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その背に黒の羽根を  作者: 林 りょう
第九章:捻くれX真実の行方=再会
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新たな出会いは再会を潰す





 真っ白い、何もかもが白い部屋。満天の星空の下、差し伸べた手を闇の精霊王が取った瞬間、ルシエはそんな場所に居た。

 そこはかつて、一人の少女が世界を捨てて新しい世界を得た場所。滅び、生まれ変わった場所だ。

 どこまでも広がっていそうで、実際はそこまで広くない部屋だということを、ルシエは知っている。さらに、足元に視線を落として影が出来なくとも、もう首を傾げない。


 闇の精霊王の手が離れていくのをきっかけに視線を上げれば、目の前には様々な美しさが並んでいた。


「久し振りだね」


 ブロンドの髪にブルー(・・・)の瞳。背後で十人の精霊王を控えさせている者が歓喜を含んだ声を放った。

 河内紗那(かわうちさな)が名を与え、ルシエを名付けた張本人。デルフィニウムのデル――


 ルシエは言葉を返さず、デルからゆっくりと視線を外して背後を見た。見知った者から初めて姿を見るものまで、ご丁寧に左から解放した順に並んでいる。


 一欠片の光もない闇の心を持った陽の精霊王は、高飛車な態度が相応しい高貴な美。

 隣に並んで歩き続け、それでいて必死に影を追い求めていた風の精霊王は冷徹な美。


 精霊王の中でも変わり者として、全てを慈しむ心を持つ柔らかい美の水の精霊王は、腐敗から生まれた。

 一人だけ背丈が低く、波に溺れてしまった海の精霊王は、出会った頃より少しだけ大人びて不気味な美に静けさを含んでいる。


 精神内にも立ち入らせず、姿さえ現さなかった大地の精霊王は、世界に広がる大陸のように揺るぎない美だった。

 逞しく自由を好む雷の精霊王は、挑発的な笑みを携えながら鋭利な美を強調している。


 危機的状況で、大切な弱さを犠牲に出会った空の精霊王は、相変わらず軽く儚い朧気な美。

 豪華な場を台無しに現れた星の精霊王は、心に許している一人にだけ視線を向ける耀かしい美。


 そして、お互いに名を与え合い、やっとのことで再会を果たした光と闇の精霊王は、温かい美が腕を取って寄り添うことで遥かな美と調和していた。


 こうして並んでいると、様々というよりバラバラだと改めて思う。

 それでも精霊王は、生まれてから長い時を全員で共有してきていた。それぞれで好き嫌いや相性はあれど、存在する価値に則って共に居たはずだった。


 ルシエは全員を順に眺めてから、やっとデルへと視線を戻して笑った。瞳だけを置き去りにして、歓喜で笑う。

 そうすると、デルが嬉しそうに笑おうとするが、ルシエの言葉がそれを拒絶する。


「初めまして、デルフィニウム」


 ブルーの瞳が訝しみ、さらに奥からも様々な瞳が向けられた。憎悪、困惑、不安、警戒。それと共に、期待と信頼が幾つか混じっている。

 それは、今までルシエが解放によって得た結果だ。必然と偶然を繰り返し、この日の為に用意してきた全てが揃っている。


「何を言っているの? 初めましてなわけないじゃん。僕だよ、君がデルと名付けてくれた」


 デルがそう言って一歩踏み出せば、ルシエが冷笑をさらに強くしながら手を横にゆっくりと振った。

 そうすると、何も無い部屋にテーブルと椅子が現れて影を作る。河内紗那の前で、デルがアピスに降り立つ用意をしていた時と同じように。

 デルと精霊王たちが驚愕で止まった。


「初めまして、だよ。その名前は、河内紗那が一人の存在しない男に与えたものであり、今の君ではない」


 十一もの驚愕を浴びながら、ルシエが平然と椅子に座って足を組む。さらに、テーブルに掌を置き持ち上げると、そこからカップが現れた。立ち上る湯気が温かさを教え、白いカップの中で濃い茶色の液体の香りが鼻腔をくすぐる。


