第十二幕:殉難
強い、強い、意思の力。
私にはない、光。
交わる事のない、光と闇。
背中合わせの存在。
強く惹かれるのは、その所為なのだろうか?
初めてあの人に会った時に感じた、震える程の怖さ。初めて凪に逢った時に感じた、本能的な恐れ。
そう……それは、今までの自分を失う怖さ。未知の感情に対する恐れ。
『私はきっと、壊される』
変わる事が怖かった。受け入れる事が、恐ろしかった。
けれど、私は変わる事を求めた。受け入れる喜びを知った。
だから、今度も私は今の私を受け入れよう。
鬼である……これも私なのだから……。
「京……」
凪の瞳が悲しみに染まっている。僅かに残った私の心がチクリと痛む。
「凪、ごめん。……私は……」
目を瞑り、大きく深呼吸をする。揺らがない、揺らいだら駄目だ。私も凪の様に強くならなくては。
「……私は、鬼だ」
口の中に、言い様のない苦さが広がる。
「これで、もう二度と戻れない。私は、鬼なんだよ、凪」
目頭に違和感がこみ上がる。不思議に思い、触れてみると、それは凍りついたと思った涙だった。
「違う……!止めろ、止めろ、京!止めてくれ!!お前の口からそんな言葉、聴きたくない!!」
耳を塞ぎ、凪は苦しげに眉を顰める。しかし、私はそっと凪のその手を取り、ゆっくりと耳から離す。
「凪、これが現実なんだよ。私たちの長い夢はもう終わり。夢は何時か終わるんだよ……」
「嫌だ!嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!!」
「凪……」
「嫌だ!!俺はそんな事、認めない!京は京だ!!鬼じゃない!!お前は鬼じゃない…!!」
「…………」
言葉が見つからない。
どうしたら、いい?
私はギリッと唇を噛み締めた。出来ればこんな事はしたくない。でも、しなければ凪は私の為にムジナの前へ飛び出してしまう。
「凪……」
まだ凪は子供だ。どんなに潜在的な能力があろうとも、その器はまだまだ未完成。今、無理な力を掛ければ直ぐにでも粉々に砕け散ってしまう。
私は凪の幼く、丸みの残った頬へ指を滑らせる。あと数年もすれば、男らしく精悍な顔立ちになるだろう。
しかしその時、凪の隣に居るのは……私では、ない。
「凪、凪、大好きだよ、凪……」
「きょ……」
私は凪の唇に自分の唇を重ね、少しだけ…ほんの少し、凪が動けなくなる位の精気を吸った。
ガクリと凪の身体から力が抜ける。
「なに…を…?きょ…う……」
信じられないと云った面持ちで、凪は私を見つめる。私は無言で微笑む。
「芳華、凪をお願い」
「分かったわ。……でも…」
本当に、良いの?芳華の目がそう言っていた。
良いのかって?
そんな事、良いも悪いもある訳がない。
私はゆっくりと首を縦に振る。芳華はそれ以上、何も言わなかった。
これで、良い。
「キ、キ、キ、よくもまぁ…飽きもせずに、キヒヒ。どうせ、お前らはみぃんな俺が喰らうんだよ!待ってやったんだ、せいぜい、俺を楽しませるんだな!え、チビ。キヒヒヒ!」
ゾロリと鋭く並んだ歯の隙間から、蛇を思わせるムジナの舌がベロリと自身の口を舐め上げた。
「キヒヒ!!まずは足をもぐか?え、チビ?それとも腕がいいか?キヒヒ…ヒャーハッハッハ!!」
ムジナはさも楽しげに身体を半分に折って笑い転げる。
その姿を見ながら、私は内心ほくそ笑んだ。
私は知っている。
ムジナは私の顔に決して傷を付けない事を。
私の首から上だけは、決して奴は傷を付けない。何故なら、奴が最も欲しがっているのは私の顔だからだ。
だが、逆にそれは私にとって好都合。
最悪でも首から上さえ残っていれば、私の計画は必ず成功する。
「さぁ……サッサと始めましょうか、ムジナ。あんまり遊んでいると、思わぬ相手に噛み付かれますよ?」
「キ、キ、キ、随分と余裕だな、え?チビ。キヒヒ、それともジジイが死んだ悲しみって奴で、頭がイカレたか?え、チビ。キヒヒヒ!!」
「さぁ?……そう思うのなら、試してみればいいでしょう?」
ムジナと話をしながら、少しずつ間合いを詰める。ムジナは卑怯者ではあるが、馬鹿ではない。
過去に一度、ムジナは私に足元を掬われている。だとするならば、奴がそれを忘れる筈がない。
私の能力は相手の視覚、もしくは平行の感覚を狂わす事。相手によってその効果はまちまちだ。以前の経験からすると、ムジナは平行感覚を失うらしい。
だが、私のこの力はある一定の距離まで近付かなければ効果を発揮しない。
そう、今の私とムジナの距離では使う事が出来ない。ムジナはそれを知っている。
「キ、キ、キ、どうした?え、チビ。早くしろよ、え?キヒヒ。なんなら、俺が先にお前を細かく刻んでやろうか、え?チビ。キヒヒ!」
どちらかが一歩進めば、どちらかが下がる。
ムジナはわざとまだ私に攻撃を仕掛けて来ない。圧倒的な自信がそうさせているのだろう。 コイツにはいつでも勝てる、だから、どう苦しめようか?そんな言葉が聞こえてくる。
ジリジリと肌が疼く緊張感。
距離を縮めるには一気に懐に潜り込むのが一番だろう。だが、それではムジナの胃袋へ自ら飛び込むのと同じ事だ。
さて、どうする?
