持てる天秤はただ一つ
ルシエが聖殿の内部に侵入した頃、夾とリューク達は雨の中、そこに向かって馬を走らせていた。
「リュークさん、早く!」
一人で馬に乗れない夾は、覆いかぶさられる形でなんとか身体を安定させつつ、乗せてくれているリュークに叫ぶ。
「分かってる」
通常であれば、お互いに男と密着するなんてと項垂れるだろうが、今はそんなことを気にしている暇が無い。
彼等は初め、動く前に悪魔が少し時間を置くと思っていた。
けれど、後少しでテリエヌムに到着するという時に、夾が突然「嫌な予感がする」と騒ぎ出した為、彼等は旅の疲れを無視して急ぎ聖殿へ向かったのだ。
「リューク。そろそろ、別隊と出くわしかねない」
結構なスピードで全員が駆ける中、見事な手綱でリュークの隣に並んだイジドールが、雨のせいで声を張り上げながら告げた。
頷いて返したリュークは、夾に向かって「君の立場を利用しても良いかい」と尋ねる。
本来、鎮圧部隊である小隊が、聖殿の区域に立ち入ることは許されない。当然、任務には近付くことすら含まれていないのだ。
そうなると、現在の行動は確実に命令違反であり、下手をすれば裏切り行為と取られかねない。
「良い。それでまたアイツと会えるなら、今度は俺がフィロを利用してやる」
夾は、迷うことなくそう言って、リュークはイジドールに視線で先行を指示した。
馬の足を早めるイジドールの背中を見送りながら、考えるより先に出てきた言葉に夾は瞠目する。もしかすると、利用と選択は大して違わないのではないか、と。
利用と言えば聞こえは悪いが、本人にしてみれば単純に、心の秤に掛けてより重い方を優先しているだけなのだ。
それを違えるのが、大勢による常識と良心の天秤。
どちらなら良いというわけでは無く、行動を責めるだけでは何も変えられないのだと、悲しさを抱きながら気付く。
それに夾は、空の国王を恨む事が出来ずにいる。
利用されていたと知ってからも、絶望を感じたのは帰還出来ない事実にのみで、どちらかといえば空の国王との出会いは幸運の部類に入っていた。
何故なら、言葉に苦労しなくて済み、たった一つしかない自分の武器を手に入れ、資金も貰い、お陰で地球を想う余裕を持つ事が出来ていたのだ。それは全て、空の国王と出会えたからこそ得られたものである。
さらに夾は、リューク達との旅の最中、勤勉なリオンにアピスでの地球人の存在について、知る限りのものを教わっている。
一番古い歴史で、言葉の通じなかった地球人は異端で狂人の扱いを受け排除されている。何度も何度もそれを繰り返し、上手いこと生き残り言葉を学べた者が現れてからやっと、地球という異世界は知られたのだ。
それを聞けば、尚更そう思わずにはいられない。
だからといって、悲しかったのは事実。その意図が何であれ、夾は空の国王の優しさに惑わされて、天秤にすらかけられなかったかもしれない。
そして夾も、悪魔と空の国王を秤にかけたのではなく、地球人とアピス人を比べ悪魔を選んだ。
「人影が見えてるっす!」
そうやって、夾が自分の行動に驚いている間も馬は進み、暗い視界の中に浮んだ魔法の光と幾つかの人影をヴィストが示す。
案の定そこでは、周囲の警戒にあたっていた実行部隊の隊員にイジドールが止められていて、雰囲気で通してくれなさそうだとリュークは感じた。
それは夾も同じで、つい数分前であれば「どうしよう」とリュークに尋ねていただろう自分の変化を感じつつ、彼はその場に止まるのが待てずに身を乗り出しながら叫んだ。
「俺は、空の国王陛下から直々に命を受けた勇者、柊夾だ! 悪魔が聖殿に居るはず! 先へ進ませてくれ!」
しかし、ただでさえ厳戒態勢が敷かれているこの場で、そう易々と人を通せるわけがない。
