幕間・芳華 後編
一体何なんなの、この人たちは?幾らなんでも、この私が全く気配を感じなかったなんて、絶対にオカシイ。
「あ…」
私はそう声を上げると、素早く神原凪とその人物を交互に見比べた。
私の見る限り二人の様子は全く対照的で、神原凪はマズイと表情にありありと書いてあり、右手を顔に当てて天を仰いでいる。反対に私の背後の人物はとてもニコニコ嬉しそうで、見ているこっちが拍子抜けをしてしまう。
「どうしたの?何かあった?」
その人はふんわりと優しく微笑む。それが堪らなく綺麗で、私の心臓はドキリと震えた。
長い黒髪を後ろで無造作に一つに束ね、何でもない只の白いシャツとジーンズなのに、まるでその人の為にデザインされた様にとてもよく似合っていた。
そして何よりも、濡れたように輝く黒く大きな瞳が白い肌を一層引き立たせ、この世のものとは思えない美しさと色香を漂わせている。
私はかあっと一瞬で顔に血が上った。
「…あのなぁ…学校の近くにはあれだけ来るなって…」
「だって、嫌な気配があったから…」
心配で…とその人物は口ごもると、ばつが悪そうに上目使いで神原凪を見やる。
「全く…」
神原凪は迷惑そうな口ぶりではあったが、冷たく切れ上がっていた目元がとても優しくて、まるで嬉しくて堪らないと云った感じだ。
仕方がない、と、肩を下げて溜め息を吐くと、神原凪は私へ冷たい視線を投げつけた。
「とにかく、俺はお前に関わる気はない。面倒は御免だ」
じゃあな、そう言って私の後ろの人物へ並ぶと、その肩を壊れ物でも扱う様な優しさで抱き寄せて背を向ける。相手は何やら私の事を気にして、神原凪へ小声で抗議をしているらしいが、どうやら主導権は神原凪にあるらしい。最後にその人は私へチラリと視線を寄こし、困った様に微笑んだ。
その時、ズキッと胸が痛み、何故だろう…何故か私は言いようのない苛立ちを覚えた。
二人の姿はまるで、いつか見た映画のワンシーンの様で…誰でもする何でもない仕草ですら様になる。
……誰が見ても絵になる、綺麗で素敵なカップル。
私の目には、それがこの世全ての幸せの縮図であるかに見えてイライラした。
拳をギュッと強く握り締める。
私は一体、何を考えていたのだろう。
一体、何を期待していたのだろう。
「…バッカみたい」
俯いて唇をかみ締めた。
どうせなら、もっとマシな考えが浮かべば良かったのに。一瞬でも、チラリと神原凪が私の味方になってくれれば良いなんて考えてしまった。
そう…ハッキリ白状して認めるならば、確かに今の私は自分でも分かる位に心がガタガタになっている。
二年間ずっと張り詰めていた心が、悲鳴を上げ始めている。
常に命の危険を感じる緊張と恐怖。
周りに居る人は誰も信じられない。
心の逃げ場が何処にも見つからない…。
私は鉛のように重くなった足を引き摺りながら来た道を引き返す。
帰れば私を消したくて堪らない人たちが、首を長くして待ち構えている。きっと、今回の牛鬼の件は誰が教えるでもなく、ミンナが既に知っているに違いない。
これは私にとって大きなマイナス。もし私に強い味方が付いたとなれば、今まで私を後回しにして来た奴らも間違いなく本気を出して来る。
重い溜め息が口を突いて出た。今夜もきっと長い夜になるだろう…。
そして、あっさりとその予想は大当たりする。
部屋に帰り着いて着替えをしていた時、その知らせは舞い込んできた。
「よぉ芳華。当主がお呼びだぜ?」
