嫌われ者に愛の手を
夕陽が沈む少し手前で、リサーナは入城していた。
煌く照明に、まるで雲の上を歩いてるようだと錯覚する柔らかな絨毯。それを踏んで通されたのは、何故か浴室であった。
一人で使うには広すぎる浴槽には贅沢すぎる量の花弁が浮かべられ、絶えず温かい湯が付け足されている。さらには、どこの貴族だと身体を洗ってくる侍女の手付きは、まるで触れれば壊れる脆いガラスのような扱いで、髪もまた繊細な物と思っているのかもしれない。羞恥心は特に感じないが、その分居心地の悪さが酷かった。
さらに、解放されたと思えば、今度は肌を滑る滑らかで上質な布が用意されていた。揺れる袖には、シンプルながらに美しくビーズが光っていて、それ以外の無駄な装飾は一切無く、腰から身体のラインにぴったりとフィットし膝下が広がるドレスは右側にスリットが入り、細い足をとても優雅に魅せている。
それだけで、女性らしさの無いはずの体型、容姿をとても美しく変えていた。何より、持つ雰囲気と黒いドレスの色が調和していて、同性にも感嘆の吐息を吐かせる程だろう。
けれど、女性であれば誰もが憧れそうな体験をした本人は、自身の映る鏡の前で、どんな戦いでも見せたことが無い死にそうな表情をしながら大きく嘆息している。勿論、その変貌に感動してでは無く、心底勘弁してくれという気持ちからだ。
「まだ、終わらないの……?」
「御髪を整えておりませんので」
必要最低限、こちらから言葉を掛けない限り、無表情で淡々と仕事をこなす侍女達がさらに気を滅入らせるのだが、そうしている間にも、長い前髪は右側に流して緩く毛先を巻かれ、伸びたといっても女性にしては短い髪にくどくならない程度、小さな蒼い花が飾られていった。
そして出来上がったのが、一人の色気漂う女性である。けれど、正体を知っている者からすれば、さしずめ悪の女王といったところか。
「さあ、陛下がお待ちです」
その言葉で、やっと終わったと肩の力を抜き、逃げるようにさっと立ち上がって部屋の扉を開ければ、そこに待機していたのは弓使いの男。彼は、世辞を言うどころか無反応で静かに歩き出し、仕方なくその背中を追った。
何時、何が起きても可笑しくは無い。そう構えて夕陽が沈む間際に王城へ来はしたが、流石のリサーナも、待ち受けていたのがドレスアップだとは予想出来なかった。
ただ、出迎えの為城門にて待機していた弓使いから言わせれば、全身を外套で隠したまま城に来て、果たして不審じゃないとでも思っていたのか。さらに、そのまま王に謁見できるわけが無いだろう。
けれど、未だにそういった常識の無い悪魔は、敵視する相手の背中を眺めながら呟く。
「どうして、こんな事に……」
土色のリサーナではなく、悪魔のリサーナである彼女の銀の髪で、その気持ちとは裏腹に、楽しそうに蒼が揺れた。
「こちらで陛下がお待ちです」
そうして案内されたのは、王が居そうな大きな扉の前では無く、歩いた距離から察すると、城の外れにある一室だった。
薄暗い廊下がこれからの未来を暗示しているようで、けれど弓使いが扉に手を掛ければ、リサーナの目が雑念を消し去って冷気を発する。あり得ないことだが、髪を飾る花が一気に水分を失って凍り付いてしまいそうな程である。
静かに開かれた先を照らしていたのは、最低限の蝋燭の光のみ。弓使いの促しの手に、リサーナはその一歩を踏み出した。
伸びた背筋と前を向く視線は堂々としていて引け目は一切無い。頭を下げながらその雰囲気を感じた弓使いが、これこそが悪魔なのかと身震いするのを尻目に、晩餐の場に入室したリサーナを待っていたのは、今まで見た人間の中では最も美しい者だった。けれど、感嘆の吐息を吐いても可笑しくない彼に浮べた表情は、醜いものを見た時の嫌悪を表している。
「初めまして。お会いできて、至極恐悦です」
「お招き頂き、とても光栄です」
