別れの言葉のない訣別
緩やかに流れる景色に、身体が揺れる感覚。今更になって初めて経験するそれらが新鮮で、気付かず微笑みながら、ルシエは四頭立ての豪華な馬車の窓枠に肘を付いた。
カーテンを引けば、完璧に外から見えなくなる造りの側面には、流れる雲とそれを囲む模様のような大きな紋章があり、さぞ高貴な家柄の者が乗っていると知らしめるだろう。
そんな馬車に、ルシエ達三人が横一列で座っており、その向かい側には二人の人間がいる。漂う空気は、ルシエを除き穏やかとは言えず、ゼフは険しくクランクは警戒心剥き出しの表情で、遠慮無しに睨んでいた。
けれど、相手側は彼等が精霊王と知っているにもかかわらず、まるで気にする素振りも見せずにルシエだけを観察している。
なんとも、不思議な光景である。
「ルシエ様、でよろしいですか?」
「今はそうだよ。だけど、少ししたらリサーナに替わるかな」
そして、遠慮がちに一人の男が声を掛ければ、彼等には意味の分からない言葉をあっさりと言うものだから、ゼフとクランクまでもが何を考えているのか分からず困惑する。
「……そう、ですか。取り合えず、どこに天使軍が居るか分からないので、カーテンを閉めて頂きたい」
「大丈夫。クランクが結界を張ってるから」
何故か上機嫌なルシエは、景色から目を離さず鼻歌混じりにそう答えて、それきり周囲の音を無視し続けた。
横顔を覗き見たゼフとクランクは、その目が僅かに揺れているのを見逃さない。
憂いと物懐かしさ、純粋な喜びと複雑さ。色々な感情を噛み締めながら、それを映す瞳を隠せば、脳裏に浮ぶのは既に二週間前の出来事となってしまった再会。
「まさか、この世界で名前を呼ばれるなんて、思いもしなかったんだろうなぁ……」
小さく零れた呟きを拾ったのは、風に流される一本の枯れ草だけだった。
雷の精霊王との契約はあっさりと終了し、約束通り自由を許したルシエの前で、彼はそそくさと姿を消した。
結局、雷の精霊王は情が移ったり信用したわけでは無く、そこまで豪語するのならやってみろという挑発として、契約を結んでやったのだ。
なので、最後の笑みは察したルシエの癪に触り、それを押し留める為に苦笑で返した。
つまり、ルシエもルシエで、下手に出ないご機嫌窺いはしていたということ。
「ゼフの言った通り、クランクとは違った意味で面倒くさいね」
しっかりと気配が消えたのを確認してから、ゼフとクランクに振り向いたルシエは、それはそれは爽やかに怒っていた。
「これは、あー……、その、だな」
「そう苦労はしないって、空耳だった?」
ゼフが必死に取り繕うとするも瞬殺され、逃げるように視線がクランクに流れた。
涙目になりながら、何とか立ち向かおうとする姿勢だけは、クランクも強く成長したということか。
「だってほら! ルシエ、雷に気絶させられてたし」
「残念ながら、サイードとリサーナなら、出ようと思えば出れたんだよ。だけど、二人とも君達がどうするのか観察してたら、嫌な流れになっていったんだよね」
既に毎回のことになるが、ルシエは重要なことを実にあっさりと告げ、そのまま何でもないと態度を変えないので、ゼフとクランクは気を付けなければ聞き流してしまいそうになる。
どういうことだと、二人が視線で訴えれば、ルシエは「説明するつもりは無いけど」と、珍しくきっぱりと断言した。
「三人を別々に考えるゼフも、区別しないクランクも、どちらも正解で間違いだっていうことかな。とりあえず、この身体の意識を奪いたいのなら、一人を気絶させたからって安心しないことだね」
「それを俺達に言うのなら、一人が気絶させられても安心して良いよ、じゃない?」
何を知っていて、知らないかを分からせない相手ほど、やりにくいものはない。
