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その背に黒の羽根を  作者: 林 りょう
第七章:捻くれX鳥籠=特別
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空を知る鳥の幕切れ


 着飾らない美しさを望むのなら、誰もがただの人形になるしかないだろう。

 どんな善人でも欲はあり、どんな悪人でも友が居る。世界は矛盾に満ち溢れ、黒と白が混濁した中で、人は生きなければならない。

 ただ、彼女(・・)は質素な身形で邪魔な装飾を好まず、自分で自分を飾った美しさで様々な者と出会い、別れてきた。

 演技をしていたのだから、その関係は作り物だろう。彼女には、大した影響を及ぼせなかったかもしれない。

 それでも、出会った者達からすれば、彼女は死ぬまでその記憶に刻まれて、ふとした時に浮んでくるはずだ。それだけその立ち姿は、皮肉にも美しかったのだから。

 脆弱を武器に、様々な笑みを用いて駆け抜ける光景は、心の軽快さをそのまま映し出して、誰にも見られず天高く昇っていく。

 そうやって、弱さを強さに戦う者は、己の舞台を自身の手で幕引いた。

 その心の奥に住まう事を許した、自身とも家族とも、戦友とも言える存在に新たな翼を授ける為に――





 アズローレンにタンザナイトの光が降り注ぐ少し前、おぞましい鳥籠にて、リサーナは穏やかな呼吸を繰り返しながら眠っていた。とはいっても、本当に睡眠を取っているわけでは無い。

 元の薄い色に戻っている唇は、二人の者に共有され、しきりに言葉を紡いでいる。

 一つは高い女の声で、もう一つは低く乱雑な言葉遣い。リサーナとサイードが、身体を挟んで会話をしていた。


「ルシエは良いのか?」


「起こしたらまた、身体の回復が遅れるからね」


 隣に並ばなければ聞き取れない程の、小さな声で交わされる会話は、不気味とも神聖とも感じられる。

 落ち着いているリサーナに対し、サイードの声は困惑している様に思え、計画を練るというよりは、全ての主導権がリサーナにありそうだ。


「ルシエが一番、精封石の影響を受けてるけど……。あの言葉を聞かせずに済んで、ほんとよかった」


 一人除け者にされているルシエは、どうやら相当弱っているらしい。

 そしてあの言葉とは、昨晩リサーナが激怒したもので間違いない。どうして、それ程悪魔達は忌み嫌うのか。というよりも、リサーナとサイードは、ルシエがそれを聞いてしまうのを恐れている感じがする。


「その代わり、お前が全部引き受ける形になっただろ。俺に変われば、一発殴ってやったのに」


 一人の人間が、拗ねた仕草をしてすぐに忍び笑う光景など、彼等以外作り出せないことだろう。

 リサーナとサイードは、まるで恋人同士のような、姉弟のような、とても不思議な雰囲気を醸し出していた。


「だろうと思った。だから変わらなかったのよ。でも、その分も怒鳴ってやったんだから、別に良いでしょ」


「……お前だって、平気じゃなかったくせに」


「私は、ほら……。二人みたいに要領悪くないし、自分で自分に整理つけれるタイプだからさ」


 瞳を閉じているのは、少しでも身体の負担を減らす為なのだろう。そういえば、服がベビードールのみから、黒のパンツに白のシャツに変わっている。腰に巻く蒼の大きなストールが、これまた見事に良いアクセントになっているのだから、服を用意した弓使いも嫌味ったらしい。

