月の破壊
榎木林や猿田川、錬太郎の作業は終わり後はパット次第になった。しかし、時間の経過は止まらず、四時間が過ぎた。全員が艦橋に集まり、パットの作業を見守った。
気のせいか、呼吸が苦しく感じ始めた全次郎だった。やがてパットを除く、全員は艦橋の床に座り込んだ。
「どうだ?……パット」
錬太郎は作業を続けるパットに掠れる声を掛けた。
「大丈夫や……うちは諦めへん……」
パットは掠れる声で答えた。
「そう……か……」
錬太郎はその場に倒れかけた、全次郎はその腕を支えた。
「パット……がんばれ」
全次郎も声が掠れていた。
「……うん」
パットはまた胸の奥から、勇気が湧いてくるのが分った。霞む目、割れそうな痛みの頭、力の入らなくなる指先、それらを精神力だけで支える。横目で見た全次郎と桜花が倒れる寸前のパットを支え続ける。そして目前のゴールにキーボードを叩き続けた。
全次郎は桜花を抱き締めていた、腕の中の桜花は静かに目を閉じていた。頭がぼーっとしていて、思考能力を失いかけていた。しかし全次郎を踏み止まらせていたのは、諦めないパットの背中だった。
桜花もそうなのだろう……そして錬太郎や他の皆も。絶体絶命の状況下の中でも落ち着いていられるのは、一つの言葉にするなら……それは”信頼”なのだろう。そして全次郎の意識はそっと……離れていった。
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普通に目覚めた……少し頭が痛かったけど、全次郎は今まで何千回も起きたのと同じ様に普通に起きた。
「桜花、朝飯……」
腕の中の桜花に、声を掛けた全次郎だった。
「……うん」
目を擦って、桜花は立ち上がって食堂に向かった。周囲を見渡すと、豪快にイビキをかく浅田目に、小さく丸まった猿田川、直立不動で腕を胸の上で組んで寝ている榎木林、キーボードに伏したまま寝るパットが、窓から差し込む朝日の中にいた。
そして開いた窓から流れ込む清々しい潮風は、潮の香りで艦橋を包んでいた。状況を把握するまで、かなりの時間を要した全次郎だった。
「……助かったんだ」
呟いた全次郎はパットの元へ行った。揺り起こすと、パットはそっと目を開いた。
「……おはよう……全次郎……どないしたん?」
全次郎は無言でパットを抱き締めた。
「……全次郎……」
パットはそっと全次郎の背中に腕を回す。
「ありがとな……パット」
強く、強く、全次郎はパットを抱き締めた。”桜花を助けてくれて、ありがとう”と、言う言葉を心で呟きながら。
「朝から見てられんわい」
起き上がった榎木林は頭を掻く。
「次、わし……」
浅田目は全次郎の後ろに並んでいた。
「アホちゃうか……」
パットは全次郎の腕の中で微笑んだ。
「朝飯、出来るから……」
そっとパットを放し、全次郎は呟いて猿田川を起こした。
「もう朝か?」
猿田川も目を擦った。
「……親父は?」
周囲を見回した全次郎は、操舵システムの前の榎木林に聞いた。
「……行ったよ」
窓の外を見る榎木林の視線の先には、宇宙センターの巨大な発射台があった。
「もう、いいですよね……教えてくれても」
全次郎は窓に近付き、落ち着いた口調で言った。榎木林は俯いたまま、ゆっくりと話し出した。
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「もうすぐ、シャトルの打ち上げじゃ。このシャトルは月着陸の機能がある、錬太郎はそれで月へ行く」
「何だって? 訓練もしてない親父に出来るもんかっ!」
全次郎は大声を上げた。
「行くだけなら誰でも行ける……」
いつもの榎木林の口調じゃなかった、言葉の意味を全次郎は考える余裕がなかった。
「行ってどうするんだ?!」
頭の中が混乱した、全次郎はまた声を上げる。
「……月を、破壊する」
榎木林の声は静かに艦橋に響いた。勿論、知らなかったのは全次郎だけで、その衝撃は脳梗塞でも起こしそうな激痛を与えた。そして暫くの沈黙の後、全次郎は声を絞り出した。