余計なお世話に対するねちっこい言い回しにクランクは苦笑して、「二度目は無いから」の言葉にゼフと共に黙って頷いた。
ルシエも気が済んだのか、そうすれば後は立ち去るだけとなるはずだが、周囲を見渡して何かを探し始め、見事に床に敷き詰められた人の間を縫って歩き始めた。
「何を探しているのだ」
「ん? 王様」
「それなら、あっちに転がってるよー」
その意図は分からないが、ゼフが問い掛けクランクが教えれば、ルシエは「ありがとう」と言いながら軽快な身のこなしで、他と同じ様に倒れている雷の国王の所まで歩いてしゃがみ込む。
動きを観察していれば、危害を加えている様には思えず、それどころか国王の身体を弄っているらしい。
「うわ、この人、すごい筋肉してる」
「……何してるの」
零れ出た言葉が怪しくて、クランクが思わず脱力しながら尋ねると、よく見えるようにと挙げられた右手には、豪華な装飾のされた護身用の短剣が握られていた。
「ここで一気に懐を温かくしておけば、最後まで安心して戦えそうだからね」
「え、何やっちゃってんの!?」
クランクが突っ込みを入れている間にも、雷の国王を着飾る物はみるみる内に少なくなっていき、最終的にシャツとズボンだけのシンプルな恰好にまで剥がされてしまう。
護身用に隠していた武器から、装飾品。肩に掛かっていたマントや、ルシエを危機的状況に陥らせた槍など、そのままでは大きいからと風の刃で三つに分断され麻袋に入れられていた。
「そこまでしなくても……」
止める理由が無いとはいえ、流石に徹底しすぎていてクランクが呟けば、「だって、王様を剥げる機会なんて、そう滅多にあるわけじゃないし」とルシエは物凄く楽しそうに笑って満足気。
そこでクランクは、一人黙っているゼフが気になり、そろそろ立ち去らなければいけないことを告げてもらいたいのもあって彼を見た。
すると、ゼフは何故かルシエから顔を背けて微動だにしない。
「ゼフ?」
名前で呼んでいることにも気付かず、クランクが首を傾げながらゼフに近寄ろうとした。
ルシエも、大きく膨らんだ麻袋を片手に立ち上がり、どうしたのかと見つめていれば、ゼフが顔を背ける姿勢のままクランクに片手を翳して来るなと訴える。
その様子に、ルシエが閃いたと声を上げ、一言。それが、必死に頑張っていたゼフへの決定打となるのだが、無邪気な表情は全く感じ取っていなかった。
「ゼフもやりたかったのか。王様は終わっちゃったけど、向こうにこの国の騎士団長っぽいのが転がってるから、そっちで我慢してくれないかな」
「いや、ルシエ。たぶんそうじゃないと――」
「くっ! はは」
ゼフの肩が揺れ身体にまで及び、そうして彼は堪えていたものを噴き出した。
その瞬間、あんぐりと口を開け、突っ込むのでルシエに移っていた視線をぎこちない動作で戻すクランク。ルシエまで、放心状態でゼフを凝視する。本人も何とか治めようとするが、仕方が分からず増す一方。
ゼフは、笑いながら諦めたように彼等に顔を向けて言った。
「本当に、共に居て飽きんな。その強かさと高潔さ、さぞ人の世界では生きにくかったことだろう」
それは美化しすぎじゃないか、とルシエは頭の隅で思いながら、自分に似て色の薄い唇が描く美しい弧に魅せられ言葉を失ったまま。
不器用で不釣合い。けれど、そんな風の精霊王の笑顔は、心を洗い浚っていく風そのものであった。
「退屈だった日々が、共に居るようになってから毎日毎日……。例え、その心に何が巣食っていようが、お前は変わってくれるなよ」
そして、ゼフは「せっかくだから、私も剥いで行こう」とルシエの腕を取る。
「……善処するよ」
それにより我を取り戻したルシエも笑い返し、その光景にクランクは泣きたいような感覚に襲われながらも続いた。
