幕間・蛙の翁
わしは気の遠くなる程の長い間を此処で過ごしてきた。
その中で気付いた事が二、三ある。
まず一つは、ここに来る妖異どもは基本的に三種類だと云う事じゃ。己が思いが強すぎたために妖異と変化する者、他の他者の思いが強すぎたために妖異とならざるおえなかった者、滅多に居ないが…わしの様に時に忘れられ何時しか妖異と化してしまった者じゃ。
いずれも、妖異である事に変わりは無い。が、己で妖異と成ったものは基本的に性質が悪い。怨みつらみの塊が元の形を留めて居る事が多く、殆んどが他者に害を為に妖異となったようなものじゃ。人間や動物がこの分類には多いように思えるのぅ。
次に他者の思いによって成った者。これは、自分が何の為に意識を持ったのか判らず、混乱している事が多いようじゃ。だが、止む終えない場合のみ以外は他者への介入は殆んど行わないみたいじゃな。人の手によって創られ、魂を込められた物などが基本的にこの分類に入ると云えるじゃろう。
最後は時間がゆっくりと掛けられる為、混乱もなく、ただ淡々と己が運命を静かに受け止める者たちじゃ。この分類には人以外が殆んど入るようじゃ。
じゃが…いずれにしろ、彼らは後に選択をすることになるのぅ。
この時無しの沼を出て行くか、ここに留まるのかの二択じゃ。
大体は皆、一度は出て行く。何処かに自分を受け入れてくれる所があるのではないかと、もしくは、己の思いを遂げる為にじゃ。
わしは長い間、ずっとそんな光景を見てきた。
それこそ嫌になるほど沢山じゃ。その結果も殆んど知っておる。
じゃが…一度だけわしの知っておるどの事例とも違っておる者がおった。
それが京じゃ。何故か京だけは最初からどこか違っておった。
初めてわしが京に会った当時は、わしも妖異に成りたてで、己の意識が確立し始めた頃の事じゃったが、あの時の事だけは鮮明に覚えておる。
どこを見たとしても、明らかに人の形をした…元は人であったじゃろう妖異。
じゃが…言葉を知らない、記憶が無い。
妖異に成る以前が生き物であるならば、その最後の姿がそのまま後の己の姿となると云う。 じゃがそれが本当ならば…この者は一体、何処で、誰に、何をされたのじゃろうか?
元が蛙であったわしには、その有様から思いつく事など出来ようがなかった。それ程、京の姿は痛々しく、見るに耐えられるものではなかったのじゃ。
泥と血で塗れたその姿は、ザンバラに乱れた髪が顔を隠すように垂れ下がり、着物も体も繋がっておるのが不思議な程にボロボロに破れておる。片足などはあらぬ方向を向き、引きずられておった。
じゃが、それ程の有様でありながら、髪の間から覗く目は別の強い意志を湛える様に異常にギラギラと輝き、背筋が凍りつくほどに恐ろしい妖気を醸し出しておった。
わしは京以外のこんな妖異に出会った事は無い。
京は己の思いと、他者の思いによって生まれた殊に特殊な妖異だったのじゃ。
体の皮膚を突き破ってしまいそうな、狂おしいまでの激しい苦しみや憎しみ…そして、悲しみ。それが二人分、複雑に絡み合い、重なり合って妖異になっておった。
わしは京を見た時、情けなくも体が震え、同じ妖異だと云うのに頤がガチガチと小刻みに鳴っておった。
恐ろしい。
じゃがどうしても放って置けなかった。
わしは、京に妖異ならではの体の治し方や整え方を教え、意志の伝え方を教えた。
数日後には時無しの沼の外に、通常の時間の次元へと連れ出しておった。
それから数年後。
京は独りで行動するようになりおった。
わしは、京を残し時無しの沼に戻ってきた。
以来…京がそこで何をしていたのか、どんな者に出会い、影響を受けたのかは知らぬ。わしが知っているのは、京がその名を与えてくれた者と別れた後、この場所に戻ってきた事じゃ。
雰囲気が穏やかになっておった。表情が出ておった。笑顔を見せる様になっておった。
わしは京を外に出して良かったと思ったのじゃ。
わしら妖異は本来ならば忌み嫌われる存在でしか他ならない。じゃがそれでも、穏やかに他の存在たちと暮らしたいと思っている妖異たちも存在しておる。
わしはこの時無しの沼でずうっと考えておった。
わしらは何故、存在するのかと。
何故、他の者たちと違う存在になったのかと。
しかし、未だその答えは見つからない。
わしは、京を見て考える。
相容れぬ者とは本当に永遠にそのままであるのかと。
変わる事は出来ぬのかと。
わしは永きに渡って考えておる。
その答えはいずれ出るのじゃろうか?
きっと、その答えが出た時にわしは元の蛙に戻って死ぬ事が出来るじゃろう。
わしが再び時無しの沼を出るときは、きっとその時に違いない。
わしはそう…思っておる。