第十一幕:決意
翁が微かに口を動かした。
『満足じゃ』と、声がなくその動きは言っていた。
「いやだ、いやだぁぁぁ!!翁ぁ!翁!うわぁぁぁ!!!」
頭が真っ白になる。
ガクリと地に膝を着いた翁の手を握った。ムジナの手を引き剥がそうと、無理だと頭では分かっているのに、翁とムジナの掌との間に指を差し込もうとした。
凪も芳華も私を止める事はしない。
翁の瞳は既に光を失い、見開いたままドロンと濁っている。
翁は言っていた。
『ふんしゅー…わしら妖異は魂が死なねば、幾らでも見てくれは繕えるもんじゃぁ』
ならば、まだ、翁は生きているのですか?
「翁!翁!翁!しっかりして!!いま、外すから!これ、この掌を外すから!!だから…!!」
がむしゃらに掌を引っ掻く。どこかに隙はあるはずだ、絶対、ある。それさえ見つければ…。
翁、私たちは、死んだらどうなるのですか?
「翁!頑張って!だって、貴方が教えてくれたじゃないですか!魂さえ死ななければ、我々妖異は幾らでも、再生できるって!!」
翁の体が色彩を失っていく。
翁、私たちは、どうなるのですか?
『ふんしゅー…それは、死なねば分からんじゃろうて』
翁の声は何時も柔らかく、暖かな陽だまりの水辺を思わせる。でも今は頭の中に響くその声でも、目の前にある冷たい死の闇を温める事は出来ない。
翁、翁、翁。
私たちは、一体、何処に行くのですか?
「翁ぁぁぁぁ!!!」
翁の顔はとても穏やかで、とても優しくて…。
擦れていく翁の輪郭。
どんなに掻き抱こうとしても翁の体をすり抜け、空を掴む私の手。
もう翁に触れる事も出来ない。
遂にはユラリと水蒸気が蒸発するように、翁の体は、消えた。
「………っ……っ……あ…ああああぁぁー!!!」
響き渡る私の悲鳴。
頭の毛がザワリと逆立つ。
「キ、キ、キ、ヒャハハハハ!!あの老いぼれ、あっさり消えやがった!!ヒャハハハ!ツマンネェ、つまらねぇぜ、ヒャーハハハハ!!」
ムジナの高笑いが、私の神経を逆撫でる。
「……黙れ…!」
「キ、キ、キ、なんだぁチビ。お前、一丁前に怒ってんのか?え?」
ムジナの声が、態度が、かつてない程の怒りへと私を追い込む。
「黙れ!黙れぇぇぇ!!!」
今の私には怒り以外、何も見えなかった。
「京!止めろ!!」
翁が、ムジナに、殺された。
荒れ狂う炎の様な激しいその怒りは私の身を焦がす。私はこの時、初めて心の底から妖異である事を望んで受け入れた。
「京―!!」
全身に力が漲っていく。
今まで、心の何処かで否定してきた妖異である自分。そして心の片隅で思い続けた人間である自分。
私はそれにしがみ付き、なんと愚かな行為を繰り返してきた事か。
ムジナを生かして置く訳には行かないのだ。私は過去に犯した過ちを、あの時にムジナを殺さなかった自分の罪を己の手で拭わなければならない。
「ムジナ…お前だけは、お前だけは!!絶対に!どんな事をしても、私がこの世から必ず消し去ってやる!!」
「キ、キ、キ、ヒャハハ!生意気にイキがってんじゃねぇぞ?え、チビが!」
私は自分の手の中にあるムジナの掌をグシャリと握りつぶした。ムジナは厭らしい口元を更に歪めて笑う。
「キ、キ、キ、今更お前が俺に勝とうなんざ、え?笑っちまうぜぇ!ヒャハハハ!!俺はなぁ、強ぇえんだよ!チビ、お前なんか、足元にも及ばないほどな!!ヒャーハハハ!」
そう、確かに私では勝てないかもしれない。でもねムジナ、私は初めから無傷でいようなんて思っていない。
お前は私を知らなさ過ぎる。
「せいぜい、今のうちに笑えばいいさ。もう一度だけ言う、私はお前だけはどんな事をしても、必ず消し去ってやる。それだけだ」
「キ、キ、キ、楽しみにしてるぜ、え、チビ。少しは俺を楽しませるんだな。キヒヒヒ!」
私はムジナの言葉を鼻を鳴らして一蹴する。そんな私の態度に不安を感じたのか、凪が私の肩を揺すった。
「京!止めろ!アイツは俺が何とかするから!!落ち着け!頼む、落ち着いてくれ!!」
普段の凪らしくない、今にも泣きそうな顔。何時もは強い意志の力で輝きに満ちているその瞳が、今は不安な色を隠せない。
ごめんね、凪。
やっと逢えたのに、ずっと一緒に居たかったのに…。私は初めて凪を裏切ろうとしている。約束を破ろうとしている。
ごめんね、凪。
翁を守れなかった分、全力で私は凪を守りたい。芳華を守りたい。
今までずっと、私の支えであった何よりも大切な凪との約束。
でも…それを破ってでも、私は凪と芳華を守りたい。
二人を守れるならば、例え神の矢に貫かれ未来永劫、地獄の業火に焼かれようとも構いはしない。
「…ハァァ」
吐き出す息が、懐かしい重たさと臭いに包まれる。牙が伸び、爪が伸び、身体中の筋肉が見る見る内に質量を増していく。骨格自体が変化する。
「京―!!」
凪の悲痛な叫びが、耳の奥で木魂する。胸がズキリと痛んだ。それでも、私は今度こそ逃げ出す訳には行かない。
私は意識を己の内側へ集中する。また元の姿に戻る日が来るとは…しかも、今は自分でも一度も見た事のない、本来の姿になろうとしている。
強い力は甘い果実。
一度味わえばその甘美な甘さに酔い、我を忘れる。だが…残念な事にもう私は力のみに酔う事はない。
力の甘さより、遥かに心を酔わせる存在を知ってしまったから。
その声は、姿は、力の存在を忘れさせて私の心を蕩かす。だから、今は敢えて目を瞑り耳を塞ごう。
リン…。
鈴の音が鳴る。
リン、リン、リン…。
手足に鈴の付いた輪が現れる。身に纏うのは裾長く、胸に一つの大きな椿の花が咲く漆黒の着物。
「…っはぁ」
頭には髪を掻き分けて角が二本、姿を現す。そして、今までずっと隠してきた体の傷跡が生々しく盛り上がり、桃色の蛇となって体中に走り回った。
全身に溢れんばかりに満ちる妖力。
それと同時に私の奥底に眠っていた狂気も目覚める。
身体が変化するにつれ、意外にも頭はハッキリと落ち着きを取り戻しつつあった。
昔の力を得ながら、まだ人として生きてきた記憶と心を持っている。
だが、残念な事にその心は一部を除いて凍り付き、感じられるのは極一部のみ。
でも今はそれで構わない。芳華を忘れず、大切な凪の事が想っていられる心が残っているなら、それで十分だ。
甦る力と狂気と共に…何故か一瞬チラリと脳裏を過ぎった遠い過去の記憶。
凪に似た強い光を宿す瞳をしていたあの人。あの人は一体誰だったのだろうか?
私に椿の花をくれると云ったあの人。何処か少し懐かしい匂いがしていたあの人。
思えば私は凪に初めて逢ったとき、もしかしたらその人を凪の中に無意識に見たのかも知れない。