ぎこちなく不器用に、それでいて美しく微笑み合う姿に、精霊と人が歩み寄り共に生きれる道があった気がする。
けれど、それを今まさに実現している者達は、誰一人それを望まない。望む前に、崩れたものを知ってしまっているからだ。
暫く、サイードの如く追い剥ぎを堪能し、そうして彼等は聖殿を後にする。
「この後はどうするのだ?」
「空の精石を、先に済ませてしまおうと思っているよ」
「あー、勇者様の事もあるもんね」
次の行く先を相談しながら、まるで警戒せずに開かれた出口。
しかし、後ろを歩くゼフとクランクに顔を向けていたルシエは、騒がしい雨の音以外に聞こえた声で予想外に振り返らされた。
「なあ! どうしてそうなっちゃったんだよ、紗那!」
つい先程、変わるなと願われたばかりだというのに、叫ばれたものは変化を嘆くもの。
複雑な表情で見つめた先には、雨で悲しみを彩られた夾の姿があった。
「まさか、追ってくるとは思わなかったよ」
暴れる心を、重くなった荷物と共にクランクへ押し付け、ルシエは雨の中へと足を踏み入れる。
目ざとく周囲を観察しながら、噛み締めるように一瞬だけ瞳を閉ざしたルシエ。剣が抜かれる音が尚更動揺を誘うが、表情に出ることは無かった。
だからこそ、夾の叫びは強さを増す。
「何とか言えよ!」
青い、蒼い世界。瞼の裏に過ぎったのは、ルシエの知らないが知っている景色を生きる夾の姿。けれど、実際に映るのは赤い、紅い世界に立つ彼の悲しそうな表情。
気付けば、薄い笑みが浮んでいた。
「こんばんは、勇者様。誰と重ねているのかは知らないけど、破罪使の名はルシエだよ」
「ふざけるな!」
この舞台に立つことを許されているのは、ルシエと夾の二人きりだ。
予想外な悪魔の登場に、剣は抜けても動くことのできない共に来た実行部隊。リューク達は、そもそも戦うつもりが無いので、負傷者の救助を最優先にしている。
そして、ゼフとクランクは、戦う意思を示さないルシエに従い、周囲の警戒をするだけに留まっていた。余計なお世話をしたばかりだから、当然といえば当然な姿勢である。
「髪と目の色が変わっても、名前が違っても! 俺にはアンタが、紗那にしか見えない!」
夾は、考える前に身体が動き、ルシエが避けるより早く腕を掴んで至近距離に顔を近付けた。
周囲に居る全員が息を呑み愚行を恐れるが、ルシエは真っ直ぐにその目に対抗していて、余裕そうに首を傾げた。
「サイードとリサーナがお世話になったみたいだけど、彼等とはまた違うし、その紗那って子とも――」
「誤魔化すなよ!」
これまでで一番の叫び。いや、怒声。
再び、雨がスノーノイズのように辺りに木霊し、言葉を呑み込まされたルシエの表情が徐々に険悪に変わっていった。
戦うでも、どちらかが血に塗れるでもなく、ただ睨み合うだけの真逆な立場の悪魔と勇者。
夾は、ルシエの腕の細さに泣きそうになりながら、金に変わった瞳の奥を必死に覗いた。
そして、否定をされる前に若干震える声で、自分だから知っている真実を言葉にする。
「伊達に、何年もお前にちょっかい出してきてないんだよ。その、首を傾げる癖。嘘を吐くときいっつもしてるの、お前、自分で気付いてたか?」
ルシエの表情は変わっていないと思えた。
少し長めでゆっくりな瞬きだけで、本人よりもゼフとクランクの方が驚いている。
けれど、夾はその動作に対して確信を持ったように、今まで誰にも見せたことのないような優しい微笑みをルシエに向ける。
「そうやって、動揺しそうになったり驚いたり、考えをめぐらす時に目を閉じるのも、紗那と同じだ」
揺れ始めた金。弱まる眼光。
比例するかのように再び口角が上がっていくが、それすら夾に機会を与えてしまうだけだ。
