第四幕:影追い 後編
冷たい草の香り、湿った土の匂い。
私が凪を見失った日から、随分と季節は移り変わっていた。
竹林自体は季節に変わりなく、依然とその美しい碧さを茂らせている。しかし、足元は移り行く季節を表さずには居られない。
確か…あの時はまだ夏の初め、初夏よりはやや盛夏に近かったかもしれない。しかし、今は隆盛を誇った草は大人しくなり、秋の訪れを感じさせていた。
サク、と草を踏み分ける。
今、私が丁度立っている辺りに、あの時は凪の気配が残されていた。僅かな温もり、優しく甘い凪の香り…。
「凪…」
そっと指を触れてみる。
ヒヤリとした土の感触が伝わって来た。
分かっていたつもりだけれど、胸がチクリと痛む。
「ごめん」
私は一体、何を期待していたのだろうか?もうココには何も残っていないと、解っていた筈なのに。
膝から崩れ落ちるように、その場に横たわった。
ココに、凪が居た。
私は涙を堪えるため、胎児のように強く膝を抱えて丸くなる。
一段と強く感じる草の香りと土の匂いが鼻腔を刺激する。涙を堪えようとすればするほど、ソレは鼻の奥を締め付ける痛みに変わる。
「ねぇ…凪…。一体、何処に居るの?」
頬に触れる草がひんやりと、腫れたように傷む心を冷やす。
傍に居るのが当たり前だった。
出会えない事など、一度もなかった。
独りが…独りになる事が、こんなに辛いと云う事を私は忘れていた。
「…っつ…ふっ…」
まるで自分の一部を無理やり剥がされた様に、心も体も痛くてたまらない。息をすることすら、痛みになる。
「…うっ…く…」
その痛みに耐える為、強く強く、自分の体を抱きしめる。消えないように、どこかに行ってしまわない様に、凪にもう一度会うまで、自分を見失わないように…強く抱きしめる。
ザワ、ザワリ…。
風が嫌な感じを運んで来た。
覚えのある、とても…嫌な感じ。
耳の後ろの毛がチクチクと逆立つ。覚えのあるソレそれは酷く禍々しく、血の匂いと様々な怒りと憎しみを纏っている。
「キ、キ、キ。よぉう、懐かしい気配があるから誰かと思えば、チビじゃねぇか、え?」
ゾクっと全身が総毛立つ。
「キヒッ、なんだよ、ツレナイじゃねぇか、え?俺のコトを忘れちまったのか、え?昔はあん なに一緒につるんでたじゃねぇか、え?チビよぉ?キヒヒヒ!」
ネットリと絡みつく視線、耳障りの悪いシャガレ声。
「ムジナ…」
ゆっくりと体を起こし、声の方へと向き直る。
もう、二度と会うことはないと思っていた。
「キ、キ、キ、なんだ、ちゃぁあんと覚えていてくれてるじゃねぇか、え?チビ。ちょっと見ない間に、見違えちまったぜ、え?随分と、本当に、人間臭くなりやがって、え?キヒヒ」
私の視線の先に、ユラリと佇む人影があった。
丸い形のつばがある黒い帽子を被り、黒のロングコートの襟を立て、ポケットに両手を突っ込んでいる。帽子と襟の僅かな隙間から、明らかに人間とは異なる、鮫のように鋭い牙が並んでいる口元が見えた。
「ムジナ。貴方こそ、随分と様変わりしましたね」
「キ、キ、キ、この方が獲物が掛かり易いんでねぇキヒヒ。それでも、ココに辿り着くまで、随分と時間は掛かっちまったがねぇ…キヒヒ」
私はコイツが嫌いだ。
醜く、貪欲で、汚い。
「キ、キ、キ.おやおや、どうしたんだ、そんなに怖い顔をして、え?チビ。感動の再会じゃないか、え?」