「……どうなるんです?」
「……見当もつかん……月の引力を失い、大量の残骸で太陽光を遮られた地球にどんな災いが起こるのか……」
榎木林の沈んだ声は、その重大さと比例したみたいに全次郎に圧し掛かった。
「……そんな事……何の為に?……人類を滅亡させる気か?」
体が震えた、喉がカラカラに渇いた、全次郎は全身の悪寒に包み込まれた。
「あのな……全次郎……ホンマはな……」
全次郎の片腕を取り、パットは何か言おうとした。
「許されないっ、止めるんだっ!」
パットの手を振り解いた全次郎は、遠く見える発射台に叫んだ。
「……どうしたの?」
艦橋に入って来た桜花は、その空気に呆然とした。
「お前は食堂へ行ってろっ!」
全次郎は目を合わせずに、桜花に叫んだ。
「でも……」
桜花はパットや浅田目に目をやったが、悲しそうな視線を返されただけだった。しかたなく、桜花は艦橋を出て行った。
「宇宙センターに向けろ」
パットに向かって全次郎は呟いた、その声は暗く重かった。パットは榎木林を見たが、榎木林は黙って頷いた。
ゆっくりと強風は、目前の宇宙センターへ動き始めた。
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強風が岸壁に接岸すると、それまで無言だった全次郎が口を開いた。
「管制塔に行く、親父を止める」
「全次郎、聞くんじゃ」
静かに榎木林が制した。
「何ですか、今更?」
全次郎の言葉には力が無かった。
「錬太郎は月を破壊しない……するぞと、脅すだけじゃ」
静かな声で、榎木林は呟いた。
「どういう事ですか? 誰を脅すんですか?」
核心の先に何があるか、本当は全次郎は聞きたくはなかったのかもしれない。
「全人類を脅迫する。要求は只一つ、温暖化ガスの抑制じゃ……完全削除は物理的にも生活を維持していく為にも不可能じゃろうが、年間の排出量を地球の海や森が一年に吸収出来る量の百十四億トン以内に押さえさせる、越えれば月を破壊する……これが要求内容じゃ」
榎木林はゆっくりと、噛み締める様に言った。猿田川も浅田目も、顔を背けていた。
「テロだ……世界規模の……知ってたんだな?」
全次郎はパットを見据えた。
「……脅すだけなんや……」
パットは目を逸らしたまま、呟くしか出来なかった。
「全人類の目を醒ますには、仕方ないんじゃ……人を説得する事は出来るじゃろう……こんな事をしなくてもな。しかし国家は人の集合体、その一人一人の説得は途方も無い時間が掛かる。最大の障害は利害じゃ……利害は人を狂わせる、そして今も尚、人を支配しておる……もう時間がないんじゃ」
榎木林の口調は、自分自身に言い聞かせているみたいだった。
「……どうやって全人類に信じさせる?」
消えそうな声で全次郎は呟いた。
「月にはヘリウム3がある、夢のエネルギーじゃ……核融合炉の燃料にもなる、核融合炉は言ってみればカマドじゃ。燃えにくく、消えやすい。暴走も爆発の危険性も少ない……だか、わしは……爆発する為の触媒を開発した……その誘爆力は月全体に及ぶ……計算上では……完全に破壊される。ヘリウム3は水爆の元となる重水素やトリチウムと比べ、非放射性じゃ……それが核爆弾並みの破壊力持つ爆弾として完成したなら……人類は躊躇うことなく戦争で使うじゃろう、放射能汚染の少ない大量破壊兵器として……そのヘリウム3を弾頭にして、地球に影響のない宇宙空間でデモンストレーションを行う……人類は驚愕する……その破壊力は神の領域じゃ……」
猿田川は自分のした事を、明らかに恐れていた。呪文みたいに説明したが、その言葉は多くの欺瞞に汚れていた。
「仕方ない事じゃ……誰かがやらねばならんのじゃ」
榎木林は猿田川を弁護した。
「重過ぎる十字架じゃ……人類を救う為に、人類を滅ぼすモノを造ってしもうた……本末転倒じゃ、夢のクリーンエネルギー、ヘリウム3を……悪魔の大鎌にしてしもうた……」
猿田川は震えていた、全次郎も言葉を失った……本当に正しい事なのか全次郎には分らなかった。




