第一話 一馬
もう昼近くだというのに明かりがないせいか通路は薄暗かった。
そんな中を一人の少年が歩いている。
がっしりとした背中は苦しそうに曲がっていた。
重い足取りが定まらないのは、足元を照らす光が足りないためだけではなかった。
風邪なのだ。
獅子ヶ崎一馬はふらつきながらも歩みを止めなかった。
「……ヤバイくらいだりぃ」
自分の足を鈍くしているのが発熱と空腹だどということなど、とうに理解していた。
だからこそエネルギーの補給が必要だった。
少年は食事を求めて、小窓から春の日差しが注ぐキッチンへと向かって行った。
困ったことにこれは一馬の自業自得なのだ。
昨日の夕方冷たい雨の中、傘も差さずにずぶ濡れになって帰ってきたのだから。
少しばかり自分の体力を過信していたようだ。
細かいことには気づくくせに、こういったところは大ざっぱだ。
夜半から一馬の身体を蝕み始めた高熱は、朝になってもまったく下がる気配がなかった。
(こんなに熱が出るなんてサイアクだ。こうもつらいのって、小学校以来じゃないのかよ)
現在の一馬は健康優良児でクラスでも背が高い方となる。だが幼いころは身長も低く体も丈夫ではなかった。
そのことを案じた父親があるスポーツクラブを勧めてくれた。テレビの影響からか、剣で戦うヒーローにあこがれていた一馬は小学校三年生から剣道を始ることになった。週に二回、ずっと休まぬ練習だった。
クラブは規模も小さく少年部の人数も決して多くなかった。それでも一馬は剣道の技だけではなく、礼儀や上下関係などそこで様々なことを学んだ。
参加したばかりの一馬は明らかに体力も劣っていた。最初は他のものについて行くこともできなかった。
だが三ヶ月もすると、なんとかまわりに追いつきだした。一馬が積極的に他人に話しかけ、教えを請うたのもこの時期くらいなものだろう。体も健康になり、良いことずくめのようだった。
新人が皆と一緒の練習をこなせるようになると、同年代の子供たちも一馬を仲間として受け入れだした。
とは言え少年たちがつけた序列の中では最下位とも言えそうだったが。
五年生になるとクラブでの活動も日常の一部となる。夏の終わり頃から一馬は友人たちより一足早く、ぐんぐんと身長が伸び始めた。
もともと一馬が通っていたクラブは技量よりも礼を重んじていた。そこでは学年で一番高くなった背丈と長いリーチは一馬にとって強い武器となった。
六年生になった初夏、参加していた市の団体戦にでちょっとしたトラブルがあった。
一馬たちのチームは初戦敗退。後は試合見学で、お昼どきにくつろいでていた時だった。
「背の高いやつ以外は弱すぎるんじゃねえの」
「きれいに負ける練習してたんだよ、きっと」
早々と敗退した一馬たちに向かって、一回戦の相手チームからあざけり声が聞こえてきた。
不作法な言葉に腹を立てた一馬は口げんかだけでは済まず、手までも出してしまう。すぐに大人が止めたことだが、相手は口を切っていた。
結果、一馬はこっぴどくしかられる羽目となる。武道を学ぶものが暴力などもってのほかだった。
一馬の心もずいぶんしおれることとなった。
手を出したものを罰するのは当然だった。それを怒られる分には一馬も納得ができるものだった。
つらい気持ちには別の理由があった。
かばったはずの仲間からは理解の言葉はまるで無かったのだ。
――別にいいじゃん。
仲間の返事が一馬を打った。
「おまえだって馬鹿にされた悔しいんだろ」
こんな風に一馬は仲間に問いかけたのだ。しかし返ってきた答えはそれだった。
おまえがそこまで怒る必要なんかない、とまで言われた。
言葉を聞いた一馬は、ずいぶんいたたまれない気持ちになってしまった。自分がやった行為がまるで無意味なことと思えた。
やり過ぎたとは言え、仲間を思ってのけんかはそれほど重い罪なのだろうか。
どうやら急速に強くなりだした一馬に対しては、周囲のものはいい気がしていなかったようだ。
そして一馬自身もきっと増長していたのだろう。
そのことが原因で周りともぎくしゃくしだして、事件から一月も経たずに一馬はクラブをやめてしまった。
もう三年以上も昔のことだった。
だが身体を動かす楽しみを覚えた一馬は武道やスポーツ自体は嫌いにはなれなかった。