五人の隊員がそこを警備していたのだが、彼等は全員剣を抜いて身体ごと馬を止めにかかり、リューク達全員の軍証を確認しながらそれは無理だと断言した。
「貴方達、第68小隊が勇者と同行していたのは知ってますが、だからといって、雷の国の王族からの許可が無い者を通すわけにはいかない」
「んなこと言ってる暇無いんだ。なんでアンタ達は、ここで暢気にしてるんだよ」
確かな理由があるわけではないが、悪魔は動いていると直感している夾は、切羽詰りながら詰め寄って引かないが、それすら「交戦した情報は来ていない」と跳ね返される。
けれど、実際は来ていないのではなく出せない状況。雨が戦いの音と血の臭いをかき消していて、彼らが気付けないだけだ。
「筆頭騎士殿はここに?」
「あぁ。聖殿前で待ち構えておられる」
「では、どなたかお手数ですが伝えてきては頂けないでしょうか? 勇者様のこともですが、第68小隊の隊長が例の件で至急会いたいと」
思わず夾が、「分からず屋!」と叫びそうになるのを押さえて防ぎながら、リュークがでっち上げでその場を凌ごうとするも、それもまた「隊を分断することは出来ない」の一点張り。
ヴィストまで食って掛かりそうになり、イジドールが慌てて嗜めながら、リューク達はどうしようかと顔を見合わせる。
「この場に、魔術師はおりますか?」
と、そこでリオンが静かに交渉に加わった。
小さな身体に馬は不釣合いで、決して軽いとはいえない身のこなしとで地に降りつつ、今まででは考えられない堂々とした姿でリュークと夾の乗る馬の隣に立つ。
「私と、そこの彼がそうだが?」
取り合えず味方だと、剣を収め始めた実行部隊の内二人がそれに応えた。
リオンは、魔術師が居てよかったと安堵しながら、その二人に向けて言う。
「では、勇者様が風の精霊と契約してますので、今から探知の魔法を使って異変が無いかどうか探っても?」
「特定の相手を探知するのは、最上級魔法では?」
「勇者様程の魔力保有量であれば、可能ですよ」
その言葉に、顔を見合わせた実行部隊の魔術師。それは夾も同じで、魔法を最低限使う技術しか教わっていない彼は「方法、知らねーよ」とリオンに訴えるが、「教えますから」とあっさり言われ、強い目に黙っていろと怒られる。
「なんか、リオンの性格変わってない?」
「必死なんだよ、君と同じで」
その間も、リオンが主導権を握り、上手いこと実行部隊の隊員を説得しており、リュークと夾は馬上でひっそりと会話を交わす。
「許可が出ましたので」と誇らしげにリオンが言うのに、そう時間は掛からなかった。
そして、最初の言葉通り夾が気配探知の魔法を使うことになり、彼はリオンに方法を教わり緊張しながら実行した。
「契約に従い、探れ。その力が及ぶ限り」
ふわりと、夾から柔らかな風が発せられた。
必要なのは、精霊が傍を離れられる魔力を契約者が持っているかどうかと、探す相手を細かくイメージすること。
「示せ。求めの在処を」
初めの詠唱は、探索の魔法そのもの。そして、続け様に唱えられたものは、答えを人が分かる形で示してもらうものだ。
探知の魔法が最上級に位置付けられるのは、ただ探すだけではなく、さらにそれを示してもらう魔法を使わなければ役に立たない点にある。
さらに、精霊そのものが、それを理解できる程度の知能を持っていなければならないのも、使い勝手が悪いのに繋がる。
夾が詠唱してから暫く、風が生まれた以外に変化は無かった。
しかし、失敗したかと不安になりかけた頃、突然夾の身体が何かに引っ張られる感覚を受けてバランスを崩す。
「う、わっ」
