テレビを観ていた。
「へぇ、そうなんだ」
「でもさ~、問題は慎吾よ」
「慎吾はなんて?」
「もう~あの子ったら、見合いなんかしない!の一点張りでさ~」
「まあ、そうだろうね」
孝蔵はニコニコと笑いながら、新聞を捲った。
「でも私は、この話は進めるわよ」
「きみの気持ちもわかるけど、あまり焦らない方がいいよ」
「いいえっ、こんな良縁、もうないわ」
「だけどさ」
孝蔵はそこで新聞を畳み、テーブルに置いた。
「なによ」
「強引に進めても、慎吾の気持ちを頑なにするだけだよ」
「あの子は卓球のことしか頭にないの。私たちが強引にでも進めないと、あの子、ずっと独身のままよ」
「まあ、そうなんだけどね」
「いいわね。私はこの話、進めるから」
「うん、わかった」
孝蔵は、佳代子の気持ちは痛いほど理解していた。
親なら我が子の将来を案ずるのが当然だからである。
孝蔵自身も、息子の結婚は少しでも早い方がいいと思っていたが、佳代子が焦り過ぎて失敗しやしないかと、案じてもいた。
孝蔵は温厚な性格で、いつも穏やかにニコニコ笑っているような人物である。
日置の性格は孝蔵に似た。
―――また同じ頃、山戸辺の体育館では。
「芦田、あんたそれ本気か?」
栗山は芦田の言葉に唖然としていた。
芦田は今しがた、退部はおろか、退学の意思を栗山に告げたのである。
「本気ですけん」
「監督が原因か?」
「そうです」
「あんたはどうなんや」
栗山は、芦田の隣に立っている重守に訊いた。
「私は・・まだわからんとです・・」
「そうか」
「先輩、私はもう決めましたけん。昨日、家にも電話でそう言いましたけん」
「いや・・っていうか、監督には言うたんか」
「試合の後、言いました」
「監督はなんて?」
「熊本でもどこへでも帰えりゃよかと、って言ってました」
「そうなんや・・」
栗山は困り果てていた。
「まあ芦田の気持ちもわかる。あんな作戦やらされたんやからな」
「はい」
「せやけど、監督はなんであんな作戦を・・」
「日置監督じゃなかとですか」
「え?」
「監督、日置監督がライバルじゃ言いよりましたけん」
「日置監督とライバル・・」
「監督は、そのために私と美香ちゃんを連れてきたとです」
「・・・」
「日置監督に勝つために、そうしたとです」
栗山は思った。
芦田の言うことが事実ならば、ますますあの作戦の意味が変わらない。
勝つためなら、コテンパにのすのが当たり前だ。
けれども富阪は、芦田に手を抜くよう指示した。
一体それは何のためなのか、と。
「そういうことですけん、短い間でしたがお世話になりました」
芦田はペコリと頭を下げた。
「明日、担任の先生に退学の意思を言います」
「もう気持ちは変わらんのやな」
「変わりません」
「熊本で卓球続けるんか」
「もちろんです」
―――その頃、富坂は、臨海スポーツセンターの入口に立っていた。
富坂は二日酔いで頭が割れそうに痛かったが、自然と足はここに向かっていたのである。
日置・・
わしは・・なして、お前と出遭うてしもたと・・
わしの気持ちは・・どげんすりゃよかと・・
富坂は足をふらつかせ、ロビーに入った。
そこに、トイレから戻った日置とばったり会った。
二人は互いを見たまま、しばらく言葉を発せないでいた。
日置は富坂を無視して、フロアへ行こうとした。
「日置」
富坂が呼び止めた。
「なんだよ」
日置は冷たい目で富坂を見た。
「お前は・・なして、わしと同年代なんか」
「はあ?」
「お前は・・なして、卓球やっとると・・」
「なに言ってるんだよ」
「なして・・卓球とね・・なして卓球とね・・」
「富坂、お前、おかしいよ」
「なんが、おかしかとか」
「お前、卓球を選んだこと、後悔してるのかよ」
「なんば言いよると」
「自分が惨めだと思わないのか」
「・・・」
「僕はお前に同情なんかしない。だけどさ、子供の頃からずっと苦しい日々を乗り越えてきただろ。今のお前はそれを全部捨ててるよ」
「・・・」
「言っとくけど、僕を超えられなかったのはお前の努力不足だよ」
わしの努力不足・・
いや・・わしは努力を怠ったつもりはなかと・・
お前に勝つため・・厳しい練習を続けたと・・
ばってん・・お前はわしの遙か上を行く厳しい練習をやっとったと・・
そげんこつ・・今さら言われんでも・・
「努力を怠った挙句、人のせいにして別のやり方で貶めるなんて、最低だよ」
富坂にはわかっていた。
大学時代、日置はどれだけ富坂に勝とうとも、罵ることはなかった。
富坂を励ましては「そうでなくちゃ」とニッコリ笑ってばかりだった。
それが富坂を、ますます惨めにさせていた。
「悪いけど、試合があるから」
日置はそう言い残して、フロアへ入って行った。
日置・・なして今の言葉を大学時代に言うてくれんかったとね・・
もし・・言うてくれとったら・・わしはお前を追いかけて来んかったとよ・・
芦田にも重守にも・・あんな試合はさせとらんかったとよ・・
そこで富坂は天井を見上げた。
終わったと・・
日置・・もう二度と会うことはなかとよ・・
そして富坂は、日置に背を向けて出口に向かったのだった。




