天使な悪魔と堕天使を結ぶもの
ルシエによって、海の精石の解放の歌が紡がれる少し前。
呪いの島の見える港にあるボロ小屋で、ロウジャーに住まう少年達は、今日の収穫を披露しながら笑い合っていた。
この街を訪れる者にとって国軍所属の兵士は、スリや恐喝の被害に合うのは自衛が足りないからだと一蹴りされるだけの役立たずな存在でしか無い。
それを知っている少年達は、いつしかそれが罪だということすら忘れ、まるで遊びのように日常として窃盗を繰り返すのだ。
全員が孤児で、彼等の身形は正直不衛生極まりなかった。子供が生き延びる環境として、ロウジャーは最悪だろう。故に、彼等が身を寄せ合うのも、スリに関しても、生きる為だと言われてしまえば責めることなど出来ない。
小屋には、5人の少年少女が居た。
「これで、当分は食うに困らないだろうな!」
その中で一番の年長者に思える少年の声に、他の子の笑い声が頷く。
今日、彼等のカモとなってしまったのは、酔っ払って道の脇で寝てしまっていた腕っ節だけはありそうな同じロウジャーに住まう荒くれ者である。
「でも、仕返しとか、されないかなぁ?」
この街で優しさを求めても、残念ながら馬鹿を見るだけだ。そして、大人も子供もここには存在しない。
1人の少女が、不安そうに年長者の少年に尋ねたのも、そんなことが日常茶飯事繰り広げられているからだった。
「大丈夫だって! あのおっさん、相当酔っ払ってたし。それに、あんな所で寝てる方が悪いんだ」
少年は、仲間内で一番泣き虫なその少女の頭を撫でながら、ニカッと笑って安心を誘った。
そして、彼等は約3日振りの食事を分け合うのだが、草臥れた5つの果実が彼等の育つ環境の悪さをひしひしと伝えてくる。
「……おい、どうした?」
とても、結束が固いのだろう。最早、家族と言っても過言では無い。
年長の少年は、いつだってその面倒見の良さから仲間の動きを見逃さない。彼は、この中で一番耳の良い自分より1歳下の少年が、手に果実を持ったままどこか違う場所に意識を向けているのに気が付いた。
「どったの?」
一番幼い少年の舌足らずな言葉が、つられるように問いかける。
そうすることでやっと耳の良い少年がはっとして、年長の子と視線を合わせる。
「音が……。何か、変な音がする」
「変な音?」
彼の言葉に、顔を見合わせて耳を澄ます4人の子供達。しかし、何も感じない。
「何これ、怖い……怖いよ、リック兄!」
そうしている間にも、耳の良い少年の顔は徐々に青ざめ、仕舞いには耳を押さえながら震え出してしまった。
リック兄と呼ばれた年長の少年――フレデリクは、その尋常じゃない様子に彼の隣に座る同年の少女に頷き、少年を任せて立ち上がる。
殆ど扉の役割を果たさない板を押して外に出る彼の手には、お粗末な棒が握られていた。
恐る恐る外の様子を窺うフレデリク。彼の前には、ロウジャーの中心に続く細道がいつもの様に続いているだけで、耳の良い少年が怯える音も未だに聞こえない。
「フレデリク、何か海から聞こえるらしいわ」
何もないぞ。そう言おうとした彼に教えたのは、少年を宥める少女だった。
小屋の裏手が、彼女の言う海に面している。夜はいつも、その小波を子守唄に彼等は眠るのだ。
「お前等、今すぐ外にでろ!」
意を決して体の全てを外に出したフレデリクは、小屋の裏手を覗き込んだ瞬間、そう仲間に叫んだ。
彼は、俄かに信じられなかった。
呪いの島。最早御伽噺のように語られる海の精石が眠るその場所を、彼等は景色の一部として認識してきた。悲しい時や苦しい時には、精石が恩恵が与えてくれるなどと、恨みを込めて睨んだことだってある。
フレデリクの切羽詰った声に只事では無いと感じた子供達は、耳の良い少年を彼が抱え、幼い少年は少女が抱き、空いた手で泣き虫な少女の手を握って小屋を飛び出した。そうして、全員がその光景を目の当たりにした。
「島が!」
少女の金切り声が、その異様な光景を鮮やかに彩る。
常に傍らにあり、いつだってその恩恵を与えてくれない精石のある呪われた島は、彼等の小さな瞳を前にして、外側からボロボロと海の一部になっていっていたのだ。
「島が、消えてるよぉ」
「違う、崩れてるんだ!」
