たった1人の悪魔
その日の公務に当たっていた風の国の国王は、執務室に飛び込んできたリュケイムの言葉に強く歯噛みした。
「陛下、至急ご報告です!」
「入れ」
ただでさえ、今後について色々動かなければならない今、いつになく焦った様子で入室してきたリュケイムに嫌な予感しかしない。
彼は、礼を取るのもそこそこに、執務机の前に跪き声を張り上げる。
「海の国の精石が、破壊されたそうです!」
「何だと!?」
たったそれだけの報告。それに思わず立ち上がり、信じられないと王は言う。
あまりに早い。水の精石が破壊され混乱の中動く彼等にとって、ルシエの動きは想定外すぎた。
それもそのはず。普通であればアズレイからロウジャーまで、ルシエ達の倍日数がかかるのだ。短縮する術を持っていると知らないのだから、仕方が無いと言えよう。
「やっと書簡が返ってき始めたばかりだというのに!」
「しかも、顔を晒したとの情報も入っております」
護衛していた近衛や宰相含め、騒然とする室中で、王は机を拳で叩き憤る。
時間の猶予が無いのだと、彼等はやっと気付いた。自国にばかりかまけ、失う事は無いと信じきり、後手に回って情報が足りない。
いや、その後悔はもう済んでいる。風の王が時間を欲していたのは、より公平で穏やかに会談を進める準備をしたかったからだ。
風の国はまだ、軍事力の大きさで、精石が無事な他国とも引けを取らず話し合うことができるだろう。
だが、例えば陽の国。こちらは、前王の暴君ぶりや反乱、建て直しつつあるといっても若き王が導いている。未だ無事な国に、自国へ下れと言われれば太刀打ちが難しい。
そういった懸念に備えなくては、風の王の望む話し合いなど出来はしないのだ。
「最早、考えている暇はないというわけか……」
外交も何もかも、相手は待ってくれない。一刻も早く国を隔てない協議の場を開かなければ、人間社会という名の世界があっという間に崩されるのだと王は悟った。
「陛下、殿下がお見えです!」
そんな時、既に王の頼れる部下となっている王子の来室を近衛の1人が告げた。
「後にしろ」
「それが、至急にということで」
勿論、それどころでは無いと入室の許可を与えなかった王だが、近衛は控えめに告げる。
そう言われてしまえば聞かないわけにはいかないと、額に手を当て落ち着きを取り戻そうとしながら王は渋々頷き、リュケイムを脇に控えさせた。
これ以上、まだ何かあるのか。リュケイムすら得ていない情報が……。今、執務室に居るのは、全員が王の考えを知っている。
深い浅いの違いはあれど、彼等は一様に同じ気持ちを抱きながら、目の前の扉が開いていく様子を見つめた。
「失礼をお許し下さい、陛下」
王子は、室内を見て何事かと一瞬驚いたが、すぐさま詫びを入れて一礼し暗い表情で王の前へと歩いた。
「何事か」
青ざめる以上に蒼白な王子。彼は、手に一枚の書類を握っていた。
王に拝読してもらうには、皺が寄り大分くたびれてしまっている。それでも王子は、机の上へその紙を静かに置く。
「……海の精石の件は、リュケイムからご報告が上がっているようですね」
王がそれを読む間、部屋を見渡して大体の事情を察したのだろう。書かれていた内容へのあまりの驚きに返事を返せない王に代わり、リュケイムが頷いてそれを肯定する。
彼に向けた視線を戻した時、王は先程以上に頭を抱えて項垂れていた。
「あぁ……」
その口から、憂いの溜息が零れる。
「我々は、何を悠長に構えていたのでしょう。王女への感謝? 私への恩義? 馬鹿な。相手は、我々の為に施してくれたのでは無かった」
通常であれば、王子であれ不敬罪に捕らわれかねない言葉だ。
しかし、それが許せる程の内容が一枚の薄っぺらい紙にはあった。王は無言で、それをリュケイムに差し出す。
「これは、我が国のみの情報です。今はまだ、騎士は恐れを抱かずにいてくれております。ですが、それも時間の問題でしょう。黙認され、報告すら無くなるかと」
視線を走らせ、素早く内容を把握するリュケイムを置いて王子は言う。
リュケイムは、最後の一文を読み終えた瞬間、王への書類だと頭で理解しつつもそれを破り捨てたくなった。
「各国でも、恐らく同じような事が起こっているはずです。寧ろ、一番酷いのは海の国でしょう」