「知っているはずだよね。精霊の森(ティターニア)前の城で、デルではなくデルフィニウムと言ったこと」


 自身としては初めての、河内紗那が好きだったコーヒーを飲みながら、ルシエは「とりあえず座ったら?」とデルに用意した椅子を視線で示す。彼は困惑した様子を見せつつも従った。


「でもまあ、確かに今の君はデルだね。世界を救って欲しいと言って自分の力が完璧に及ぶ領域へと誘い込み、河内紗那を本当の意味で空っぽにしようと目論んでいた嘘吐きデル」


 ルシエがコーヒーを味わい、その前でデルが肘を立てて手を組み顎を乗せる。そうして、黙って続きを待つ。出会いの日から立場を変え再現された光景を前に、何人かが息を呑んだ。

 十人の精霊王と嘘付きが一人、そして人間が一人。その人間も、本当を明かさない嘘の塊。発言権があるのは、二人の嘘だけだった。


「けれども、会いたいのは、あなたを慰めるという花言葉だけを取ったデルでは無く、それを終えて傲慢さを自覚するべきデルフィニウムという一人の精霊王だよ」


 ルシエの視線がデルを射た。

 無表情に変わった相手を前に嘘の塊から放たれる本当は、一言一言で驚愕を生む。知らなかったからではなく、知っているのを知らなかった者達の余裕を奪っていった。


「まあ、それは勝手に付けた名であって、名乗らなくて結構だけど。重要なのはそこじゃないし」


 デルは否定の言葉を発しない。ただただ、徐々に鋭くなっていく視線をルシエに向けるだけだ。

 そしてルシエも、反応を求めず独り言のように言葉を放つ。


「……いい加減、本当の姿に戻れよ。結局、同じ色は持てなかったんだから」


 カップがテーブルを叩き、ルシエの顔から表情が落ちる。反対に、デルが笑った。

 

「足掻き、かい?」


 朗らかな笑みとは不釣合いな言葉が静かに落とされ、途端、精霊王たちが失態を恐れる従者のように一歩下がる。

 デルの髪と瞳の色が揺らめき、河内紗那の知らない雰囲気が身体から漏れ始めた。

 怒気というよりかは、底なし沼のように濁った不快感。二度目の再会は体だけで、どちらともが中身を変えていた。

 ルシエは気にせず、頬杖をついてカップの取っ手を撫ぜ、無表情のまま溜息を吐く。ただし、今度は瞳が楽しそうに煌いている。


「出会いと再会。二回のゲームの勝敗は、一勝一敗。つまり、このままじゃ決着がつかない」


「あのさ……」


 デルすらも置き去りに、自分の話だけを強引に聴かせていた。

 それは焦りなのだろうか。それとも、相手に対する嫌悪感から、絶対に立場を譲らないと示しているのか。どちらにせよ、今までのルシエは言葉巧みに気付かせず主導権を握っていたのだから、それを知っている精霊王数人には違和感を与えた。

 デルは、勝手に話を進めていくルシエを止めようと口を挟んだ。内容に関わらず、まずは一呼吸置かせたいと。

 しかし、デルに返ってきたのは視線だ。黙りはしたが、どこまでも深い金色の瞳がブルーを呑み込む。それを後方から眺める精霊王たちも、その瞳に惹き付けられ呑まれかける。

 ほとんど、何もなかった。デルを見るルシエは、彼を見ていないのだ。

 遊びは終わりだと、ルシエは視線で言った。最早、嘘で何かを得ることは出来ないと、嘘吐きの出番が終わったと告げる。


 初めて、デルの顔に警戒が浮んだ。

 ルシエがアピスで為し得たことは、役割の通り精石の破壊だけである。魂を犠牲に、自身を削ってデルの願いを聞き入れた。

 しかし、河内紗那へデルが説明したのは、解放の方法すら歌が頭に浮ぶということだけで、地球に帰れない以外その後のことも言っていない。ということは、この部屋に導かれること自体、ルシエは驚かなければならないのだ。だというのに、驚きも困惑もなく、不思議な部屋を使いこなして寛ぐルシエを見れば、余裕すら感じられる。余裕そうに、コーヒー(・・・・)を飲んでいる。