泣き虫少女の言葉に、フレデリクは反論する。それはどちらも正解で、どちらも間違いだった。
島は、本来の姿へと時を取り戻して急速に変化していただけ。しかし、真実を知らない彼等にとって、その光景は不吉なものにしか映らなかった。
「どうする!? 兵士を呼んだ方が」
「馬鹿! そんなことしてどうなるのよ!」
無力な子供達は、どうするべきかさえ分からず、混乱しながら無意識に人の居そうな場所に走っていく。本人も気付かない、助力を願う行動だった。
耳の良い少年は、フレデリクの腕の中で仕切りに歌が聞こえると訴え、怖いと震える。泣き虫少女は、その気持ちを敏感に感じ取り、汚れた頬を涙で濡らす。
そうやって訳も分からず走った彼等は、自分たちと同じように島の異変に気付いた人だかりを見つけた。
「フレデリク……」
しかし、ロウジャーの大人がどういう者なのか、痛みと共に嫌というほど知っている彼等。安堵と新たな不安がせめぎ合い、少女がフレデリクの名を呼んだ。
この頃には、当に島はその姿を失い、まるで岩盤のような島とは到底呼べないものへと変化していた。
鬱蒼と茂っていると思えた木も、島を取り巻いていた薄暗い雲も消え、警戒しながら大人達に近付いていくフレデリクがちらりと視線を向ければ、とうとう岩盤さえもが波の中へと呑まれている。
「海の精霊王様がお怒りなんだよ!」
「まさか、風の国の言ってた、ほら……」
「そういえば、舟が一隻」
フレデリクの耳には、その光景を騒然と見るしか出来ない大人達の戸惑いの声が様々届く。
彼は、耳の良い少年を少女に預けた。少女は、幼い少年を下ろして泣き虫少女と手を繋がせた後、少年を代わりに抱きかかえた。
「きゃあっ!」
「アンナ!?」
警戒しながら、人だかりに向かうフレデリク。その内の、比較的人当たりが良さそうな大人に近付き、声を掛けようとした間際。彼は、耳の良い少年を抱く少女の上げた悲鳴に慌てて振り返る。
彼の視線の先で、少女――アンナは島を指差して震えていた。
「やっぱり、海の精霊王様がお怒りなんだよ! 悪魔が壊した精石の償いを、俺達に求めているんだ!」
アンナの示す先を見て青ざめるフレデリクの背中からは、そんな大人の悲鳴が響く。島のあった場所で、波がまるで何かを囲うように球体を作り出す。
彼はそれが完成するぎりぎり、僅かに開いていた隙間で人影を見た気がした。
島に面した港には、この頃にはもう多くの野次馬が集まり、各々色々な事を叫んでいた。
ロウジャーに配属されている、頼りにならない兵士もまた剣を手に駆け付けているのだが、その表情を見た誰もが彼等に委ねる気にはなれない。人は無力に、眺めるしか出来なかったのである。
「泣いてる……誰か、泣いてるよ」
恐らく、野次馬の中で最も現状把握が出来ていたのは、アンナの腕の中で震える耳の良い少年だろう。
彼の耳には、怯える自分と泣き虫少女のものとはまた違う、不思議な泣き声が響いていた。
そうして、人々が不安に駆られながら不吉な球体を呆然と眺める中、それは静かな海に戻る。上がる悲鳴や困惑の声。しかし、フレデリクだけは別の事でその瞬間慄いていた。
「見つけたぞ、小僧!」
彼の肩を突然掴んだ乱暴な手と、怒りに満ちた怒声。視界の端に焦った表情のアンナを映しながら振り向いた彼は、しくじったと心の中で嘆いた。
「このこそ泥野郎が! よくも俺の金を盗みやがって!」
「濡れ衣はよせよ、おっさん」
「しらばっくれんじゃねぇ! 飲み屋のオヤジが丁度見てたんだよ!」
最悪だ。そんな気持ちを孕んだ溜息を吐いたフレデリクの目の前には、彼等が金をスッた気の短い男の拳が迫っていた。
「フレデリク!」
アンナの悲鳴が響く中、フレデリクは襲うであろう痛みに硬く目を瞑る。
「こちらを無視して、何をしているんだと思ってみれば。中々に面白いことをしてるね」
しかし、そんな彼には、待てども待てども痛みも衝撃も訪れなかった。
その事で精一杯だったフレデリクは、周囲が静寂な事にやっと気付く。そして、不思議な声が響いていたことも。
ゆっくりと瞳を開けた彼は、我が目を疑いながら彼の背中を見つめる男と、男の拳を目前で止めている水で出来た手のひら大の盾を見た。
「あ……」
