葛藤を笑いながら日は落ちる
アズローレンの城内では、物の割れる音が日常茶飯事に響く。しかし、それはある日を境に頻度を増し、最早壊れた物が新調されることは無くなっていた。
「どうして、どうして、どうして!」
悲痛な叫びは、破壊音によって病的なまでに不気味さを醸し出し、被害の及ばない場所にて、相手が落ち着くまで黙って見続ける剣士は、人知れず溜め息を吐いた。
フィザーレイロに選ばれた特別な者が姿を消してから、既に二ヶ月が経過している。
その事件の直後、責任を追及された弓使いは、フィザーレイロの怒りによって重体となり、未だにベッドから起き上がることが出来ない。そのせいで、剣士が一人でフィザーレイロの世話をしなければならず、捜索も思うようにいかなかった。
ただでさえ、寝具に残されていた血痕は大量で、その者の安否すら危うい状態だ。それを考慮すれば、そう遠くまで逃げ果せているとは思えず、さらに、フィザーレイロの執着と今の精神状態を考えれば、一刻も早く連れ戻さなければならないというのに、身体が一つでは思う様にいかないと、剣士は頭痛を感じる。
「陛下、そろそろ……」
「そうか!」
とりあえず、執務だけは毎日こなしてもらわなければと、剣士がフィザーレイロに意を決して声を掛けようとした時だった。
花瓶や絵画など、部屋にある高価な品々の殆どをただの塵へと変えてしまってから、フィザーレイロが弾かれたように声を上げる。
影の差していた表情が一転、明るさを戻しながらその視線を剣士に向けた。
「彼女は、僕が王らしく見えなかったから、身を切る想いで苦渋の選択をしなければいけなかったんだね」
「……陛下?」
突然何を言い出したのかと剣士が首を傾げても、フィザーレイロは「そうだったのか……」と繰り返しながら、納得した様子で部屋を出ようとする。
部屋の有様など気にも留めず、颯爽と歩き出していた。
「僕には相応しい彼女だけれど、僕がまだ、彼女に相応しい王になれていなかったということだよ」
訳の分からない剣士だったが、フィザーレイロが振り返って告げた言葉に成る程と思い、「それでは、本日の執務ですが……」とやる気に満ち溢れる背中を追う。
「そうとなったら、まずは王の最大の責務を果たさないとね。僕に相応しいのは彼女だけれど、空の国王の相手としては、地位の無い女性は些か不釣合いか……」
執務室へと向かう廊下で、フィザーレイロはぶつぶつと呟いていた。
その姿を見る剣士は、気味悪く思うどころか、自身の主を褒め称えていたのだから、この国の思想はやはり異質だ。
けれど、後の史実で、フィザーレイロは空の国で最も有能で特別な王として名を刻むこととなる。
ただ、どれだけ都合の良い解釈をしたとしても、フィザーレイロが悪魔を再び手中に収めることはなく、当然、彼が幾ら王として立派に責務を果たしたところで、相手が姿を現す事も無かった。
数年後、適当に選ばれた妃との間に出来た子へその狂気を宿し、フィザーレイロは一生、悪魔を求めて彷徨い続けたのである。
さて、これで一人の王の末路については語り終えたが、彼が巻き起こした一連の騒動は、日を経てど解決した訳では無い。
悪魔がとうとう7個目の精石を破壊し、蒼い光と共に一人の女が旅立った時、その仲間は安否すらまともに把握できていない状態だった。
それどころか、蒼い光が消えた瞬間、ゼフとクランクはルシエの魔力すら見失っていたのである。
そこから考えられるものは二つ。術者が、生命維持にしか魔力を消費できない瀕死の状態にあるか、故意に魔力を抑えているかのどちらかである。
死亡した場合には、精霊側は喪失感によってそれを知ることが出来るが、実体化により別行動が可能な精霊王という立場が二人の仇となって、その行方を見失った。
故意に魔力を抑えるのも、相当な技術が必要ではあるが、ルシエ達は平凡な魔力の割にコントロール技術が素晴らしいので、そう難しいことでは無いだろう。
フィザーレイロの弱っているという言葉から、破壊された当初、ゼフとクランクは瀕死にあると考えて顔を青くさせ、直ぐにその姿を探して駆け回った。
しかし、それが二ヶ月経過した頃には、何かが可笑しいと別の不安を抱き始め、別行動を一旦止めて合流する。
