最大の罪、それは君を愛したこと
「ああぁぁぁー! 勿体無い!」
夢のような一夜が明け、睡眠を切実に欲求してくる重たい頭で必死に準備を終えた紗那の前で響いたのは、彼女を苛立たせる天才の悲鳴にも似た叫びだった。
「あぁもう、煩い!」
「だ、だって、だって髪! せっかくの髪が!」
世界が騒いだ原因は、叫んだ言葉の通り紗那の髪にあった。昨日までは流れる美しい腰までの長さだったというのに、彼女の変わりようはかなりのものだ。
只のショートヘアーならまだしも、今の髪型は明らかに男のもので驚きも倍増である。
ただし皮肉な事に、中性的な顔立ちが短い男らしい髪型により引き立ち、普通とは違った意味で似合っていた。右の前髪だけ目を隠すように長いのがまた、どこかミステリアスだ。
人の頭を指差して口をぱくぱくさせるなど、失礼にも程があるだろうとぼやいても、この時ばかりは世界に通用しなかった。
「もー、これから何が起こるか見当もつかないんだから、男として動いたほうが得策でしょうが。ってことで、準備してくれたよね?」
幸い、声も低くもなく高くもない。男としては少し高いかな、女としては少し低いかなという印象を人に抱かせる。本人も、まるでこうなるのが前提で産まれてきたみたいだと、あまりの都合の良さに笑っていたところだ。
「あ、うん」
そんな中、世界は淡く紗那が準備する間に心変わりするのを期待していたのかもしれない。そんな様子がまったくない彼女に、悲しそうな顔をしていた。
紗那にとって、別れはする必要が無かった。
部屋へ戻った時には朝になっていて、切り替えの為にと用意したコーヒーと軽い朝食を手早く味わった後は、今まであまり手を付けずにいた両親からのお金やバイト代を注ぎ込み、街で必要な物を揃えるのに奔走した。
そして、学校へ一方的に退学届けを押し付け、携帯を解約し、家にある自分の物を出来るだけ処分していく。手元に残ったお金は全て銀行からおろし、短い手紙と共にダイニングテーブルの上へ。可能な限り地球に居た痕跡を消し去った後に残ったのは、ベッド等の粗大ゴミだけであった。
――発つ鳥、後を濁さず。
そう言えば聞こえが良いが、紗那自身未練を断ち切りたかったのかもしれない。実際、長年すれ違い続けて色々な感情を抱いていた両親に対しては、『自業自得だよ』と捨てゼリフを送っていた。それが誰に向けてなのかは、彼女にしか分からない。
「ほら、さっさと昨日の場所に行くんじゃないの? デル」
「デル?」
「言ったでしょ? あんたの名前、考えといてあげるって」
一度、静かにリビングを見渡した紗那は、照れたように言った。
デルフィニウムの花からとって、デル。美容室で髪を切ってもらっている最中読んでいた雑誌に花言葉が載っていて、これしかないなと決めた名だった。
きっかけを聞けばなんて安直な考え方だと思うだろうが、我ながらぴったりだと紗那は無い胸を張る。
「デル……デルフィニウム、かな?」
世界――デルも察したらしく、ここでまで意地悪をしなくていいじゃないかと言いつつも、嫌では無いのかどこか嬉しそうにはにかんでいた。
名は、何よりも鎖となる。そこに込められる想いが大きければ、大きいほどに。
「嫌味な名前だけど、まぁいいさ。じゃ、行こうか」
明けっぱなしのカーテンの先では、真っ赤な夕日が沈み始めていて、部屋をその色に染め上げる。逆光のせいで眩しく、目を細めながら差し出された手を取った紗那にとって、そこから見た景色が地球での最後となった。
持って行ったものは、変装用のカツラやカラーコンタクト、そういったものだけで、思い出の品は一切無い。この後、社会でどういった扱いを受けるにしろ、二度とコンクリートの地を踏むことは叶わないのだ。でも、それで良いと本人は心から思っている。