一応の建前として、感情の篭らない挨拶を返すリサーナに対し、フィザーレイロは待ちきれなかったと立ち上がり、それこそ涙しそうな程の感激で瞳を潤ませながら彼女の手を取ろうとした。
「触れるな」
それは鋭い言葉によって拒絶されたが、フィザーレイロは心の底から敵意の無い視線を送り、恭しく頭を下げる挨拶に変えてから、悪魔の為に用意した席の椅子を引く。
既に室内にて待機していた剣士は勿論、案内を終え同じく扉の前に立った弓使いまでもが、王自らの行動へ僅かに目を見開いた。
テーブルは、二人で食事をするには丁度良い大きさで、けれど王がと考えれば狭すぎるものだ。その上には、既に食前酒が用意されている。
リサーナがしっかりと席に着いたのを確認してから、フィザーレイロが向かい側へ腰を下ろせば、それが晩餐会の始まる合図となった。
「改めまして、私は」
「フィザーレイロ陛下で、よろしいですか?」
もっとも、リサーナに楽しむ意思は無い。相手の怒りを買う可能性をお構い無しに、悉く非礼な態度で返す姿は、氷の女王と字が付きそうだ。
けれど、それは感情任せによるものでは無かった。リサーナは、そうやってフィザーレイロを煽っていたのである。
上辺に見えるものは殺す以外の目的だと思えたが、隠しているものまで分かる能力があるはずもない。だから、突ついて刺激し、怒りによって制御の外れた感情を出させようとそういう態度を取った。
「そんな!」
上手い具合に引っかかったフィザーレイロは、その言葉で食前酒の入ったグラスを取ろうとしていた手を止め声を上げる。
けれど、浮んだ表情を見たリサーナの目が、僅かに大きく開かれていた。
「フィザーレイロで十分です。あなたに陛下と呼ばれるなど、私は……悲しい」
目元の、悪魔と似て白味の強い肌は赤く染まり、名を知っていてもらえた事への喜びと他人行儀な敬称への寂しさ。二つの感情がフィザーレイロの胸中で暴れ狂うが、その光景を見たリサーナからすれば、驚愕から程遠い生理的な悪寒が生じていた。
「お食事をされるのがあまり好きでは無い、と伺っております。けれど、きっとお口に合うことでしょう」
直感で、今まで出会った誰よりもこの人間は危ないと確信したリサーナだったが、そんなことは露知らず、グラスを掲げたフィザーレイロに彼女は仕方なく合わせる。
透き通ったガラスのぶつかる音は、リサーナへの警告音かフィザーレイロへの祝福の鐘なのか。口に含んだ酒は最高級品だったが、どんな安物よりも不味く広がった。
「精石を、お外しなんですね」
それを押し隠しグラスを戻しながら、リサーナがフィザーレイロと対面して一番最初に苛立った内容を告げると、彼は「あなたの事は、大抵分かりますので」と微笑む。
「人とお食事されるのがお嫌いでしたら、取引を致しましょう」
「……取引?」
給仕すら傍に置かず、代わりにこの場の全てを任されている弓使いが料理を並べていく中、フィザーレイロに対する悪寒が酷すぎて、彼の手元の空いていくグラスへと視線を下げながら、リサーナは怪訝に眉を寄せた。
テーブルマナーも知らないというのに悩む素振りさえ見せないのは、その余裕が無いから恥だと思えないのか。いや、リサーナのみならず悪魔全員が、河内紗那さえも、食事や睡眠に対して本当に関心が無い。だから、興味も必要性も感じないのだ。
それは、河内紗那を抜きに悪魔だけで考えれば、生きる行為を苦手としているか放棄している様にも思えた。
「私は、この一時を楽しみたいのですよ。ですから、お付き合い頂くその対価に精石をお渡しする、というのはどうでしょうか」
ナイフとフォークを手に取りそう持ち掛けたフィザーレイロに、リサーナもそうする事で答えとした。
それこそリサーナの領分で、単純で馬鹿らしいご機嫌取りに徹すれば良い。
勿論、食事をするということは、毒を盛られる危険性がある。けれど、自身を脅かす可能性のあるものについての知識を真っ先に習得していた悪魔は、動きを制するのならば魔法の方が安上がりだと知っているし、そもそも精霊化していて毒自体が効きにくい身体だ。症状が出た時点で、クランクを呼び出し全力で逃げれば良いと、大して警戒していない。