アズローレンを隈なく探し終えて、二人は空の国全土を捜索範囲としていたのだ。そして、とある小さな森にある泉にて、約一ヶ月ぶりに両者は対面していた。
「ひっさしぶりー」
「相変わらず暢気な奴だな」
「どこをどう見たら、そう言えるのさ。この目の下の隈見てよー」
先に到着していたクランクが、泉に足を浸けながら待っていると、深くフードを被って顔を隠すゼフが姿を現した。
穏やかに感じる会話だが、その声は二人とも弱々しく、自分で示したクランクは勿論、フードを下ろしたゼフも目の下に濃い隈を作っており、その疲労は計り知れない。
ゆっくりとクランクの隣にゼフが胡坐を掻き、二人は言葉を出さずにお互いの質問に対して首を振った。
「二ヶ月だよ? 二ヶ月。いくら瀕死だったとしても、少しは回復してるはずなのに」
「命はあるが、魔力を封じられた状態にあるか……。もしくは、私達と合流する気がないかのどちらかだな」
重い溜息が、ゼフの言葉によって泉に落とされる。
どちらにしても、二人にとってはあまり好ましくない事である。
そもそも、魔力を封じるなどかなり高度なものであり、二人の精霊王はその術すら聞いた事が無い。それは、下手をすれば寿命まで左右しかねない技術だからだ。
そして、ルシエが望んで今の状況を作り出しているのだとすれば、二人はお払い箱にされたと判断しても間違いでは無いだろう。
その可能性を否定できないのだから、尚更気が重くなってしまった。
「精封石なんて、考えたことも無かったよ」
「あぁ……。今更ながらに、ルシエの言葉が耳に痛いな」
空の国を駆けずり回った事でやっと知ったその存在が、何より二人の不安を掻き立てていた。
世界を掌握していると自惚れていた精霊王。ゼフとクランクのみならず、全ての精霊王がそうだった。
けれど、二人が他と違うのは、ルシエと共に居る事で、人の視線に近い場所で世界を見ることが出来たという点だ。そうすると、あまりに自分達が無知だったと彼等は知る。
精封石も勿論のこと、死のある生き物の生き様が、二人の価値観に大きな変化をもたらしていた。
「どこに居るのかなぁー」
「動き回れる、と仮定して考えた方が良いのかもしれん」
ゼフとクランクは、満点の星を眺めることも、清々しい夜風にあたることもせず、泉に浮ぶ一人の幻を望みながら話続けた。
今は、どんな些細な事でもルシエとの思い出に結びついてしまい、どうやったって諦めが滲んでしまう。
けれど、信じると、守ると決めたからには、どんな結果になるにせよ、二人は一抹の希望であっても縋りついて離れないつもりだ。
「そもそも、瀕死であればアズローレンから自力に出る事は出来なかったはずだ。しかも、空を解放した直後に行方を見失っているのだから、彼奴が何らかの手段を用いていても可笑しくない」
ゼフは、別行動を取っている間に、乱れた思考を落ち着けながら様々な可能性を考えていた。それはクランクも同様で、二人共が当初は動揺していたが、二ヶ月も経てば諦めが浮ぶだけでは無く、冷静に考えを巡らすことも出来るようになる。
全てが憶測で、信憑性は皆無だが、出来る事が限られているこの状態でも、ルシエであれば迷わず動くだろう。
気付けば二人は、全ての思考にルシエであれば、と付け加えるようになっていた。
「でも、空がルシエに手を貸すとは思えないよ?」
「通常であれば、だろう。ルシエが死んで一番困るのは、一体誰だと思っているのだ」
「そうか! 元々弱っていたとしても、ルシエなら、逆手に取って行動を強制するもんね」
上ずった声で同意するクランクへ、ゼフが「困ったものだがな」と苦笑する。
冷静になって一人で考えても、悪い方向に行きがちだったが、二人揃えば希望が倍ではなく二乗される。弱々しい足場が固まっていく事に、二人はお互いへの心強さを感じた。
それをまだ、言葉にして伝えられはしないが、ルシエに出会う前の自分だったらそんな念すら抱かなかっただろうと、二人共がこそばゆくも喜ばしかった。
「と、なるとだ。空が私達の元にルシエを送らなかったのは、それが出来ない状況であったか嫌がらせかのどちらか」
「精封石の存在を考えれば、前者が妥当かなー」