 リサーナがクスクスと笑うと、「どうせ俺は、戦闘脳な獣だよ」とサイードが不貞腐れていた。


「で? どう整理つけたんだよ」


「あー! 今、どうせ碌な事じゃないって考えたでしょ」


 二人は、第三者には決して見せない抑揚の声色、態度でその親密さを前面に押し出している。

 きっと、孤独な場でないと、それが作られることは無いのだろう。ゼフやクランクにさえ、見せたりしない。

 仰向けから横向きに体勢を変えれば、シーツの上を銀の糸が優しく滑った。


「二日待つって言ってたけど、あの凸凹コンビ、夜更けには行動を起すと思う」


「だろうなー」


 明るい声から一転、真剣にリサーナが言うと、サイードは暢気に返事をする。

 動けるのだから、精封石はあれど脱出はそう難しくない気もするが、弓使いに取った態度は、実は相当な無理をした。

 そのせいで、弓使いが部屋を出て直ぐ、ソファにてリサーナは気絶している。彼が来たのは午前中だが、現在は昼もとっくに過ぎた頃だった。

 しかも、体力を消耗したせいで、受ける精封石の影響も大きく、今は歩くことさえ出来ない。だからこそ、二人の声も囁く程度なのだ。


「でも、精封石への対策なんて出来るわけが無いし……。今、どちらも失うわけにはいかない」


「そうだな」


「それに、フィザーレイロに接触せず、空の精石を壊せる機会は、今を逃したら後には無いと思う。私達じゃ、あの化け物には敵わないよ」


「というか、二度と会いたくないよな……」


 リサーナ達が、フィザーレイロを恐れるのは、天空の巫女(エアリア)と契約している剣士がいるからではなく、その頭の良さと歪んだ精神だ。単純に身体を傷付けてくることよりも、ルシエを揺さぶられることの方が、二人にとって避けたいものだった。


「しかも、チャンスは一度きり。壊せても脱出できなければ、鎖で繋がれた上、次は精封石のティアラでも送ってきそうだもの」


「……そうだよな」


 冗談にしか思えないものも、相手がフィザーレイロになると、本気でやってきそうである。リサーナも、真面目に考えてそう口にしていた。


「時間も無い、しな……」 


 単純に捕らえられた方が、まだ対処の仕方に幅が利いた。だというのに、相手が自分達に執着しているだけで、こんなにも面倒くさいものになるとは、悪魔も嫌な相手に目を付けられたものである。

 サイードが、必死に言葉を探そうとしていれば、その間にゆっくりと膝と腰が曲がって近付いていき、身体が丸くなっていく。まるで、語尾が段々と弱くなっていくサイードを、リサーナが抱きしめるように。

 そうして、微笑みかける頬は途中で下がり、また上がりを繰り返して、最終的に痙攣し始めた。

 ゆっくりと再び開いた唇は、高い声を出す。


「だから、ね。私が――」


「俺が! 俺なら、表に出る機会も多かったから、負担も減るだろ」


 リサーナが何かを言い掛けると、それを塞ぐようにサイードの声に変わり、勢い良く起き上がる。

 ただ、瞳は閉じられたままで、皺の寄る眉間が内容の悪さを表現していた。

 さらに、急な動きが弱った身体に衝撃を与え、より表に近かったサイードは強い頭痛に呻く。どこか必死な彼に対し、リサーナは溜息を零して呆れていた。


「それで? この先どう戦っていけと?」


「ゼフとクランクが居る……だろ……」


「突っ込まないからね」


 サイードの意外な、それこそあり得ない弱々しさに、リサーナの厳しく冷たい言葉が重なった。

 痛みを吐き出すように深い吐息が零れ、サイードは大の字でベッドに沈んで強く歯がみする。彼の答えをリサーナが待ち、言葉を決めるまでの間、右手の指輪が鳥籠の天辺にあるタンザナイトを睨みつけていた。

 リサーナがしようとしていることを、サイードはもう察していた。

 本当に碌なことじゃないと思うが、だからといってそれ以上に良い策を考えられるわけでもなく、リサーナが自分だけに告げている本当の目的に対しても、強かな女だと舌打ちをしたい気分だ。

