丘を越えて、空を駆けよう
一人は言った。
この旅は、悪魔によって導き歩かされた地獄の道であったと。
一人は言った。
この旅そのものが、自らに与えられた罰であり、慈悲であったと。
二人は言った。
とても苦しい旅路であった。身体ではなく、心が締め付けられてばかりの悲しさを写す日々。けれども、それがなければ今の自分は居ないだろう。
二人は言った。
様々な感情を押し殺し、ただ一言。出逢えて良かったと。
共に見上げた最後の星空を、永遠に忘れない――
「機嫌が良いな、サイード」
「俺には、硬い地面の上で朝日に叩き起こされるぐらいが丁度良いんだよ」
「柔らかいベッドの方が良いなー」
精霊の門番が住む、大陸で唯一国に所有されていない土地。サイード達三人は、離れていた期間の溝を埋めるように、ゆっくりとした足並みで旅を再開し、堪能していた。
国と違い、一族が住んでいるだけの地は、必然的に人の手が加えられていない場所が殆どだ。それ故、暢気な会話をしている三人だが、彼等が歩いてきた後方には、まるで足跡のように残骸が点々と転がっている。
天使軍の隊員ではない。命を紡ぐ為、命を刈り取って生きる獣が、より強い生の糧となった。
けれども、サイード自身がその生を紡ぐわけではない。その屍にはすぐさま別の生きる獣が群がり、涎を垂らしながら牙を突き立て口周りを染め、恩恵を与えてくれた者に吠える。
その光景は、破罪使と悪魔の旅路を形にした姿ともいえる。自身は紡がず、紡いでいくための糸を紡いでいく。きっと、誰も気付かないであろう行為だ。人は無駄な殺生だと、残虐さだけを見て指を差す。
それでもサイードは、襲ってくる獣達へ剣を振り、毛皮を剥ぐことも無く転がしていく。獣もまた、群れであれば仲間が地に伏してから敵わないと引き、けれども暫くすれば別の獣が牙を向く。次はお前の番だと、そうやって茂みの中から飛び出してきた。
「少しは、手加減してやれば良いのに……」
「手負いの獣が生きていけるほど、世界は甘くないだろ。それに、賢い奴はちゃんと大人しくしている」
精霊の門番のテリトリーに入ってから、そんな日々が続いていた為、見かねたクランクが嗜めようとはしたが、サイードの剣が収められることは決してなかった。
「だったらせめて、ちゃんと食べてあげなよ。あれだったら、俺が治してあげるし」
「それこそキリがなくなるっつの。どうせもう直ぐ、切りたくても切れない状況になるんだから、少しぐらい好きにさせろ」
クランクとサイードの言い合いを一歩下がって眺めていたゼフは、二人の姿に気付かれないよう鼻で笑う。友になりたいと言ったクランクだが、今の光景はどこからどうみても他人では無い。どうせここから、しつこいクランクへサイードが苛立ち手や足が出てくる、そう考えた時には早速、サイードの素早い蹴りがクランクの腰へ大きなダメージを与えていた。
「ちょ、今のは痛い! すっごい痛い!」
「そりゃ、この四ヶ月、騎士なサイードは健気に扱かれていたからな」
蹲るクランクを置いて歩き、変わらず機嫌が良さそうなサイードも、本当に苛立ってはいないのだろう。表情が変わるようになった、ゼフがそんなことを思う。顔色は勿論のこと、体力や剣の腕もさることながら、何よりも感情豊かになった姿がリサーナの消滅を覆せない事実だと教えていた。
旅を再開してから、ゼフとクランクは離れていた間と、離れることになった原因の全容を聞いている。フィザーレイロに対しては、激怒するどころでは無かったのだが、だとしても自分達には何も出来なかっただろうと割り切れていた。サイードがこれで良かったと言ったのだから、口出しは無駄だ。
「リサーナがあの選択をした時、比べる秤の中にはお前達も居た。だからこれ以上、あいつの誇りを無駄だと言うのは止めろ」
これは、星の国の城から出て、打ちのめされながらも詰め寄った二人に対し、サイードが告げた言葉である。