大きく放たれた部屋のドア。そこに寄りかかるように腕を組んだ男が一人立っている。
「…ノックぐらいしたらどうなの?」
「ハッ、別に良いじゃねぇか減るモンじゃなし。…ふぅん、随分と立派に育ったじゃねぇか。お前の母親もなかなかイイ体してたが…悪くないな」
その男は顎に手をやり、ニヤニヤと嘗め回すように私の体を見る。
「伝言は済んだでしょ?サッサと消えて」
「おいおい、仮にもお父様に向かってその口の利き方はないだろう?もう少し、可愛い言い方があるんじゃないのか?ん?」
私は短く舌打ちをすると、手早く着替えを済ませて男を睨み付けた。
「誰が、父親?冗談じゃないわ。それとも、私に取り入るつもり?」
男は方眉を露骨に跳ね上げ、たった今まであった余裕が掻き消えると苦々しい顔になる。
「何だと?」
「女を食い物にするしか能のない男のクセに…口の訊き方に気を付けることね」
「何だとこのガキ!!」
男が怒りのままに私に飛び掛って首に手を掛ける。
「こんな首、へし折ってやろうか?え?」
悪鬼のような醜い形相。私を脅すつもりなのだろう、腕に力を入れたり緩めたりを小刻みに繰り返す。
「今なら許してやるぞ、芳華?命乞いしてみろ。お父様、許して下さいってな!」
「ばっか…じゃ…ない、の?」
怒りが炎となって飛び出さんばかりの目で、ギリッと男の指が私の首に食い込んだ。その時、私の視線の先にある男の肩に細い指が掛けられ、静かな鋭い声が響いた。
「吉明さん、お止めなさい」
男は一瞬で青ざめて大きく目を見張ると、震える手を渋々放す。
「例えどんな理由であれ、そんな真似は良くないわ。ねえ?」
「あ…ああ…」
男はそそくさと私の部屋を後にして消えた。残されたのは声の主、吉明と呼ばれた男の腹違いの妹、吉江だった。
「芳華さん、許してやってね?吉明も悪気はなかった筈よ。ね?」
日本的な美人で大人しい顔立ち。落ち着いた声のトーン、優しく微笑む口元。
しかし、鋭く冷たい色を宿した目だけは笑っていない。
「…はい」
吉江は現時点で最も当主に近い存在と言われ、公私共に現在の当主の右腕を勤めている。そして、この一族の中で最も冷酷で非道。
一度でも吉江に睨まれた者は必ず、死ぬ。
それが例え、身内であろうと自身の子供であろうと容赦はない。
「さあ芳華さん、当主がお呼びよ。私といらっしゃい」
有無を言わせぬ圧倒的な迫力。この小柄な女の体から、どうしてこんなに力を感じるのだろうか。
吉江に会うたびに私は己の無力さに、冷や汗が止まらなくなる。
…しかし、私はこの女を越えなければ生き残れない。出来るか、出来ないかではない、やらなければ、私と云う存在はこの世から消えてなくなる。
体に現れそうになる震えを押し隠し、私は黙って吉江の後ろを歩き、当主の間へと進んだ。
そして、私は当主に在る事を言い渡される。
仙道の名において封印された第一の地、そこへ行き、資格を問う岩へ赴き帰ってくる事。
それは、後にとても重要な意味を持つ。
当然、私には拒否権はない。
私は日が沈むギリギリの時間に車でそこへ運ばれ、朝に迎えに来るからと置き去りにされる。ここが何処かは当主に近い数人しか知らないし、私は目隠しをされていたので自力で帰ろうにもハッキリ言って不可能だ。
まばらに細い木々が生え、腰まで草がびっしりと生い茂っている。その中で唯一つ、私の前に一本の細い道が真っ直ぐ伸びていた。