 デルの髪と瞳の色が、彼に染まっていった。徐々に、毛先と眦から、デルという存在を作っていた色を消していく。

 そうして、デルはルシエの言うデルフィニウムへと正体を現す。


「初めまして、というべきなのかな。まったく、君は最初から腹立たしかった。腹立たしくて仕方が無かったよ、河内紗那(・・・・)


 その様子を、ルシエがカップを空にさせながら眺め、口元を緩めた。

 懐かしい色。二度と戻ることのない失われた色。ルシエとサイード、リサーナの全員が好んだ唯一染まらない色。その髪と瞳を持った男が、憎悪を向けている。

 空の精石を破壊したことで弱さを知り、闇の精石を破壊したことで強さを得たルシエ。全てが一つに戻った破罪使は、役目を終えて始まりの場所に辿り着いた。綻びや欠けた部分、失ったものが多すぎたとしても、それは一種の成し遂げた姿だ。


 紗那が言った――


「一つ、ゲームをしようよ。引き分けの無い、決着をつけるに相応しい最後のゲーム。ねぇ、生の精霊王?」


 始まりは、女の精霊王と男の人間だった。そして、それが導いた結末のきっかけは、男の精霊王と女の人間。糸が繋がっているのは精霊王だけで、二人の人間は種族が同じということ以外その輪廻に繋がりがない。

 それでも、価値を持たないその二人は同じことを行う。男は命に、女は男が出来ずに終わった精霊王へ名を与えた。


 一人の女と、一人の精霊王の出会いは鉛色のどんよりとした天気。そんな日に、女が最初のゲームで負ける。彼女は、生まれた時からそれへの参加を強いられていた。


 そうやって何も知らず、気付かないまま負けたのだ。


 未来を示す鉛色の空の下、それでも出会いは美しかった。しかし、始まりの男女以上に、きっかけの男女のそれは、再会を果たした際美しくはならなかった。


「もう、立場は一緒だよ」


 紗那の瞳に、憎悪が浮んだ――










 失われた時を巻き戻し覆すことは不可能だ。

 だからこそ、もう一つだけ昔話に付き合って欲しい。今度は物語ではなく、一人の少女を訪れた出会いの話。

 少女の名は河内紗那といい、少しばかり哀れな境遇を持ち、それを好ましいものだと考える変わり者だった。


 紗那はその日、休日を惰眠で謳歌し、寂しくなった冷蔵庫の中身を補う為に買い物へと出掛けていた。


 共に過ごす友人も恋人も、家族すらおらず、紗那は日々の殆どを一人で楽しむ、楽しめる、そんな他人にとってはつまらない生き方を好んでいたのだが、彼女は去る者は追わず来る者は拒まずといった性格をしており、それなりに出会いが訪れたりしている。

 だからこそ、この日出会った一人もまた、紗那にとってあまり意味を持たない、いずれ去りゆくただの出会いとなるはずだった。


 買い物を終え、帰路を歩く際見上げた空は鉛色で、一人で持つには重すぎる袋を二つ抱えていた紗那は、考えが足りなかったことを悔やみながら、丁度通りかかった公園で休憩を挟むことにしていた。