そこに書かれていたのは、風の国のとある村で起きた事件についての報告書だった。
王子の執務は現在、国の状況に関することである。事件であったり、税の負担具合であったり。各地を視察して、王の目となり自身がその地位に立つ為にもとても重要なもの。
彼がその書類を手にしなければ、報告は遅れていただろう。
「陛下。私が貴方様の目となり耳となり、動きます。どんなに過酷なものでも、必ずや」
「殿下は私が命に代えてもお守り致します。陛下」
――ご決断を。
王は、2人の真摯な眼差しを受け顔を上げた。
青ざめ、きつく唇を結び、王は部屋を見渡す。一介の近衛も、腹心の宰相も、全員が頷いて心は1つだ。
王は、決断を握った拳で力強く机を叩く。
「我らが心は、何者にも決して屈せず、剣となり盾となり信義として吹き荒れる風となる! それは、自国だけにあらず!」
豪勢な椅子から立ち上がり、王は深緑のマントを翻しながら執務室から玉座へと移動する。
その後に王子が、そしてリュケイムを含め部屋に居た全員が続く。机上には、件の書類だけが取り残されていた。
「悪魔め……」
王が呟いた言葉には、確固たる敵意が込められていた。それは、翻すマントから生まれた風により、全員へと行き渡る。
皆がそれに同意し、騎士は己が剣を無意識に握っていた。ルシエが海の精石を壊して2日後の出来事であった。
――それは、風の国のとある村で殺された1人の青年ついての報告書。彼は、同じ村の老人の手により、哀れにも亡き者とされてしまったそうだ。
理由は、その青年が銀の髪に金の瞳をしていたから。手に掛けた老人は、捕らえられた際に兵士に言った。悪魔を葬っただけだ、と。
魔女狩り。それは地球の中世末期からヨーロッパ等でみられた行いである。魔女と、あらぬ疑いを掛けられ拷問を受けた末、処刑された者は諸説あるがかなりの人数に及ぶとされ、現代では狂気の時代と言われたりするほどだ。
そこには、宗教や集団心理、様々なことが関係しているのだが、ルシエの目論見はそれを利用して天秤の修正を図ることにある。
精石は人にとって、代え難い至宝だ。何せ、讃え崇める精霊王から授かったものなのだから。
きっかけは、風の国でルシエとして表舞台に立った後の情報の混乱だった。嘘や噂が飛び交い、あやふやな情報に多くの者が疑心暗鬼に陥る様は、ルシエにその魔女狩りの始まりを彷彿させた。
そして、水の精石が人目につく場所にあったことが更にそれを容易にさせ、海の国で呪いの島が消えたことで確実となる。それは、人の中に簡単に紛れることが出来、強大な力があると錯覚させたのだ。
自身の髪と瞳の色が変わることもまた、ルシエにとって幸いだった。
ただ単純に顔を晒すだけでは、人物画を書かれて手配書が回るだけだろう。しかし、相手が色を変えられると分かればどうだ。
さらに姑息なルシエは、ロウジャーの港に辿り着く前に、普段布の下に着けているピアスと一体のマスクを装着する。そうすることで、個人をより特定させる顔の下半分を隠し、特徴的なところだけを印象付けるようにした。
「これはこれは、皆さんお集まりの様で」
港には、予想以上に多くの人が野次馬として群れを作っていた。
横一列に、所々隙間を開けつつも限界まで広がって島を呆然と見ていた人々。彼等は、海に大輪の花が咲いた時から3つの影を見付けている。
そして驚いている間に、人々にしては一瞬にも感じる短時間で、ルシエ達が目の前に現れたのだ。
しかも、ゼフとクランクはまるでルシエに付き従う様に少し後ろに控え、2人共が空色と深緑色のローブで顔を隠して無言でいる。
となれば、例え下半分を隠しているとはいえ、自分達に声を掛けているルシエに視線が集まるのは当然だ。
「そろそろ陽は落ちますが、わざわざお出迎え頂けるとは。恐縮です」
風の国の時より、何倍も近く多い視線。それを一身に浴びながら、ルシエは楽しそうに笑う。
誰もが言葉を無くし、ただ見つめるしか出来なかった。
誰だと問うべきか、何と問うべきか。姿は人と同じだが、その雰囲気に呑まれたせいで頭が回らない。
しかし、それは一瞬だった。切っ掛けが誰かは分からないが、群集の中の1人がボソリと悪魔と呟いたことで、悲鳴や怒号が飛び交い始める。
「ふふ。改めまして、破罪使ルシエと申します。以後、お見知りおきを」
