太陽王と賢王の過去
ルシエにとって夾との再会、そして別れは、良くも悪くも大きな力を与えた。動揺を誘われ、我を忘れ、自分の分身に叱咤されはしたが、それでも喜ばしい事があったのだ。
けれど、ゼフやクランクに分かるのはそれだけで、空の国を目指し馬車を走らせることになってから二週間、その何かまでは分からず仕舞い。一々、説明をしないのは当たり前になっているが、あっさりと怪しすぎる誘いに乗っているのもそうだ。けれど、尋ねても、「楽しそうだかったから」としか答え無い。
それは、身の程知らずに接触してきた夾の元仲間も同じであった。彼等はルシエよりさらに酷く、精霊王であるゼフとクランクが声を掛けても全く反応しないのだ。
だというのに、ルシエに対しては本心からではなくとも謙り、それこそ主人のように傍を離れない。
そう短く無い期間、共に行動している彼らが険悪なムードのままなのはそこに理由があり、けれど、それでも成り立っているのは全員がルシエを中心に置いているからに他ならなかった。
「ここって、もう空の国の領土?」
ルシエは、景色を眺め喜びに浸るのに満足したのか、目を開けたときにはリサーナとなって、二人の男に尋ねていた。
彼らにも当然名はあるのだが、自己紹介すら行っておらず、お互いに話し掛けることもまずなかった道中。ルシエの名を呼んだのさえ先程が初めてだった始末で、夾の元仲間で監視役、そして空の国王の腹心の部下である彼らが持つ情報は、天使軍と大して変わらない。
そのせいで、何度か見た中身の変化に未だ対応できず、質問を呑み込むまでに時間がかかっていた。
「え、ええ。とはいっても、首都からは大分離れていますので、後二週間程度かかるかと」
「そっか。だったら、立ち寄る場所を決めているのなら、非常食はあるし現地調達も可能だから、半分以下に減らして極力急いでくれないかな」
「……は?」
どちらも平凡な顔付きで、特徴というなら片方がきつい釣り目だという程度。戦闘の仕方が弓と剣で分かれている、それがそのままリサーナ達の脳内で呼び名として定着している。
リサーナは、隣に座るゼフの膝へ徐に頭を置きながら、相手の顔を見ることなく自己主張を激しくしていった。
「馬車、飽きたのよ」
「しかし、あなたは既に二日も食事を取っていませんし、そもそも非常食を召し上がらせるなど、以ての外です」
貴族に対するような扱いが可笑しくて、笑いながらそう訴える相手に片目を向ければ、彼等はゼフがリサーナの髪を撫でるのが気に入らないと眉間に皺を寄せていた。
「こいつ等は誰であっても食事は限界まで取らないから、気にする必要はない」
「貴様には聞いていない」
そして頭上では、口を挟んだゼフと釣り目の弓使いの男のいさかいが始まりかけるのだが、リサーナは能天気に欠伸をするだけ。その温度差に、クランクは苦笑するしかない。
「貴方達にとって、ルシエが同行に応じた時点で目的は大成功なんだから、弱ろうがどうしようが関係無いんじゃないの?」
「そうはいきません。私達は勿論のこと、陛下にもあなたを傷付けるご意思は無いのですから」
「じゃあ、はっきり言うけど。私達は、食事をするのがあまり好きでは無いの。一口二口こまめに含んで、限界にならないとしっかりとは取らない」
男達の知る限り、リサーナが食事を取ったと言える量、何かを口にした回数は両手もいらない。けれど、彼女の目に宿る光には、空腹による苦痛は一切浮んでいなかった。
至極面倒くさそうに、それ以上の干渉を拒む姿に、二人に対する好意は微塵も感じられない。そもそも、楽しそうだからと馬車での旅をしているが、それはタイムロスでしか無いはずだ。ゼフの力がある限り、彼等の移動速度はどのような手段にも勝る。
だからこそ、ゼフ達が訝しんでいるのだが、それでも、はっきりいって怪しい二人に付き合ってやっている理由。それは、筆頭騎士が倒されても尚、存在する天使軍の目を欺くのに一番手っ取り早いというのもあるが、何よりルシエ達は空の国王を警戒していた。