「ほら、また笑ってる。紗那は、不器用なだけで普通の子と変わらない、寧ろ心やさしい奴だってあの人の言ってた通りだ」
夾は、そう言ってルシエの頬に張り付いた髪を耳にかけようとした。
しかし、その瞬間、顔を真っ青にして震えながらルシエは全力で夾を押し退け、胸の前で腕を組んで怯え始める。
目は限界まで開かれ、唇は震え。言葉を忘れたように、声すら出せていない。
「お前が、紗那じゃなくルシエだって言うなら、それで良いよ。だったら、黙って聞いてろ」
ここで手を緩めては、二度とチャンスは訪れないだろう。夾は強く感じ、ルシエから視線を外しながら髪をかきあげ、まるで物語を語るように言葉を続けた。
「俺、小学の時から知ってる高校の知り合いが居たんだけどさ」
腕は必死に耳を塞ごうと動くが、今のルシエは夾の魔法で簡単に捕らえられ、聞くのを強制されてしまう。
流石の異変にゼフとクランクが動こうとするも、夾の「動けば傷付ける」の言葉にそれは封じられた。
「そいつ、態度も付き合いも、素行も悪いって噂されて、いつも一人で本読んでるような奴だったんだよ」
そして、夾は彼の知る紗那を語っていく。
狭い教室に人がひしめく中、まるで切り離された世界を生きているようだったと、懐かしそうに笑った。
「んでもって、俺の先輩にそいつと同じ所でバイトしてる人が居た」
ルシエは、その真実が口にされているのを恐れているのでは無いように思える。
地球人な事。女な事。今までにも、知られたくない事実が公になる場面は幾つかあった。
けれど、その時々で苛立ちはしても、決して怯えるような素振りは無く、失ったものを笑っているようだった。
だというのに、夾の言葉には一言一言身体をびくつかせ、縋るような視線を彼に向けている。まるで、迷子の子供の様に――
「その先輩も、元々あんまり人付き合いの上手くない人でさ。上っ面は良いくせに、結構誤解されるタイプだったんだけど」
それでも、夾は決して止めない。
泣きそうに、懐かしそうに。寂しそうに自身も過去形で、僅かに見えない空を仰ぎながら語り続ける。
「ソイツと俺が同じ高校でクラスも一緒だって知った先輩が、俺に連絡寄越して。そっから、良くつるむようになって」
「……っ」
「そうして、先輩の気持ちを知って。けど、お前は決してなびかないと思ってたのにさ」
「や……め……」
「気付けば、ほんと、いつの間にか二人は付き合ってた……」
「やめて!」
心の底からの懇願が響き、夾の視線がルシエに戻る。彼の「俺、そこで初めて自分の気持ちに気付いたんだよ」そう言った時に込められていた想いの名を、ルシエは知らない。
「馬鹿だよな。でも、そっからそいつ、ことある毎に笑ってる感じがしてさ。安心してたし、応援できればって思ってた」
不器用な人同士だから、見てるこっちの方がハラハラしてたと夾は笑い、ルシエは苦しそうに呻く。
悪魔が地球人で日本人だと言ってこなければ、夾は気付かなかったのではと思う。それだけ、悪魔は悪魔らしく、非道で非情だったのだから。
けれど、一度思って見てみれば最早そうにしか見えず、だからこんなにも執着している。ただ、今更その想いを伝える気はせず、だからといって無視するわけにもいかなかった。
夾は、再び優しく微笑みながらルシエの腕をそっと握る。
「俺も、知ってた。そいつが、その時々で困った人へ、本当に為になるような行動が出来る奴だって」
ただ単純に、優しい手を差し伸べるのでは無く、子供が転んだ時には本人の力で立ち上がれるよう見守ってやり、喧嘩をして片方が泣いていたら、泣かせた者を一方的に叱らず、まず理由を問い掛けたり。それは、傍目には淡白にも見えるかもしれないが、ただ慰めの言葉をかけるだけより何倍も温かいと夾は思う。
