幕間・芳華 前編
中二の冬、その男は突然やって来て私にこう言った。
「コレは使い物になりそうだな。…連れて行け」
私に抵抗する権利はなかった。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、怯える目付きでその男を見ているだけで、その場に居る誰もが同じで…私を助けてはくれなかった。
そうして私は、母親の葬儀の最中に引きずられるように拉致される。
大きな黒塗りの車。広い車内。隣に座ったさっきの男。
「出せ」
それを合図に車は走り出し、ろくな思い出なんかなかったけど、住み慣れた家を後にした。
車の窓はスモークが張ってあり、景色なんか見えやしない。まあ、どうせ見えた所で畑か山かどちらかしか見えないのだから、あんまり意味はないのだけれど。
この場には沈黙がどっしりと腰を下ろし、誰一人として声を出す者はない。
ひたすらに続く、車のエンジン音。
私はいい加減飽きてきた。
この男は何者なのか、とか、今から何処に連れて行かれるのか、とか、頭の片隅にチラリと浮かびはしたが、知ったところで今の状況が変わるものでもない。
「あの、なんかラジオとか付けてもらえませんか?つまらないんですけど」
私は誰に言うとでもなく、取り敢えず言ってみる。この時、初めて隣の男がピクリと反応した。
「…いい度胸だな。これから何処に連れて行かれるのか、とか、私が何者か、などとは聞かないのか?」
射すような視線が左の頬に突き刺さる。私は大きく溜め息を吐いた。
「聞いて、どうするんですか?最初から何も説明をしない人に質問したって、まともに答えてもらえるとは思えませんし」
そう言うと、私は真っ直ぐ男の瞳を見返す。男の瞳に、チラリと楽しそうな光が一瞬過った。
「成る程。確かにそうかも知れんな…。おい、ラジオを付けてやれ」
男は運転手の男に横柄に言い放つ。
「かしこまりました」
さっき、私を車に押し込んだ男が恭しく返事を返すと、車内に音が満ちた。流れているのは軽快なラジオDJの声と流行の音楽。好きではないが、何もないよりはよっぽどマシだ。
そのまま、車は私と男と止まる事を知らない音の洪水を乗せて、ただひたすら走り続ける。
どれくらい経ったのだろうか、ようやく煩わしくなっていたエンジン音と振動が止まった。
「降りろ」
男は私にそう言うと、自分だけサッサと降りて車が横付けされた建物の内部へ入っていってしまった。
開いたドア越しに見える空は、既に夜の闇を纏っていた。
私は他にすることが見当たらないので、重い溜め息を吐き出すと、モタモタと腰を上げる。車から降り立ち、建物の全貌が見えた時、少しだけ驚いた。
これは、家?
例えるならば、よく時代劇に出てくる羽振りのいい商人なんかが住んでいそうな大きな和風建築物。もっと現代的に言えば、どこかの高級隠れ家風の旅館。
正面には左右に開く引き戸が大きく開放され、どこぞのダレソレが書いたとか云いそうな大きな衝立がドン、と据えられている。その上、見るからに高級そうな上がり框はピカピカに磨かれ、一点の曇りも許されない風格があった。
しかし…。
なんだろう、ここは?
私はきっと露骨に嫌な顔をしていたに違いない。そこは見るからに何もかもが高級で、ピカピカ光輝いている。…にも拘らず、中から漂ってくるのは、光を曇らせる重く陰鬱な澱んだ空気。両顎の付け根の辺りが締め付けられるように痺れ、喉の奥に酸っぱいモノが込みあがってくる。
気持ち悪くて、吐きそう…。
耐えられず、思わずよろりと後ろに下がる。
「なにをしてる?早く中に入れ。当主を待たせるんじゃない!」
いつの間に傍に居たのか、運転手の男が力任せに私の左二の腕を摘むと、ぐいと建物へ引っ張って行く。
「痛い!一人で歩けるわよ、放して!!」
本当は中に入りたくなんかなかった。気持ち悪くて気持ち悪くて堪らない。
ここは、オカシイ。
私の頭の中で“何か”がザワザワ音を立てて騒ぎ立てる。行きたくない、行きたくない、中になんか行きたくない!