 普段は子供たちの声で満ちているだろう公園は、天気のせいか誰一人おらず、強めの風に揺られたブランコが軋む音以外、人の作る音は全くない。

 紗那は天井のあるベンチに腰掛け、疲労を吐き出しながら物寂しい風景を眺めていた。雨が降り出せば、タクシーでも拾って帰ろうか、と思いながら。


「こんにちはー。お買い物? 偉いねー!」


 そんな時だ。一人で座っていたはずのベンチ、しかも隣から、間延びした勘に障る喋り方の者が紗那に声を掛けたのは。

 当時、相手には名がなかった。数年後、彼はデルという名を持つことになるのだが、この時は紗那の記憶で無駄に整った顔をした不思議な外国人の男と刻まれる。

 気を抜いていて声を掛けられるまで存在に気付いていなかった紗那は、驚きで肩を跳ねさせた。


「こん、にちは?」


 反射的に挨拶を返せば、どんよりと陰った天気の中でも輝く金の髪が揺れていて、ブルーの瞳が紗那へと向けられている。その男は、彼女に優しそうな顔で微笑んでいた。


「怪しかった? でも、ナンパじゃないからねー」


 この頃の紗那は、当然魔力や魔法といった力の存在や、異世界の存在を現実で信じていたわけではないので、男が歩いてきたのではなく突然そこに現れたのだと考えたりしない。違和感や不信感、そういったものも、この先重要となる危機感を察する力すら培えていなかった。

 だからこそ首を振り、暇人なのかなと思う程度で景色へと視線を戻した。


「寂しそうな顔だねー」


 男は、そんな紗那にそう声を掛けていた。


「別に」


「そおー? 僕は凄く、寂しいのを我慢してるって感じるよ」


 お節介だったらごめんねと笑いながら、男は本人が考えても感じてもいないことを、植え付けるように言う。

 さすがに面倒を感じ、紗那が帰ろうと思えば、まるで彼女を逃がさないとでもいうように、鉛色の空から涙が落ち始めた。


 まさしく、まるでと感じた通り、男が降らせた雨だった。

 元々の地球に魔力は存在しなかったが、男が世界を渡ったことと渡れた理由がその力を地球へと侵入させ可能となった現象だ。紗那がそれに気付くのは、喧騒の中に身を置いてからになる。


「あちゃー、雨降ってきちゃったね。急いでないなら、ちょっとお喋りしてかない?」


 男の言葉で紗那が頷いてしまい、それが最初のゲームの勝敗を決めた。

 その時男が嗤ったのを、紗那は知らない。


「一人暮らしー?」


「……そんな感じ」


「でも、中学生か高校生だよねぇ」


「中三。親はどっちも家に寄り付かなくなったから」


 会話自体は質疑応答の繰り返しだったが、重要なのはそこではない。買ってやった缶コーヒーを手の中で転がす紗那を眺めながら、男は本来の目的をひっそりと遂行していた。

 地球へと侵入した魔力を用いて、紗那の身体に生を奪おうとする呪いを施す。奪うのではなく、奪おうとする。そこが重要だ。

 なので、同時に生を護るという加護も与え、それは二度目の再会が訪れるまで効力を発揮した。


 男は、異世界にて精霊王という世界を保つのに重要な存在であった。そう、目の前の脆弱な小娘とは比較にならない価値を持った――


「遠慮ない質問していいー?」


「どうぞ」


 紗那という存在を、男は彼女が生まれた時から知っている。どういった育ち方をし、どういった境遇下にいるのかも。

 そうであれば、何故姿を現したのが今なのかと疑問に思うが、それは単純に、魔力がある程度地球へと満ちる必要があったから。魔力そのものは、命というものが存在していればいくらでも定着できる。ただ、地球にしてみれば無いものが侵入してくるのだから、異世界から漏れ出るのを待つ以外なかったのだ。


