幕間・蛙の翁ノ弐
不思議なもんじゃ、こんな老いぼれでも考えるより先に体が動きおった。
しかも誰かの盾になるなど、微塵も考えておらんかったのにのぉ。
それにじゃ、ふと思ってみれば、この世に生れ落ちた時、己の存在など気にもせんかった。
ただただ、生きる、それだけで良かったからのぅ。
それはなんと幸せな事であったじゃろうか。
思い出そうにも、もう既に記憶の底へ遠く霞んで、思い出すことすら出来やせん。
水の匂い、草の匂い、雨の匂い、仲間の匂い。…それら全て、わしが蛙であった頃の大切な思い出じゃと云うのに。
「ごふっ…」
ふむ、ムジナの手は思ったより力が強いようじゃ…。振りほどこうにも、どうにも出来やせん。
じゃが後悔などしてはおらん。むしろ、これで本当に良かったと思っておる。
わしの力はもう、先の水球結界で使い果たしてしもうた。ここに居っても京の足手纏いになるばかりじゃ。
初めに出会った時は震えが走るほど恐ろしく、また儚かった京の存在も、今では何の心配もない。
わしの役目はもう終わったのじゃろう。
いや、わしの本当の願いが叶ったというべきなのか?
長く歳を経れば、嫌が応にも諦め癖が付く。
何もかもを諦めて、生きる事さえ諦めて、何かを願う事も、探す事もしなくなる。はたと気付けば、己の元には何もない。
…けれど、それを嘆く事もなく。
己の存在すら、下手をすれば忘れてしまう。
じゃがこれで、こんなわしでも最後にようやく、手に入れられたのかも知れん。それは長い 長い間、どこか心の奥に仕舞い込み、ずっと気付かぬふりをして来た願い。
わしの本当の願いは、誰かに必要とされることじゃったのかも知れん。
手を差し伸べられて、必要じゃと言われたかった。
お前のその命が、その存在が必要じゃと。
じゃが今まで、誰もわしを必要としておらんかった。わしの存在に気付いてもくれんかった。じゃから、わしはそれに気付かぬふりをして、蛙に戻って死ぬ事がわしの願いじゃと思っておった。
けれど可笑しなもんじゃなぁ、今際の際のようやく今になって、わしは大切な事に気付けたようじゃ。
自らが手を差し伸べねば、誰にも気付いてはもらえぬ、と云う事を。
諦め、嘆き、自らを閉じ込めてしまっては、四肢を折り曲げ隠れ暮らしているのと同じじゃ。誰にも気付いてはもらえやせん。
わしは隠れ暮らした穴蔵を後にし、ここに出てきた。
そして初めてわしは、誰かを守る為に自ら行動を起こしたのじゃ。
それはとても不思議で、心の中に何ともむず痒い様なくすぐったさを感じた。
痛みや苦しみと引き換えに、体中を満たす幸福感。
誰かを守れた。
わしの存在が必要とされた。
京が泣いておるのが分かる。わしの為に、涙を流してくれておる。
もう、それで十分じゃ。
わしの命は必要とされ、有効に使えた。
それだけで良い。
京と出会い、京と共に時の在る世界を見れた。
わしの差し伸べた手を京は躊躇わず、握り返してくれた。
それ以上、何を望む事がある?
最後にそれに気付けた事が、わしにとっては何よりも大きな事じゃ。もう迷いはない、未練も何もかも。
「…………満足じゃぁ…」
己の声が耳の中で大きく響き渡る。
そう、わしは満足じゃ。
意識が薄れ、もう京の顔も声も分からない。じゃが、わしの傍できっと手でも握ってくれておるじゃろう。
京よ…わしはもう大丈夫じゃ。
そしてお主はもう、わしが居らんでも大丈夫じゃ。
長かったのぅ…長かった。
でも、良い。これで良い。
おぉ…そうか。
そうじゃったのか。
ずっと考えておった、わしら妖異の存在…。もしかしたらそれは、己の存在そのものの探求なのかも知れんのぉ。
そうか、それならば納得が行く。
そうか、そうじゃったのか…………。