ゴクリと喉が上下する。冷や汗が頬を伝い、顎を伝い、敷き詰められた石畳の上へぽとりと滴り落ちる。無意識に握り締めた掌の中に汗が溜まる。
「…ふん、なにビビッてんのよ芳華。バッカじゃないの?」
口元を少しだけ動かし、誰にも聞こえないほど小さな声で自分を叱責する。グッと顎を引き、再び顔を上げる。
ここで引き返したって、どうせ行くトコなんか、ない。
死んだ母親は霊能者とか云う男に騙されて私を産んだ。その後も、色んな詐欺まがいの霊能者に縋って、幸せになれない理由を探していた。祖父も祖母も、よく分からない神様を拝むのに必死で、何も目に入らない。
皆、みんな、ミンナ、あの人たちは何かに縋らなければ生きていけない。
でも、私は違う。
私は誰にも頼らない、誰かに頼ったりなんかしない。
私は覚悟を決めて、再び足を踏み出した。
……しかし…そこは…私の足を踏み入れたその世界は…想像を絶する生き地獄。今までの自分の生活がどんなに恵まれていたのか、痛いほど骨身に沁みた。
それから二年、どうにか私は生き抜いている。それこそ今では、常識では考えられないような事がどんな身近で起きようとも驚かなくなった。
例え、今すぐ私がここで死んだとしても。
「…本当に、しつこいわね」
私は学校の屋上で独り言を言っていた。正確には、傍目に見ればと言うことだ。
いま私の前には、柄の長い斧を持ち筋骨隆々とした小山のような牛鬼が立ちはだかっている。赤く光る目を見開き、牛そのものの口元からは絶えず粘度の高い涎を垂らし、獲物を捕らえようとする狂気に満ちた臭気を放つ。
「私、アンタみたいなタイプが一番嫌い。臭いし、筋肉馬鹿だし。どうせ、あの糞ヤローが呼び出したんだろうけど、いい加減、懲りて欲しいモノだわ」
牛鬼が荒く息を鼻から吹き出す。斧を持つ腕に力が込められ、今にも飛び掛らんと私の隙を窺っている。
私は素早く制服のポケットに忍ばせている呪力を込めたワイヤーを取り出し、相手の動きに合わせて緩いたゆみをつけて構えた。
無意識に喉がゴクリと上下する。幾らこんな化け物の相手に慣れて来たとはいえ、今の状況ではパワーでもスピードでも、圧倒的に私の方が不利。
その極限の緊張が、私の体を微かに震わせていた。額から、一筋の汗が伝い落ちる。
お互いに牽制し合い、なかなか次の動きに踏み出せない。長い沈黙の末、痺れを切らした牛鬼がいざじりっと私へと足を踏み出した。
するとその瞬間、状況は一変した。私はまだ何もしていない。なのに、牛鬼は空を切り裂く断末魔を放つと己の体の中心へ向けて風車…いや、渦巻きに飲み込まれる潮のようにグルグルと捩じれて消えていく。
ぐぅおおおおおぉおうぅぅ…!!!
最後はしゅるんと小さな音を立て、今では始めからそこには何も存在しないかのように、元の屋上へと景色を変えていた。私は慌てて周囲を見渡す。
だれ?
場合によっては、次は私が消される。息を殺し、肌がピリピリと痛む限界まで感覚を研ぎ澄ます。しかし…。
「お嬢ちゃん、暴れんなら他所でやってくれないか?」
その声は、私の真後ろ…それも頭上から降ってきた。
なんで?
慌てて飛びずさり、ワイヤーを両手で構える。今まで、何の気配も感じなかった。後ろを取られるなんて、この男が私を殺す気ならばもうとっくに私は死んでいた。
「…だれ?」
「誰でもいいだろう?それと…お節介ついでだ…」
その男はそう言うと、私の左肩の上へ手を伸ばす。
ぶちっ。
「お前、隙が多すぎ。死にたくなきゃ、それをなくす事だな」
男は私の目の前でその手に掴んだ監視用の蟲を私に見せた。
「何で…私を助けたの?」
「別に、助けたかったわけじゃない。騒がれるのが面倒だし、牛鬼は臭すぎる。そんな臭いが付いてたんじゃ、後で面倒だからな…」
男はそう溜め息混じりに呟くと私に背を向け、ひらりと手を振って屋上の出入り口に消えていった。
バタンとその扉が閉まった瞬間、緊張の解けた私はその場にぐったりと膝を付いた。あの男は一体何なんだ?私よりずっと強い。あの牛鬼を一瞬で消し去り、あの状況でも完全に気配を消している。
「…学校の制服だった、よね?」
私は必死でその男の人相や風体を思い出そうとしていた。とにかく、敵なのかどうなのかを確かめなくてはならない。
背が…そう、背が凄く高かった。百八十はあるのではないか?短めにカットされた黒髪、強い意志を湛えた切れ長の瞳。思えばまるで、非の打ち所のない少女漫画の主人公のようだった。
私は放課後、その男の素性を確かめる為に後を追けることにした。始めは見つけるのが難しいのではないかと懸念したが、どうやら取り越し苦労だったようだ。今まで全く気にした事がなかったから気が付かなかったけれど、その男は学校内でとても目立つ存在だった。
三年の神原凪。
余りにもあっけなく見つけてしまって、何だか肩透かしを食らった気分になる。
言うまでもなく容姿端麗、しかも頭脳明晰で学年トップ、挙句はスポーツ万能。ここまで揃えば、一般生徒にとっては嫌味でしかない。
私は気配を押し殺し、十分な距離を取りながら神原凪のを追けた。…なのに、学校を出て十分後、角を二つ曲がった所であっさりとばれてしまった。
「…何の用?」
曲がって直ぐに、迷惑そうな顔で仁王立ちになっている神原凪。正直、もの凄く焦った。
「用なんかないわよ。でも、アナタが私の敵でないことを確かめないと、おちおち眠れもしないわ」
私は悪びれるでもなく、堂々とそう言い放つ。神原凪は短く舌打ちをすると迷惑そうに綺麗に真っ直ぐ伸びた眉をしかめ、溜め息を吐いた。
「お前の家とは、俺は何も関係ない」
「どうだか?」
「むしろ、俺はお前にうろうろされると迷惑だ」
「何で?」
「それこそ、お前に関係ない。俺の前から消えてくれ」
「じゃあ、何で私を助けたの?」
「単に成り行きだ。もういいだろう?サッサと帰れ」
どんどんと相手がイライラしてくるのが分かる。しかし私は相手の目を真っ直ぐに覗き込みながら、次々と質問を重ねる。
「嫌よ。アナタは何者?」
「関係ないだろう?」
「あるわ。同業者?」
「…お前、しつこいぞ」
「いいじゃない。教えてよ」
「ったく、いい加減に…!」
神原凪がそう大きく口を開けた瞬間、ぴたりと声が途切れた。私は不思議に思い、後ろを振り向いて固まった。
「どうしたの、凪?お友達?」
私の直ぐ真後ろに人が立っていた。幾ら話しに気を取られていたからといって、今日はこれで二度目だ。