「ふふ。やっぱりあなたは、私の考えていた通りのお方だ」
「貴方こそ、聡明なんですね」
心からの笑顔と、仮面で作られた笑み。零れてしまった言葉に返された皮肉すら、悪魔が自分に掛ける言葉というだけで、フィザーレイロにはどんな賞賛よりも甘美であった。
それは、崇拝というには歪みすぎていて、利用しようとしているだけならばあまりに不可解だ。もっと違う感情――欲望があって、力よりも悪魔そのものを見ている気がしてならないのだが、リサーナは気付く様子が無い。
固定観念とでもいうのだろうか。自分は悪で、精石は人にとって最も大事で、誰もが守ろうとしているという概念が、悪意だけしか見極めてくれなかったのかもしれない。フィザーレイロが見ていたのは、感じていたのは、全く違う部分だったというのに。
「そういえば、天使軍がシルフィード殿下の指揮下に置かれましたよ。雷と海の国が、事実上あなたを追うのを諦めたせいだそうです」
暫くは無言となり、リサーナがフィザーレイロの動きを盗み見ながらの食事がなされたが、彼女がサラダを口に運びかけた時に掛けられた言葉によって、その腕がピタリと止まった。
ゆっくりと下がっていく腕を見るフィザーレイロは朗らかに笑っていて、リサーナの不信感が強まる。カツン、とサラダが刺さったままのフォークが皿に置かれた。
「……シルフィード殿下とは?」
「おや? ご存知では無かったのですか。風の国の王太子殿下ですよ。もっとも、天使軍を率いることでただの殿下になられたそうですが」
フィザーレイロが首を傾げれば、髪がサラリと肩を撫ぜていた。
そして、リサーナの目が、まるで見えない何かを見ようとするように細まる。こいつは一体何がしたいのだ、と彼女は困惑した。
「それを私に言って、何かあなたにメリットが?」
フォークは手から放され、代わりに流し込まれたアルコールが喉を通った後に出た声は低い。
悪魔にとって、正直その情報は何の得にもならなかった。上が誰であろうが、障害となるのであれば突破するだけだからだ。
けれど、フィザーレイロにとっては、天使軍が不安定な状態だと暴露しているのだから、損と恥にはなれど得が一切無い。しかも、告げた相手が敵対する悪魔本人となると、それが公になった場合、他国からは後ろ指を差されるだろう。
だというのに、リサーナの問いにフィザーレイロは口元へ手を当てて笑っていた。
「まさか、私が悪魔の力を欲しているとでも思っていたのでしょうか」
「むしろ、それ以外に何の利益が生まれるのでしょうか」
「メリット、利益と……。あなたは余程、人という物を理解されているようですね」
蝋燭の赤い灯火は怪しく両者に影を作りながらゆらゆらと揺れ、元から無い食欲が一切無くなる。それでも、普段に比べれば食べた方なのだが、豪勢な食べ物がそれ以上リサーナの口に運ばれる事は無かった。
代わりに、今までの嫌悪や不信感など、フィザーレイロに感じた凡その負の感情が、胃の辺りで蠢いてくる。
「私は、人を物だと思ったことは一切無い」
「けれど、あなたは物以上の酷い扱いで、多くの者に悲劇を魅せたではありませんか」
嘗て、これ程の気持ち悪さを他人に抱いたことがあるだろうか。少なくとも、フィザーレイロがどういった人物なのか、リサーナはこの瞬間悟った。
この王は、王であるが故、生まれた瞬間から人の上に立っていたのだろう。そして、立ちすぎていた。彼にとって、人とは個でなく群なのだ。個が自分で、その周囲に群らがる物。或いは、それこそリサーナの持つグラスの様に、テーブルの上の食器の様に、当たり前に存在して当たり前に消費されていく。
「では、あなたが私達に求めるのは一体どういったことなのでしょう」
