第十三幕:終劇
ひゅうん。
空間を切り裂き、芳華のワイヤーが唸りを上げてムジナの首に巻きつく。
「京から離れなさい!!流石のアンタでも、首を落とされたら…どうかしらね?」
力を込めてワイヤーを引く芳華に対し、ニタリとムジナの口元が厭らしく歪む。
「キ、キ、キ、オンナ、お前は後回しだ。ヒャハハ!残念だったな、俺は好物を後に取って置くタイプなんだよ、え?キヒ!」
フワリと音もなく、無数の空気の刃物が芳華のワイヤーを切り落とし、スルリと器用に方向を変えて芳華たちへと襲い掛かった。
「きゃ!!」
力を込めてワイヤーを握っていた芳華はバランスを崩し、凪へ覆いかぶさるように倒れ込んだ。今、攻撃を受ければひとたまりもない事は誰の目にも明らかだ。
「やめろぉぉぉ!!!」
私は声を限りに叫ぶ。
「ヒャーハハハハ!!」
ムジナの高笑いが響き、続いて衣類や肌が切り裂かれる音が響いた。
飛び散る水音が生々しく、撫で上げる様に背筋を凍らせる。
「くっ……あ……」
低い呻き声。
「幸人くん!!バカ!アナタ、一体…!!」
芳華の悲鳴が聞こえた。
「ぼ、僕だって、役に……くっ…!」
幸人くんが凪と芳華、二人を両腕に掻き抱き、己の身を盾としてムジナの風の刃物・空刃より守っていた。その背中は鋭い刃物で切り刻まれ、赤く染まっている。
「役にって…バカよ!!こんな…!」
「うるさい!僕にだって、これくらいは、出来る!!出来るんだよ!!僕には那岐や仙道さんの様には何も出来ない、でも!!」
これくらいは、出来るんだ。
そう言いながらも、幸人くんの背中は私の目から見ても明らかに震えていた。
彼にとっては精一杯の行動。自分の身を犠牲にしてでしか、何かを守る事が出来ない。
それはとても悲しい事。
けれど、それも強さだ。
「幸人…くん……」
「京さん、ソイツを貴方は倒せるんでしょう?なら、あの、消えたあの人分も…!!」
僕はまだ、二人を守れるから、早く。
言葉にならない心の声。それでも、私にはしっかり伝わった。
私は呼吸を整え、すべき事を迅速に処理する。
今までやった事がないので、出来るか自信はなかった。だが、試す価値はある。
両腕を同時に修復しながら、ムジナの足下で腹を上にするよう態勢を変え、足で回転する勢いを付けるとムジナの腹へ左足を絡めて引き倒す。
しかし腕がない為、ムジナの体勢を少し崩すのみだが、私はそのままムジナの足元より転がり出ると、素早く身体を起こした。
この距離ならば、私の領域だ。ムジナの平衡感覚を崩す為、私はありったけの力を振り絞ってムジナへ投げつける。
「キヒ?」
すると、フラリと傾いたムジナの左目付近に、突然漆黒の点が現れた。
ぎゅるん。
ムジナの顔が不自然に歪み、点に収束していく。
まさか、これは……!!
「凪!駄目、止めて!!凪が壊れちゃう!!」
「…俺は…死なねぇよ……。こんな奴、直ぐに……」
「キ、キ、キ、キヒヒヒ!!生意気な餓鬼だな、え?お前、一体何モンだ?え?」
吸い込まれるムジナの姿。
しかしその足元は既に黒い液体となって形を失い、ついには蜥蜴の尻尾切りの様に首だけを残し、床へと逃れ出る。
ズズズ…そんな形容が似合う黒い液体の移動。
そこにムジナの顔が半分だけ色の付いた状態で浮かんでいる。
「キ、キ、キ、失った部分の材料、え、餓鬼。お前から補充するとするか、え、どうだ?キヒヒ!」
ムジナの黒い液体は細長く糸のように伸び、一息に距離を伸ばすと凪の首へと巻き付いた。
「あぐっ…!!」
「凪!!」
「キ、キ、キ、でも、こんなにちいせぇと、え?足りねぇか?キヒ!」
「凪ぃ!!」
私は素早く凪の傍へ駆け戻り、伸びたムジナの黒い液体を切り落とす。しかし、翁の掌の件もある。私は躊躇わず、その液体を己の体に吸収した。
身体の中に取り込んだそれは、這いずり回るナメクジの様な感触で酷く気持ちが悪い。
「凪…何で、こんな無茶を!!」
「ふん……。守られんのは性に合わねぇ……。それに、俺は…京を守る為だけに居るんだ」
先ほどの不安げな色をは失われ、何時もどおりの真っ直ぐで強い瞳で私を見上げる。有無を言わさぬ激しい想い。
私は改めて凪の強さを目の当たりにした。
凪は、ずるい。
私より遥かに強く、どんな時でも激しく私を惹き付けて止まない。
どんなに固く心を決めたとしても、凪の想いの前では太陽に照らされた雪の様に溶け出してしまう。
私は慌てて凪から目を逸らした。
駄目だ、今はムジナを片付ける事だけに集中しなくては。一度、強く瞼を閉じると、再び視線をムジナに戻す。