クランクの浸す足が、上昇する気持ちを映してゆっくりと上下し、水面が揺れる。ゼフも、風に髪を遊ばせるぐらいには、余裕が生まれ始めてきていた。
「空の力量で出来るのはどこまでだと思うか?」
単純に考えて、空の精霊王の力はクランクの倍でゼフの半分。さらにそこへ、精封石の影響を加え、二人はそれぞれで何が出来ないかを考える。
石そのものを見たわけではないので、それがどこまで力の邪魔をするのかは分からないが、様々な憶測を繋げ、尚且つルシエを死なせないことを条件に導いた結果、二人はその言葉を口にした。
「……転移」
「転移、か」
素晴らしい考察である。けれど、二人に許された真相はそれまでで、しかも転移となると手掛かりも無い状態になる為、二人にとっては最悪な展開でしかない。
つまり、どうやっても状況は変わらないということだ。
ルシエが呼ぶか、死ぬかしない限り、二人は結局当てもなくアピス中を探さなくてはならないだろう。
せっかく持ち直した気持ちも、出た結論と共に今まで以上に下がってしまった。
落ちる沈黙を笑うように、鳥とも獣とも思える鳴き声が泉に響く。
暫くして、その場に大きな水を叩く音が生まれた。物腰柔らかなはずの、クランクの仕業だった。
飛ぶ水飛沫がゼフまでもを濡らし、クランクが叫ぶ。
「いつもそうだ! 今も、あの時も、俺達は結局見ているだけで、何も出来なかった。……何もしなかった!」
「まだ、見捨てたわけじゃないだろう」
俯くクランクに対し、無表情で乱れた水面を眺めるゼフが言う。けれど、今まで胸に隠してきた思いのたがが外れてしまったのか、その感情と共に隣に居たゼフの胸倉を掴んで詰め寄った。
「だったら、どうしてルシエは俺達を呼ばないんだよ!」
「私にいきり立つな。理由を考えるから、混乱するのだ。しかし、それは見つけてから問い詰めれば良いことであろう」
「そんな、冷静な答えが欲しいわけじゃない!」
一体どうしろと言うのだ、とゼフが吐いた溜め息の先で、彼の肩に顔を埋めたクランクが雫を滴らせていた。
泉の水だけじゃない、内に抱く気持ちも共にゼフの服へと落ちていく。一体どうしたというのだろうか。二人ならば、死んでいないなら探すのみだと、そう笑いつつ自由気侭なルシエに怒っていそうなものだが、見えてくるのは不安と恐ればかり。
「俺は、もう、見ているだけは、嫌だ」
「馬鹿を言え。眷属から見放され、奪われている時点で、十分もがけてはいるだろう?」
「でも、それだけじゃないか。もし、ルシエが故意に呼ばないのであれば、結局俺達がしている事は――」
始め、クランクの八つ当たりを冷静に諭していたゼフであったが、その思考が底なし沼へと嵌っていき、はっきりと諦めを言葉にしようとした時だった。
胸倉を掴み返し、一瞬にしてクランクの身体が放り投げられて泉に沈む。
落ちるまでに、クランクの顔は見事な仰天を浮かべたのだが、それはあっという間に水中へと消えていった。
「何するんだよ!」
「少し、頭を冷やせ。このうつけが……!」
ゼフにしてみれば残念な事に、直ぐにクランクは水面へと上がってきたが、口から出たのは叱咤以上の罵りだ。
悲しむのも、悔しいのも、諦めかけるのもクランクだけでは無い。けれど、それを今更無駄だと言うのが、ゼフにとって許せなかった。
何故なら、本当に今更だからだ。
それを、あろうことかクランクが分かっていないことが、ゼフの怒りを買う。彼は、岸に上がろうとした瞬間、さらに足で蹴落としながら吐き捨てた。
「結局だと? 貴様は今まで、ルシエの何を見てきたのだ。何の為に共に居たのだ。私達がしようとしていることは、あいつにとっては最初から無駄なのだ。よもや、あいつの為にしているとでも言うつもりか? この私達が!」
「だって!」
「だっても糞もないだろう!」
片腕でびしょ濡れのクランクを持ち上げたゼフは、彼らしからぬ言葉を用いて叫んだ。
驚きにポカンと呆けたクランクを置き去りに、今まで耐えに耐え、堪えに堪えてきた感情をゼフも曝け出す。いつかの衝突よりも、より人間らしい姿で二人は怒鳴り合った。
「今まで、どれだけの者がルシエ達に歩み寄っていると思っているのだ。けれど、誰の言葉も、その胸には届いていない。私達のしていることは、その中で最も無駄でしかない。無駄でしか、ないんだ!」