こう言われてしまえば、非難のしようが無い。ずるいと思いつつ喜ぶ自分も居り、さらに二人を後悔させたのだが、それ以降彼等がリサーナについてサイードを言及することは二度と無かった。
「にしても、既に天使軍の妨害があっても良さそうだが……」
誰かが間に入らなければ、いつまで経ってもじゃれあっていそうなサイードとクランクへ、唯一その誰かになれるゼフが言った。
障害のある森ならば、隠れて進み見付からないよう注意を払うことは可能である。けれど、その森へと向かっている今は、視界の開けた平原であり、相手側も見つけやすい環境。精霊の門番のテリトリーへと入ってから、既に二日が経過しているというのに、その間、一度も交戦していないことが怪しくて仕方が無いとゼフは言ったのだ。
しかしそれは、サイードの言葉によって簡単に解消する。
「精霊の森への入り口は一つなんだろ? だったら、普通ならまだしも、その一歩手前で待ち構える方が勝機があるからな」
「手前? 入り口の前じゃなくて?」
大分痛めつけられつつ回復したクランクが不思議そうに尋ねれば、既に納得したゼフとサイードの溜息が重なった。
ショックを受けるクランクだが、冷たい視線は容赦なく降り注ぐ。仕様がなさそうに、サイードが丁寧に説明してやった。
「入り口の前を固めてたら、俺ならどうするとお前は思う」
その質問へ、クランクは腕を組んで首を傾げ、考えすぎて時折躓きながら、やっとのことで「飛ぶ!」自身満々で答えた。残念ながら、そこから先を自らで言い当てるには至らず、続きを期待する視線がサイードへと注がれる。
「で、入り口を超えたらさようなら、だ。そんなこと、相手側も何度も見てるんだから、予測済みだろう。だが、それよりも前で構えていれば追撃も可能で、チャンスも増える」
「成る程!」
「……お前の記憶を吹っ飛ばして、一から教育していれば良かったな」
サイードの呟きに、ゼフが「それは良い案だ。惜しいことをしたな」と笑った。
そうしている間にも、三人は一歩一歩着実に森へと近付き、次第に小高い丘を上っていく。名も知らない花が揺れ、草が揺れ、温かな日差しが降り注ぐ。全てが長閑で獣も襲ってこなくなり、サイードは穏やかな表情で景色を眺める。
「それで、どう対処するつもりだ」
暫く、静かな雰囲気が流れていたが、ゼフの言葉でサイードの意識が戻った。
今まで以上に行き当たりばったりで、森に入ってからもどうしていくべきかが残っており、頼りになるのは星の精霊王が残した言葉のみ。けれどもサイードは、知ったことかとゼフの質問にだけ答える。
「出来る限り交戦せず、初めは飛んで逃げる」
目の前を横切る蝶に視線を送り、花弁に止まって翼を閉じる様を見れば、続きを促す二人の視線に気が付いた。
「でもまぁ、この先何があるか分からないから、力は温存しておくべきだな。相手が馬を持っているなら、それを奪うか」
サイードが「馬に乗れるか?」と聞けば、驚いたのは寧ろゼフとクランクの方だった。
これまで、サイードが馬に乗って旅をしたことは一度も無い。それは、馬以上に速い移動手段を持ち合わせていたのが理由ではあるが、何より彼の持つ死の雰囲気が人に近しく生きる動物に恐れられ、使いものにならなかったのも原因だ。
それを自分でも分かっていたサイードは、リサーナの戦闘脳な獣と言った言葉を思い出し、少しばかり不貞腐れながら取り繕う。
「騎士は馬に乗れて当然だったんだよ。それに、俺だっていい加減、自分を律する余裕ぐらいある」
「やっと、の間違いじゃないの?」
クランクの思わずな呟きは、慌てて口を塞いでそ知らぬ振りをしたところで無駄である。しっかりと聞き取ったサイードの鋭い眼光が彼を襲い、これ以上痛い思いはご免だと丘を駆け上がった。
追う気は無いのか、呆れの息を吐きながら、サイードはもう一つ自分に向けられている視線に目をやった。