まるで、悪魔を分かっているかのように夾を差し向け、精霊化を知っていて、その得体の知れなさに嫌な予感がする。けれど、それを感じても、空の精石が王の装飾品である限り接触は免れないので、自分より国王を知っている怪しさ満点の者を利用し情報を得ようと、ルシエは彼等の言葉を受け入れていたのだ。
この二週間、中身を変転させて定めないのもその反応を見る為であり、めったに交わさなかった会話を今しているのは、最早意味は無いと判断したから。リサーナは最後の仕上げをし、ゼフとクランクと共に今後を話し合うつもりだった。
「……十分な睡眠さえ、取っていらっしゃらないではないですか」
「ふふ。まるで、人に対する扱いをするのね」
そう笑いつつ、表情は決して喜んでいない。寝た振りを重ねていたというのに、そう言っているということは、自分から監視もしていると明かしている。悪魔だと罵ったくせに、頬を傷付けてきたくせに、白々しくそんな態度を取れるのはいっそ清々しくもある。
金の威嚇する瞳を向けられた二人は、それ以上食い下がらず、ただ一言「分かりました」と御者に予定の変更を告げるしか無かった。
ルシエ達がこれまでに立てた予測は、空の国王フィザーレイロが、殺す以外の目的で悪魔に会いたがっているということだ。その為に、勇者という存在を作り出し、夾を利用して自身の側近と接触させ、こうして招こうとしている。
さらに最も注目すべきは、剣士の方が肌を接触させようとしている点で、これは肉体関係を求めるのでは無く、文字通り触ろうとしているということ。それで何をしたいのかは分からないが、それで何が出来るのかは明白であった。
空の精霊、天空の巫女と契約している魔術師には触れるべからず。これは、アピスで魔に携わる者にとっては常識中の常識だ。触れた対象に、自分の気配を感じさせない。触れた対象の気配を、全てからかき消す。言葉にすれば地味にも程があるが、どれだけ接近されようが痛覚を刺激されないかぎり、相手に気付くことのできないその補助属性は、暗殺にもってこいである。
ルシエにとっても、自分の気配をかき消してくれるのであれば、どれだけ金を積んでも構わないだろう。けれど、それが自分に気配を感じさせなくする意図があるのであれば――
リサーナは、要求に従ってきても、次に立ち寄る村か街で行方を晦まそうと考えていた。けれど、弓使いが御者と話をしている間、リサーナと視線を合わせたままであった剣士が予想外の言葉を口にし、それを封じられる。
「陛下からの命令の中に、万一あなたが逃げた場合には、その足で夾を殺しに行けというものがあります」
「そう。別に構わないんだけど。私達も忘れるから、夾君に忘れてと言ったのよ?」
唐突な言葉の意味は分からないが、余裕に返したリサーナ、しかし、次に続く言葉から予想できる反応が楽しみだったのか、剣士も言葉遣いとは裏腹に心底見下した視線を彼女に向けていた。
「では、もう一つ。その時には陛下へ必ず知らせる手筈。受け取った時点で、陛下は精石を海に投げ捨てるそうですよ」
ピクリと動いたのは、精霊王二人であった。リサーナは、仮面はそのまま暢気に、けれど彼女の持つ最大の殺気を剣士に放ち「分かったわ」と、顔の向きをゼフの方に変えてそれ以上の会話を止めた。ただし、寝に入ったのでは無く、閉じた瞳の奥では目まぐるしく様々な考えが浮んでおり、最も強く思ったものを聖殿で聞いた感覚共有というもので伝わればと、ゼフの服を握った。
その目論見は上手くいったのか、了承の意で髪を撫でたゼフとクランク。次に立ち寄った場所で、リサーナの望みを叶える為に別行動を取ることとなったゼフは姿を消した。
国王の側近達に対しては、魔力の消費を抑える為に実体化を止めただけだと、そう告げて。