「だったら、ゼフは諦めるって言うのかよ!?」
「誰がそんなことを言った!」
クランクが思わず腕を払うと、再び泉にダイブすることになるのだが、すぐさま顔を出した彼は泣きそうな悲しい顔を浮かべながら食い下がる。
この衝突そのものが、自己満足なだけだと気付きながら――
「俺達が、あの子を巻き込んで、苦しめて……! でも、だからこそじゃないか! 俺達が、精霊王があの子を悪魔にしてしまった元凶なんだから!」
「だったら貴様は、彼女の代わりとして、彼女を守れなかったから、ルシエを守るのか? 違うだろ!」
「当たり前だろ! 確かに、きっかけはそうだった。彼女にもう一度会う為に、あいつの策に乗ったのもそうだ。だけど……!」
永い年月で、精霊王は様々な出来事に巡り合ってきたのだろう。その中で、二人には共通のものがあったのだろう。そして、この出来事もまた、彼等にとってそれに含まれる一つなのだ。
けれど、それは二人の間でしか分からないことで、その事を言及する者がこの場に居ないのだから、それを知る術が他には無い。
ルシエの行方と同じ様に憶測でしか語れないが、今の言葉から、二人にとってルシエは元々、拠り所だったのかもしれない。そして、常に付き纏うのが、あいつという本当の敵の存在。とっくの昔に、彼等の目的は、世界の均衡を保つだけとは言えないのだが、それを知る当事者達からはっきりと語られることは以前として無かった。
言葉を切ったクランクは、水の中に隠していた両手で顔を覆い、その言葉を絞り出した。
「俺は、心から、ルシエの友でありたいんだ」
何度も身体で交わり、男女として関わってきたクランク。けれど、彼が望むのはそんな人によっては些細とも言える関係だ。
あまりに幼稚で、笑う者もいるだろう。無責任に、仲間なのだから既にそうだろうと指摘するかもしれない。ただ、相手は人間で、寿命も違えば価値観も違う。さらには、関わったきっかけが自分勝手であり、何より相手が全てを望んでいないのだ。
選ばれないと分かりながら、それを望むことがどれだけ苦悩を呼ぶのか、クランクもゼフも痛いほど知っていた。
そして二人は、ルシエに償いの為だと否定されることを、何より恐れていた。後悔しているからこそ、責められた時に返す言葉が無い。
「相手から望まれなければ友になれないのなら、誰もが孤独だろうよ。笑い合うだけなら、他人同士でも可能だ。私達が守る為にはまず、守ってもらっているのだと知らなければ」
「……それで、嫌われるかもしれないじゃないか」
ゼフは、クランクに向けて言葉を放ちながらも、自分へ言い聞かせていた。
憂いとも失笑とも思える笑みを浮かべ、自身も泉の中へと身を沈める。クランクのその素直さが羨ましく感じた。
「もう、十分嫌われる事をしてきただろう? 今更、それを恐れてどうする。過ちを侵した私達だからこそ、伝えられるものがあると、私は信じたい」
例え、どれだけもがいても、ルシエにとって自分達が精石を破壊する事より上にいけないとしても。ゼフはその気持ちを押し殺し、少しだけ低い頭を自身の肩に乗せた。
自然な動作だった。苦しいのは自分だけでは無いと気付けたからこそ出来た傷の舐め合い。
まだまだ不器用で、それが傷の舐め合いではなく慰めだと気付かないままではあるが、二人はこの瞬間に友となった。
ゼフは暫く、黙って噛み殺される嗚咽に気付かない振りをし、「それに……」と呟きながら笑う。
「ルシエなら、だったらその何倍も好きだと叫べば良いと言うだろう」
一人の人間を想う精霊王達の苦悩は、泉の中でとても美しい光景となった。
たとえ報われないとしても、それでも彼等は、悩んだ分に前へと進んだ。
ありきたりな言葉かもしれないが、実際にそうなのだから、誰もがこぞって口にするのだろう。
悩んだ分、叶うのであれば、意思ある者の全てが手を取り合えるはずである。けれど、それが不可能だということを、誰もが知っている。
衝突して終わってしまう関係もあれば、望んでも築けない関係がある。叱責して離れてしまう相手もいれば、どれだけ好意を伝えても受け取ってくれない相手がいる。それは、悲しいことなのだろう。切ない想いだ。