ゼフの血色の悪い唇は微かに上がっており、お前もからかうつもりかと、サイードが眉間に皺を寄せる。けれども、その唇からは穏やかな声が零れた。
「リサーナのおかげか」
「……あぁ。色々、残してもらってる」
責めるのではなく安心する様な声に、サイードは同じ様に返した。「それなら良い」と呟き、クランクを追っていくゼフの背中を、立ち止まり見つめる。静かに吹く風が、髪を躍らせ香りを運ぶ。
「なぁ……、俺も残せると思うか?」
その風は、尋ねているのか独り言か分からない声を、しっかりとゼフへ届けた。
四ヶ月の間に起こった事柄に対しては説明をしたサイードであったが、リサーナが消えた原因や自らも消える運命にあることの理由は、決して明かさずにいる。当初は引き下がらなかったゼフとクランクだが、それが勝敗を左右するものだと言われてからは、黙って割り切るしか無かった。
そんなサイードが零した言葉。そこに恐れは無く、どこか切なさだけがある。
まさかそんな事を問われると思っていなかったゼフは、持っていない心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚えながら、振り返らずに空を見上げた。
「既に、数え切れない程もらっている」
絞り出された返事に、サイードはフッと笑みを零す。「なら良いさ」そう言って再び歩き出し、ゼフを追い抜く際にその肩を叩いた。
今度はゼフがサイードの背中を見つめ、その儚さから思わず口に出たのが背負うと決めた罪に対する謝罪だ。サイードが振り返らずに「何がだよ」そう問えば、唇が本人を無視して勝手に動く。
「お前達を悪魔にし、引き返せなくしてしまったことだ」
「ウェントゥスのことか?」
要領を得ない言葉を的確に言い当てるのだから、やはりそうなのだとゼフが視線を下げれば、サイードが「らしくねぇな」と鼻で笑う。
「安心しろよ。元々引き返すつもりなんて毛頭無かったし、それに、始まった時には既に引き返せなかったから」
「……どういう」
慰めにも似たものは、ただの追い打ちにしかならない、とゼフが顔を上げた先。そこには、右目だけで彼を見つめる横顔があった。
そしてもう一度、「既に引き返せなかったんだよ」そうサイードが零す。
「終わっていた。始まった時にはもう、全ての選択が為されていた。戦いがあるのは、この世界だけではないってことだ」
「しかし、お前の世界は……」
言い淀むゼフへ、サイードが瞬きをして一呼吸置く。その時、瞳から何かが零れた気がした。黒い靄が、溢れ出た気が――
「歪んだものは、戻せない。歪んでいたものがさらに歪んだところで、誰の責任にもならない。だから安心しろ。お前は、間違っただけだ」
それはゼフが気付けない程微かで、さらにサイードが前を向いて進んで行ったことで確認も出来ない。
追いていかれそうになり、ゼフもそれ以上話を続けられなかった。
そして、サイードから逃げていたクランクが見えてきた時には、先に追い付いていたサイードと二人して、丘の上で楽しそうに話をしている。
自分にだけ打ち明けてくれる日は、きっとこないのだな。ゼフは、失笑した。
「ゼフ、見てみろよ」
そんな憂いも知らず、何事も無かった様に声を掛けてくるサイードの強さが羨ましい。ゼフは、悲観や後悔の際にはいつだって自分本位でしか物事を見ていなかった。
当たり前であるかもしれないが、打ち明けてくれないという事実しか考えず、何故サイードが打ち明けないのかを思ったりしない。
本当は、打ち明けても良かったのだ。そうしたところで、サイードの言う勝敗は変わらなかっただろう。ルシエにしても、寧ろゲームはより複雑となり、面白さが増したかもしれない。
ただしその代償として、ゼフやクランクとの旅は成立しなかったはずだ。成り立ったとしても、必要な時だけ現れる精霊としてでしか動かない関係で終わっただろう。