「……私達? 精霊王になど、興味ありませんよ。寧ろ、あなたを穢すゴミでしか無い」
うっとりとリサーナを眺めるフィザーレイロへ、今度は彼女が首を傾げる番だった。悪魔を前にしても、あまりに精霊王を貶しすぎている。
リサーナは、視線を彼から背後に控えている者達へと映した。彼等は、僅かに顔を歪め、失態に今気付いたといった表情をしていた。
どうやら、悪魔が三人居ることを王に報告していなかったようだ。文面で伝えるには、言葉にするのが難しいのだから当然だったのかもしれない。
「お話中、ご無礼をお許し下さい」
それならば、また対応の仕方に幅が広がる。リサーナがそう考えた瞬間、フィザーレイロの傍に跪いたのは弓使いの男であった。
途端、フィザーレイロの表情が不機嫌に変わるのだが、弓使いの中では、例え本人を前にしてでも伝えておかなければ、王の望む目的の障害になりかねないと、再び折檻されても構わなかった。
「……良い。話せ」
リサーナに対するものとは真逆な、無感情な声ではあったが、流石のフィザーレイロも目の前で、普段と同じ行動をするのは憚られたのだろう。彼にとっては、異例とも言える態度で弓使いを許し、先を促す。
その言葉に内心ホッとしつつ、リサーナの苛立つ視線を受けつつも弓使いは言った。
「このお方のお名前は、リサーナ様。悪魔の一柱としてその御身を置き、戦いを担うサイード様と共に、破罪使であるルシエ様を支える存在でございます。皆様が個々に、お身体を共有している姿を何度か拝見致しました」
「どういう……ことですか?」
堅苦しくまどろっこしい言い方が、主従の美学なのだろうか。ただでさえ、目の前で暴露され苛立つというのにその言い回し。リサーナの小さな舌打ちが、弓使いに問い返そうとしたフィザーレイロの意識を向けさせてしまった。
「破罪使はお一人ですが、悪魔はルシエ様に限らないということです。文面では余計に混乱させてしまうと思い、ご報告しておりませんでした。そして、今の今までそれを怠っていたことを、どうかお許し下さい」
「お前には聞いていない」
蒼い瞳はリサーナに集中し、弓使いの横入りは冷たい言葉で拒絶された。
無性にサイードの如く頭を掻き毟りたくなるリサーナだが、髪を飾る花がそれを拒む。彼女の溜息は、この茶番の全てが面倒くさいと言葉の代わりに訴えていて、この場から逃走し、城内を宛ても無く駆け回った方が早そうだと考え始める。
「リサーナ、サイード、ルシエ。この名は、少なくとも天使軍に関わる国なら、ご存知のはずですが?」
「勿論です。けれど、前の二つは、あなたが行動する上で偽る為の名だとばかり……」
「まぁ、その見解が当然なのでしょうね。では、それの真実をお教えする代わりに、精石を頂きましょうか。正直、これ以上の食事が私には無理なので」
徐々に、リサーナの思考が戦いへとシフトしていく。
言葉の駆け引きというよりも、動揺を誘い隙を大きくする為の会話。ちらりと、フィザーレイロだけでは無く弓使いと剣士まで、リサーナの取った食事量を確認して眉を顰めていたが、それを無視して返事を聞かずに強行した。
「身体は一つですけど、私達はそれぞれに思考を持ち、得意分野も違う。想像しろと言っても難しいでしょうが、私とサイードはルシエのサポーターです。故に、悪魔は三人。けれど、破罪使はルシエにしかなれません」
「つまり、そのお身体には複数の人間がいると?」
「ご自由に解釈して頂いて結構です」
フィザーレイロが理解出来ないと困惑しても、リサーナはお構いなしだった。
それは特徴でもあり、異様でもあり、だからこそ弓使い達が文面では表現出来なかったのだが、真実と言ったくせにあやふやな表現が尚更理解を許さない。
お粗末な胸に手を当てたリサーナは、普段と違って真っ赤な唇で弧を描き、怪しい笑みを浮かべていた。
「理解出来ないでしょう? 不気味だとお思いですか? それで結構。だから私達は悪魔で、だから三人で悪魔になれるのです」