ただでさえ、意識して姿勢を維持しなければならなかったせいで、その異変に対応しきれず、夾は派手に馬から落ちてしたたか腰を打ち付けた。
止まった状態だったからまだよかったものの、これが走っている最中だったらと思うと、夾は冷や汗を掻かずにいられない。
「夾さん、どっちにひっぱられますか?」
「え? あ……あっち、かな」
けれど、周囲は身を案じる余裕を無くし、魔法を使った本人を無視して緊迫した状態に陥った。
誰がどう見ても、夾の精霊は望みに応えて、場所を示していたのである。
リオンが問い掛け、夾が腰を摩りながら指した方角。そこは、間違いなく聖殿のある場所だった。
途端、慌て始める実行部隊の隊員達。
急ぎ連絡を取ろうと、一人がイジドールから馬を借りようとするも、一足遅れてその馬も異変を人々に感じさせる。
丁度手綱を渡そうとしていた時、ピクリと耳を跳ねさせて鼻先が聖殿に向けられた。
「どうした?」
自身の愛馬のその行動につられ、まずイジドールが見えない聖殿の方向に視線をやる。そして、彼に続いて他の者達も同じく首を動かした。
その瞬間、まるで見計らっていたかのように、眩い光りが雨の混ざる闇に輝いたのである。
「先に行く!」
「待つんだ、夾!」
それは、紛れもない、ルシエが雷の精石を破壊した時の光であった。
夾の身体は考えるより先に動き、瞬時に足に魔法をかけて風のように走る。
それは、コントロールが難しく本来であれば中々多用できないものなのだが、悪魔と同じで日本人らしい器用さが発揮されているということか。
とにかく夾は、引き止めるリュークの声を無視して行ってしまい、その場に残された者も緊急事態だと、急ぎ後を追った。リュークの後ろにヴィスト、イジドールにはリオンと、実行部隊に馬を半分貸し、全員でだ。
そして、彼等が聖殿前へと着いた時、そこには阿鼻叫喚の光景が広がっており、中でも一体の死体と筆頭騎士の瀕死の姿は絶望を感じさせた。
「どう……して」
唯一治癒の施せるリオンの指示の元、負傷者の手当てや応援の要請に慌しく動く天使軍。
その中で夾は、彼だけが持てる疑問を呟く。
「何で、こんな事が出来るんだよ」
人の価値観を変えるのは、そう容易なことではない。根付いた常識を覆せるのも、相当な衝撃が必要だ。
夾は、様々な意味を持つ言葉を憤りと共に吐き出す。
「なあ! どうしてそうなっちゃったんだよ、紗那!」
「まさか、追ってくるとは思わなかったよ」
聖殿から姿を現した悪魔の声が、その場で動ける者達を凍りつかせた。
雷の精石が破壊され、聖殿の外にまで漏れ出るぐらいの眩い光が放たれた瞬間、そこにいた人間は全員意識を刈り取られ床に倒れた。
そのお陰で、ルシエが意識を失った隙を逆上し突かれる最悪は免れ、急ぎ自身の治癒を行ったクランクは、駆け寄りその身体を苦しめる麻痺を治す。
「……ん」
「取り合えず、これで大丈夫」
穏やかになった表情に、安堵の溜息を漏らすゼフとクランク。
「それが、救世主様ってか」
そんな彼等に、勇ましさを音にしたような声が掛けられた。
「取り合えず、助かったよ」
言葉こそ感謝の意を示しているが、クランクの表情は険しく、ゼフもまた彼にルシエを預けながら、二人を庇うように声の主との間に立つ。
「あの風と水を手篭めにするなんて、俺様の次ぐらいに凄いぞ」
精石が鎮座していた台座を華麗に飛び降りたその者は、実に傲慢な態度でゼフとクランクの前まで足音を響かせながら歩き、からかう様に笑った。
長い前髪を左に流し、所々をピンで留め、一目でかなり頑張っていると分かる奇抜な髪は輝く金。同じ色の瞳は、獣のようで親しみは湧かない。
股下が深く足首で絞られたボトムス以外、上半身裸に素足の恰好がそれを強くし、さらに、全体的に筋肉質な身体には、幾何学的なタトゥーがびっしりと刻まれている。