 他人の言葉には簡単に揺らぐくせに、ここぞという時は、三人の中で誰よりも痛手を省みない。自分を、優先しない。

 サイードは、いつだってこの女の我侭(・・)には勝てなかったと、ひっそり笑った。

 そして、動きの止まった身体が揺れ始める。


「くっ、はは! らしくねーよな、俺」


「ふっ、あはは! しおらしいサイードなんて、気持ち悪いだけだって」


 二種類の笑い声が一人の口から漏れるなど、不可能なことではあるが、混じったその声はまるで鳥の羽ばたきのような、風にあおられる草木のような、不思議なざわめきを奏でた。

 リサーナの感情を一番理解できるのは、ルシエではなくサイードである。この二人は、悪魔ではあるが破罪使ではない。もっと言うと、悪魔にはなれるが、破罪使にはなれないのだ。

 サイードは、一頻り笑って溜め息を吐いた後、くしゃりと前髪を右手で握りながら言った。


「俺は、お前が無理して、嫌々その選択を取るわけじゃないのなら、何も言わねーことにする。引き際を自分で決めたのなら、な」


 今までの困惑さや弱々しさが消え去り、いつものふてぶてしく上目線な声。けれど内容は、サイードにしか贈れないリサーナへの後押しだった。

 リサーナが左手でシーツに皺を作り、その言葉に対する喜びに震えた。


「私、二人の足を沢山引っ張ってきた」


「お前、ほんと弱いからなー」


 表情は微笑んでいるというのに、リサーナの声も僅かに震えている。彼女は今、アピスでの自分を全て思い出していた。

 何も出来ず、動けず、看板娘に成り下がってしまった光風の便り亭での日々。重傷を負い、ベッドの上で文句を垂れる仕事しか無かった時もある。


天使軍(エクソシスト)に居た時なんて、無様な姿を晒しちゃったしさ……」


「俺とルシエ、あの小隊長様にお前が惚れるんじゃないか、ヒヤヒヤしてたんだぞ」


 まるで、これから死地に赴く者のように、リサーナは過去を振り返りながら懺悔し、サイードが小馬鹿にしていく。

 否定をしないところが憎たらしい、とサイードに感じるが、それがやけに温かいのだから不思議だとリサーナは思う。


「今回だって、もっと上手くやれたかもしれない」


「……かもしれないな」


 ただ、リサーナは笑っていた。無理矢理でも、泣きそうな笑みでも無く、満面の笑みで震える声を出していた。

 サイードが、それなら大丈夫だと安心する。最早自分は、唯一無二でただ一人認める女の心の赴くまま、自由にさせてやるのみだと――


 そして、二重の笑みが一つの身体に浮ぶ。


「だが、俺から言わせれば、風の国では、お前が俺を引き摺り下ろして表に出てくれたからこそ、今がある。ここまで来れなかったかもしれない」


「そうかな」


「お前が、痛みに耐え忍んでくれたから、魔法も使えてる」


「……そう、かな」


「天使軍で後悔してくれたから、もう揺らがない。迷いもしない」


「う……ん」


「今回だって、ルシエが傷つかずに済んだ。俺も、お前が怒鳴ってくれたから、こうして冷静でいられる」


 胸にそっと右手が乗せられ、その上に左手が重なる。外では、空の色が変化し始めていた。

 悪魔は常に、自分達でお互いを律し、叱責し、迷いや憂いを取り払い合ってきた。それぞれの得意分野で互いを補い、今まで駆け抜けてきた。

 サイードの言う通りである。リサーナは足を引っ張ってきたというが、それは彼女だけでは無い。

 確かにリサーナは、魔法も使わず剣は使えず、弓技を習得できたのも大地の国を出てからだ。しかもそれは、加護がなければ成り立たないレベルである。

 けれど、直ぐに力でねじ伏せようとし、無茶な行動ばかりするサイード。マイペースに後先考えず、痛みばかり生み出すルシエ。二人を制御していたのは、他でもないリサーナだった。

 勿論、三人揃っても全てが順調だったわけでは無い。悪魔狩りなど、全員が良い策だと思い、結果墓穴を掘っていたりするのだから。

 それでも、リサーナも居なければ、悪魔は成り立たなかった。

 風の国の情勢を把握し、ウィーネ杯に出れたのは、リサーナが光風の便り亭で、酔っ払い相手に情報を集めてくれたからであり、ルシエの暴走によって負った肩と腰の傷も、彼女が耐え忍んでくれた。