夕陽を背負った悪魔は、まるで歓声を浴びる英雄の様に優雅に礼を取ってそれに応えた。
ルシエが何をしようとしているのか、人々は勿論ゼフとクランクにも分からない。2人が黙って見守り続ける中、ルシエは笑う瞳で人々を流し見る。
そして、ほぼ列の端の一点で片眉を上げて止まった。そこには、1人の男と子供が居た。
作り出した舞台で、彼等だけがルシエを見ていない。
「……へぇ」
面白い。そう呟き、負の歓声を無視して、右手の剣を離しスッと横に振る。剣は、グリップを握らなくとも柄が蔓となり腕に巻き付いている為、重力に逆らって空中に浮いていた。
みすぼらしい少年は、その動作のお陰で男に殴られずに済んでいた。男の拳が彼の顔に直撃する一歩手前で、ルシエが出した青い水の盾によって。
「こちらを無視して、何をしているんだと思ってみれば。中々に面白いことをしてるね」
そしてルシエは、剣を再び手にしつつ、その2人の傍へと動く。
足は2メートル程地面を離れていて、少年を殴ろうとしていた男がその姿に目を見開き驚いている。
少年はというと、殴られると思った瞬間に身体を固めてきつく目を閉じており、中々襲ってこない痛みと衝撃に恐る恐る片目を開けて、目の前に水の盾があることに驚く。
そして、声に導かれるように、その両目で後ろに浮かぶルシエを見た。
「あ……」
その口が、驚愕に一言声を漏らした。
過酷な環境に身を置かれながらも、生を宿した輝かしい茶色の瞳。そこには、朗らかに微笑を作っているのだろう。そんな形の青い光が映る。
「さあ、大海原の旅への切符をプレゼントしてあげるよ」
そんな少年に、ルシエは言った。そして、少年の視界からその姿は消え、代わりに彼の頬が生暖かくて赤い液体に染まる。
どさり。少年の背中で、鈍い何かが倒れる音がした。
「きゃあああああ!」
響く、甲高い悲鳴。少年の良く知り、少し離れた場所で彼を案じていた少女の声だ。
それだけではない。男も女も、大人も子供も。兵士も荒くれ者でさえ、其々音程の違う声を響かせて曲を作る。
「フレデリク、逃げて!」
「リック兄!」
少年――フレデリクの家族であり仲間が、必死に彼を呼んで急き立てている。しかし、彼は呆然と自身の頬に手をやり、付いた赤を見つめるばかり。
つい先程、その頬を殴ろうとしていた男は、足元で物言わぬ屍へとなっていた。
「使えそうなのを残してくれれば、判断は任せるよ。殺すも殺さないも、君達次第だ」
「分かった」
「じゃあ俺は、ルシエのサポートに回るねー」
その代わり、フレデリクの目の前には、彼が出会った中で誰よりも麗しい容姿をしている人がいる。男か女か、彼は分からなかった。
とても美しい声だ。しかし、それを聞くたびに、背中がぞわりと悪寒を覚えて震える。
「大丈夫。君も、君の仲間も、使えそうだから残してあげるよ」
青い瞳に、海を感じたフレデリク。男を殺した腕に巻き付く剣も、同じ鮮やかな青だった。なのに透明で、片方は真っ赤に濡れている。
視線がその剣を流れる血液に向いていることに気付いたルシエは、フレデリクに怖いなら目を閉じてと囁いて、コツリと足音を響かせた。
悪魔、と誰かが叫ぶ。止めて、と懇願する。
その響きを感じながら、足が軽くなるのをルシエは感じた。クランクが、新たに気付いた自身の力を使ってくれたのだろう。
「その目に、脳に、しっかり刻むんだ」
青い双剣が華麗に舞う。群衆の中に飛び込み、ルシエは一気に逃げ出す人々を追った。
力を使いすぎて髪の色が変化してしまわないよう気を付けながら、ほんの少しの力で地を蹴るだけで前へと進む。
時に回転し、時に剣を突き付け、刺すこともあれば寸止めで恐怖を誘うだけの場合もある。――地獄絵図だった。
ルシエにとって、これは演舞だ。思う存分、悪魔の恐怖を刻み込む晴れの舞台。しかし、それを受ける身にとっては遊ばれているとしか思えない。
なにせ、笑いながらだったのだ。口元を隠す布は、動きによっては軽く靡いて僅かにその全貌を垣間見せる。
「破罪使の望みは、全ての精石の破壊。さて、人間はどう対抗する?」
ルシエは執拗に呟きながら、港を赤い飛沫で染める。泣け喚けと、笑いに哂う。
「悪魔め!」
と、頼りにならないと宛てにもされない兵士の1人、歳若い男が果敢にもルシエに剣を向けていた。