驚愕に言葉を失う喉。ゆっくりと、不思議な声の元を探る。そこで、彼が見たのは――
さて、フレデリクという名の1人の少年にとって、目の前の男と背中に浮かんでいた人物。果たしてどちらが悪魔だったのだろう。
「さあ、大海原の旅への切符をプレゼントしてあげるよ」
彼の頬を、生暖かい液体が染めた。
島に僅かに残っていた大地は、波に呑まれて崩れ消えていく。
回避できない海水に全員がずぶ濡れになりながらも、ルシエだけが気持ち良さそうにそれを浴びていた。
命が躍動し朽ちる様は、見る者によって絶景にも絶望にも映ることだろう。
「泣いて……る?」
その姿に、クランクが恐れを抱きながらもそう零していた。彼の中でルシエの印象はガラリと変貌し、サイードの株は上がったことだろう。
冷たい海水が、彼の心までもを冷やしていく。
「違う、笑っている」
反対にゼフは、そんな印象を受けていた。島は早々に海の藻屑と化し、彼等の周囲に精霊が押し寄せた。
眠りから覚めた海の精霊王は、歓喜する精霊に囲まれるルシエの足にしがみ付き、クランクとゼフを睨み付けている。
「おはよう。良く眠れたかい?」
小さな小さな、幼いラピスラズリ。
海の精霊王は、足首までの長い波打つ群青の髪に、同色の白目の無い不気味な瞳をした5歳程度の少女だった。
全体の作りは精霊王らしい逸脱した美を有しているのだが、唇までもが青々としており、鮮やか過ぎる髪と瞳も相まって不気味な美にしか思えない。
そんな海の精霊王に目線を合わせるよう、波の上に立つルシエは腰を落とし優しく微笑む。
頬を桃色に染める少女。しかし、それは直ぐに薄まり、何故か彼女は2人の精霊王にきつい視線を向け続けた。
「彼等が、どうかした?」
視線は海の精霊王に向けたままルシエが首を傾げれば、彼女は首を小さく振りながら身体を精一杯伸ばし、小さな腕を悪魔の首に回す。
その身体を優しく抱き、そっと持ち上げる。仲の良い兄妹による感嘆の光景が作り出された。
しかし、その雰囲気とは裏腹に、ルシエの背中を壁にして精霊王同士の視線がはっきりと交わった時、鮮やかな唇は恐ろしい言葉を発する。
「……偽善者」
始め、全員が空耳かと思った。喜びに轟々と響く波音と、荒んだ心がもたらした気のせいだ。ルシエさえ、そう考えた。
だが、腕の中の冷涼な物体は反応を返してくれない事に不貞腐れながら、更に大きな声でクランクとゼフに辛辣な言葉を投げるのである。
「ヘタレ、ナルシスト。自意識過剰野郎、腐れ外道!」
重低音で響くバイオリンの音色のような声は、そう言って彼等を睨み続けた。
あからさまに嫌悪を表し大人げなく睨み返すゼフと、ナルシストと自意識過剰は同じじゃないかとひっそり突っ込みを入れるクランクだが、何故彼等はそんなにも責められているのだろう。
「自己満足したいなら、あんた達2人で好き勝手舐め合いやがれ!」
罵倒はまだ続く。見た目が幼く殆ど関わりを持った事もなかった精霊王故、どう対応していいか困惑する大人な精霊王2人。
しかし、嘆息するゼフを横に、クランクが突然顔を背けて色を青くさせた。
「……ごめん、ちょっと最悪な想像しちゃったよ」
「死ね」
つくづく締まりの無い奴である。ゼフからこれ以上無い直球な罵倒を受けつつ、クランクは直ぐに持ち直した様だが、小さな王にはそれが更に御気に召さなかった様で、小さな鼻を大きく鳴らす。
「あんた達にはルシエの気持ちなんて、永遠に分からない!」
まるで人見知りして照れるように、海の精霊王はルシエの肩に顔を埋めながら叫んだ。仕草は確かに愛らしい。しかし、その中身がいけなかった。
「……なんだと?」
「それは流石に、俺でも聞き捨てならないなぁ」
ゼフとクランクの雰囲気が、まるで仇に対するようなものへと変化した。
一気に彼等に降り注いでいた飛沫が静まり、さらさらと落ち着き無く波打ち始める。ルシエの服を掴む海の精霊王の手が、より一層強まった。
「だって、皆勝手だ」
と、終始全員に背中を見せていたルシエが、彼女の背中を2回、小さく叩いた。その肩は、微妙に揺れている。
「ふふ、君の事が好きになっちゃった」
「えっ!?」
右腕で海の精霊王を支え、彼女の背中に置かれた左手がゆっくりと自身の口元に移動した時、ルシエは笑いながらそう言った。