 魔力抵抗を下げ、動ける体に戻れたのなど、例え身体は女であってもリサーナにしか出来なかった策である。

 だからサイードは、はっきりした力強い声で、心から告げた。


「お前がリサーナだから、リサーナがお前だから、俺も悪魔になれた。ちゃんと必要だったんだよ、お前は。今までも、これからも、お前が必要なんだ」


 ひゅっと、喉が鳴る。笑みがさらに深くなり、右手を握る左手の力が増す。

 爪が食い込み血が滲むほど、リサーナは痛みで気持ちを伝えた。


「私を使って精石を破壊すれば、ルシエのタイムリミットも伸びるはず。その後、身体にどんな影響が出るかは分からないし、動けるかどうかも分からないけど」


「後のことは、俺達に任せろ。死んだら困るのは、向こうも同じだ。だったら、逆手に取って働いてもらおうぜ」


 頷き合ったのだろう、二度上下に振られた身体からは神秘的な雰囲気が消え去り、本来の黒い気配が感じられる。

 結局、未だ悪魔がどういった存在なのかははっきりしないが、少なくとも三人は何かを共有しているか繋がっているらしい。リサーナを使って、ということは、そうすると彼女はどうなってしまうのか。

 いや、分かっている。リサーナは、自分を犠牲にしようとしているのだ。

 それでも、後悔だけで恐怖を感じない。満面の笑みは、やっと役に立てると誇らしげにも見えた。


「フィザーレイロは、今日中にゼフ達をどうにかしたいらしいけど、街が穏やかなのを見るに、まだ進展は無いみたい。一応、城の警備を強化させるよう誘導したから、あの二人は何とでもなるでしょ」


 最期の大仕事。リサーナは、全てを出し切るべく頭を働かせ、既に後は決行するのみに全てを整えていた。

 その狡猾さに舌を巻き、サイードがわざとらしく口笛を吹く。「惚れ直した?」とからかえば、高い音が崩れて彼はクツクツと笑った。


「あぁ、抱かせて欲しいぐらいにな」


「どんな不細工に抱かれても良いけど、あんただけは御免だわ」


「ひっでー、女」


 二人が、どんな感情をお互いへ抱いているのかは分からないが、もし別々の身体を持っていたらと思うと残念でならない。今もそうではあるが、きっと良きパートナーとなれたことだろう。恋人であれ、仕事仲間であれ、深い関係を築けたと思う。

 自分達の在り方に対し、葛藤する姿を全く見せない悪魔は、悩んだことは無かったのだろうか。人格が別だというのなら、他を抑えつけて表に出続けたいはずである。

 けれど、全員が目的の為に自分達を使い、協力し、生き方をブレさせない。

 そんな時、リサーナが躊躇しつつも零した。


「私、さ……。いつだったか、どうしてこんな形で生まれたんだろう、って思ったことがあったのよ」


「乙女心ってやつか」


 サイードのくだらない茶化しは無視し、リサーナはその感情を思い出そうとする。

 けれど、悲しかったのか辛かったのか、苛立ったのかも分からず、それが誇らしいと感じた。自分はしっかりと、揺らぎつつも今まで立ち続けられていたのだと、悪魔の名に恥じない生き方が出来たのだと思えた。