一馬のもともとの運動神経も悪いものではなかったのだ。その甲斐あって中学のクラス対抗試合などには積極的に呼ばれたりもした。とはいえ一馬自身はなにか一つの部活動に所属しようという気にはまったくなれなかった。
運動系のクラブからは縁遠くなり、いまでは一馬はすっかりインドア派の見本になってしまった。
こんなことで昔を思い出すのは、からだの奥にいまでもとげが刺さったっている気配があるからなのか。
――まっ、風邪で気持ちまで弱ってるだけだろうな。
そう一馬は自嘲すると、まだ子供っぽさが残る顔とは対照的な背中を折り曲げよろよろとキッチンへと向かっていった。
目的地についた一馬は、深皿とシリアルの箱を棚から取り出す。
妙に軽い音がするのは気のせいであって欲しい。
祈るような気持ちの一馬は、深皿に向けた箱を思い切って逆さまにしてみた。
「うわっ、こんだけしか無いのかよ。……どうしようもねえな」
たっぷり入れても大丈夫なはずの深皿には、シリアルの薄い層しか出来ていなかった。
用意された器が大きなぶん余計に寂しいものに感じられる。
おととい買っておいたビックリプリンと一リットルパックの牛乳を冷蔵庫から取り出すと、申し訳程度に盛られたシリアルを白い海に沈めてゆく。
せめてもの栄養を牛乳で補充しようと、深皿のふちまでたひたにしてみた。
「母さんよ、こっちは病人なんだからさ、もうちょっと食えるもんがあってもいいだろうに」
もちろん名前を呼ばれた母親などこにもいない。父親とともにとっくに出勤しているからだった。
時刻は午前十一時四十分。
学校には今日はもう風邪で休むとの連絡を、母親が入れてあった。
体力を回復させるのには心許ない食事を取りながら、一馬はいまだ満足感が足りない腹具合をどうしようかと考えていた。
ふらつきながらでもコンビニで何かを買ってくることが頭に浮かんだが、財布の中身がずいぶんと心許ないことを思いだした。
小遣いがもらえる月末までにはもう少し日にちがある。
先週ちょっとだけ、いやほんの少し散財が過ぎたからだった。
春から始まった新作アニメのヒロインに刺激された一馬は、気がついたらコミックスの原作をまとめてそろえてしまっていた。
(あのプロポーションは反則っぽいし。……仕方ないよな)
身体の一部が揺れることに重大な価値が見いだせるかどうかは意見が別れることにしても、少々のせられやすいものがこの少年にはあるのかも知れない。
まあ、得てして若者とはそういうものだと言えそうだが。
――高校生にもなったのだから、アルバイトでもして自分が使うお金くらい自分で用意しなさいよ。
母親のきつい表情が頭の中をよぎる。思いだしたことで気分がもやもやとしてきた。
「ストレスは健康をそこねるんだぜ」
こんなことで風邪がひどくなったらどうしようもないなと、一馬は耳の奥に残っている声を遠くに追いやった。
わざわざ着替えて出かけるという前向きな気分などすっかり無くなってしまった。
「働かざる者食うべからず……だっけ。まっ、そのうち何かするんじゃないかな」
まるで他人事のように一馬はつぶやく。
夕方になって親が帰ってきたら少しはマシなものにありつけるだろうと、切ない胃袋をなだめながらこのまま夜まで我慢することにした。
どうせ眠ってしまえば空腹なんて関係ないんだ、と無理にでもに自分自身を納得させ、一馬は自室に向かってのそのそとと歩き出した。
けだるげにベッドに潜り込んだ一馬は、うつぶせになって枕元のスマートフォンに手を伸ばす。
画面をタップして無料ゲームを起動してみた。
からだ全体にはひどい倦怠感があるのだが、何時間もずっと寝続けられるわけはない。眠くなるまでの時間を何かでつぶさなければ退屈で頭がおかしくなるだろう。
「あー、だめだわ。無理」
熱のせいかどうにも集中力が続かない。
ホーム画面に戻って時刻を確認すると、まだ学校でも昼休みなのだと気づいた。もうみんな昼事を終えた頃だろう。
友人の誰かがアプリで連絡してこないかと、枕にあごを乗せて待ってみた。
しかし期待して見つめる画面には何の通知も表れない。
「……こっちが話したいと思うときには連絡が来ないよなあ」
決して嫌われているわけではないはずなのだが、四六時中一緒に過ごすような友人は一馬にはいなかった。
春から高校に入学してもう一ヶ月近くも経つといのに、親しく話す人数はいっこうに増えず、一馬の交友関係は中学時代からほとんど変わっていなかった。