自分を省みなければならなかったり、相手を見直さなければならなかったり、その後に続くものもまちまちだ。
それでも、その両手は自身で合わせることは出来ても、繋ぐことは出来ない。
「ルシエに、会いたい」
「あぁ。それでもし、ルシエが精石の破壊の為に無茶をしていたのなら、私達が叱ってやろう」
「うん……。どれだけ、大人びていたって、あの子はまだ、全てを諦めるには若すぎる」
「そして、世界を見せてやるのだ。私達が、それを示してもらえたように。今度は私達が、ルシエの生きる道の始まりを作ってやろう」
そうして二人は、その為にも行方を捜そうと、一人は次の目的になるはずであった星の国に、もう一人はそれ以外で情報を集めることに決め、再び二手に分かれて旅を再開した。
けれど、彼等の想いがどれだけ募ろうと、ルシエはそれを受け取りながらも報いることは無かった。
ただ、それは無下にしただけだと簡単に罵れるものではない。ゼフとクランクの抱いた感情があるように、ルシエにもまたそれ以上に秘めた想いがあっただけなのだから。
それだけではあるが、そこに込められた全てを言葉にするのは容易では無かった。
ルシエの呼ぶ声によって再会出来たというのが、報われなかった想いに対しての答えだったのだろう。だからこそ、二人は望みが叶いながら、叶わなかった。
これからさらに二ヵ月後に訪れたその瞬間、二人の目に映った光景の先に、失わせたくなかった弱さは無かったのだから――
そして、全ての葛藤が過ぎ去った四ヶ月後。一人の騎士が、彼の住まう城内を堂々と闊歩していた。
右肩を覆う美しい金の刺繍が目立つストールが、その騎士の所属と地位をはっきりと示していて、すれ違う侍女や城勤めの者達の頭を下げさせる。彼の腰では、主人から与えられた自慢の剣が静かに揺れていた。
「失礼致します」
男にしては少し高い声が、とある扉の前にて響いた。その先からは、「あ、少し。暫しお待ち下さい!」と焦った声が返ってきて、騎士はまたかと呆れたため息を吐きながら笑った。
どうせまた、主がドレスの色に文句でも付けているのだろう。そこでふと、騎士はつい先日の事を思い出して、咳払いで扉の奥の者達の気を引いた。
「本日は異例の訪問ですから、艶やかにいきたいのであれば、暗めの赤がよろしいかと」
そうすると、中からは幾つもの女の喜びの声が聞こえ、騎士はやれやれだと壁に凭れかかって終わるまで待機する。
目を閉じていても、その神経は全方向に張り巡らされていて、室内の会話もしっかりと耳に入っていた。どうやら今度は、髪型をどうするかで揉めているらしい。
騎士が、これでは時間に間に合わないともう一度溜め息を吐けば、部屋の扉が申し分けなさそうにそろりと開き、その隙間から一人の侍女が彼を探して顔を出した。
「あの……、陛下がお呼びでございます」
「結局、俺に決めろと?」
「は、はい。申し訳ございません」
必要以上に怯えた様子の侍女に、気分を害したわけではないと右手を翳して示し、しっかりと開かれた扉をくぐってすれ違い様、騎士は彼女の頭を軽く叩いて応援する。
その瞬間、侍女の顔はどんな熟れた果実にも勝る色に変化し、桃色の吐息を騎士に向けた。
「お呼びですか、陛下」
騎士が気付かない振りをしながら、ドレッサーの前に座る主に声を掛ける。そこには、小さな貴婦人が豪華なドレスを身に纏いながら、ふてくされた表情で彼に恨みがましい視線を向けていた。
恐らく、侍女に対する今の騎士の態度が気に食わないらしい。流れる金の長い髪に、宝石にも負けない金の瞳。そして、雪よりも白い肌が陛下と呼ばれた少女をより美しく思わせ、将来美女になることを保障している。
齢十三。雷の純血種の特徴と肌の色だけ違えるその美少女こそが、星の国の国王陛下その人であった。
「髪が決まらないの! 主人が困っているというのに、あなたはいつもいつも、女性に愛想ばかり振り撒いて。いつか刺されても、知らないわよ」
「それは失礼を。しかし、私も陛下の可憐さを前に、動揺を押し殺すのに必死なのです。ですから、お許し頂けませんか?」