だから、破罪使も悪魔も、打ち明けなかったのかもしれない。嫌々ながら始まった旅でも、それがいつの間にか手放せない、手放したくないものになっていて、もしかすると、壊したくなかったのかもしれないのだから。
それに気付けば、ゼフの心もきっと軽くなる。また違った後悔を抱くだろうが、今のものよりその後悔の方が、どちらに対しても淡く微笑めるはずだ。
「何かあったのか?」
残念ながら今はまだ、指で何かを示すサイードにゼフがそう考える余裕は無かったが、少なくともサイードは、隔てる壁を前よりも薄くしていた。
そして、追い付き隣に立ったゼフは、丘の上から同じ景色を見た。
「綺麗だねぇ」
「景色だけはな」
広がっていたのは、今まで歩いていたのと同じ平原と、清らかな空気を放つ森。そして、どこまでも続く青空だった。
規模としては中位で、終わりは見えないが広がりはそこまで大きくない。さらに、その森を一体どれぐらいの年月を掛けて作ったのか人工的な壁が囲い、丁度三人の真正面にポツリと一つ、小さな建物があった。
その森こそが、精霊の森。三人にとって、決して無関係とは言えない地。
クランクは、ちらりとサイードの顔色を窺いながら、恐る恐る尋ねた。
「言って良い?」
「思った事を好きに言えば良いだろ」
精霊の森を、どこか遠い目をして見つめるサイードは、何故そんなことを聞くのかも言うであろう言葉も分かりながら、苛立ってもいないが穏やかとも思えない声音で返した。
それでもクランクは、言わずにいられないのだろう。何度か口を開いては閉じを繰り返し、大きく深呼吸をしてから瞼を落として言った。
「懐かしいなぁ……」
哀愁漂うその呟きは、一陣の風に攫われて儚く散っていく。サイードはそれを憫笑し、ゼフに対してお前もそうなのかと見つめた。
ゼフは素直に頷きつつも、同じ様な笑みを浮かべる。
「けれども、恋しくはない」
「そうだねぇ。夢は、いつか覚めるものだもんね」
そして、三人はそれぞれ武器を手に取って、森から手前、丘の終わりに視線を落とした。
先ほどから、風に乗って微かに聴こえていた馬の嘶き。戦闘体勢を促す高音の笛。そこだけは、平原ではなく黒が広がっている。
「熱烈な歓迎だな。流石のこの数、馬鹿正直に相手をするのは骨が折れそうだ」
「骨どころか首が飛ぶぞ」
「え、どっちが? 俺達? それとも向こう?」
言葉とは裏腹に、とても楽しそうなサイードとゼフだったが、クランクの言葉で二人して彼に視線を向けた。
いつものような呆れが含んだものではなく、僅かに驚いたような表情をしていて、不思議そうにクランクが首を傾げれば、二人共があくどい笑みを浮かべながら隠していた牙を剥き出しにする。
「お前も大分、えげつない方向に進んでるな、癒しの王」
「とはいっても、まだまだ悪魔と私には遠く及ばないがな」
そう言って、ローブを脱いで足に風を纏い、力強く地を蹴る二人に、少し遅れてやられたと笑ったクランクが続き、彼等を出迎えるのは無数の矢。
サイードの予想通り、丘の下で待ち受けていたのは天使軍であった。その数は、おそらく今までで最も多いだろう。全隊員とまではいかないだろうが、それでも一国の軍隊が戦争を行える数は優に越えている。
そんな相手に対し、怯むことなく嗤いながら向かっていくのは豪胆が故か。サイードは、見事な剣捌きで矢を落としながら高らかに咆哮した。
「これが最後の機会だと思って、精々食らいついてこい!」
決して剣の届く範囲に入らないのだから、姑息というか狡猾というべきか。数がいても、矢と魔法だけでは簡単になぎ払われるだけで、さらに三人は攻撃を掻い潜りながら、颯爽と黒い集団の上空へと移動する。
そうすると、矢と魔法の攻撃すら同士討ちにしかならず、注がれるのは無数の憎悪が滲む視線と怒号のみとなった。
「森の何倍も良い眺めだな」
少数でかかれば力で捻じ伏せ、かといって数で攻めればその弱点を突き、どうせならドラゴンを手懐けてこいよと嗤うサイードにとって、向けられる負の感情全てが玩具である。