そうやって、悪魔が空の国に向けて進んでいる最中、人間側でも注目すべき動きが生じていた。
まるで、最期の舞台を整えていくかのように、徐々に徐々に、其々の想いが重なり、剥がれ、様々な嘘という殻で覆われた真実の姿を暴いていく。
精霊の森の入り口である、精霊の門番の長が住まう城。そこでは再び、各国の王が集結していた。
けれど、全員というわけではなく、前回同様星の国と、散々皮肉を吐き無残に悪魔の餌食となった大地の国、そして空の国を欠いての協議となり、雰囲気も諦めの色が濃い。さらに、精霊の門番の長であるスペンサーが、王達に引けを取らない堂々とした姿勢で席を共にしており、円卓には一枚の紙が置かれていた。
「犠牲者が一人で済んだのは、天使軍側の対応の良し悪しでも何でも無い。悪魔がそれを望んだからなのか」
「数で攻めれば、敵う見込みがありましょうぞ。しかし、それは諸刃の剣。それ以上にやるべき事が、我々にはあるのかもしれません」
ポツリと零した風の国王の後ろに立っていたのは、リュケムではなく王太子殿下であった。彼は現在、利き腕を失い、命の危機はないものの床に伏した状態だ。筆頭騎士の戦線離脱は、最早悪魔に単体で敵う人間が居ないだろうと人々に告げていて、けれど王達が思案しているのはその件ではない。
卓上の紙は、あろうことか悪魔本人が雷の国王を介して全ての王に伝える為の手紙であった。何時の間に、そんなものを認めて渡したのか。それは、あのゼフを笑わせた行動の一つに隠されていた。
雷の国王が目覚めた時、肌寒さと共に感じたのが、服の下の背中に隠されていた紙の感触。それ以上に内容が彼を戦慄させ、急ぎ王の集結を促したのだが、それによって国間の亀裂が生じ始めたのである。
「しかし、だからといって、悪魔に精石を差し出せと、あなたは空と星にそうおっしゃるのですか?」
「表舞台に立つ国の中で所有するのが、たったの二つ。最悪、どちらかが精霊王の思想を掲げて民衆を率い、他国を侵略してきても可笑しくない状況なのですよ? 特に、星の国は本当に仕出かしかねない」
「その通り。悪魔に精霊王が付いている時点で、相手は己が正しいのだと誇示している上、それが民に知られれば取り返しはつかないでしょう」
「それは、悪魔が操っているからだと」
「その文を出した者が、誰か分からないのだぞ」
一人を除き、五人もの人間が入り乱れての会話は、最早誰がどういった発言をしているのか把握するのも困難だった。かといって、この場に居る国の全ての精石が消失しているのだから、結局精石についてよりも自国の保身が先に出てしまう。精石を精霊王の授けた恩恵の欠片として、永きにわたり信仰されてきた思想は最早、争いの種になりかねなかった。
結局は、それをどう取るかが重要で、危機にするか好機に変えるか。もっというと、人間を選ぶか精霊を選ぶかを彼等は決めなければならない。
そんな様子を、唯一精霊の立場で物言える人間であるスペンサーが、至極退屈そうに眺めていた。一切口を挟まず、時折堪え切れないという様子でほくそ笑み、唯一悪魔からの文を眺める時だけ眩しそうに目を細める。
その間にも会話は続き、とうとう雷の王がはっきりと断言して、周囲を唖然とさせるのだが、先程から全員が精霊王を「精霊王」と言ってもスペンサーは無反応なことに、違和感を感じた。
「私は敗者だ。悪魔が、私の槍を受け麻痺した身体で尚、精石の破壊をやってのけたのを目の当たりにしている。あの者は、死してもその牙で喰らい付き、精石から離れないだろう」
腕を組み、思い出すように僅かに下がった視線から顔を上げた時、その金の瞳は選択していた。
「で、あれば。私はこれ以上の犠牲と混乱が生まれないよう、一連の出来事を教訓に、雷の民らしい新たな思想を生み出す。天使軍に身を置く要員の中、必要と判断した者は全て引き下げさせて頂く」