来るあてのない連絡に待ちくたびれた一馬は、ブラウザを立ち上げお気に入りの小説サイトを閲覧することにした。
チート、バトル、転生、異世界、ファンタジー、魔法など、いつものキーワードでまだ読んでない作品を探してみる。
大人からすれば現実逃避の見本ような単語だが、別に一馬はいまの現実に大きな不満があるわけではなかった。
ただ「もうちょっと良くてもいいんじゃないのかな」という思いは、いつも感じていた。
特別な力が手に入ってちょっと出かけて行って異世界での活躍ができるというのならば、一馬はふたつ返事で答えるだろう。
しかし本当に現実を捨ててまでそんな冒険がしたいのかと問われれば、一馬は答えに詰まってしまう。ありていに言って充実感とか刺激が欲しいだけともいえる。となりの芝生が、などというのと同じようなものだ。
まあ何か物足りないような気がするのは本当のことなのだが。
だから物語の中はで何でもできる力のあるキャラクターを思い浮かべることで、足りない気持ちを補っていた。
小説を読み進めているとなぜか頭の上に重さを感じる。
「……白玉、またおまえかよ」
部屋の扉を閉めていなかったせいか、肘をついて枕を抱える一馬の頭に一匹の猫が乗っかっていた。
三つの白い斑点が真っ黒な毛並みの背中に浮くことから付いた名前は、小柄な体つきによく似合っていた。
家に来て半年になるこの子猫は両親が共通の友人から譲り受けたものだ。
ふたりとも猫が大好きで、実の息子よりも猫の方が大事じゃないのかと感じたりもした。先代の猫がいたときもそうだったが、こいつが家に来てからは特にひどい気がする。
しかし一馬の気持ちとは裏腹になぜだか子猫からはなつかれた。勉強やゲームをしているとしょっちゅう邪魔をしにやって来る悪い娘だった。
白玉は自分のおなかの下にあるものが普段の温度より高いことを嫌ったのか、そのまま体を前方へと傾けると、一馬の顔に覆い被さるように滑り降りてきた。
「……おまえ、それだと画面が見えねえ」
一馬はあきらめてスマートフォンを手放すと、猫の相手をすることにした。
「38・5℃だと。死ねる、マジ死ねる」
二時間近くも寝間着のまま白玉と遊んでいたせいで、いつの間にか一馬の体温はずいぶんと上がっていた。
「……さむい」
一馬は布団にくるまって発熱からくる悪寒を何とかしてしのごうとした。
熱のせいで身体中のあちこちが痛い。息を吐き出すと普段とはまるで違う、暖かなものが吐き出された。
手足を丸めて横になっている一馬は、なぜか自分のからだから大事な何かが流れ出ていくような気がしていた。一馬は自分の一部が溶けてどこかに吸い取られているような不思議な感覚を味わっていた。
現実とは違うどこかにずっと引っ張られていく、という異様な感覚で身体中が満たされると、こんどは自分の意識が徐々に薄れていく気がしていた。
――俺、死ぬのかな
心配したかのような白玉は必死になって一馬に呼びかけ、ほてった顔をなめ続けた。
しかし一馬はそれに答える気力もなくそのまま意識を失ってしまった。
いつのまにか一馬は歩いていた。
進む行き先もそれ以外の周囲も霧の中にあるかのようで、まったく見通せなかった。
しかしなぜだか歩く道が足下に続いていることが一馬には分かっていたし、目的地までは進み続けなければならないことも知っていた。
熱のせいか体がふらついている。
「……選ばれたあなたはここで大きな力の鋳型としての……」
後ろから白玉の声がする。
振り向いてもいないのに自分には声が白玉のものだと分かり、猫がしゃべることに何の疑問も抱かなかった。
「……役割をしっかりと認識してバランスを修正する必要が……」
――あああ、うるさい。頭にひびくだろうが。
からだが沈み込みそうなほど重たく感じられる。
しかし自分の義務は果たさねばならなかった。
すでに一馬は歩くので精一杯だった。
「……あなたは世界の力を自在に扱うことが……」
一馬は両手で熱くほてった二つの耳をふさぐと、ふらつきながら歩き続けた。
「…… …… ……」
――もう、早く終わってくれよ!
一馬は声から逃げ出すかのように体を前のめりにすると、おぼつかない足取りで転げそうになりながらも道を進んでいった。
遠い彼方に光を感じる。
――あそこまで行けば……
必死になった一馬は足を動かす機械となった。
そして……。
長い間歩き続けた一馬はようやく目的地に到着した。