生と死の狭間で
夜の静けさ……昼間だって広い海原は静かなのに、闇は音も吸収した。桜花を生かす為に、自分に出来る事……全次郎は眠る桜花の頬にそっと触れた。そして静かに這うように主翼の上に出た。力が入らず、かなりの時間を要した。
つい昨日まで簡単に登れた事が、遠い昔みたいに感じられた。波が柔らかく機体を撫ぜ、微かな音を立てていた。
限界は迫っていた、飢えや渇きに慣れてない身体の衰弱は想像より早かった。思考は乱れ、身体は鉛の様に重い。
夜風が肌を擦った、何故か桜花の小さい頃の事が頭を過ぎった。1歳の桜花は泣いていても、キリンの縫ぐるみを見ると泣き止んだ。
4歳の桜花は、いつも他の母親を不思議そうに見ていた。7歳の桜花は、踏み台に乗り小さな手で食事を作っていた。
12歳の桜花は、妻と同じ口調になった。そして15歳の桜花は、妻に似ていた。それぞれの年代の笑顔の桜花が浮かぶ。全次郎の中に決心が固まった。
「どないしたん?」
気付くとパットが覗き込んでいた。
「何でも……ない……」
小さな声で呟いた全次郎だった。
「……桜花、起こそうかな」
パットの言葉は全次郎の全身に鳥肌を立たせた。そして、パットは続けた。
「喜ぶと思う?……傷は一生消えへんよ……性格分ってるやろ、あの子は自分を許さへん……」
「何言ってる?……意味が分らん」
全次郎の声は消え入りそうだった。
「そんなら、そんでもええわ……そんかわり、うちが行く」
パットは目を伏せた。
「何言ってるっ!」
全次郎は声を上げた。
「静かに、桜花が起きるで……うちは桜花と……アンタの為なら……」
パットの言葉に被さる様に水面で音がした。心臓を刺された痛みが走る、振り向いた刹那、海面に沈む浅田目が見えた。
叫ぶより先に全次郎は飛び込んだ。パットは悲鳴を上げた、瞬間、眩いライトが機体を突き刺した。
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「気付きましたか?」
浅田目が目覚めると、全次郎が情けない顔があった。
「ここは?」
「強風です……親父が来てくれた」
「……そうか」
「何であんな事を?」
「足を滑らせただけじゃ……」
浅田目はシーツを被った。
「そういう事にしときます……」
全次郎の声は掠れていた。
「平蔵……」
今度は錬太郎の顔があった。
「錬ちゃん、助かったよ……」
浅田目はシーツから顔を出す。
「すまなかった……」
錬太郎は深々と頭を下げた。
「何を謝っとる」
「桜花やパット、そして全次郎の為に……」
「全次郎にも言った、足を滑らせたんじゃ」
力なく浅田目は微笑んだ。
「平蔵おじちゃんっ!」
桜花が泣きながら、医務室に入ってきて浅田目に抱きついた。パットも部屋の隅で目頭を押さえていた。
「桜花、助かったのに何泣いとる?」
浅田目は桜花の頭を優しく撫ぜた。桜花はただ、泣きじゃくっていた。
「パット、桜花の次は抱き締めてやるぞ」
浅田目はパットにウィンクした。
「アホちゃうか」
パットは泣き笑いで、また目を擦った。
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「おじいちゃん……逢いたかったよ」
艦橋に立つ錬太郎に桜花は俯いた。
「おじいちゃんもだ」
抱き締めた桜花が、とても小さく感じた錬太郎だった。
「高校、受かったんだよ」
「よかったな」
「うん」
「綺麗になった」
「私が?」
「ああ……世界一だ」
「……ほんと?」
「ああ、ほんとだ」
桜花は聞かなかった、錬太郎は答えるつもりでいた。しかし、桜花は錬太郎の胸の中で小さく震えるだけだった。そして錬太郎は気配を感じて振り向くと、全次郎が艦橋の入口に立っていた。
「親父と話しがある」
「はい」
桜花を送り出した錬太郎は、全次郎に向き直った。
「聞きたい事は?」
桜花が出て行って暫くして、錬太郎は口を開いた。
「何処に向かっている?………何がしたい?」
自分では強く言ったつもりの全次郎だったが、声は穏やかだった。
「ウェイク島宇宙センター……」
前方を見据えた錬太郎も穏やかな声で言う。ウェイク島宇宙センターは、世界最大の旅行会社が、民間人の宇宙旅行を実現した場所だった。旅行といっても、高度約100kmの弾道飛行のようなものだったが、ノウハウはNASAなどにも肉薄していた。
「打ち上げでも見学に行くのか」
「まあ、そんなとこだ」
「目的は?」
全次郎は確信に入った。錬太郎は大きく深呼吸して、話し始めた。
「地球は我々人類を許さない……淘汰を始めている。もう……時間がない、人類の科学力なんて自然の力の前には無力なんだ」
「そんな事は分っている……」
錬太郎の言葉を遮って、全次郎は言った。
「分っている……か。そうだ、人類は分っているんだ……でも何もしない」
言葉を選ぶ様に、錬太郎はゆっくりと話し続ける。
「何もしてない訳じゃない、努力している人々もいる」
少し言葉を荒げた全次郎は詰め寄った。
「そうだな、5つの戦略が同時進行している」
錬太郎は目を閉じた。
「何だそれ?」
「温暖化を防ぐ作戦さ、3つは太陽光線の防御。多孔質シリカガラスの反射板を宇宙空間にばら撒き、太陽光を逸らせる。海水から人工的に雲を作り、太陽光を反射する。硫黄の煙幕を衛星軌道上で行い、反射させる。そして、後海洋の植物性プランクトンに二酸化炭素を吸収させる為、尿素を散布し人工的に増加させる。最後は人工樹だ、機械仕掛けで空気中の二酸化炭素を回収し、海底に埋没する……」
呪文の様に錬太郎は言った。
「凄いじゃないか……」
全次郎は人類の巧さに驚いた。
「そうだな、方法が違っても、他にも色々と進行している。でも、リスクを伴っているんだ……どの方法も、自然の摂理に反している。そして、根本の対策じゃない。補填だよ……穴の開いたバケツに水を足してるだけだ……穴はもうすぐ全壊する」
今度の錬太郎の口調は、諦めが混じっていた。
「仕方ないじゃないか、人類が生存する為には化石燃料を燃やすしかない」
全次郎は俯いた。
「そんな事じゃダメなんだ」
錬太郎の声は小さかった。
「えっ?」
その言葉と消え入りそうな声は、全次郎を不安にさせた。
「そんな事じゃ状況は変わらない。今、本気でやらなければいけない……明日からじゃ間に合わない」
錬太郎は自分自身に言ったのだろうか、全次郎にはそう聞こえた。
「どうするつもりだ?」
全次郎には分らなかった。否、本当は分っていたのかもしれない。
「責任を果たす……」
そう言うと、錬太郎は操舵システムに向き直った。全次郎は黙って艦橋を後にした。