驚愕を示したのは、風と陽の王。それ以外はバツが悪そうに口を紡ぎ、その二人を盗み見て何も言わない。
「教訓とおっしゃっても、一体何を説くと仰るのですか」
ティルダは、剣呑とした雰囲気で雷の王を睨み言う。彼は、この場に居る誰よりも民に近い思想の概念を持っていた。
陽の精石があったにもかかわらず衰退していき、その恩恵を穢したと民が叫び勃発した反乱。揺るがない実体があったからこそ人は一つになれたが、形の無い思想だけの信仰になると千差万別ある人の意思を制御できると到底思えなかった。
根付くまでに揺らぎ、根付いてからも揺らぎやすい。民を殺して王となったティルダには、理解が出来ない考え方である。けれど、雷の王はティルダの姿に穏やかに笑い、「なに、太古の形に戻り、今を発展させるだけだろう」と、熱い若者に説いた。
「……申し訳無いが、我が国も雷の国に賛同する」
さらに、その潔さに背中を押されたのか、水の国がゆっくりと右手を身体の前で上げ、「元より癒しを主に生きてきた民。雷の国よりは、比較的混乱も起きないだろう」と彼は言った。
あくまでも悪魔を追う考えの風と陽、それよりもと考えた雷と水を窺う海の王だけが漂う波のように定まらず、うろたえながら悪化する雰囲気に怯える。
「従って、これからの天使軍の有り様を、是非とも話し合わせて頂きたい。現在は、代表として風の国に身を置かせて頂いている状態だが、我々が離脱するとなれば、それは懸念になってしまうのでな」
「身勝手な……。お二方は、悪魔に自分が惑わされていると思わぬのですか!?」
とうとう、風の王が声を荒げた。けれど、どちらも間違いでは無いし、正解が存在し得ない以上、彼等はここから平行線を辿るだけだろう。勝ち負けでいったら、雷と水は戦線離脱するのだから尻尾を巻いて逃げることになるのかもしれない。逆に、自国の平穏を望んで選んだと言えば、それは王として最良の選択になるのだから。
精石のお陰で変わらずにいられた国の形。国間の均衡。それを失った時から、各国の内情に抑えてはいるが、ここぞとばかりに領土を広げて不安要素を潰してしまおうという声が挙がっている。悪魔を討ったところで、それが鎮まる保障はどこにも無かった。
「無い物を嘆くよりも、例え負け犬と呼ばれようが、在る者を優先させるだけであろう」
「そうさせた全ての根源が、悪魔でしょう」
「二度、悪魔と相見えて生き残っている小隊がいるではないですか。最も悪魔にとって敵となり得るはずだったリュケイム殿さえ、片腕を奪われただけでご存命。星はともかく、後は空の国の王自身に選択を委ねるのが、最良ではありませんか」
風と陽が、逃げ腰すぎると感じるのと同様に、雷と水もそんな余裕などないだろうと自国を蔑ろにしかねない選択を蔑み、その場に沈黙が落ちた。
「では、天使軍を私に一任して頂けませんか?」
どちらも掲げているのは、王の矜持と国の為の平和。方向性の違いが、国同士の関係を揺らがせつつあり、この雰囲気での安易な発言は憚られた。
そうして出来た沈黙と雰囲気だったが、そこで徐に発言したのは、本来であればそれが許されない場所に立つ、風の王の護衛として控えているはずの王太子殿下であった。
その礼を欠く行動に嫌悪を表した雷と水、海の王は、相手が風の次期王だったことで表情を和らげ、次に発言そのものに難色を示した。結局、彼が王太子である以上、天使軍が風の支配化に置かれるのは変わらない。それは、一軍を無条件に譲ることにしかならない。
けれど、殿下は唐突に突拍子も無く、父親すら度肝を抜くことを表明したのである。
「悪魔を討ち取るか、軍が解体されるまで、私は継承権を破棄しますので、それなら問題ないかと思われます」
サイードが出会った、頬はこけ死に片足どころか半身を突っ込んでいた殿下は、今や凛々しく清淡な顔付きの青年として、その地位に見合った働きで王を補佐している。そんな、武よりは知に長けた彼は、天使軍が有益な理由を理路整然とした言葉で説くのだが、一国の王太子の継承権破棄を突然告げられた者達は、その行先を辿るどころか動揺さえできず固まっていた。