この光景をゼフやクランク、夾でも良いが、誰かが見ていれば、リサーナが嘘を言っていると思ったことだろう。彼女は、一連の言葉の最後に、首を少しだけ傾けたのだから。
けれど、フィザーレイロにとっては、それが真実でも嘘でもどうでも良かった。今の姿が美しいと思える、それだけで十分満足出来た上に、真実であれば尚のこと感激出来る。彼は「あぁ……」と、我慢できず言葉にならない声を漏らした。
「あなたは、私達に何を求めている……?」
恍惚とした、リサーナにとっては不気味な反応。思わず装うのも忘れるぐらいなのだから、余程の光景だったのだろう。
その時であった。フィザーレイロの姿に、別の誰かが重なって見えたのだ。
息を呑んだのは、その感情を考えずとも知っているからなのだろうか。
「ふふ……。だから私達、だったのですね。大変失礼致しました」
「精霊王をゴミと言う発言は、聞かなかったことにします。その代わり、今直ぐに精石をここへ」
入城してから今まで散々、得体の知れない何かに悪寒を感じていたが、その笑い声が耳に響いた時だけは、フィザーレイロに対してそれが生じた。
耐え切れず、大きく音をたてながら立ち上がったリサーナは引き際を見極めて、それを今だと判断する。
けれど、同じく立ち上がったフィザーレイロの行動は、精石を持って来るでも漏れ出る素を隠すことでもなく、リサーナに対して手を差し出すこと。「是非とも、他のお二方にもお会いしたい」とそう言う瞳は、美しい蒼なはずなのにどす黒く、それこそ汚れていた。
「せっかくですので、城を歩きながら、もっとあなた方の事をお聞かせ願えませんか」
「お断りします」
椅子が倒れ、足は下がり、全身の毛が逆立つ。
今までの余裕はどこに消えたのか。リサーナ自身不思議に思うし、なんて体たらくだと叱責したいが、如何せんフィザーレイロはあまりにおかしかった。
国を背負う王であれば、それを重んじて当然だ。その重責の対価が贅沢であり、その代わりに自身を捧げる。民がいるから国があり、王が存在出来るというのに、今まで出会った同じ立場の者達とフィザーレイロはかけ離れ過ぎていた。
「そんな! あなたに、僕を知って欲しいのですよ」
「……それが本性か」
リサーナに近付こうとフィザーレイロが歩けば、テーブルの上の蝋燭の灯火が大きく揺れ、彼女が瞬時に出した右手の暗器が警告の光を発する。正装を強要された際、ほとんど奪われてしまった隠し武器の中でなんとか残せていた針が五本。弓使いが彼の後ろで身構え、牽制の睨みを効かせている。
それでも、物理的にも精神的にも、この男に近付いてはならないとリサーナは行動した。
「あなたの中では、精石の破壊が全てなのでしょう? で、あれば、この僕がそれを叶えてさしあげます。僕の傍に居てくれるのであれば、その全てをあなたに捧げると誓いましょう」
「話が違う。そもそも、貴様はさっきから偉そうに私達へ知った風な口を叩くが、王だからと暢気に構えているのか」
リサーナの姿勢が僅かに前屈みとなり、今にも暗器が放たれそうな気迫が漂う。
戦う際にはサイードに代わった方が良いのだが、リサーナはそれを最終手段に、出来る限り自身で動くべきだと思った。それをすれば、フィザーレイロを喜ばせてしまうだけだろうからだ。
「お気に触ったのなら申し訳ございません。ただ、これだけは分かって欲しい。……あなたを理解出来るのは、僕だけだ」
差し出される手と、持ち主の放つ気配。未だにその考えを図りかねるリサーナであったが、それが何かだけはやっと分かった。
自身にも馴染みがあり、常にその傍らにあり、分かっていながら抑えきれない衝動となる狂気――
「交渉は決裂です。……貴様を見ていると、吐き気がする」
「ご自分を見ている様で、ですか?」
フィザーレイロの手がリサーナの頬へ触れるぎりぎり、派手に後方へ跳ぶのと同時に放たれた五本の針は、彼の美しい髪を数本床へと散らせた。