ただし、最早戯れるにはリスクが大きい為、早々に満足したサイードは、すぐさまゼフに目配せをして指示を飛ばした。
「無駄な物は全部外せよ」
「落ち着かせられるのか?」
ゼフの言葉に、サイードは自慢気に笑った。
それを受けたゼフは、要らぬ心配だったと、丁度森側の殿に位置する場所の中から三頭の馬に目を付け、風の刃を持たない手を一振り。そこから不自然な突風が生まれ、天使軍を襲った。
木霊す人と馬の悲鳴。騎兵が地に叩き付けられ、剣が飛び、歩兵も倒れる。そんな混乱の中で、三人の前には三頭の馬が運ばれていた。
「あ、俺こいつが良い」
「言うと思ったー」
大分興奮し、空中で暴れまわる馬を前に、サイードは気にせず一頭を指差す。そうすれば、クランクが呆れながら突っ込みを入れた。
サイードが選んだ馬は、それはそれは見事な黒馬であった。馬特有の円らな瞳は黒に近い赤で、正義を掲げる天使軍よりもそれこそ悪魔にぴったりだ。
その馬を前に、サイードは空中で近付き赤い瞳を見つめる。ゼフとクランクも、各々で興奮を鎮める作業へと入った。
突風は止んだが、それによって生じた混乱を収めるのに必死な天使軍の攻撃は、今のところ無い。
三人とも、じっと馬を見つめ、暴れて鞭のようにしなる手綱を掴む。サイードは、それを自分の側へ強く引くと、始めは何も浮かべず、馬の意識が確実に自分へと向いた瞬間に獰猛なものを向けた。
すると、馬は身体を大きく震えさせ、恐怖に硬直する。そこでサイードが、獰猛さを沈めて柔らかに微笑めば、馬は小さく嘶いて空中で足踏みをし、落ち着きを取り戻した。
「お見事ー」
「まぁ、今まで出来なかったことが可笑しいのだがな」
見事な手前なのだろう。ただ、どうだと言わんばかりにゼフとクランクを見ようとしたサイードへ、その二人の声が高い位置から降り注ぐ。
ヒクリと頬を痙攣させながら目をやれば、二人は既に馬上にてサイードの奮闘を眺めていた。
残念ながら、クランクは馬の手綱を握って目を合わせただけで簡単に手懐けており、ゼフなどは落ち着ける前に跨り風によって強制的に従わせていた。つまりは、サイードはかなり出遅れていたということだ。
「ふっふーん。流石のサイードも、不得意分野には手こずっちゃうってわけだねぇ」
悔しさを滲ませながら、それでも何とか平常心を保って馬へと跨ったサイード。しかし、学習しないクランクの言葉によって、負けず嫌いで短気な性格に火が点いてしまう。
ドヤ顔なクランクへ、ゼフが「馬鹿が」と呟いた時には、最早手遅れであった。
「――っ!」
「あぁ、悪い。今のは俺じゃなく、この馬がお前にむかついたらしい」
空中だからこそ為せる技。見事、クランクの顔に向けて、サイードの乗る黒馬の右前足がめり込んでいた。
声の無い悲鳴がその下から漏れ、クランクの乗る馬からも、まるで嘲笑するような嘶きが聞こえる。
「サイードぉ!」
クランクがあまりの痛みに悶絶し、なんとか自身に治癒をかけて立ち直り叫んだ時には、生憎サイードは地面に向かって馬を走らせていた。
さらに叫ぼうと口を開けば、その隣をゼフが「置いて行くぞ」と言いながら通り過ぎ、哀れクランクは八つ当たりに屈することとなる。急ぎ馬を走らせた彼の下では、必死に悪魔を追う天使軍の鋭い視線が、混乱を沈めて広がっていた。
「お前、俺と気が合いそうだな」
ちなみに、可愛いとは言えない悪戯を成功させたサイードは、黒馬のたてがみを撫でながら、クツクツと笑っていた。
バルバロトや親衛隊の面々によって叩きこまれた手綱捌きは、熟練の騎士にも引けを取らず、空中という不安定な場所でありながら一切のぐらつきを見せない。
そして、天使軍の頭上をいくらか通り過ぎた頃、馬の足が平原へとめり込んだ。その時の衝撃も、腰を浮かせ馬への負担が軽減するよう魔法をコントロールしながらで、間抜けに落馬などしない。ゼフとクランクも、それに続いた。