それを思い出しながら、夾はルシエに河内紗那を語っていった。
「だから、なのかな。アンタを見てると、そいつが凄くだぶるんだよ」
そうして、夾は自身の奥底に消えていて、浮上しようとする想いを溜め息にしながら尋ねる。
「紗那じゃないなら、それで良いよ。けど、同じ様なアンタだから、なんでそんなことをしてるのか教えてくれないか」
今度は、振り払われることも無く、夾はそのまま細い身体を抱きしめる。
そこにあったのは、今までの誰よりも強く隣に立とうとする相手を想う気持ち。
ゼフのように、戦いに於いての立ち位置でも、クランクのように理解しようとするものでも無く。悲しいのであれば悲しかったのかと、嬉しいのであれば嬉しかったのかと頷き、「だったら……」と「けれど……」と知ってから知ってもらおうとする単純なものだ。
だからこそ、そこにある想いも真っ直ぐに伝わり、知らない故に濁りなく響くのかもしれない。
「生きてるんだから。世界が違っても、そこには同じ様に人がいた。だったら、生きられるんだ」
強く抱きしめるその力は、ルシエに何を訴えたのだろう。
ルシエは、何に怯えたのだろう。
夾の言葉もまた、直接的なものを避けて分からせようとしていた。
濡れる身体は冷たく、伝わる体温は温かく。「アンタは生きてるんだ」と、夾は囁いた。
けれど、その時であった。
腕の中で力無く震えていたルシエの瞳に、突如、揺れない光が宿り夾を抱きしめ返す。
そして、唇が言葉を発した。
「もう遅いんだよ、夾君。私達は止まらない。止められないし、止まれもしない」
その声は、そう言ってルシエより強く夾の身体を突き飛ばす。
離れた温もりを名残惜しく感じたのは、夾だったのか降り注ぐ雨だったのか。見守るだけだった周囲から、その者の名を呼ぶ声が響いた。
「ルシエは、大分弱ってきてるから、上手くいきそうだと思ったかもしれないけど。私達が居ることを忘れてもらっちゃ困るよ」
そしてリサーナは、以前自分がそうしてもらった時のように、彼女らしくルシエに向けて言う。しっかりしなさい、と――
「紗――」
「違うわ。私達は、全員違う。確かにこの身体は夾君の言う通り、河内紗那の身体よ。だけど、違うの。だから、……二度とその名で呼ぶな」
リサーナもサイードも、否定は寧ろ逆効果だと真実を肯定し、その上で否定と拒絶をする。
その瞳には、先程の揺らぎは一切なく、夾の想いも虚しく届くことはなかった。
「そんなことをしたって、誰も何も! 俺も先輩も、リュークさんにイジドールさん、ヴィストとリオンだって居るじゃないか! そこの精霊王二人だってそうだ!」
「誰かに褒められたいわけでも、誰かを喜ばせたいわけでも。幸せになりたくて、やっているわけでもない」
「だから、その理由を教えてくれって言ってるんだよ!」
後一歩での邪魔に、夾は悔しさから拳を握る。
それをサイードは、面倒くさそうに視線を外して鬱陶しそうに空を睨みながら言った。
「気に入らないから」
たったの一言。何に対してかがあるかないかで全然違うと分かりながら、それでもそれだけしか口にせず、夾に対して「お前もそうだ」とサイードは笑った。
そうして、再びリサーナとなり、彼女も告げる。
「確かに方法は間違っていたし、だからって今更謝るつもりもないけど。でも、これは誰よりも何よりも、夾君の知る河内紗那が望んだこと。何もしなかった君に、今更何が出来るっていうの?」
後悔は、自身で感じるから後悔で、本人に直接責められればそれを後悔とは言えない。
まるでお返しと言わんばかりの辛辣な言葉に、夾は身を切られる。彼の想いを察しながら、それに何も返さないことが、無駄だと表していた。