けれど、スペンサーだけが感嘆に眉を上げる中、当人は柔らかな笑みを携えて、「そういうことですので、手続き等をお願いします」と風の王で父相手にさらりと囁いていた。
「それと、先程の新たな思想の件については、是非とも難色を示す陽と風両国の意を汲んで頂き、その内容を民に開示する前に我々にお教え願いたい。他国を排除するようなものが無い限り、口を出さないことはお約束致します」
さらに殿下は、上手いこと采配を振り、誰もが納得の行く方向へと場をとりなしていく。その腕は、そこにいる誰よりも特筆していて、誰一人として反論さえ浮ばなかった。
そして結局、気付けば風の王ですら、天使軍を殿下の指揮下に置くことへ同意していて、彼は王太子殿下から司令官に立場を変える。とはいえ、彼が王の子である限り殿下という立場も変わりはしないのだが。
「雷と水の両国は、必要な人員を引き戻して頂いて結構です。そして、風と陽の国に関しては、私が協力を仰ぐという形で今まで通りでお願い致します。ただし、それだけでは不安もあるでしょうから、天使軍の拠点として……スペンサー殿」
「はい、なんでしょう」
協議を聞き、今し方考えたとは思えないその思考。今の今まで、誰もがその存在を忘れていたらしく、殿下の声掛けでやっと思い出してもらえたスペンサーは、朗らかに笑いながら彼を見つめていた。
けれど、殿下だけでなくティルダも、その表情にひっそりと胡散臭さを感じ、初めの内この城を貸してもらえないかと考えていた殿下は、暫く思案した後に「精霊の門番所有の土地のどこかを、天使軍に解放して頂けないでしょうか」と言った。
その違和感の正体にまでは気付けなかった二人であるが、良く考えてみれば、前回のスペンサーは、空の国王が精霊王を敬称無しに発言した時、表情を崩していたではないか。
けれど、今回はそれ以上に精石だけでは無く精霊王を蔑ろにし、自国優先な考えが飛び交っていても、一切口を挟んでいない。
「構いませんよ。ただし、我々精霊の門番にそれ以上の助力を願わない、という条件を呑んで頂ければ」
「それは、悪魔が万一あなた方の領域を侵したとしても、ですか?」
それでもスペンサーは、表情どころか声も朗らかに殿下の言葉へ頷いていた。
どこにも属さない土地が海に浮ぶ小さな島々以外にないこの世界で、中立を掲げるのはかなり難しい。かといって、殿下が率いることになった天使軍が風の国を軸としてしまえば、雷と水が黙っていないだろう。となると、残された選択肢は精霊の門番所有の領地以外に無く、殿下としては最良で当然な願いだった。
かといって、こうもあっさりと承諾されたのは予想外。さらに、今まで様々協力してくれたというのに、今更になっての不介入を訴える言葉を益々胡散臭いと感じ、不信感が共に出た質問でスペンサーの頬が僅かに上がったのを、殿下は見逃さなかった。
「悪魔は、精石の破壊を目的としていると、皆様お考えだったはず。もしよろしければ、殿下のお考えをお教え願いたいものです」
スペンサーの質問に対し、若干険しい表情に変わってきている殿下が、静かに卓上の紙の一文を指差した。
どれだけ几帳面なのだと思いたくなるほど歪みのない文字は、勿論アピスの人々が使う公用のもの。そこには、『精霊に関わるな』そう書かれていた。
「精石の破壊だけでは無く、悪魔は精霊そのものに執着していると思われます。ならば、最も精霊と縁の深いこの地を訪れても、何ら可笑しくはないでしょう」
「ふむ」と、納得するような仕草を取っていても、スペンサーへの不信感は増す一方。殿下は、精霊の門番という一族の情報を殆ど持っていない状態で渡り合うのは得策ではないと判断し、警戒するだけに一旦留めて「悪魔が関わらない限りは、お約束しましょう」と、逃げるように話を進めた。