「そうだよ。悪魔は悪魔の仕事をしているだけさ」
両手で、大量生産されていそうな平凡な剣を握り、恐怖で腰が引けている兵士と対峙する。
何を思ったか、ルシエは両腕の剣を消した。その瞬間、剣に付着していた血液が、べしゃりと気持ちの悪い音を発てながら地面に落ちる。
「目、が……」
兵士が恐怖の色を増す。彼が呆然と呟いた先で、ルシエの瞳が群青から金へと、すぅっと変化したのだ。
「ふふ。悪魔は、騙すのが得意なんだ。いつでもどこでも、明日君の隣に居る人が、悪魔かもしれないよ?」
口元に手を当て、くすくすと笑いながら、ルシエは人差し指だけを立てて秘密事の仕草を取った。
兵士の視線が、その指に集中させられる。
「でも、元の色の方が楽だから、基本的にこの組み合わせだけどね」
どうやら、情報の発信源をこの兵士に定めたようだ。彼の頭の中に、銀の髪と金の瞳という情報が駆け巡って暴れまわる。
「う、うわあああああ!」
絶対に生きて、この情報を伝える。彼の中に、爆発的な意志が生まれた。
誰に、とかそんな細かいものは無い。伝えなければ。その感情だけが身体を動かすのだ。
「これ、借りるね」
猪のように、何の策も無く突っ込んでくる兵士に対し、ルシエは足元に落ちていた剣を拾って対抗する。
普段なら、絶対に扱えないようなそれも、クランクが腕に治癒とは違う補助を施してくれるお陰で軽々と振れた。
「くっ……」
ガキンと、鈍い金属音。剣が違えば音も変わり、持ち手が違えば質も変わる。
兵士の腕は、宛てにならないのが当然と言える程悲しいものであった。
かといって、ルシエもそう長けるわけでは無い。ぎりぎりと押し合えたのも、余裕があるのも、クランクあってのものだ。
「怖い怖い。悪魔でも刺されれば血がでるし、死ぬんだよ?」
魔法で作り出した剣を消したのも、こうしてそれとなく情報を与えるのも全て、悪魔の恐怖を与えながら決して太刀打ち出来ないものでは無いと思わせるための演技である。
そう上手くはいかないと、思うかもしれない。しかし、何時だって人は神に仇なす者を排除しようとする。
悪魔という言葉は、この世界ではルシエただ1人に与えられた称号なのだ。――たった1人の、敵だった。
そうなると、さあどうなる。剣で倒せる、人に紛れる。じゃあ、倒せるではないか。――倒さなくてはならない。
精石を、そうだな、仏様やキリストが授けたり祝福を与えた物だと思ってもらえれば良い。それは、宗教が物質化したものだ。
もし君が無宗教だったとしても、想像し易いだろう。
「人間は、絶対にお前を放置しない!」
1人の若い兵士に感化されたのか、恐怖に駆られて逃げ惑っていた人々が、逃げ去った人々も、その手にお粗末な武器を手に取って睨んでいた。
ゼフが風の刃でルシエに危険が及ばないように動きを封じ、クランクが致命傷を避けながら妨害する。
剣を交差させたまま、ルシエは周囲を見渡した。
刺さる視線。向けられる憎悪。
呪いの島と呼び、精石を遠ざけていた国でさえこうなるのだ。なんと容易く滑稽だと、心が笑った。
でも、切っ掛けなど本当に些細なもので事足りることを、ルシエは身を持って知っている。
「だったら、人間の力を魅せてもらおうじゃないか。この悪魔に!」
ルシエの剣が兵士の剣の表面を滑り、行き場を無くした力を余して前につんのめった彼の側頭に強い衝撃が襲う。
銀の髪を視界に掠めながら、兵士はルシエの細い足に蹴られたせいで意識を失った。
「さあ、陽が沈む! 闇は悪魔の欲望が渦巻く時だ! 世界をそれに染めたくなくば、抗え人よ!」
まるで、ぷつんと音が聞こえそうな様子で夕陽が沈んだ。そして、闇のカーテンが細い隙間を許さずに閉められる。
大声でそう告げたルシエ達は、そして一陣の風に人々が目を閉じている間に忽然と消えた。
残されたのは、後は朽ちるだけの死体か痛みに呻く者、そして、強い意志を置き去りにされ呆然と佇む人々だった。
最終的に、犠牲者は両手に満たないぐらいである。群集の量に比べれば、それは奇跡ともいえよう。
しかし、それで良かったとはならなかった。
こうして、金の瞳と銀の髪を持つ青年を中心に、アピス全土で悪魔狩りが始まったのである。――その組み合わせは、この世界に於いて有り触れた色合いであった。