「でも、結局さ。私はこの形じゃなければ、私で居られなかったんだよね」


「まあな。だからこそ、俺達は望んでこの道を進んでいるんだ」


 サイードの言葉に深く頷いたリサーナは、身体の鼓動を感じながら「嫌いだけど……」と呟き、そして続ける。聞いたら、誰もが驚愕するであろうその言葉を――


「どうやったって、私は河内紗那だってことなんだろうね」


私達(・・)、だろ」


 今なら、その真実を問えるだろうに、生憎それが可能な者はその場に誰も居なかった。

 河内紗那(オリジナル)は消えたと言ったはずなのに、リサーナは確かに自分は彼女だと言った。さらに、サイードが自分もそうだと訂正する。

 悪魔の真実は、一体どこにあるのだろう。本来、真実を垣間見れば謎が解決するはずだが、復讐にしても何にしても、大きく膨らむばかりで先が全く見えてこない。


 太陽は、いつの間にか空を真っ赤に染めて、リサーナの終わりを飾ろうとしていた。


「ルシエに伝えて。絶対に勝たないと、呪ってやるからって」


「お前なら、本当にやりそうだから怖いわ。ま、お前の分まで俺がしっかり、あいつを辿り着かせてやるよ」


「その為には、その戦闘脳を少しはまともに働かせなさいよ」


 リサーナの忠告に「うるせーよ」とサイードが返し、一際輝かしい笑顔が別れを映す。

 それをしっかり受け取ったサイードは、最後までリサーナにこの決断をさせたことを詫びない。むしろ、その旅路を祝福するようにそっと囁いて、静かに奥へと意識を落としていく。


「じゃ、後のことは気にするな。待っててくれ(・・・・・・)


「約束、ね」


 それが最後の言葉となり、終始閉じられていた瞳が開くのに比例して、サイードの気配が消えた。

 煌く金色(こんじき)は、いつも以上に強さを増していて、その視線がタンザナイトに向けられる。その時、ちらりと映った窓の先の鮮やかすぎる夕焼けに気付き、リサーナは思わず噴き出していた。


「最期まで、赤い世界だなー。でも……まあ、悪くは無い。寧ろ、大馬鹿者には相応しいぐらいかも」


 ゆっくりと起き上がり、両足を外に出して正座する姿勢を取ったリサーナは、足先でご機嫌にリズムを取っていた。

 そんなリサーナを、まるでスポットライトのように夕陽が伸びて輝かせる。その姿は、どんなドレスや宝石、化粧で飾るよりも美しく彼女を包んだ。

 舞台が整えば、リサーナが大きく息を吸う。これから襲う痛みに構え、両手がきつく握られた。

 ゆっくりと瞬きをした後、瞳がどんな高価な宝石よりも美しい光を放つ。そうして、新たな翼を生みながら、歌が部屋に響いた。


「時に受け入れ、時に拒絶し」


 とても、とても穏やかな声。希望に満ち溢れた表情で、楽しそうにリサーナは歌う。


「広がる先に終わりは無い」


 その心には今、何が隠れているのだろうか。


「閉じる扉も、狭める檻も作るはその身」


 歌が進む毎に、リサーナの気配は希薄になっていく。額には大粒の汗が浮び始め、さらには、白いシャツが夕陽とは違う赤を滲ませた。袖の捲くられた腕を見れば、次々と皮膚が裂けて小さな裂傷が幾つも生まれている。

 それでも、声だけは楽しげに響き続けた。


「手を引けば届きはしない」


 その歌は、王城に居る全ての者に届き、弓使いが異変にすぐさま対応しようとする。けれど、リサーナの部屋に誰かが立ち入ることは無かった。

 誰もが足を縫い付けられたように動けず、その旋律を記憶に刻もうと、一心不乱に聞き惚れる。


「手を伸ばせばそこに塞がるは暗雲」


 通常の解放でも、途轍もない痛みが伴うというのに、精封石が邪魔をするこの場は、さらに計り知れないものが襲っているはずだ。

 けれど、リサーナは真っ直ぐにタンザナイトを見つめていた。


「されど、分厚い壁も薄い膜へと姿を変える」


 シャツを真っ赤に額からも汗以上に血を流し、金色が揺れに揺れる。

 しなやかで可愛らしく、それでいて怪しげだった気配も、もう感じられない。残り一節を残し、強烈な痛みに唇を噛んで呻きを堪えたリサーナは、降り注ぐ新たな羽根を必死にかき集め、翼へと変えていった。