ザワザワと部屋の空気が振動を始めた。
「キ、キ、キ、チビ、ナメた真似してくれるじゃねぇか、え?キヒ!」
ムジナはいつの間にか元の姿に戻り、涼しげな顔で私たちから少し離れた所に立っている。
肌を撫でる空気の小波。
ムジナはこれを利用して私たちの行動を制御する気なのだろう。確かに、この中では芳華のワイヤーは勿論、凪の術も正確さを失う。
遠距離からの攻撃は無理だ。けれど、ムジナは一つ大事な事を見落としている。
ムジナにはまだ、私の力が効いている。
ならば、方法はただ一つ。
私は一息に油断しているムジナの胸元深くに潜り込んだ。
「ギ……!?」
そして、修復した両腕でムジナを押さえ込むと、そのままムジナの首元に喰らい付いた。
腹は減っていない。
しかし、液状になるムジナを形の有る物に閉じ込めなければ、何時まで経っても同じ事の繰り返しだ。
当然、消耗戦になればこちらの方が圧倒的に不利。
「ギ…ギ…チビ、キサマ、何を!」
再び液体になって逃げ出そうとするムジナを私は逃がさない様に、一筋も残さぬよう一気に飲み込んだ。
酷く不快だ。
ムジナは中から私を逆に喰おうと暴れている。
「芳華!!時間がない、早く…早く…ムジナを…私ごと消して!!早く!!」
吐き出しそうになる黒い液体。口を押さえて、無理矢理押さえ込む。
「早く!!!!」
呆然とした表情を芳華は素早く引き締め、胸元から一枚の札を取り出した。
「……分かったわ」
あの札は、いつか私が芳華に渡した物。
「止めろ、芳華!!一体、何を……!!」
札を見るなり、凪の顔色が変わる。
「何も。……ただ、私は約束を守るだけ…」
淡々と芳華は立ち上がり、辛い痛みを堪える表情で私へ歩み寄る。
「芳華!!まさか、その札!」
凪が崩れる膝を押して、芳華の腕へ絡みつく。
「京にそれを使うな!!止めろ!!」
「放しなさい!凪!!アナタなら、分かってる筈よ?」
「嫌だ!!お前に、京を消させるものか!!」
パァン。
鋭く響き渡る音。
「…いい加減にしなさい、凪。分かってる筈よ?アナタなら…ね」
無表情で冷たく言い放つ芳華。凪はそれを静かに受け止める。
「……ああ、分かってるさ!!だから、お前になんてやらせはしない。それは俺の役目だ!オレだけの!!……退けぇ!」
凪は私の下に跪いた。
「京。何度も言っているだろう?俺は…お前の願いを叶える為だけに居るんだ。言え、お前の願いは何だ?」
凪の痛くなる程の悲しい顔。
「私を…」
そんな顔をされると、私も悲しくなるよ……凪。
「私を……」
別の言葉を言いたくなる。
もっともっと凪の傍に居たい。
「…消して。私の最後の我が儘。私は凪のお陰でこんなにも長い間、人として生きる事が出来た。だからこのまま、私が私で居るうちに……お願い」
凪は無言で頷いた。
腹の中で暴れるムジナは、次第に私を侵食し始める。
「早く…もう、抑えられなくなる……」
「分かった」
凪は芳華から札を受け取り、もう一つ何かを受け取った。そして、右手で私の左掌に指を絡めると、微笑んだ。
「京、お前が行くところなら、俺はドコにでも行く。……一緒に、行こう」
「凪……」
涙が溢れた。
凪は私の掌と自分の掌を芳華に貰ったワイヤーでしっかり結び付ける。
「凪、ありがとう」
私は凪の小さな胸に額を押し付けた。暖かな鼓動がしっかりと優しく伝わってくる。
凪は呪を唱え、印を切る。
ありがとう凪。
私は幸せだった。
人間として凪の傍で暮らした時間、とても幸せで、幸せで、幸せで…………。
だから、凪……今度は凪が幸せになって。
私はもう十分、素敵な夢を見る事が出来た。そして、何よりも最後を凪の腕の中で迎える事が出来る。それでいい。私の夢は、幸せなまま終える事が出来る。
凪が今まで別れ際に言ってくれていた最後の言葉。
それを今度は私が。
「……愛してる。愛してるよ、凪」
私は凪の掌と繋がっているワイヤーを切り捨てた。
ここから先には凪を連れては行けない。
行くのは私とムジナだけ。
夢はいつか終わる。
でも、満たされたこの気持ちのままで終えるなら悪くない。
凪、芳華、みんな…ありがとう。
さようなら、凪。
痛みも何もない、目が眩む光に包まれて次第に薄れていく意識。けれど、私の目には最後まで凪の輝く笑顔だけが見えていた。もし……もう一度だけ願いが叶うなら、私は凪と…………。
いよいよ、次回で最終話になります。どうぞ、今しばらくお付き合い下さい。