鋭利な美、というのが一番相応しいだろう容姿をした男こそが、雷の精霊王であった。
「相変わらずの性格だな、雷の」
「そりゃー、お互い様でしょうよ、風の」
最も雷の精霊王と対面するべきはルシエ。しかし、本人は未だ気絶したままで、治癒をしたにも関わらずその状態ということは、別の理由でそうなっているのだろう。
だから、ゼフとクランクは警戒を緩めないのだ。
「人間は煩わしい」
二人が、視線で雷の精霊王にそれを訴えるのだが、彼はさも当然だと言わんばかりに吐き捨て、ルシエへ手を伸ばそうとする。
それは、ゼフが身体を盾にしクランクが背中を向けることで防ぐが、そうするとさらに舌打ちをして不機嫌さを顕にした。
「……お前等、マジなのか?」
「何が。俺達は、自分の意思に従ってるだけだ」
腕を組み直し、ただでさえ鋭い視線を強くする雷の精霊王。
クランクは、垂れ目故に威力に欠けるもので応じ、ルシエを抱く力を強める。
それを観察してからゼフに視線を移すも、彼もまた言葉に動じず、堂々とした目で見ている。
「諦めた、っていうのか」
「それ以前に、愚かだと気付いたのだ。証拠、というのも可笑しいが、お陰で私達は眷属にさえ見捨てられたな」
通じる何かへ指摘をするも、憤るどころか反省され、さらにとんでもない事を言い出してくる。流石に驚く雷の精霊王を他所に、ゼフとクランクは視線を合わせて失笑し合っていた。
「この子といると、居なくなったことを痛感せずにはいられない。そして、この子の望むものを知れば、自分の愚かさを感じずにはいられないよ」
「共通点は何もないしな」
さらに、以前の二人を知る雷の精霊王だからこそ、その変わり具合を目の当たりにした。そもそも、彼にとってはゼフがこれほど饒舌なことすら驚きなのだ。
心底目を瞬かせた雷の精霊王は、今の言葉が本音だったのだと気付くまでに時間がかかり、やっとのことでそれを受け入れる。
そして、初めは肩を揮わせ小さく漏らす程度だったものを徐々に大きくさせ、最終的に頭に手を置き豪快に笑った。
「ざまあないな! ていうことは何だ? 裏切りだなんだって、烈火の如く怒ってるのか」
「……あぁ」
「んでもって、あれか。こともあろうに、感覚共有しちまうまで情が移って、今度はその小娘に加担すると?」
馬鹿にされても動じない姿に、雷の精霊王は「これは傑作だ」とさらに笑う。
しかし、その瞳はゼフとクランクに注がれ続けていて、どちらかというと怒りが込められている気がした。
「だったら、当然分かるよな。ただでさえ、縛られるのを嫌う俺様が、縛った原因の一旦であるお前等の思い通りに動くわけがないと」
やっとのことで笑いを収めた雷の精霊王は、今度は明らかに分かる怒気を含みながら言い、再びルシエの身体に手を伸ばす。
けれど、それも同じ様に止められ、物騒な気配が漂い始めた。
「私達の愚行を笑うのは、甘んじて受け入れよう。しかし、ルシエについてはまた別だ」
「縛られてるのは、この子だって同じ。だから、魂を傷つけるのは、縛られるのも縛るのも嫌う雷にとって、ポリシーに反するよ?」
まるで、誘導するような物言いと、クランクはともかくゼフの下手に出る態度。彼等は、ルシエが気絶したままなのを良い事に、契約の交渉をしようとしていたのだ。
聖殿の廊下ではああ言っていたが、難しいと思っていたのだろう。
けれど、その判断がさらに、雷の精霊王を怒らせてしまう。
「それを決めるのは、俺様とその小娘だ。だからお前等は、何時だって負け犬なんだよ」
突然の負け犬呼ばわりに、ゼフの長い耳が動く。
その態度は一転し、身体は何とか侮辱に耐えるも、「確かに貴様は、逃げるのが得意だものな」と言葉が応戦してしまった。
