プロローグ
雲で陰った陽光の下には、耳を割らんばかりの怒号があふれていた
断末魔の悲鳴や苦しみの声を上げているのはすべて人間だった。
闇そっくりの生き物が持つ剣が、逃げまとう男たちの身体を切り刻んでいく。
ひどい負け戦だった。
少女はふらふらになりながらも戦場を歩いていた。
足にはずっと絶望がからみついていた。
それが自分の歩みを鈍らせていることなど、とうに知っていた。
だが何か一つでも自分にできることが残ってはいないのかと、死者の無念が溶け込んだ空気をかき分けていた。
少女は星道儀官だった。
その身を通じて天星の力を人々に分け与えることができた。
力は戦場において幾人もの生命を支えることができるものだった。
――数多くの命を支えることができる。
少女はそのためにこの場所に来たはずだった。
自分の持つ力が人々の役に立つのはうれしかったし、ほんの少し前まではそれが出来るものだと思っていた。
しかし今となっては無力感が満ちた真っ暗な淵に、のどもとまで浸かっているかのようだった。
――あの日一晩中天星に祈ったことに、何か少しでも意味はあったのだろうか。
きびしい敗走の知らせを聞いたあの日。
戦場に行った半数近い兵士と二人の魔導師を命を失い、先陣を切った伯爵までもが瀕死の重傷で倒れたあの日の夜。
少女はいてもたってもいられなくなり、救い手をもたらすという古い魔法に身をゆだねたのだ。
途切れることのない集中が支える呪文の詠唱、そして長い祈り。
みずからが受ける天星の力、心のすべてをその魔法に注ぎ込んだ。
少女は一心に願い、夜を徹して祈りを続けた。
だが一縷の望みをかけたその魔法は、すべてを出し切った心に何ものも与えてはくれなかった。
ならばせめて自分の中にある「わざ」を信じて。
兵士の命を護りきろうと戦場にやって来たというのに――。
初陣は少女を残酷なまでに切り刻んだ。
少女が出来ることなど、戦場ではほんのわずかなことでしか無かったのだ。
手のひらから砂がこぼれ落ちるかのように、守りきれない命が現実からすべり落ちていった。
いったい自分には何ができたのだろうか。
悲しみに目隠しをされ暗闇の中を泳ぐかのように、少女はよろよろと歩をすすめた。
突如、耳をつんざく轟音とともに少女のすぐ近くで火球が爆発した。
少女の身体は爆風で大きく投げ飛ばさる。
固い地面が無力なその身をひどく打ち付けた。
激突の痛みにもがきながら伸ばした少女の手が、やわらかな何かに触れた。
――まだ、あたたかい。
ついさっきまでは血が通っていたはずの、人の形をした残骸だった。
自分が守れなかったものがそこにあった。
「……ごめんなさい……」
少女はのろのろと身を起こすと、名も知らぬ兵士の身体を抱き寄せた。
涙など何の役にも立たないことなど分かっていた。
だがほんの少し前まで一緒に戦っていたものの一部に触れると、心は簡単に割り切れるものではなかった。
悲しみでゆがむ少女の視界に、人を模した真っ黒な闇が映る。
足元には亡骸の手のように黒いなにかを引きずっていた。
真っ黒な手は幾人もの命を吸ってきた大きな剣を持っていた。
ゆっくりと頭を上げた少女はうつろな表情を暗い人影に向ける。
いまから自分の身に何が起こるのか理解できたが、ここからはもう一歩も動きたくなかった。
なにも出来ない自分の身を守ろうとはもはや思わなかった。
死を悟った少女に向かって、人間そっくりの黒い闇は冷徹な歩みを進めていった。
闇はこれまでと同じように、少女の前に表情のない黒い面を見せつける。
これから起こる死の事実と一緒で、情動などどこにもなかった。
そして手に持つ大剣を真上へと振り上げた。
少女は焦点が合わないかのような目で真っ黒な死神を見つめていた。
死神の剣は雲間からの陽光をはね返す。
鋼の輝きは少女のうつろな目を焼きつくそうとしていた。
だがそれは深い水底から見上げる太陽の光のように、少女にとってまるで現実感が無いものだった。
大男の姿をかたどった闇は凶刃を握る手にしっかりとした力を込めた。
――ちょうどその瞬間。
振り上げた剣の後ろで目を灼くほどの光が爆発した。
黒い男は構えた武器を手から取り落とすと、苦悶の声を真っ黒な口から漏らした。 生きながらえた少女の目にも正しい視力がやってくる。
のたうつ闇のはるかな後方で、大地と天とを結ぶ光の柱が見えだした。
さまざまに色を変えながら、きらめく光の粒子がはるかな天空から流れ落ちて来ていた。
落ちてきた光の破片は地表では輝きの奔流へと成り変わる。
それがまわりじゅうを輝きで満たしていった。
なんども色を変え続ける光の海が戦場すべてに広がってゆく。
、大地も、人も、影の生物も、あらゆるものが光で覆われていった。
戦場のそこいらじゅうで闇の悲鳴が飛び交っていた。
苦痛から逃れるために暗い生きものは、自分たちが出てきた闇の領域へとわれ先にかけ戻ってゆく。
同時に人間たちの安堵と喜びの声があちこちで上がっていた。
光の柱のきらめきが次第に勢いを弱めていく。
輝ける奔流の中心におぼろげな人影が見え始めると、少女は知らずのうちに駈けだしていた。
少女は自分にだけは何が起こったのかが分かっていた。
あの光の中心に誰が居るのか。
――願いはかなったのだ。