「出来るのは、邪魔をしないことだけよ」
さらにリサーナは、「それでも尚、止めたいと言うのなら」と夾の腰の刀を指差した。
人を傷つける感触を知り、血生臭さを覚えた夾に、それを教えた張本人達が促すとはなんと非情なことか。それでも、リサーナは言うのだ。
「殺す以外に方法は無いと知りなさい」
そういった声こそ、スノーノイズが消してくれれば良いのにと、夾は雨を嫌いになりながら刀を外して地に放った。
その行動がどういった意味を持つのか。夾にとって刀とは、その技術は、助ける為にあるものだ。それを放棄するのは、自身を放棄するにも匹敵する。
実際、震える声は切実に訴えていた。
「だったら、どうやって俺は生きていけば良いんだよ!」
生き縋る術を奪われ、見つけた意味を早々に失い、夢も希望も未来も視えない赤い世界で青い夾はあまりに非力。それを誰よりも知っているのが、リサーナ達である。
けれど、最も手を取り合えそうな、分かり合えそうな彼等の道が繋がることは無いと言う。
さらにリサーナは、それを教えることは出来ないときっぱりと言い放った。生きようとしている者に、死を目指す者が言えることは何もないからだ。
「忘れなさい。河内紗那と、私達悪魔を。私達には不必要だけれど君には必要なものを、君だって既に手に入れてるのだから」
そして、リサーナは視線でリューク達を示した。
一人一人に微笑み、それを彼等にも伝えて、リサーナは最後に最低で最高な別れの言葉を送る。
「そして、生きなさい」
精一杯の感謝と誠意、願いを込めて真っ直ぐに失った黒い瞳を見つめ、夾の心の中にある枷を奪った。
「手に入れて、与えて、癒して。そうやって生き続けなさい」
本人はただ迷惑なだけで、突き放しただけかもしれない。
けれど、少なくともリオンとヴィストには、その光景が夾の背中を押しているようにしか思えず、共に悲しみを感じることも、叱ることも出来ない無力さを苦しんだ。
その言葉は、夾という人間を知っていなければきっと吐けず、彼を想っていなければ言葉にさえならないだろう。
リサーナ達が、本当に人と関わるつもりが無いのだと、彼女を知る者は同時に思った。
ただ、忘れているかもしれないが、この場に居るのはそういった者だけではない。
剣を抜いたまま、黙って勇者と悪魔の言葉を聞いていた実行部隊数名は、リサーナの持つ雰囲気に好機だと勘違いしたのか、ゆっくり彼女との距離を詰めようと動き始めていた。
当然、ゼフとクランクはそれに気付いており、いつでも動けるように構えている。
けれど、それは実行されずに済む。何故なら、リュークとイジドール、ヴィストの三人が仲間であるはずの実行部隊の背後に回り、素早い動きで意識を奪ったからだ。
「……何をやってるんですか」
訝しげに追及しても、リオンを加えて全員が夾の後ろに並び、彼等は決して好意的とは言えない表情でリサーナを見るだけ。
そうして、リュークが夾の肩に手を置いた。
「行きなさい。君達が、本当にこの先誰も殺さないというのであれば、俺達が夾を助けると誓おう」
「どういうつもりですか」
どれだけ真剣な目で言われても、それで「はい、そうですか」と大人しく従えるわけがない。
夾云々ではなく、リューク達の意図が分からず、リサーナは警戒した。
けれど、彼等はそれが最も被害が出ないと分かったのだ。追いかけて刃を向ければ、例えその気がなくとも、この場に転がる一体の死体が結末を物語っている。で、あれば、お互いに犠牲を望まない限り、干渉しないのが一番。天使軍の目的に背いていたとしても、少なくともこの小隊は、失われるのを望まないからそこに居た。
