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1-10 異世界に行くまでの時間

 早朝の誰もいない教室の静けさは尾栗にとっての潤滑油のようなものだった。いつもの二倍覚えるスピードが速く、いつもより頭が冴えに冴えている、という感じがするだけなのだが、尾栗はそれがたまらなく好きだった。だからいつも七時前には登校し、その雰囲気に酔いながら勉学に勤しんでいた。

 しかしこの日は違った。

 進路調査票の提出日である月曜日。

 いつも遅刻ギリギリか遅刻をしてくる夢乃が二番乗りで登校してきた。尾栗は体内時計を思わず疑い時刻を確認すると予想通り七時半で始業まで一時間も早い。

 夢乃は尾栗に挨拶することなく静かに着席すると机の上に進路調査票を置いた。そしてジッと見つめていた。その表情は未来に期待する若者とは思えないものだった。朝の九時過ぎから公園のベンチに座るサラリーマンのようだ。

 尾栗はかまってオーラを滲みだす夢乃のから気をそらすため、机の上にあるお菓子や漫画にコーラをにらみ、コーラを選んでゴクリと一口飲む。が、視界の端に夢乃の姿が入ってどうも身に入らない。

 空気が読める男尾栗は夢乃がどうして早く来たのか。進路調査票を見て苦しそうな表情を浮かべているのかはなんとなく理解が出来た。ただ、それを解決するために自分から動きたくはなかった。

 助けてくれというアピールに応えるのが癪だったし、そこまで関係性じゃない。なにより思い出すだけで鳥肌が立つような不気味なサークルに出入りしているような奴と仲を深めたくはなかった。

 しかし覚えようとする歴史の出来事はすべて夢乃の浮かない表情に塗りつぶされ、簡単な計算はいつまでたっても答えを導けず、夢乃にかける言葉を探してしまう。

 これはなんと効率の悪いことか。

 尾栗は勢いよく立ち上がって夢乃の席の前まで早歩きで向かった。

「おい、五分だ。五分だけだから」

 それだけ言って足早に教室を出た。しかし廊下に出ても夢乃は着いてくる様子がなく、空気を読み間違えたのだろうかと不安になったが、教室から五メートルほど進むと足音が聞こえてきたので尾栗はホッとした。

 尾栗は校舎内の運動場が見渡せるところまで移動して窓を開けた。春の穏やかな風が吹き付ける。

「夢乃さんはどう思う? ああやって汗を流している奴らの事」

 運動場には野球部やサッカー部、陸上部がそれぞれ練習の準備や練習を行っていた。聞き取り辛く何が語源かわからない言葉を発しながら。

「どうって……。がんばってるなって」

「確かに頑張ってるよな。でもさ、あれって意味あるのかな?」

 夢乃は尾栗が何を言っているのかわからず戸惑うが、とりあえず言葉を返す。

「あるやろ。好きなことをするのはええことや」

「それはそうだけど。これからの将来で朝練して夜の遅くまで練習したことって役に立つか?」

「立つやろ。それでお金儲けできる人もーー」

「いないね。この学校には。プロになれるような奴なら推薦校でもっとまともな教育を受けるさ」

「何が言いたいん?」

 苛立つ夢乃をちらりと見て尾栗は軽くため息をつく。

「幸か不幸か、この国は勉強さえしてればいい暮らしができる。ああやって将来の肥やしにもならないことをしている時間を勉強に充てれば、俺みたいな凡人でもしょぼい国立大学に入れるんだ。そうしたら就職のとき、俺より優れた能力を持つのに俺より偏差値の低い大学に行っているという理由で彼らは落とされてしまうんだよ。奴らも俺が勉強に使う時間と同じくらい何かに打ち込み、俺よりも苦しい思いをして挫折をしているのかもしれない。でもその時間は勉強じゃないから進学につながらない。その努力が報われるのは一%に満たないだろう。マイナー競技になればなるほど。勉強なら百分の一になるだけでエリートのにさ」

「無駄なんかやない。金が全てやない。苦しいこととか楽しいこととかが、こっから先にしんどいことがあった時の支えになるとか、そういうことがあるかもしれへんやろ」

「まるで自分に言ってるみたいだな」

 尾栗がそう言って笑うと、夢乃は頬を染めて俯いた。

「そう思ってるなら書けばいいだろ。異界に行きたいって」

 言っていて馬鹿馬鹿しいと思う尾栗だが、真剣に悩んでいる夢乃のことを思うと笑えはしなかったし、この問いかけが適切だと思えた。

「もう一万時間過ぎてもうたんや」

 夢乃は染めた頬のまま、魚のような眼をしていった。

「一万時間?」

「ほんまに何も聞いてないなあ。一万時間。仲井さんが言ってた異界の為にかける時間の合計や。それ超えたら諦めた方がええって話」

「正直サークルの話はほとんど覚えてないけど、一万時間の法則は聞いたことがある。あることを一万時間すれば一人前になれるってやつだろ」

「そんな法則があるんか?」

「ああ。ある音楽学校のバイオリン奏者の実験データがあって、優秀なグループに入った人達とそうでない人達の差は練習量の差で、優秀なグループに入った人たちの平均練習時間が合計して一万時間ほどだったって話だ」

「なるほど。仲井さんはちゃんとした情報をくれてるんやな」

「でもさ、ま、バイオリン奏者はシンプルにバイオリンの練習で時間を計ればいいけどさ、異界に行くための練習時間どう計るんだ? 異界に必要な能力ってなんだ?」

「それは仲井さんが言っていた通りやろ。語学、喧嘩の強さ、サバイバル術……?」

 自信ありげに言葉にしたものの、夢乃の声は徐々に小さくなっていく。

「自分でも気づいただろ。召喚されるためにどういった練習が必要なのかなんて明確じゃないってこと。そりゃお前の中で一万時間だっただろうけど、もしかすると召喚に関係ないことで時間を使っていた可能性もある」

「ほんまや。めっちゃ曖昧やな」

 夢乃はグッとかみしめるようにガッツポーズをした。表情に明るさまでは感じられないものの、どこか憑き物がとれたようなスッキリした雰囲気はある。

「お前が本気ってことを伝えればきっとわかってくれるはずだ。それでもし笑われたり怒られたりしたら、俺が文句言ってやる。ふざけんなよって。だから頑張って伝えてみろ。それも召喚のきっかけになるかもしれないし」

「さすが異界人。よう知ってるな」

「知ったような口をきいてるだけだよ」

 もし異世界があるなら、凡人であることを自覚しないで何かに没頭してれば、自分はどうなっていたのだろうか。なんてことを尾栗はふと思った。

 そのあと夢乃は覚悟を決めた表情で進路調査票に異世界とだけ書いたのであった。

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