 そして、機は満ちた。

 男の目的を達する為に必要なのは、紗那の絶望それだけ。この出会いは、種を植え付けるもの。絶望という名の、死の種を――

 男は言った。


「君は、それでいいの?」


 紗那は、この時の男の表情を知らない。缶コーヒーを転がしていた手へと、視線を俯けていた。

 逐一、反応を楽しんでいたのだろうと今でこそ分かるが、この時の紗那は問われた言葉の意味を考えるのに必死で、それどころでは無かった。


 境遇としては、親の愛情を知らず、温もりもうろ覚えで、そのきっかけを作り出し継続させたのは他ならぬ紗那本人だ。地位を好む両親は、彼女に成績での頂点を望んだ。

 しかし、那那にとって知りたいと思える分野以外は知る必要を見出せず、それでも強要してきた両親を失望させ続けたことで、今を作り出した。

 だからこそ、寂しいとも悲しいとも思わない。だからこそ、楽だと思っている。


「勿論」


「普通じゃないのに?」


 男はそれでも、遠慮ない質問を続けた。

 表面上はそう自分を納得させても、深層では違うだろうと言うように。一つでも多くの種を芽吹かせる為に――


「元から、居るのに居ないって感じだったからね」


 ただ、紗那は本当にそう思っていたのだ。

 幼少期はつらいとも寂しいとも思っていたが、それでも紗那は好きという感情でそれを誤魔化す術を見付け、それで良いと結論付けた。


 居るのに居ない。

 紗那にとって両親は――

 両親にとって、紗那という子は――


 それで良い。

 生活の資金は滞ることなく送られ、暴力を振るわれている訳でもない。だからこそ、虐待というには些か大袈裟だ。

 ただ、嫌われているわけでも無い。


「関心が無いだけじゃないかな」


 男の視線を感じ、紗那は零した。

 無関心。それは憎しみよりも残酷で、愛より軽やかで。言葉よりも隙間無くびっしりと否定する。


 紗那は自分が好きだった。たとえ、捻くれ者と罵られ、素直じゃないと嫌われ、可愛げがないと呆れられたとしても。彼女は自分が好きだった。

 無関心に対抗するように、紗那の周囲は好きで溢れていた。それは、いつだって一方通行で切り捨てられるからだ。


「君は、優しいねー」


 そんな紗那へと男は言った。彼女が今まで言われたことの無い言葉を、頭を優しく撫でながら落とす。


 驚きで固まる紗那を他所に、「君は優しいよ」そう言った。その視線は彼女を待っており、言葉を発する唇を見ている。

 紗那は自分を落ち着かせながら、小さな声を零す。


「優しくなんてない。冷めてるだけ」


 こういった点が、紗那を素直じゃない捻くれ者だとするものだろう。彼女にとっては素直に思ったことを口にするが、他人の言う素直に否定は存在しない。

 だから紗那は素直という言葉が嫌いだった。


「君はきっと、目の前で死のうとしている人がいても、止めないと思うなー」


 男も素直じゃないと思うだろうと考えていた紗那にとって、唐突な言葉はあまりに唐突。予想外にも程がある。


「君は止めようとも、話しかけようともしない。だけど、じっとその人を見続ける」


 何を言っているのだと見上げても、男は紗那を置いて話を続けた。


「それで、もし、相手が気付かないまま死んでしまえば、君は静かに携帯を取り出して警察に通報するだろうねぇ」


 実際にその場に居合わせれば、本人でさえ予想出来ない行動を取る可能性もあるけれど、今の冷静な自分で想像してみれば確かにそうだと、紗那は頷く。


 そして、淡々と状況の説明をして、いつもの日常へと戻るだろう。それを目撃した場所を通るのも、何も感じずに出来るはずだ。


「気付いたとして、相手が止めるなと叫んだら、君はどう答える?」


「…………止めないよ」


 男の妄想は止まらない。

 けれど、これのどこが優しさと繋がるのだろう。紗那の無情さを浮き彫りにするだけだ。


「どうして止めないの? もしかしたら、止めて欲しくて叫んでいるかもしれないのに」


 男は言う。紗那は笑った。


「だって、私には無いものを持ってるから。私より何倍も、その人の方が生きているでしょ。だから私も、つまらない私に出来ることをするだけだよ」


 交われない代わりに傍観して。関わらない分記憶して。水の流れに逆らえず、身を任せて沈んでいくしかないちっぽけな虫のように――

 

 自分が世界を生きるには、あまりにも何も持っていないことを紗那は知っていた。だからこそ、好きでいるのだ。愛を持つには、空っぽすぎる。


「優しさは一つじゃないよー。救いだってそうだ。悪さをした者のそれを受け止めること、咎めること。これは、どちらも優しさだ。受け手がどう感じるかってだけじゃないかなー」