けれど、それ以上の傷を負わせる事が出来ず歯噛みするリサーナの前で、それでもフィザーレイロは笑っている。
「狂っていると言いたいなら、好きなだけ吠えろ。貴様と同列で見られても、私達は別に構わない」
今までにない鋭い視線と気配のリサーナは、大きくドレスの裾が開いているのも構わずに扉の位置を探った。出口はたったの一つ。その前には、剣を抜いた剣士が立ち塞がっている。
ここまできても相手に敵意は無いのだが、馬鹿げた押し付けがましい勘違いな感情が、今回の敵だったのだ。
流石のリサーナも、ルシエも、利用の為に欲する可能性は考えられたが、こんな展開は予想外すぎた。
確証があったとしても自意識過剰すぎると呆れられる、けれど、それが当てはまってしまう言葉を、リサーナは拒絶と共に言葉にする。
「けれど、私達は誰にも渡さない。貴様など、どれだけ対価を積まれ様がお断りだ」
足に纏わりつく邪魔な布を引き裂き、生足を曝け出しながら、その扇情的な姿とは裏腹に吐き捨てられた言葉の意味。フィザーレイロは悪魔の力を欲するわけでも、精霊王を求めているのでもなく、それこそ女として悪魔を望んでいたのだ。
そうと気付けば、この晩餐会での様子の数々に納得がいく。敬うような言葉遣いも、度々見せた抑えきれない喜びの表情も、全てが悪魔に捧げられていた。
けれど、だからこそ納得がいかない。フィザーレイロと悪魔は、今回が初対面なはずだ。お互いに、情報としてその存在を知っていて、彼が悪魔の浮き彫りになった行動の数々を言葉と文字にて追っていたのは確かだが、所詮それだけで惹かれる要素が力以外に何も無い。それに、彼ならばその美貌と地位を持って、いくらでも美しく、もっと肉欲的な女が手に入るだろう。
治癒によって回復してきた傷とはいっても、その痕跡まで消し去ってくれるわけではない悪魔の身体は、至るところに小さな傷跡が残っており、肌理細やかながらもまっさらとは言えない。それに、そもそも悪魔なのだから、一体何に焦がれるというのか。
「……いいえ」
リサーナの言葉が相当なダメージを与えたのか、フィザーレイロは俯いた。
けれど、部下の二人に動く気配が無く、チャンスは今しか無いとリサーナが扉へ向かおうとした時、小さな呟きがその足を縫い付けて、思わず振り返ってしまう。
「こいつ、気持ち悪い」
思わず漏れた本音の先で、フィザーレイロが顔を上げて泣いていた。美しい頬を煌かせ、拭うこともせずに涙する。
出来れば、謎の悪寒の正体が突き止められるまでは、ゼフとクランクを近づけさせたくなかったリサーナだったが、ここまでの狂気を見てしまってはそんなこともいっていられなかった。
「精石を捨てた時は、貴様の国を再起不能になるまで破壊しつくしてやる」
我ながらなんという雑魚台詞だと思いもするが、リサーナは本気でそう言って、初めて精石を目前に本気で逃亡を優先しようとした。
唇が、今頃やきもきしているだろう二人の名を紡ぐ為に開かれる。
精々悔しめば良いと、その顔を拝んでやるつもりでフィザーレイロを見たリサーナ。しかし彼は、泣きながら悪魔の様に笑っていた。
「あなたは、僕のだ」
リサーナの瞳がカッと見開かれ、瞬く間に雰囲気を変えてフィザーレイロを視界から外し、背後を振り向く。
「いつ、俺達に触れた!」
扉の前に居たはずの剣士がいつの間にか姿を消していて、危険を感じて咄嗟にリサーナを下がらせたサイードは、料理が飛び散るのも構わずテーブルの上に立ちながら吠える。
リサーナに比べ低くなった声や鋭い眼光。女の恰好でのサイードという異例の事態ではあるが、フィザーレイロも放つ雰囲気が全く違うと感じられたのだろう。興奮によって涙は止まり、頬は上気していた。
「まさか、気配の無い相手を避けるなんて! あぁ、素晴らしい」
「ちっ、気色悪いのも通り越すなこいつ」
サイードは変則的な動きで、部屋を惨状へと変えていった。
