1-11 異世界の代償
その日の帰りのホームルームの事だった。
普段は温厚な担任だが、この日は教室の扉を手にしたときに怒りの感情が見え、こんなことは今までなかったので教室内に緊張が走った。勢いよく扉を閉め顔を真っ赤にした彼は教壇に立つと起立と礼をする前に、夢乃の方を見て進路調査票を広げた。
「夢乃さん、これは何ですか!」
クラスメイト達がざわつき始める。尾栗は冷や汗が止まらない。
「進路や。なんか悪い?」
喧嘩腰な夢乃の態度に担任はストレスの限界を超えたのか教壇を強く叩いた。みんなの体がその音と同時にびくつく。
「異世界が進路とかふざけるな! こっちは真剣なんだ!」
「わたしも真剣や」
頭を抱えたり、ドン引きしたり、周りの人と私語を始めたり、クラスの騒々しさは増していく。顔面蒼白な尾栗に右隣に座る男子が声をかける。
「おい、尾栗。本当か?」
虚ろな表情で尾栗はうなずく。やってしまった。担任の心を読み切ることが出来なかった。ここで電波のふりをしてなだめようとしたところで担任のボルテージが上がるのはわかりきっている。火に油を注ぐようなものだ。
しかし夢乃には助けると言ってしまった。けれどそんな方法は見当たらない。尾栗がビビっている間にも担任と夢乃の口論は続く。
「異世界が本当にあるならその進路について夢乃さんと話そうとは思うけれど、ないじゃないか! 天国とか地獄とかと言ってること同じだぞ」
「天国も地獄もない、異界と一緒にせんといて。死後なんか誰もわからんやん」
「はあ? 異界もだろ! 誰が行ったんだ? 言ってみろ。そして証拠を出せ」
「言えるわけないやん。これは秘密なんやから」
唇をとんがらせて不機嫌に夢乃が言うと、先週夢乃にやられた男子生徒が馬鹿にするような口調で割って入った。
「異界サークルのことかよ。馬鹿じゃねえの?」
夢乃はすぐにその男子に詰め寄って机を蹴飛ばした。
「サークルを馬鹿にしたら許さん」
「ああ? 何机蹴ってんだよ。直せよ馬鹿」
その言葉で夢乃は殴りにかかった。しかし前と違い、男子生徒はそのパンチを避けると座ったまま前蹴りを食らわせた。蹴り自体に痛みはないだろうが、夢乃は押し出されたことで後ろに飛んで転がった。クラスメイト達の机を巻き込んだことによって背中に痛みがあるのか、小さくうめき声をあげる。
そんな夢乃に男子生徒は詰め寄ってマウントポディションを取った。そして笑う。
「おい。RPGならこれでもう終わりだ。顔面凸凹にして骨が砕けるまで、死ぬまで殴ってな。よかったな現実で」
夢乃は鼻を啜りながら小さく言った。
「助けて」
夢乃の近くにいた尾栗にその声は届いたけれど、騒然としたこの状況、味方になれば全員が敵になる、今まで築き上げたものがすべて失うリスクを取れるほど、尾栗は愚かではなかった。
担任が「もうやめておけ」と男子生徒に手を伸ばして立たせると、すぐに夢乃はマウントポディションから逃れて尾栗の方を一瞬ともいえないくらいちらりと見て教室を飛び出していった。
夢乃を追いかける人はもちろん、声をかける生徒もいなかった。
天災が去ってやっと平和な毎日が再開する。そんな安堵感が漂っていた。
震える尾栗を除いては。
夢乃の表情になんのメッセージも込められていなかった。
そのことで尾栗は強く動揺した。
いや、ちらりと尾栗を見たことので何かを期待したのかもしれないし、何かを伝えたかったのかもしれない。けれど夢乃の表情は無に近く、起き上がった拍子でたまたま尾栗の方を向いた。と言っても疑わないほどだった。
期待させるだけ期待をさせて、窮地に陥れば助けるとまで言ったのに、何もせず傍観し続けた尾栗に対し、悲しみや怒りや切なさ、そういった何かを感じさせる表情を少しでもしてくれれば、まだ尾栗は深く考えなくて済んだだろう。自分が悪かったと自分を責めるだけでよかった。けれど、夢乃のあの表情を見ると、夢乃の心境を想像してしまう。そして理解できなくて、解決できなくて悩みに悩む。
尾栗は放課後の誰もいない教室で、集中出来ず、ただただブリキカーをノートの上で転がしていた。
こんなことは高校生になってから初めての事だった。
自分は凡人だ。だから誰よりも勉強して差を埋めなければならない。集中できない間にも天才たちは自分の更に上を行く。競争から一歩遅れればその差を詰めるのは難しい。凡人なのだから同じ時間努力をしても並ぶことはできない。差が出る一方だ。その差を詰められるのは時間しかない。彼らが寝食し、娯楽に費やす時間、それを自分は少しでも少なくして差を埋めなければならないのだ。
そんなことはわかっている。当然のことだ。でも夢乃のことが頭にちらつく。
虚ろな目で自問自答し、ブリキカーを転がしてもどうもならないのはわかっていた。けれど今の尾栗にはこうすることしかできなかった。
蛍光灯が照らす教室は、雨音と秒針とブリキカーのタイヤが回る妙な金属音がいつまでも終わらないような、メトロノームのように均等なリズムを刻む。
ブリキカーを動かす尾栗の手を止めたのは扉を開く音だった。
強く扉を開ける音。その音は帰りのホームルームに激昂していた担任を思い出させた。
「センチメンタルになってる場合じゃないよ、尾栗くん」
尾栗はその声にさらに驚く。扉の前で腰に手を当てて面倒くさそうにつぶやく少女は仲井紅だった。
「どうしたんだいったい」
仲井は尾栗に詰め寄って手を取った。
「どうせ言っても信じないだろうから連れていくわ」
「何を信じないんだ?」
すると仲井はふっと軽く笑ってから舌打ちをした。
「夢乃さんが異世界に行っちゃいそうなのよ」
「はあ?」
あきれ顔の尾栗を無視して仲井は手を引っ張り、鞄を持たせる間もなく教室の外へ連れ出した。どこに行くんだよ、と聞いても仲井は答えることはなかった。