ティルダがその手腕を一心に眺め、自身の力の無さを痛感する。実際、殿下である彼の方が何倍も王らしかった。
「今夜中に、全ての天使軍の隊員へ、魔法便によってその意思を問います。引き上げさせたい者には、お手を煩わせることになってしまいますが、明日中にお伝えし行動させて頂きたい」
殿下のその言葉を最後に今回の協議は終了となり、形式的な挨拶を終えた瞬間、結局中途半端な態度のままだった海の王がそそくさと退室したのをきっかけに、同じ選択を取った雷の王と水の王が共にその後に続いた。
「見事なお手前。風の国王陛下、これ程のご子息を……よろしいのですか?」
そして、風の王も息子と今後の事を話し合わなければと立ち上がれば、頃合を見計らっていたスペンサーが彼に問い掛けた。その時の彼の表情は、面白い玩具を見付けたと言わんばかりで、それを見てしまった殿下の背中を冷たい汗が伝う。
しかし、立場を弁えていたはずのスペンサーが尋ねるなど考えもしていなかった風の王は視線を外していて、その表情を見たのは殿下と若輩者として最後に席を立とうと思っていたティルダ、若い二人だけだ。
全員を見送る為、その場で立って礼を取っていたスペンサーと、呼び止められて振り返った風の王。交わった視線には、王への敬意と年配者へのはからいしか無いように思えた。
「悪魔を討ちたいという、王として親としての想いを汲んでくれたのだろう。可愛い子には旅をさせろと言うではないか」
風の王としては、是非とも城で大人しくしてもらいたいのが本音だ。彼の子は実質、殿下しか居なくなってしまい、悲劇を招いた継承権争いが再び勃発しかねない。しかし、そんな息子の言葉無くしては、下手をすれば天使軍を解体しなければならなかっただろう。首都に深い傷を残した悪魔を野放しにするのは、風の国としての矜持が許しはしない。
そういった様々な意味を含んだ返答、特に最後の言葉は、スペンサーを大いにわかせた。
「成る程。確かに、可愛い子には旅をさせなければ。そうして、現実を知り、へばり付く無駄を殺ぎ落としていくのでしょう」
「貴殿も、誰か旅をさせているのか?」
目を細め、恍惚とも言える表情は薄気味悪いというのに、それにすら風の王は気付かず、洗練された仕草としか捉えなかった。
姿勢を正したスペンサーは、深い笑みを返答に深く頭を下げて風の王と殿下、ティルダを見送った。そして、円卓の場の扉が閉まった瞬間――
「えぇ、勿論。最も憎い愛し子に、旅をさせていますよ。……後少しで、それも終わりを迎えますが」
誰も居なくなってから、言葉での答えが響いた。
下げたままの頭の下で、刻まれた深い皺には不釣合いな生気に満ちた毒々しい笑みが浮んでいるなど、スペンサー自身気付かなかっただろう。そんな彼の足元に、長時間円卓の中心に置かれていた紙が、ひらひらと舞い降りてくる。
「……一体、何がしたいのかな。あの子のおイタは、理解不能すぎるよ」
それを視線で追ったスペンサーの唇から零れた言葉も、先程まで使っていた王に対しての堅苦しいものでは無く、まるで若い青年のようであった。彼は、片足を踏み出して紙を床に叩きつけ、その部屋からしっかりとした足取りで去っていく。
取り残された、悪魔の手紙。そこに書かれていたのは、前置きや堅苦しいものを除いて要約すれば、悪魔はこれ以上誰かを故意に殺す意思が無いこと。精石の破壊以外で、人と関わるつもりが無いこと。刃を向けなければ、剣を抜かないこと。そして、殿下が指摘していた、精霊との関係についての忠告だった。一方的で自己中心な内容甚だしいが、それを補ったのがリュークやリュケイムによる報告である。でなければ、これを前に、王の面々が渋い顔を付き合わせて討論するわけがない。
ただ、最後に書かれていた一文だけ、王の全員が解読出来ないと頭を捻らせたのだが、その中でただ一人、慣れない演技をしていた者が居る。