剣士が天空の巫女と契約しているのは、馬車の旅で気付いていた。だから、決して触らせないよう警戒していたはずだ。
けれど、今のサイードにはその剣士の気配どころか姿も見えておらず、それでも彼が危険を感じて動けたのは、室内で魔法の使われる魔力の気配がしたからである。
「物を壊して音で辿ろうとしても、それさえ消してしまいますよ」
サイードが剣を出し部屋中を破壊する姿を眺めながら、弓使いに守られ隅へと移動したフィザーレイロが勝ち誇ったように言った。
ゼフとクランクを呼ぼうにも、魔力を通して現れる前に意識を奪われてしまえば万事休す。雷の精霊王に気絶させられた際に言っていた言葉は、精神を眠らせた場合に通じるものだった。つまり、身体の自由を奪われてしまえば、例え三人が別々の精神であっても活動は不可能だ。
それに、ただでさえ呼び出す為には魔力を練らなければならず、何を仕出かすか分からない相手に抵抗するには、全神経を集中させなければならない。
剣士と契約している精霊に何とか呼びかけようとしても、残念ながら応えてくれることは無く、加護の無い生身の状態での戦闘をサイードは強いられた。
「本来であれば、天空の巫女特有の気配を消す魔法を使うには、素肌を数秒合わせて精霊に覚えさせなければいけないのですが……。あなたの気配は、服の上から無意識に触れただけで、精霊に強烈な印象を与えたようですね。精霊王と契約しているのに、精霊には嫌われているのですか?」
無意味でも剣を振り回し、耳や鼻、全ての器官を用いて剣士を探しながら、サイードは出口へ向かっていく。
零れた舌打ちは、フィザーレイロの言葉で脳内を流れた映像によるものだった。自身の軽率な行動がこの状況を作ったのだと、気付いてしまう。
苛立ちが心を乱そうとするが、ともかくこの場から逃げなければならないと、何時になく焦りながらサイードは走った。
後少し、後少しで扉が蹴破れる。そこで気を緩めないのだからその精神は賞賛に値したが、今回ばかりは相手が悪かったのだろう。全てが予想外で、何より精霊が味方をしてくれないことが不味かった。
「でも、安心して下さい。悪魔なあなたを、嫌われ者なあなたを、僕が愛して差し上げます」
「しまっ――」
絶えず前後左右に動き、剣を振り回して牽制していたサイードの動きを、一本の短剣が邪魔をして狂わせた。
バランスを崩して倒れる身体は、その動きを当然予想できるものに変えていて、視線の端では弓を持っていないからと意識外に置いていた弓使いが、短剣を投擲した後の体勢で止まっている。
「流石、今の今まで逃げ果せていただけある。素晴らしい動きでした」
そして、床に倒れる筈だった身体は途中で止まり、背中で何かが触れる感覚がした。
それを感じた瞬間、サイードにとっては消えていた剣士が姿を現していて、純粋な賛辞を送っている。
けれど、驚くことも抵抗する暇も無く、「ご安心を。お命を取ったりは致しません」と聞こえた後に、精石の解放でも受けたことのないような痛みが全身に走った。
「て……め……」
加護の無い生身の身体で生粋の剣士と渡り合えただけ、サイードもこれまでの戦いで成長していたのだろう。さらに、まるで内臓が一斉に破裂するような激痛を受けながら、唇を噛んで僅かな呻き声を上げるだけに留めたのも、余程の精神力がなければ出来ないことである。
ただ、激痛に危険を感じた身体は、強制的に必要最低限の機能のみを残して意識を奪っていく。
「ち……くしょ……」
悪態を吐き、サイードの手は近くの床に刺さった短剣を求めて彷徨った。けれど、触れたのはひんやりと冷たい人の手で、朧気な視界に映るのは、彼の手を握って頬擦りし、今度は歓喜に涙するフィザーレイロであった。
「やっと、手に入れた」
その言葉はサイード達悪魔を、彼等が求める闇とはまた違うどす黒い渦の中へと誘っていく。折られた翼であっても、用意されていた鳥籠は余りに狭いものだった。