既に矢と魔法の攻撃は再び背中から放たれており、その対処も行いつつ、三人は平原を突破していく。
けれども、天使軍は決死の想いで背後から迫り、サイードは小さく舌打ちをすると声を張り上げた。
「流石に数が多い! クランクは馬の足を強化、ゼフは風を纏わせろ!」
「それで振りきれるのか!?」
ゼフの懸念は尤もだ。おそらく、森へ入れば天使軍は追ってこれない。精霊の森は精霊の為に存在する、人にとっては不可侵な地。ただし、そこまで辿り着くまでに追い付かれてしまえば、殺しを回避出来ないだろう。
サイードは落馬の危険を無視し、剣を指輪に戻しながら瞳を閉じて、静かに深く呼吸した。
「魔法で足止めをするよ」
そして、ルシエが現れた。
ルシエは、サイードと寸分違わぬ技術で馬を操り、ゼフとクランクそれぞれと頷き合うと詠唱を開始する。
「命ずる、創造の権利を我へ」
髪と瞳が土色に変化し、魔力を感じた馬が僅かに身じろいだ。それを抑えながら、ルシエは続ける。
「迫りくる愚者に、その愚かさを伝える壁を」
すると、三人に迫る天使軍の軍勢の前へ、馬の背丈ほどの土の壁が幾つも突き出し足を乱した。
上手い者はタイミング良くそれを交わし、変わらず追ってはくるが、何度も何度も進路の邪魔をするその壁は、徐々に相手の数を減らしていく。
さらに、ゼフとクランクの魔法により、三人の馬の速さは増し、距離が開けていった。
「繋がりを形に。我の声に答え、迫る愚者の足並みを乱せ」
それで安堵し、気を抜かないのが破罪使である。ルシエはまたしても詠唱し、今度は土色だった髪と瞳が戻った。
色を変化させずに使える魔法は、ゼフとクランクの属性以外は海のみ。案の定、三人が通り過ぎた平原が徐々に凍り始め、分厚く滑りが良くなる。
「このまま振り切るよ!」
「さっすがルシエ~!」
「姑息さは秀逸だな」
その手腕に舌を巻いた二人にとっては純粋な賛辞だったが、どこか素直に受け止められず苦笑したルシエは、一際強く手綱を振った。
そうして辿り着いたのが、今まで見てきたどれよりも小さく古めかしい城である。
門前で馬を止めた三人。ゼフとクランクは黙って城を見上げたが、ルシエはすぐさま背後へと方向を変え、再び詠唱を施して時間稼ぎを怠らない。
「我、何人の侵入をも拒み防ぐ盾を望む」
そして、両脇から伸びている壁と同じ高さまで土が伸び、半円を描きながら城を隠した。
「これで、当分は大丈夫かな」
力んでいた身体の力を呼気として吐き出し、ゆっくりと下乗し労いを込めながら馬の頬を撫でる。
疲労から荒い息を繰り返す黒馬は、目を細めてそれを受け入れていた。
「しかし、城にも何かあるかもしれないな」
「君達は、この城について何か知らないの?」
ルシエと同じく、武器を収めながら馬を降りたゼフとクランク。二人はその問いへ、顔を見合わせ即答を拒んだ。その瞳は、迷いを孕んでいる。
「じゃあ、森で過ごしていた時の君達は、この城を知っている?」
その動揺があからさま過ぎ、仕方なさそうに首を振ったルシエは質問を変えた。
二人に対し、大分嘘が下手になっていると感じたその想いは、呆れなのか照れくささなのか。少なくとも、二人が助けられたのは確かだろう。
「……知らないな」
「知らない、ね」
申し訳なさそうに言う二人へ、ルシエは何も言わなかった。
その代わり、黒馬に向けて「色々と、ままならなくなってるのにね」そう零す。
「とりあえず、入らなければ何も始まらないから。……行こうか」
最後に一撫で、「お疲れ様」そう馬へ告げれば、気まずい雰囲気が流れながらも三人は歩き出す。背後からは、段々と近付いてくる馬の足音や怒号が聞こえてくるが、それを無視して彼等は進んだ。
精霊の森へと続く、謎の城の内部へと――
その城は、言うなればルシエの為に建てられたものである。哀れな姫への感謝を込めて、城という名の墓標として嬉々と用意されたものだった。