まるで未来を映すように、手紙がひっそりと光の粒子となって消えていく時、その者は信用出来ると判断した相手を待ちながら、城の玄関の前で焦った表情をしていた。
「殿下――シルフィード殿下!」
「これは、ティルダ王。どうかなさいましたか?」
ティルダは、護衛を馬車に待機させ、風の王に一足遅れて城を後にしようと姿を現した風の国の殿下、今は天使軍の司令官となった彼に王らしからぬ声の掛け方をする。
年の近い彼等が並ぶ光景は、置かれた立場さえなければとても朗らかに見えただろう。しかし、ティルダの様子に殿下――精霊を名に持つシルフィードの表情が彼以上の真剣味を帯びた。
「少し、お話する時間を頂きたい」
挨拶どころか失礼を詫びる言葉すら省き、シルフィードの護衛にさえ聞こえないようティルダはひっそりと囁く。
そうすると、それが悪魔に関係すると瞬時に察し、シルフィードは頷いて「この城以外で、後日」そう答えた。急を要するのか、険しいままのティルダの手には、まるで元々シルフィードも彼と話したいことがあったのかと思わせる、日時と場所の書かれた紙がいつの間にか渡されていて、この二日後、二人はとあるギルドの一室で密会を行う。
その内容は、ティルダが悪魔と共に反乱軍に居たことから始まり、シルフィードと妹であるお姫様が悪魔に助けられたこと等。到底、人に知られてはならない重要なことを明かし合う、とんでもないものであった。
けれど、そうすることで彼等は、一人の人間として相手の手を取り共に歩むことを決める。それを可能にさせたのは、お互いの想いが一致したということが大きい。そもそもシルフィードは、リュケイムからティルダと話をしてみれば良いと言われていて、タイプが全く違うからこそお互いを補える相性の良さもそれを助けた。
二人は、悪魔の生み出す悲劇を止めたいという其々の立場に見合ったものを一番に、それと同じ位に悪魔に会いたいと願っていた。
それを感じたから、ティルダもシルフィードと話をしたかったのだろう。ただ、だからこそ彼は焦った。何故なら、悪魔の手紙の最後の一文。そこに使用されていた文字は、間違いなくティルダだけに宛て書かれていたからだ。
反乱軍に居た頃、サイードが知らされた内部情報の中で最も重要だったものが、軍内で使用されていた特殊な文字だった。手紙の最後の文字に、それが使われていたのである。
他と同じ様に記したところで、その一文だけは誰にも信憑性を持たせることが出来ないからなのだろう。だからこそ悪魔は、王の中で唯一戦い以外で直接接点があったティルダに、その意思を伝えた。
――精石を全て破壊すれば、どういった選択をしようがどの道、二度と相見えることは無い。
それはまるで、死を示唆するような言葉。それも、己の意思で望んでいる様なものだった。
それにしても、ティルダのサイードに対する執着は、些か異常にも思える。憧れを抱くことに関してはまだ許容できるが、彼は相手が悪魔だと知っても幻滅をするどころか求め続けており、その理由を本人がしっかりと分かっていない。
けれど、ティルダが今以上に王らしい王となり、尊敬と親しみを込めて太陽王と称されるようになる数年後、彼は今の心情を振り返り寂しそうな表情で笑う。特に、最も自分の気持ちを理解してくれる盟友でもあり親友でもあり、王友な相手と酒を酌み交わす時に、彼は毎回語った。自分自身を見つけられるように、悪魔は舞い降りたんだと――
そうとは知らず、その未来の太陽王と賢王は焦りながら、ただただ会いたいと願っていた。
時間が無い。二人は、直感でそう呟くのだが、それを一番知っているのは悪魔だった。
ティルダとシルフィードは、以前告げられたリュケイムの考えを元に、最初で最後の対面に向けて入念な計画を練る。それは一朝一夕では終わらず、その間に彼等の親交は深まっていった。