視界が悪い訳ではない。でも、言いようもない嫌な気配が、この土地全体に充満している。 昼間の牛鬼なんか足元に及ばない禍々しさが、私の呼吸を浅くする。
「ふん…やってやろうじゃない」
知らずに掌に汗が滲む。言葉とは裏腹で緊張のせいで肘から下が冷たくなって感覚が鈍くなる。
私は大きく一度だけ深呼吸するとその道を歩き出した。ジャリ、ジャリ…足の下で湿った土と枯れた草が混ざる。
どれほど歩いたのか、月明かりのみの光源で極端に時間の感覚が鈍くなった時、前方に大岩と呼べそうなものが現れた。
細長い注連縄が巻かれて黒々と高くそびえ立ち、風になびく草へと長い影を落としている。
これが、当主の言っていた資格を問う岩なのだろうか?じっと目を凝らし、気配を窺う。
いや、違う…。
アレには何も感じない。寧ろ、その二メートルほど後方にある、平たい直径三十センチほどの岩の方が気になる。
ゴクリと喉が上下する。間違いない、あの岩の方だ。
資格を問う岩…?違う、そうじゃない。アレは封印の岩だ。
そう思った時、私の全身から一気に血の気が引いた。
騙された!これは罠だ。
今にもここの封印は解ける寸前…このままでは私は百パーセント、死ぬ。そして、私の死が当主、もしくは吉江がこの地を再び封印する鍵になる。
それを知っていて…いや、だからこそ彼らは私をここに寄越した。言いようのない怒りと絶望が腹の辺りでグルグルと重く渦巻いている。でも逆に、ここで私が生き残れば仙道の名に一気に近付ける。彼らの思い通りになって堪るものか。
けれど、そう思いながらも、情けないほど足は震え、頭の中は真っ白になっていった。
空気が風ではない何かによって波紋の様に振動する。それは、心臓が鼓動する音に近い。
ドクン、ドクン、ドクン…。
余りの禍々しい気配に眩暈がして、まともに立っていられない。見えない重圧が全身に圧し掛かり、膝がガクガクと震える。
どうしよう、どうすればいい?
辺りに視線を彷徨わせる。焦れば焦るほど、自分の呼吸音だけが耳の奥で大きく響き、思考は混乱する。
とにかく、落ち着かなければ。私は無意識に胸元にあるペンダントへ手を伸ばしていた。
あの母親が、唯一私に残してくれた物。
死ぬ直前に、私の為に全財産をはたいて買ってくれた物。
赤く燃える宝石。
これの価値がどんな物だか良く知らない。けれども、あの人が私の為に必死になって探し、手に入れてくれた大切な形見。
私はそれを両手で固く握り締め、深呼吸を繰り返す。
イチ、ニイ、サン。
掌に伝わる暖かな光。それはやがて全身に広がり、私の体を満たした。不思議と恐怖心が影を潜め、冷静な思考が甦ってくる。
「…私は、負けない」
まだ相手は岩の下で姿を現していない。ならば私にだって勝機はある。
足を一歩踏み出す。岩の主は私が足を踏み出すにつれ、ドオン、ドオンと威嚇するかの様に大きく空気を振るわせる。
皮膚をビリビリと駆け巡る殺気。
私は一気に岩までの距離を詰めると、持って来たありったけのワイヤーで岩の周囲に線を張り巡らせた。
「出させるもんか!アンタは永遠に岩の下に居るんだよ!!」
私は印を切る事も呪を唱える事も忘れ、ひたすら岩の主を押さえ付けることに全力を傾けた。
お母さん、力を貸して。私を守って!
石よ、赤い宝石よ、私の力に!!
ワイヤーに赤い閃光が駆け巡る。掌が焼け付く様に熱い。
岩は断末魔の悲鳴を上げるかのように震え、ブルリと大きく振れると動かなくなった。さっきまでの瘴気が嘘の様に影を潜める。
やった…?