 男は紗那の頭を撫でることで種を蒔き続けた。

 紗那もまた、それを受け入れる。頭を撫でられるなど、いったいいつ振りだろうか。愛を行為でしか知らない少女にとって、その感触は苦しかった。

 しかし、愛とは一体何なのだろう。誰かに尋ねたところで、正しい解が導かれないと分かっているから、紗那は問わないのだろうか。


「君は、無意識にでも分かってるんじゃないかなぁ。確かに捻くれているかもしれいない。その姿は可愛くないかもしれない」


 「だけどね?」首を傾ける男の瞳は輝いていた。紗那にはそれしか分からなかった。その奥の、彼女に向けた憎悪に気が付け無かった。


「小さな子供が転んだ時、君は手を貸してあげたり、自力で立ち上がるのを見守ってあげて、出来たら褒めてあげたり。そうやって、その場その場で相手の為に動ける子だよー。けっして、誰かを蔑ろにして、自分の評価を優先させたりしない」


 だからこそ、本当の優しさを知っているのだと男は言った。


 紗那は初めて、誰かにそれでも良いんだと、自分が自分であって良いのだと、そんな人間がいても良いのだと受け止めてもらえた気がした。それが悔しくて視界が滲み、慌てて鉛色を見上げる。


「君は、この世界が好きかい?」


 その言葉が、やけに耳に響いた。

 様々な記憶を掘り起こし、まるで走馬灯のように頭を駆け巡る。

 紗那は微笑んでいた。


「好きだよ、とても」


 人が住む社会が、たとえ薄汚れていたとしても。無関心の中、息をしていたとしても。それでも好きだと思えた。

 好きだけど嫌いで、嫌いだけど好き。人はあまり好きになれずとも、人の作る世界はとても好きで溢れている。


「嫌いなものや嫌なことばかりで、他からしたらちっぽけかもしれないけれど」


 見上げた空からは、雨雲の隙間を縫って光が差し込んでいたが、それでも、頬を流れる水分を雨だと思いたい。


「もし、僕に限界が来たら、手を貸してくれるかい?」


 そんな紗那へ、男が最後の仕上げを行う。ただ、これにだけは彼女が答えることが無かった。

 深入りも追及もせず、ブルーの瞳を見つめる。

 その約束を結ばなかったことで、紗那は二度目のゲームに勝ち、多くの命が消えることになるのだが、それを振り返っても彼女は悔やまない。


 なぜなら、自分が自分で良いのだとこの時男から教わったのだから――


 そうしてきっかけとなった二人は最初の逢瀬を終える。

 雨上がりの日の光や、反射して煌く葉の雫。目に映る景色はどれも耀かしく、降り注ぐ光は暖かく、与えられた言葉が紗那へと美しく染み込んでいく。

 一見、美しい出会いは汚れだらけで、ひっそりと伸びてくる黒い手は確実に紗那を捕らえ、上がったように思えた雨もまた、実は嵐の前の静けさでしかなく、気付いた時には立っているのも難しいほどの強風となって襲いかかる。

 それでも出会いは美しかったと、紗那は零した。美しけれど、美しくはならなかったと――

 

 破罪使は、こうして完成され、何も知らず無防備なまま最初のゲームは終わった。

 二度目のゲームが始まったのは、二人が再会して紗那がアピスへと降り立ってからではなく、彼女に巣食った呪いが発動した瞬間から開始される。

 その中で紗那はまた一人、別の敵と出会うのだが、男がそれを知るのは最後のゲームが始まってから。


 出会いを振り返り、紗那は言った。白い部屋で改めて出会った、生の精霊王という自らを生み出した相手に、アピスで培った残虐さを混ぜた狂気的な笑みを浮かべて。


「あの女から、お前を救ってあげるよ。生の精霊王」


 さあ、最後のゲームを始めよう――




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