クスクスと肩を揺らしながら、騎士は朗らかに甘い言葉を口にする。それが筋骨隆々な者なら、威力半減どころかダメージさえ与えかねないが、彼はとても魅力的な容姿体型の男であった為、部屋が一気に甘い雰囲気に支配された。星の国王もまた、頬を赤く染めて機嫌を良くした。
その間に、騎士は星の国王のドレスを上から下まで眺めて僅かに眉を寄せ、ひっそりと判定を下した。
城の侍女たちは、陛下が王であることと少女であること、どちらを考慮すべきかで、常にドレスの選択に迷いが生じているのだ。
そして、先程の助言があったにもかかわらず、その結果は残念としか言えない。
確かに、色は暗めの赤で落ち着いているのだが、デザインまでもがシンプルすぎて、せっかくの魅力を損なうどころか、必死に大人びようとしているませた少女、という印象を与えてしまっていた。
けれど、それを馬鹿正直に指摘すれば、この場に居る全ての女性の機嫌を損なってしまうだろう。考えた結果、騎士はゆっくりと悲しそうな表情を浮かべて全員の注目を集めた。
「え、どうしたの? 私、そこまで怒っていたつもりはないの」
一番間近で顔を合わせていた星の国王は、途端焦って弁明する。
それを首を振って否定した騎士の言葉は、それはそれは素晴らしかった。
「いえ……。私の言っていたドレスとは違ったもので。そちらも、確かに素晴らしくお似合いなのですが、本日の陛下には私の選んだドレスを着て頂きたかったもので」
後ろでは、侍女達が申し訳なさそうな小さな悲鳴を上げ、星の国王が「どんなドレスだったの?」と尋ねた。しかし、騎士は「これは、身の程知らずな我侭ですので……」と諦めの素振りを見せる。
すると、侍女達は慌てて赤のドレスをかき集めて騎士の前に突き出し始めた。
これでもう、主導権は騎士のものである。非難するどころか、褒めた上で母性をくすぐるとでも言えばいいのか。とにかく、口の上手さが素晴らしい。
様々なドレスへ憂いの視線を向けた騎士は、ポツリと「そこの、背中に黒の大きなリボンがある、フレア状のものです」と言って、見事作戦を成功させた。
「髪は、緩く巻いて半分をサイドにもっていき、よかったらこの花を」
周囲で急ぎ着替えが始まり、衝立の反対側で髪型の指示までちゃっかりしていた騎士は、胸元から一輪の黒い花を侍女に渡して朗らかに笑った。
そして、全ての準備がやっと整い、星の国王は先程とは全然違う、大人びながらも可愛らしい姿で騎士の前に姿を現す。確かに、今の方が何倍も魅力的であり、彼のセンスの良さを窺わせる。
「それでは、相手側は既にホールにてお待ちです」
自然な動作で手を差し出す様子は、騎士というよりも貴族の男性を思わせ、星の国王も微笑みながらその上へ、小さなものを重ねた。
「まったく。あなたを侍女にした方が、良い気がするわ」
「それは光栄です。ですが、そうなると、堂々と陛下をお守りできませんよ?」
長い廊下を歩く二人の脇には、何人もの人間が恭しく頭を下げている。
全員が従者としての正装をしており、今日が普段とはまた違う日だと告げていた。
星の国王がひっそりと隣を歩く者に視線を向ければ、それに気付いた騎士が優しく微笑えみ、「お綺麗ですよ」と聞こえるか聞こえないかの絶妙な声で賛辞を送る。
――良い拾い物をしたわ。
そう内心呟いている内に、目的地の扉の前に辿り着き、重なる手はあっさりと離れてしまった。
そして、入場の声と共に、煌びやかな世界への入り口が開かれる。
響く音楽に、人々の談笑。とはいっても、そこまで規模の大きい晩餐会では無く、比較的穏やかな空気がその場には漂っていた。
けれど、星の国王が真っ先に対面しなければならない者の居る場へ騎士を連れて向かった時、その空気は一気に雲散してしまう。
「……サイード?」
グラスが床を叩き、破片の散らばる音で作り出された静寂の中、この場で星の国王と同じくらい地位のある者の驚きの声が静かに零れる。
誰もが視線を向けている先で、声を掛けられた者はゆっくりと笑った。優しく朗らかな、女性を虜にする甘い微笑みで。
「はい。私がサイードですが、何故、陽の国王陛下がご存知なのでしょうか」
星の国王の隣に立つ騎士が、言葉を返す。けれど、その金の瞳には、獰猛さも残酷さも一欠片も浮んでいなかった。