 それは、飛ぶには小さすぎ、羽ばたくことすら難しいかもしれない。邪魔になるだけの、無駄な飾りにしかならないかもしれない。

 それでも、譲れないものがそこには宿っていた。


 幕引くには、短すぎる期間ではあったが、その中で起こった出来事や出会いはとても濃厚で、物足りなさは全く無い。楽しかった、と言うには赤く痛みすぎたけれど、満足だったと、リサーナは掌サイズのタンザナイトに様々な顔を見た。

 光風の便り亭のお節介な女将に始まり、今まで関わった全ての人々から、ゼフとクランクまで映し終えたタンザナイトが最後に見せたのは、リサーナ本人だ。

 ――ああ……、笑えてる。

 心の中での呟きを最後に瞳が閉じられ、噛み過ぎたせいで唇から流れた血を強引に拭いた後、放たれた一節には別れの言葉が乗せられていた。


「さあ、舞え」

 

 結局、リサーナが涙を流すことは無かった。

 最期に浮かべられた笑みを、言葉に出来る者は、きっと何処にも存在しない。楽しげで、寂しげで、憂いていながら誇らしげで、幼さもあり妖艶さも含み、美しいだけでは収まらない。


「始まりを掴む為に」


 そしてその身体は、耐えに耐えた分、一気に痛みを血に変えながら鳥籠を汚し、横に崩れた。

 タンザナイトは粉々に崩れ、蒼い光となって全てを上塗りする。歌へ込められた想いを代弁しながら――


「なんて無茶を……。いくら抗ったところで、何も変わりはしないというのに」


 光は、直ぐに薄まるどころかその範囲を伸ばし、まるで、やっと自由に羽ばたけた者が嬉しさに空を駆け回るように、温かくアズローレンへ広がる。

 成し遂げた身体は、浅く荒い息をなんとか繰り返すのみで、その光を間近で浴びながらも見ることは叶わなかったが、掛けられた儚い声は耳に届いた。

 蒼い光の中心からゆっくりと降りてきた白い影は、夕陽の代わりに黒を赤で彩る身体の横に降り立ち、もう一度小さく「無茶をしすぎです」と呟いていた。

 本当に儚い声だ。まるで重さを感じさせない不思議な響きの持ち主は、身体を乗せても寝具にさえ沈まない。


「死ぬ気ですか」


「……まだ、そんなつもりは、無いよ」


 薄っすらと開いた視界の先に居たのは、白い羽根のようなものが髪や睫となり、蒼いタンザナイトの細い瞳の、小さな唇をした()だった。

 相変わらず精霊王とは、人間とかけ離れた美しい姿をしている。朧気な美。この女に当てはまるのは、そういったものだろう。

 空の精霊王は、何とも言えない表情で悪魔を見ていた。


「それより、も……。ふふ、今、力のみの契約した、ら、死んじゃう、よ?」


 必死に紡いだ言葉は弱々しかったが、空の精霊王に向けられた視線はギラついており、ルシエは笑っていた。

 なんという魂だと、無意識にルシエの頬に触れかけていた空の精霊王の手が止まり、その威力に息を呑む。決して好意的な印象を感じない彼女の視線だったが、小さな唇から零れたのは諦めにも似た、重さを感じない吐息。

 大切な分身を失った喪失感を無視して、ルシエは立ち止まろうとせず、寧ろ与えてもらった翼を荒々しく動かす。


「せっかく、(わらわ)が力を溜めて、精封石を破壊する機会を窺っていたというのに」


「どう、して、そっちの、都合を考えなきゃ、いけない……?」


 空の精霊王に生える羽根を、全て毟り取る勢いの視線は、燃え滾る感情を隠す事無く伝える。

 リサーナの見てきた世界を知ったルシエは、魅力を新たに痛みを耐えていた。

 いつも、ルシエの気配の影にはサイードとリサーナがいた。けれど、本当に彼女はもう居ないのだろう。感じるのは、ルシエの薄くたゆたう気配と、鋭く獰猛なサイードのものだけ。