「君のしてきた事は今でも許せないし、知ったからには君を理解するつもりもない。けれど、ただ楽しみたいが為の行為でないのも分かった。だったら、俺達は君を討つ方法を探すよりも、犠牲が出なくて済む選択を取りたいと思う」
「甘い考えですね。すぐそこに、その犠牲が転がっているというのに、貴方達は私の言葉を信用するというのですか」
至極真っ当な意見に、リュークは苦笑する。その言葉が何より、人間味の少ないリサーナの人間性を表しているからだ。
「騙しているのなら、そんな指摘をしたりしないよ。それにこれは取引だ。君が生きろと言う夾君を、俺達は人質に取るんだから」
体の良い理由だとしても、それでお互いが納得出来るのであれば構わない。リュークは、掲げる正義よりも利益を取った。
もしかしたら、その心の奥底には、それこそリサーナ達を信用したいと願う想いがあるのかもしれない。
リサーナは、暫く全員の表情を探って、その取引に応じた。
「約束するわ。私達から故意で意図的に、誰かを殺したりしないと」
そして、背を背けてゼフとクランクに合流する。
もう声は届かないと分かっている夾は、それを黙って見続け焼き付けた。お互いに最後になるであろう、この逢瀬を。
「俺が言うのも何だが、その刀は捨てるな。それ自体は奪うことしか出来ないが、お前は別のものに変えられるだろうよ。そして、生きていけ」
けれど、突然振り返った悪魔。サイードは、突如手に剣を持ち、それを夾に向けながら牙を向き出しに哂った。
「ただ、再び俺達に向けた時は、その命、無いと思え」
夾にとって、彼の知る河内紗那もこの世界に舞い降りた悪魔も、優しさとは程遠いように思えて誰よりも優しい者だった。
だからこそ尚更、それを自身に向けられない不器用さが悲しくて仕方が無い。
それに、結局何も分からなかったわけだが、そうさせたきっかけは分かる気がする。行動そのものは自分の為かもしれないが、きっかけは誰かだったのだろう。
夾だけは、その誰かを知っていた。それを壊した何かがあることも悟った。
「ルシエ! サイード! リサーナ! ……紗那!」
だから夾は、全員の名を叫んだのだろう。
歩き出した全員、誰一人として振り返ってはくれなかったが、スノーノイズは消えていた。
「俺、生きて往こうと思う!」
認められない、けれど止められなかった悪魔達の死に往く、その生き方の分まで――
そうして、夾は腕を押し当てながら泣いた。
「……答えてあげなくてよかったの?」
「元より、伝えられることも伝えるべきことだって無いんだよ。邪魔な足枷にしかなれないんだから」
自分達が遠ざかっていく気配を感じながら、クランクの問い掛けにルシエは無表情で答え、足を早めることなく歩く。
今、微笑を浮かべてしまえば、ゼフとクランクがそれを嘘だと捉えてしまうからだ。
どれが本当で、どれが嘘なのか。全てを把握できる者が居ない現状で、本当を嘘だと思うことが一番、破滅と失敗を及ぼすだろう。
「それに、そのつもりは無いけど、休んでる暇は無いみたいだからね」
「何者だ」
夾達の視界から外れ、危険が少なくなった場。
けれど、息つく暇もなく、最大の再会の後では普通以上に薄まってしまう予想外の再会が訪れている。
今まで感じていなかった別の気配に殺気立つゼフの前では、二人の人間が突如現れてルシエに跪いて頭を垂れていた。
「どうか、刃をお納め下さい。我らに敵意はございません」
「お約束通り、我が国へご案内致します」
それは、勇者のお付きであり仲間で、何より監視役であった者。二人の言葉にあっさり「丁度良いし、分かったよ」と答えたルシエは、ゼフとクランクが止めようとしたにも関わらず、そうして豪華な馬車での旅を体験することになったのだ。
彼等の視線に、嫌悪があるのを分かりながら――