全てが終わった時、責められるのは紗那だけだろう。デルはおそらく、色々な者から優しく慰められる。
君は悪くない、そんな感じで――
「まっ、こんなもんか」
「もっ、だめ、無理っ! 過労、死、するー!」
再び、昨日と同じ部屋へと連れて来られた紗那は、あれこれとデルに指示を出して漸く出発できる状態になっていた。
アピスには黒髪、黒目は居ないらしく。まず、短く切った髪を違和感の無いシルバー、瞳をゴールドに変えさせ、さらに用意させていたあちらでの旅装束に着替える。それから当然言語を理解し話せるようにと、読み書き言葉もチート上等と習得させた。
他にも執拗に細かい作業を頼んでいったが、それは追々説明していくとしよう。
その結果が、今の状況である。
疲労困憊で床に伏せて青い顔をしているデルと、高鳴る気持ちが抑えきれずにテンションが上がりぎみの紗那。かなりの温度差だ。
脅して出してもらった姿見に映るのは、日本人の要素が欠片も残っていない目つきの悪い青年。クルリとその場で回転し、全身をチェックする仕草は流石に女のものではあるが、スタイルはそれにしては寂しく、身長をとっても女にしてはかなり高いので不信な点はどこにもない。ついでを言えば、本人もびっくりの美青年だ。
どこかミステリアスで、エキサイティング。年上に好かれそうなタイプである。
「で、あんたは何時までダレてんの?」
「あれだけ酷使されたら、疲れて当然だよっ!」
あまりの理不尽さにデルが起き上がって訴えるも、今のテンション最高潮な紗那に勝てるわけがない。普段でも難しいが、「それだけ叫べれば十分元気でしょ」と切られてしまう。
さらに、横暴だ悪魔だという文句を喚かれるが、それは褒め言葉にしか思えず、紗那は無視して最後の仕上げに取りかかった。
まず、黒い布とピアスが一体となっているマスク紛いのものを付けて目から下を隠し、加えて、さらに大きな布を特殊な巻き方、まるで素人とは思えない手つきで素早く髪からマスクの上、肩まで覆っていく。
すると、イメージとしてはアラビアのような、マントを靡かせる男が出来上がった。
晒されているのは金の瞳のみで、怪しさ満点である。日本でこんな格好をして歩けば、即通報か職務質問されること間違いなしだ。
「うっわ、めちゃくちゃファンタジー……!」
自分で作り上げたというのに、紗那は普段からは想像できない程にはしゃいで楽しそうにしていた。
ここまで徹底的に顔を隠すのは、当然これから先、予想の付かない事ばかりが待ち受けていると考えているからだ。
デルに教えられた限り、文化や文明も、何もかもが常識外ばかり。出来る限り目立たず悟られず、紗那は動いていかなければならない。
「で、私の名前は?」
「その質問を待ってたよー!」
全身の最終チェックを施しながら軽く聞いたことに、デルは馬鹿みたいに大げさに反応した。思わず眉を顰める紗那だったが、最早その表情を見た目で窺い知るのは不可能であり、デルが気付くことは無かった。
「女の子の時はリサーナ。覚えやすいよう、紗那から考えましたん!」
嬉々として発表するデルであったが、可哀想に紗那は今一の反応。あまりに安直で悪趣味だと彼女は思った。
しかし、それすら気付かないデルである。二人のテンションは、まったくの真逆に変わっていく。
「んで、男の子のはサイード! これはなんか、ピカッときて決めました~」
「うっわぁ……」
紗那は心底デルに頼んだのを後悔した。さっきのリサーナもだが、それ以上にサイードとは。アニメの一話で死ぬ脇役感がムンムンで、どうにも不安に駆られたのだ。
流石に言葉まで呟かれたら気付いたのか、そんな紗那の反応がお気に召さず、デルはいじけて床に突っ伏した。気のせいじゃなく、嗚咽も聞こえてくる。
しかし、そこで申し訳無いとは思わないのが紗那だ。良い加減デルも覚えればいいものを、許せる範囲を超えてふざける彼に苛立ち、そうすれば考える前に手が動く。