荒い息を整えながら、恐る恐る視線を手元から岩へと移す。
しかしそこにあったのは、私を絶望させるに十分なものだった。
私の体を飲み込んでもお釣りが来る、異様に大きな目。限界まで見開かれたそれは、ゾッとするほど赤く血走り、静かに私を睨み付けていた。
その時、私は自分の運命を悟った。
…ああ、終わった。
もう、駄目だ。お母さん、ごめんね…。
私は覚悟を決めた。この目の主はワイヤーに縛られているせいで、今は残りが岩から出られずに居るが、私の力など足元に及ばない強大な妖異だ。
もう私には、完全に勝ち目はない。
「…くっくくく」
私は自嘲気味に笑いを漏らす。と、突然この場に似つかわしくない、清涼な一陣の風が吹き抜けた。
「頑張ったね。もう大丈夫…」
ひんやりと心地よい腕が、私の頭を抱き寄せる。
「もう、大丈夫」
その声は、聞き覚えのある甘い響きを持っていた。ワイヤーの先から伝わってくる、岩の主の怯えと恐怖。
「こんな雑魚、サッサと消しちまえばイイのに。お前の家はそんな事も出来ないのか?」
低く、静かに響くその声にも、覚えがある。
岩の主は怯えて激しく暴れ狂う。しかし、その姿は既に体の中心に向かってグルグルと螺旋を描きながら消えていく。
ぎぃやぁあああぁあぁぁ…!!!!
私の背丈ほどもあった目は更に赤みを増し、苦しいのか涙を流して小さな点にシュルンと飲み込まれて消えた。
「こうはら、なぎ…?」
虚ろな声で私はその人物の名を呼んだ。私を抱き締めた人はふわりと笑いながら頷く。
「お前、京に感謝しろよな?俺は面倒だから、嫌だったんだぞ…」
何が起きたかまだ理解できない私に、神原凪は不機嫌に後頭部を掻き毟って溜め息を吐いた。
「…ったく、礼の一つも言えないのかね?このお嬢ちゃんは」
まるで苦虫を噛み潰した様な顔でイライラと腰に手を当て、仁王立ちで私たちを見下ろす。それに対し、私を抱き寄せていた人物は少し怒ったように口を尖らせる。
「もう、凪ったら!…怪我はない?立てる?」
心配そうに顔を覗き込む真っ黒な瞳と目が合ったその瞬間、私の心臓は再びドキンと縮み上がった。
「…あ、え?」
空から降り注ぐ、明るい月の光。
その人は私の手を取ってゆっくり立たせてくれる。その後ろに、神原凪が影のようにそっと寄り添う。
私の目の前で白く輝く光が二人を照らし、一つの芸術作品を作り上げた。まるで光と影…京と呼ばれた人が無垢な光ならば、神原凪は深い闇を宿した影だ。
呆れるほど、この二人の存在は美しく…異質だ。誰もこの二人の間に入る事は出来ない。
私は大きく溜め息を吐き、肩を落とす。そう、始めからこの二人の間には私の入り込める場所などない。
スッと目に見えない暗い壁が私を取り囲む。
ずっと分かっていた。誰に言われなくてもはなから分かっていた。
周囲から隔絶された私は…独りだ。
でも。
私は胸のペンダントを再び両手で握り締め、呼吸を整える。
その壁を挟んでも、誰かと会話は出来る。
声は壁を越えて、私と誰かを繋ぐ。
「ねえ、京さん。私と友達になってくれない?私は仙道芳華よろしくね」
「え…あ…う…うん。でも…」
京は戸惑いの表情でチラリと神原凪を見やる。当然、相手は渋い顔だ。
私はニヤリと笑った。
「イイのよ。私、人間が嫌いだから。アナタだから…友達になりたいの。だめ?」
「…いいの?本当に?」
「うん。なってくれる?」
「うん!」
「オイ、京!!」
神原凪は大慌てで京を説得するが、相手はその言葉など何処吹く風だ。
私と京、そして凪。
私たち三人の関係はこれから始まった。
そして、これが全ての始まりだった。
私はその数ヵ月後、姿を消した京と凪を探す為、当主の座を賭けた吉江との闘いに挑んでいく事となる。
失くした者を再び手に入れる為ならば、私は何を犠牲にしたとしても構わない。
例えそれが壁越しの安息でも、私にとってそれは…私の存在理由なのだから。