「通じ合わないと満足できないような、小さな器の奴に言われる筋合いはねぇさ」
「ルシエには、俺達が言っておくから。頼むから、力の契約は止めてくれよ」
クランクがゼフを睨んで責め、なんとか取り繕うとするも、雷の精霊王は完全に機嫌を損ねてしまう。
「だからそれは、俺様と小娘が決める」と跳ね除けた雷の精霊王こそが、ルシエを気絶させたままにする張本人なのだが、力関係で下に位置するクランクに出来るのは、言葉での説得のみである。
それが通じなくなった時点で、作戦は失敗し状況は最悪になってしまった。
「そもそも、どうやったって、小娘の仕事が達成されたら目的は果たされるんだ。だったら、俺様はせめてもの逆襲に、この小娘を殺してやりたいね」
「……それを聞けば、尚更やらせるわけにはいかない」
しかも、クランクの努力も空しく、どんどんとゼフと雷の精霊王の雰囲気は険悪化していき、彼に出来るのはルシエにまで被害が及ばないように距離を取ることだけ。
属性が補助とはいっても、雷は攻撃にも転じられる。必要な魔力が人には持てない量なだけで、精霊王自身は雷そのものを扱うのも可能だ。つまり、力関係は下でも、ゼフと渡りあう術が彼にはあった。
「でも、結局は、お前達だって小娘を見殺しにするんだろ? だから、黙ってくっつくしか出来ないだけじゃ――」
「それは違う。私達は、足掻こうと決めたのだ。勝った上で、ルシエの望みを防ぐのが、私達の望み」
雷の精霊王は、身構えながらも「望み?」とゼフに怪訝な表情で問い掛ける。
頭に血が昇っているゼフの代わりに、冷静に告げたのはクランクだ。
「この子は、一泡吹かせて死にたいんだ。俺達が感覚共有で知ったのは、そんな願いだった……」
ルシエを見ながらの言葉には、後悔と申し訳なさ、苦悩と好意がない交ぜになった想いが込められていた。
けれど、「だったら、さっさと死ねば良いじゃねぇか。その方が一矢報いれる」と非情なことを言う雷の精霊王。
「そもそも、小娘は本当のことを知らないだろ? まさか、お前等――」
「言えるわけがないだろう。だが、恐らくルシエは知っている。でないと、説明のつかない行動がありすぎるからな」
精霊王達の会話は、まるで直接的な言葉を避けるように交わされる為、重要なことは何一つ分からない。
それでも分かるのは、地球とアピスのバランスを調整する為だけに、ルシエが生まれたわけでは無いということだ。
どうしてか、ルシエが知っているとのゼフの言葉に、雷の精霊王の怒りが急激に萎んでいった。
「知ってるって、お前……。マジかよ」
「何故か分からないがな」
「その上で、この子は戦って、勝とうとしているんだ。理由も勿論分からないけど」
旅の中、気付いていくのはルシエだけではない。いくら全てが隠され続けているといっても、其々で察し、感じていく。
ゼフとクランクもそうやって、その結論に辿り着き、足掻きながら共に居ると、契約時から変化した感情で隣に立っていた。
「それは、この子の感情で都合だけど。でも、それだけじゃない」
終始、腕を組んで偉そうな態度だったが、その腕が驚愕と共に解かれて獣の瞳孔が開き、クランクがルシエの髪を優しく撫でる姿が映しだされる。
言葉を待つ自分にも驚くが、そこには無償の想いがあった。
それはゼフも同じで、雷の精霊王が知る彼では到底できない表情を浮かべながら、クランクの後を引き受けて紡ぐ。
「決して認めないだろうが、私達の為にも、この愚かな輪廻を断ち切ろうとしてくれているのだろうな」