「ごめんなさい、もうふざけませんっ!」
まぁ、ギリギリで身の危険を感じたデルが察知するのだが。殴りそこない舌打ちをする音には、気付かないフリをするのが得策なのだろう。
こうやって、一見緊張感など皆無なやり取りを続ける二人であったが、デルはずっと緊張が空回りしている状態で、紗那はそれを無視する形で空気を保たせていた。
しかし、それももう終わる。
事前にやるべき事はすべて済ませたのだ。後はもう、ただ突き進むだけ。
「実はね、もう一つ、用意してるんだ」
「さすが、分かってるじゃん」
二人はまったく正反対の笑みを交わし、どちらともなく抱き合う。
傍から見ればどうやっても怪しくはあるが、そんなことは見る者がいなければ関係無い。
デルの身体は、小刻みに震えていた。
「……ルシエ。これから先、僕は君をそう呼ぶよ」
か細い声で言われた言葉に、紗那は頷いた。
リサーナ。それは、紗那という地球にいた一人の少女の存在と記憶を留める戒めの名。
サイード。それは、地球にもアピスにも居場所がない、それでいてどちらにも属するという証明の名。
「デルも相当嫌味な奴だね。魔界の王ならまだしも、そんなところから取るなんて」
「ルシエには負けるさ」
紗那も名に込められている意味が分かったのか、少し悔しそうにはにかむ。布に隠されて見えなくても視え、デルは受け取ってくれたことに喜びを感じた。
ルシエ。それは罪を示す名であり、存在を知らしめる名だ。
「ま、私にぴったりだね。んじゃあ、せっかくだからそれにプラスしよっかな」
どれも授かったばかりで、馴染むまでに時間がかかるだろう。それでも、リサーナは騙す際に何度も口にし、サイードは隠れたり奪ったりする際、この中で一番口にしていくだろう。
そして――
「破罪使、ルシエ。うん、これが一番ぴったりだ」
その罪すらも壊す使い。破壊するだけじゃ飽きたらず、破壊そのものを呼びこむ使者。アピスの歴史に深く刻まれるであろう、新しい彼女の名。
「これまた、捻くれた字だねぇ」
つい先ほど贈られ初めて口にした名は、もう二度と会うことのない人へと渡る。お互いの名だけが、恐らくこの出会いを絆へと変えてくれるはずだ。口にし、される度に。
「じゃあ、いってらっしゃい。捻くれるのも程ほどにね?」
「さよなら、脆弱エゴイスト。まっ、私はしたいようにするだけだよ」
何時だって別れとはあっさりとやってくる。
彼女の足元から黒い光が現れ、それが蛇のようにうねりながらその身体に巻き付き始めた。
真っ白な場所で見える黒は毒々しく、そのまま身体は黒い空間へゆっくり引きずり込まれていく。しかし、彼女は焦らない。
二人はお互い静かに見つめ合い、自然と顔を引き寄せる。最初で最後の、布越しのキスだった。
布はまるで鉄格子のように想いと熱を隔てる。それでも二人は深く熱く、互いの罪を分け合い擦り合う。
彼女は、そのさらに下でひっそりと込められた想いだけを汲み取らずに、とんっと軽く相手の身体を押した。
たったそれだけで、簡単にその距離は開けてしまった。
ラブとライクは、似ているようで決して交わらない重みの違う想いだ。悲しいかな、それが二人の差であった。
「じゃ、暴れてきますか!」
名残惜しさを隠せずに儚い笑みを浮かべるデルに、彼女はマスクの下で笑顔を返し大きく手を振った。最後に、ある言葉を負わせながら。
そうして、地球に存在していた河内紗那という一人の少女の短い生涯が幕を閉じた。
「じゃあ、まずは一番楽な場所に飛ばすねー?」
「ふざけんな、一番難易度高いところだろそこは!」
それが、二人が交わした最後の会話だった。
河内紗那が最後に世界に負わせた言葉。
それは、「絶対に、許さないから」という、あまりにも残酷で切ない想いだった。