第三幕:香風
時無しの沼から戻った私は、竹林の中で意識を取り戻した。
葉のざわめき、竹の軋む音…。
傍を吹き抜ける風は私を呼ぶ凪の声と、甘く優しい香りを運んで来る。
凪。
風が止む様を表す名前を持つ、その君の存在を吹き抜ける風が私に伝える。
「行かなくちゃ…」
凪が、傍に居る。
そう思うだけで…感じるだけで…肌が、心がざわめく。
「凪…なぎ」
急ごうとすればするほど、足はもつれ、巧く前に進む事が出来ない。逸る心が私から判断力と観察力を奪っていく。
早く、早く、早く会いたい。会って凪を抱きしめたい。その温もりに触れたい。
「なぎ、凪、凪」
凪は私と別れた後、新たに女の腹に宿る。大体、その女は凪を欲しいと思っていない、子を欲しいと思っていない。彼女等は子を産み落とし、間もなくその子を人目に付かぬところに捨てる。そして、私はその子を拾い、凪と名付けて育てる。
その赤子は傍から見ればどんなに不幸な事だろう。
産みの親に捨てられ、育ての親に殺される。
私は凪にとんでもない不幸を背負わせて居る。それでも凪は私を一度も責めたりしない。それどころか、私の手をとって共に歩んでくれる。
凪、私の大切な存在。
私は凪に会えなければどうなってしまうのだろう?凪が居なくなってしまったら…?
あまりにも恐ろしい考えに私はゾッとした。
そんなはずは無い。
血の気がどんどんと引いていく。そんなはずは無い。今まで何度も、何度も、気の遠くなるような時間を繰り返し過ごしてきた。同じように過ごしてきた。
それでも…。
今回は何故か何処かが少し違う。
理由は解らない。解らないけど…何処かが違うと感じる。
息が苦しい。
凪の方に近づけば近づくほど、久しく感じた事の無い違和感を感じる。冷や汗が頬を伝う。
「ハァ…ハァ……」
何だろうコレは?
言いようの無い威圧感。遥か過去に何度も出会ったことのある嫌悪感。
凪の気配が消えていく。凪の声が、香りが消えていく。
「なんで…?」
私は不自然な動きをするカラクリ人形のようにギリギリと関節を無理やり動かし、半ば這うように前に進む。
この感じは、この嫌な感じは…。
そうだ、この肌が粟立つ嫌な感じは…近くに退魔師が居る証だ。
私は自分が出来る極限のギリギリまで気配を消した。いま見つかれば、きっと私は消されてしまう。凪に一度も会えないまま、消されてしまう。
それだけは嫌だ、絶対に嫌だ。
息を止めるようにじっとその場に身を潜め、退魔師がこの場を去るのを待った。
どの位の時が過ぎたのか、張り詰めた緊張は思いの他に私から精神力と体力を奪っていった。
その間の願いは唯一つ。
凪に会いたい、ただそれだけだった。
しかし、退魔師の気配が去った後、私が最も恐れていた事態が起きていた。まさか、そんな馬鹿な…。
慌てて凪の気配が感じられる場所に転がるように滑り込む。
「…そん…な…」
震える手でそっと地面を撫でてみる。微かに残る凪の香り、温もり。
ナギガイナイ。
ガクガクと膝から下が崩れ落ちる。まるで自分の体から全ての骨がなくなってしまったみたいだ。
「いやだ、そんな…嫌だ、凪、なぎぃぃぃ!!」
私は正常な判断力を失った。
頭が真っ白で何も考えられない。
凪の気配が残るこの場所から、草を分け、地面を這い、凪の名を呼びながら、指先が血で塗れるまで辺りを探し回った。
何処にも居ない。
居なくなってしまった、凪が消えてしまった。
「うぇぇっ…ひっく…ひっ…」
私は膝を抱えて座り込む。魂を引き裂かれるとこんな感じがするのではないだろうか。強く、強く、自分の体を抱え込む。
辺りはすっかりと闇に包まれていた。吹き抜ける風も、葉の音も、虫の音も何も無い静寂。更に深い闇が私を包む。
凪が、消えてしまった。
ナンデ?ドウシテ?
気配だけを残し、凪は私の指の間からするりと抜けるように消えてしまった。
会いたい、会いたい、会いたい…。
凪、キミは一体何処に消えてしまったの?
現実を受け止められない私は、夜の闇より更に深い闇の中に逃げ込んでいく。誰か助けて、誰か…凪…。