「精霊王として、世界の秩序を守る種として矜持を抱きながら、君達の意志で選べ。この子はそう言って、愚かな選択を選び、考え無しに人というまったく違う別種と関わった俺達がもたらした結果を、背負い絶ってくれようとしているんだ」
反論しようと雷の精霊王が口を開きかけるが、その前に「想像できるかい?」と聞かれ、彼は唇をきつく結んだ。
「全てを知っているわけでは、無いんだろうね。色々失敗して苦しんで、毎回危ない目にあってるから」
「しかし、そういうことはだ。どれが真実で、どれが嘘か。騙されていると分かっていながら、操られているのかもしれない疑心暗鬼に陥り、それでも望みを変えないということになる」
言葉自体は、馬鹿らしくて笑い飛ばしたい。けれど、雷の精霊王が知っているはずのゼフとクランクの知らない姿がとても説得力を持っていて、彼の視線はルシエに向けられた。
どこからどう見ても、精霊王からしたら非力な人間にしか思えず、想いそのものを持つだけでもとても分不相応で、尚更信じられない。
けれど、暫く思案した後、自分で判断することにした雷の精霊王は、ルシエを気絶させ続ける力をそっと外した。
「起きろ、小娘」
「ルシエ?」
「大丈夫か?」
すると、ゆっくりとだが直ぐに瞼が動き、雷の精霊王よりかは薄い金が光を受ける。
膝を付いて床にその身体を下ろすクランクと、心配そうに顔を覗き込むゼフ。その光景がまた、雷の精霊王に本気さを訴えていた。
「君が、雷の精霊王か」
ルシエは、身を案じる仲間二人に微笑んで大丈夫だと告げ、まるで混乱や動揺する素振りを見せず、若干ふらつきながらも立ち上がる。
そして、掠れた声で雷の精霊王の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「ゼフとクランクが、余計なことを仕出かしたりしなかったかな」
その言葉に反応したのは、図星である二人だ。
ルシエはそれを見逃さず、小さく溜め息を吐いて文句の代わりにし、「二人の言葉は、忘れてくれて構わないから」と雷の精霊王に苦笑した。
まるで、一連の会話を聞いていたかのような、そのあっさり具合に動揺したのは精霊王の方だ。
周囲を見渡し、雷の精霊王の見た目を「ワイルドだね」と笑う姿も、暢気さを通り越して異様に感じる。
気付けば、人間と関わるつもりのない雷の精霊王から問い掛けてしまっていた。
「お前は、知ってるのか……?」
「何を?」
けれど、キョトンとした表情で首を傾げられ、出鼻を挫かれてしまった。
とぼけているのか、本当に知らないのか。どちらにせよ、聞いてから答えてこなくて良かったと雷の精霊王は安堵する。
それを知ってしまえば、自分までもが否応無しに関わらなくてはならなくなってしまうからだ。
「俺様は、縛られるのが嫌いだ」
無理矢理な誤魔化しに話を変えても、ルシエの態度は変わらず暢気な不気味さで、脇腹の傷があった場所を触りながら「縛るのも嫌いそうだね」と言った。
「だから、お前と真っ当な契約をするつもりは無い」
「それは困ったな」
雷の精霊王は、気を持ち直す様に腕を組み直し、眉を下げて思いあぐねた表情のルシエに堂々と威厳を持って対峙するが、ゼフとクランクは二人して、始まったなと余計なお世話だった行いを痛感しながら様子を見守った。
一見、受け答えをするだけのルシエだが、雷の精霊王が場を握っているようで、彼は確実にルシエのペースに呑まれている。
「それに、俺様はお前に死を望む」
「今すぐ?」
「今、すぐに、出来れば俺様の手によって、だ」
実際、殺意を込めての言葉にも眉を下げて苦笑するだけの姿に、困惑したのは雷の精霊王。
普通であれば、そんなことを突然言われれば疑問を持つはずである。けれど、ルシエは苦笑するだけ。それが、ゼフとクランクと話をした後だから尚更、雷の精霊王に確信を持たせた。