周囲に視線を彷徨わせる。ココは言わば芳華の縄張りだ。ならば……もしかしたら?
ふ、と視線をムジナに気付かれない様に芳華の顔へと向ける。
芳華は口元を微かに三日月形へ歪めた。
間違いない。
私は確信を得た。芳華はここに何かの仕掛けをしている。恐らく、このままムジナを後ろに下がらせれば、何かが発動する。
「キ、キ、キ、どうした、え?チビ。キヒヒヒ」
あと…一、二、三。
ぴぃぃん。
微かに響くワイヤーの切れる音。
「……キ?」
事態を把握できないムジナは、電気が走る様に身体を一瞬硬直させた後、そのままガクリと膝を付いた。すると、そのムジナ目掛けて斜め上方より、呪の篭った芳華特製の針が無数に降り注ぐ。
「……キ…ギィヤァァァ!!!」
ムジナは顔面を両手で押さえ、引き攣った咆哮を上げた。針の刺さった所からムジナの表面がズルズルと溶け出していく。
「グオォォォ……!!」
苦しみ、のた打ち回るムジナへ、銀の光を放つ芳華のワイヤーが私の頬を掠める様に放たれた。そのまま一息にムジナの身体を絡め取るとギリギリと容赦なく食い込んでいく。
私はその間、素早くムジナの傍へと滑り込む。感覚を狂わせても、目が見えればそれだけまだ危険だ。もがき、ワイヤーを掻き毟るムジナの目を私は容赦なく潰した。
ゴポリ、潰されたそこから黒い液体が溢れ出す。液はそのまま私の手を伝い、腕を汚した。
「やだ、何、あれ……!」
芳華の驚きに満ちた呟きが私の耳に届いた。私はゆっくりと芳華の視線の先を追う。すると、ワイヤーに絡め取られていた筈のムジナの身体は、ゆっくりと黒い液体となって流れ出していた。
食い込むワイヤーの隙間から己の表面を残し……まるで蛹が孵化する如く元の姿で現れる。
そして私の腕に絡み付いた液体は、ゆっくりとムジナの腕へと変化していく。
「キ、キ、キ、残念だったなぁ、え、チビ。言っただろう?俺は強ぇえんだよ。キヒヒ!」
「う…ぐ、あぁぁ!!」
立場が一気に逆転した。ムジナの腕は私の腕をそのまま捻り上げ、肘を逆関節の方向へ持ち上げる。ぴんと肘が伸び、己の体重でミシリと悲鳴を上げる。
「キ、キ、キ、このまま、折ってやろうか?え、チビ。それとも……」
ヒュウン。
私の左肩の付け根を風が唸りを上げて通り過ぎた。身体が平行を欠き、右へ一気に傾く。
一瞬、遅れて訪れる激痛。
「あ……あぁぁぁ!!!」
左腕が肩ごとそっくりとムジナに持っていかれた。切り落とされた私の腕は、そのままムジナの腕と同化して吸収されていく。
「ハッ…ハァ……!」
私は左肩の止血を急いだ。すると、今度は右肩の付け根を風が通り過ぎる。
「……!!」
今度は悲鳴を上げる間もなく、持ち上げられていた私の身体は、急に支えを失った所為で左へ転がる様に音を立ててドサリと床へと落ちた。
「あ、ぐっ!!」
「キ、キ、キ、情けねぇな、え、チビ?さっきまでの威勢は何処に行ったんだ、え?キヒヒヒ!」
ムジナの足が私の右肩口を抑える様に踏み付け、身体を折り曲げて大きく傾げた顔を近づける。
「キ、キ、キ、所詮、お前が俺に勝とうなんざ、え?無理な話なんだよ、え、チビ!!ヒャーハハハ!」
部屋に大きくムジナの勝ち誇った高笑いが響き渡った。