ムジナにとって、自分以外は全て利用するだけの道具だ。その利用価値がなくなれば直ぐに消し去る。
そう…甘い言葉で相手を散々利用し尽くし、邪魔になれば心の赴くままに相手を嬲り、弄び、その悲痛な叫びを楽しんでから腹に収める。
そうやって、コイツは力を付けて来た。
私も以前、独りの寂しさに付け込まれ、その甘い言葉に踊らされてきた。
『キ、キ、キ、チビ、お前は自分の価値を分かっていない、え?チビ、お前にはその価値があるんだ、え?』
悔しさと情けなさで体が震える。忘れていた筈の怒りが甦る。
『キ、キ、キ、ほぅら、見てみな、え?綺麗な顔じゃないか、え?チビ、人間はお前のその顔に、価値を見出すのさ、キヒ。綺麗な顔、綺麗な声、キ、キ、キ、獲物の数はお前の価値の証しさ、キヒヒ』
その時の私は、自分の存在価値が欲しかった。自分の居る理由が欲しかった。…だから、私はそのムジナの言葉に心を引かれた。
ムジナの言う通りにすれば、きっと誰かに認められるのだと、信じてしまった
「キ、キ、キ、折角の懐かしい再会じゃないか、え?どうだ、もう一度組まないか、え?チビ。俺たちは、実にいい組み合わせだったよなぁ、え?チビ」
ポケットの右手を引き抜き、私へと差し伸べながらムジナは一歩、また一歩と近づいてくる。
胸がムカつく程の嫌悪感が、怒りが、私の姿を妖異へと近づける。
「止めろ!それ以上、近づくな!」
「キヒ?」
身内を駆け巡る禍々しい力が、消し去るべき獲物を探して荒れ狂う。
「それ以上、一歩でも近づいて見ろ…私は、躊躇わずお前を消す!」
「キ、キヒヒ、チビ、そう短絡的に物を捕らえるなよ、え?」
ムジナは顔色をサッと変え、素早く後ずさる。
「私は本気ですよ」
「キ、キ、キ、そうか、残念だ、え?また上手くやれると、思ったんだがなぁキヒヒ…」
ムジナは軽く飛び上がると、クルリと身を翻す。
「キ、キ、キ、実に残念だよ、え?チビ、お前は獲物と仲良しゴッコして、人間になったつもりか、え?」
私は一瞬、凪の顔が脳裏に浮かんで凍りついた。まさか…。
「…なら、チビ、お前が自分がどんな者か思い出させてやるとしようか、え?キヒヒ」
「ムジナ!まさか…」
かつてない怒りと恐怖がこみ上げる。体の震えが止まらない。
「キ、キ、キ、人間ってのは美味いよな、え?しかも、チビ、お前が心の底から欲しがっているなら、なお更だ、え?キヒヒヒ!」
「キサマ!!」
「キ、キ、キ、せいぜい、俺より早く見つけるんだな、え?チビよ!キヒヒヒ」
掴みかかろうとした私をムジナによって起こされた強風が阻む。強く渦を巻くように吹き付けるその風は、ムジナに利用されている妖異たちの気配が混ざり、ムジナ自身の気配を消す役割を持っていた。
「キヒヒ、楽しみだよ、え?チビ。キヒヒヒ…ヒャーハハハハ!」
「待て!ムジナぁ!!」
風に視覚と聴覚を塞がれ、ムジナの気配も掻き消えていく。
なんて事だ!
影のように張り付く私の過去が、凪を苦しめる事になる。
余りにも愕然とするその事実に、全身から痺れた様に力が抜け、ぐったりと地面に崩れ落ちた。
ムジナは私を苦しめるために凪を利用しようとしているのは明らかだ。
駄目だ、それだけは絶対に駄目だ!
そんな事は絶対にさせない。
私は凪を守る。
その為ならどんな事だってする。
して、みせる。
私は強く拳を握り締め、決意を胸に立ち上がった。