「……分かりました。このままでは、本当に死んでしまいますし、通常の契約を結んでさしあげましょう」


「それ、だけ?」


 挑戦的な笑みを零す唇からは、さらに鋭さを増した牙が空の精霊王を脅し、赤く染まった手が彼女の羽衣を汚す。

 それを見た時、空の精霊王の表情が一瞬歪んだが、返した答えはまたしても諦めの溜息だった。


「転移させてさしあげます。力を溜めていたお陰で、精封石の影響も妾は受けませんし。けれど、場所がどこになるか分かりませんよ」


「十分、だよ」


「後、契約後は、妾は精霊の世界に閉じこもります。あなたに使われるなど、消えたほうがまだ良いですから」


 交渉成立だと身体の力を抜けば、ルシエの意識は薄れ始める。狡賢く強かに、その言動は相手を引きこむ。

 ――これからも、一緒に戦い続けるんだよ、リサーナ。

 契約を始める空の精霊王の声を聞きながら、ルシエは心の中で呟いていた。


 魔法の中に、転移というものがあるが、それは空の精霊王しか使えないわけではない。

 便利に思えるその魔法を、今までルシエもゼフ達も使ってこなかったのは、消費する魔力が多い以上に、移動する場所を指定できないからにあった。

 全てが運任せで使い所が難しいそれは、云わば苦渋の選択。一度使えば、二週間は魔力の回復に努めなければいけないのだから、空の精霊王にとっても、精封石を破壊する為にせっかく溜めていた力を消費してしまうことになる。


「何故、そこまでするのですか」


 契約が終わり、転移によって光り始めたルシエの身体を前に、空の精霊王が尋ねていた。

 新たな力のお陰で整った呼吸。不敵な笑みを浮かべながら消えていくルシエは、それを当たり前に口にする。


「君達が、何もしないからだよ」


 そうして、蒼い光となって鳥籠からの脱出を果たし、空の精霊王が見送った。

 一人、夕焼けへと戻った空を見た空の精霊王は、「何もしない、か」と零した後に、自身の領域へと帰って行く。

 暫くして、やっと動くようになった足を慌しくさせ弓使いが部屋に辿り着いた時、寝具の上に致死量に達しかねない血だまりだけが残されていた。


 そして、ルシエが空の精霊王の転移によって鳥籠から脱出した一時間後。とある馬車が、ある程度整備された道を走っていた時のことだ。

 不自然な蒼い光を目撃した馬車の持ち主が、御者へ止まる様に指示し、茂みの中を護衛と共に覗き見る。


「まあ……! 早く近くの医者に手当てを!」


 そこに横たわっていたのは、夜の闇の中全身を真っ赤に染めあげた者で、これといった荷物は持っておらず意識も無い。

 その主人は、躊躇無く護衛に馬車へ運ばせて、急ぎ介抱をしていったのだが、果たして両者の素性は――


 噛み合わない歯車は、小さかったズレを次第に大きくし、表面をきずつけながら回り続ける。

 少なくとも二枚はなければ、歯車と呼べないことに気付かないまま。


『時に受け入れ 時に拒絶し

 広がる先に終わりは無い

 閉じる扉も 狭める檻も作るはその身

 手を引けば届きはしない

 手を伸ばせばそこに塞がるは暗雲

 されど 分厚い壁も薄い膜へと姿を変える


 ――さあ舞え、始まりを掴む為に』


 残る精石は、後3個。

 けれど、武器と盾を置き去りに、大切な一人を失った破罪使は姿を消した。

 失うばかりで得るものの無い暗い旅路には、それでも見上げれば空が広がっているが、徐々に徐々に暗雲が立ちこめて、足場を見失わせようとする。

 もう二度と、強かで可愛らしい笑みがその顔に浮ぶことはないのだろう。

 けれど、最期まで彼女は笑みを浮かべていた。

 




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