「そうだなぁ……。君と契約して、同行を求めなくても契約は無理かな?」
苦笑の表情を浮かべたままその希望に拒絶を示さず、今度はルシエから問い掛ける。
「力を望まないのか?」と、答えでは無く質問で返した雷の精霊王に「必要最低限で構わない」そう言えば、彼の心がさらに惑う。
「後、今殺されるわけにはいかないけど、死ぬっていう望み自体は叶えてあげられるし、元よりそのつもりだから」
混じり合う輝きの異なる金。揺らいでいくのは、強い筈の金だった。
苦笑を収め、無表情で放たれた言葉の威力は、静かでありながら絶大である。
真っ直ぐな瞳に、嘘は無かった。
「それは、駒で仕組まれているとしても変わらないのか」
辛うじて対抗したものでさえ、ルシエに害は及ばない。
前髪を指に絡めながら、まるで「そのピン、一本くれないかな」と言うような調子で、淡く薄い唇から覗く牙は雷の精霊王に喰らいつく。
「負け戦はしない主義だし、喜んでいるところを容赦なく押し潰してやるのが、最高に無様な様を見れると思うんだ」
「……つまり?」
怪訝に先を促す声に、ルシエは絡めた髪を解放し無表情から一転、ゾッとするような笑みを浮かべる。
あまりに美しく、あまりに醜く、蛇のように巻き付いて離れない。そんな表情で。
「勝てると言えるだけの自信があるから、神経を疑われるぐらい、馬鹿みたいに突っ込んでいるってことだよ」
それは、それこそ笑い飛ばせるぐらいの大ぼらに思えたのだが、雷の精霊王だけで無くゼフとクランクまでもがルシエの笑みの餌食となり、全員が唾を呑み込んだ。
しかも、それを本気で言ってるのだから恐ろしい。ルシエが相手を知ってるのならば、尚更。
「君は自由にして良いし、力を貸す必要も無い。今の言葉がはったりだと、行動を見て判断した時には邪魔してきても構わないよ。それこそ、殺す気でね」
そうして、雷の精霊王がルシエのペースに呑まれていると気付いた時には、既に手遅れな場面に舞台は進行していた。
意識を取り戻してから今まで、雷の精霊王が人間嫌いだと直ぐに察して近付こうとしていなかった足が、静かに踏み出される。
三歩程度開いた距離で向かい合えば、その身体のか弱さを更に感じるが、それを凌駕するほどの見えない何かが強さを魅せ、雷の精霊王は手出しが出来なかった。
「だからお願いだよ。契約、してくれないかな」
風と水の執着心を覆し、信用させたのはこの力が理由かと、頭の隅で感じる。
彼等の心を動かしたのは、それだけ想える強さがあるからなのだと、雷の精霊王は悟った。
その感情の内の一つに名を当てはめるとすれば、それは憎悪――
ルシエの差し出した小さな手に、まるで操られるように自身のものを重ねた雷の精霊王は、「お前はただの小娘なんだな」と笑っていた。
その光景に、ゼフとクランクが安堵し、力では無く中身に対してルシエには敵わないと思った。
そうして、ルシエと雷の精霊王が望む通りの契約が結ばれ、使われることの無い力が手に入る。
何人もの人間がその場には居たが、誰一人としてその光景を知らない。
『渡り渡り 形となって空を翔けよう
伝えよ伝え 届けよ届け
落ちた想いは地を伝い
漂う願いは新たに続く
轟く声に耳を塞ぐな
痛みで身を切るか
涙で傷を拭うか
――決めよ、己が在処を』
残る精石は半分を切り、どれだけ人間が残っていられるかと案じていた旅は、いつの間にかどれだけ罪を犯さずに進めるかに変わった。
それだけではなく、苦しみに耐え続けられるかという不安もある。
雷の精霊王の笑みに、再び眉を下げて困ったように笑うルシエはまだ気付いていない。
聖殿を一歩出れば、失った過去がそこに待ち受けているのということに――