いつだって、その感情にだけは素直なルシエ。本人にとっては軽いものでも、たったの2文字でありながら、相手を揺らがすには絶大な言葉だ。
埋めていた肩から驚きに顔を上げた海の精霊王の異質な瞳にはルシエの長い睫が映り、静かな笑声が鼓膜を刺激した。
当然、残りの2人は面白く無い。
まさに、ぽっと出の新参者に片思いの相手を横から掻っ攫われた負け犬というところだろう。本人に、悪意が無いのがまた滑稽である。
「ほんと? ほんとに? 僕のこと、好き?」
そして勝者は、天使の如き微笑と共にルシエへ嬉しそうに問いかけていた。
ただ、静かに頷き返すルシエの死角から2人の負け犬に向け、素晴らしい嘲笑を披露しているところはさながら堕天使だ。
「だって、たぶんだけど、君が一番近くに居るからね。だから、嫌いにはなれないと思うよ」
さらさらと、群青の髪を指で掬いながら、ルシエは先程までの豹変が嘘の様に上機嫌だ。最早、その目には小さな堕天使しか見えていない。
しかし、その言葉によって、嬉しそうだった海の精霊王に暗い影が落ちる。彼女は静かに顔を下げて、ルシエにされるがまま表情を隠した。
さらり、さらりと指から落ちていく髪は、戻ってきた悪戯妖精の踊りにより生まれた風によって、砕かれたラピスラズリの様に美しく舞う。
温かい。海の精霊王は、心の中でその言葉を何度も何度も繰り返し、必死に泣きたいのを我慢していた。
「精霊も、人間も、全部嫌いだ」
そして零した言葉は、子供の戯言に苛立ち、行き場の無い怒りを消化しようと必死だった2人の精霊王にも届く。
彼等は、海の精霊王に気付かれないようひっそりと空中を移動して近付きながら、一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてる。
ルシエはというと、未だ彼女の髪を弄びながら黙って続きを待っていた。
「でも、僕もルシエが好き。ルシエは、知ってるもん」
「うん、そうだね」
「それに、僕の事を好きって言ってくれたの、ルシエだけだから……」
海の精霊王は、サイードの予想通り子供だった。子供なのに、精霊王だった。それがきっと、彼女にとって苦痛な何かを生み出していたのだろう。
精霊王は、年月と共に成長する生物ではない。永続的に相応しい姿で、在り続けるだけである。
だが、精神とは肉体に左右されがちだ。それはきっと、経験できる事柄の差異が関係しているのであろう。
幼ければ無条件に等しく甘えられるが、成長すれば出来る事が増える。海の精霊王は、愛されることはあっても愛し合う事は難しいということだ。
ルシエは、肩から聞こえる嗚咽をそっと受け流し、僅かに身体を揺らして背中を叩く。それがとても、心地良かった。
「水の変態は、僕の事を聞く耳持たない癇癪持ちだって言ったから嫌い」
「ぬぁ! 聞いてたのー!?」
「風の……風は、良く分からないから嫌い」
「思い付かなかったのだな」
そして、落ち着いた頃に再び口を開き、海の精霊王はそう告げてルシエの笑いを誘った。
誰も、彼女を幼い子供だと見てこなかった結果、呪いの島は生まれてしまったのだ。
精霊王同士、そこには様々な理や立場がある。恐らく、関係も希薄なはずだ。だから彼女は、大人びて過ごすしかなく、そして息苦しさに限界を感じてしまったのだろう。
彼等の中の誰か1人でも、彼女を子供だと思って接する者が居れば、それだけで良かったのである。
「ふふ、だったらさ」
でも、ルシエはそんな事を哀れんだりしなかった。
ゆっくりと水面に腰を下ろし、膝の上に海の精霊王を座らせれば、潤んだ瞳を両手で可愛らしく拭いながら、彼女はルシエの言葉の続きを無垢な姿で待った。
「そんなクランクは、これから沢山困らせて苛めてやればいいよ」
「え、ちょっと、ル、ルシエ……?」
何を言ってるのとクランクが訴えても、ルシエは視線さえ向けない。怒らせた彼だから、というわけではなく、今は海の精霊王だけしかルシエの世界には存在しなかったのだ。
それが何よりも、彼女に好きの言葉が本物だと伝えられることを、ルシエは知っていた。
「それで、ゼフはね、パパって呼んだらすごい喜ぶんだよ? ほら、これで彼の事が1つ分かったでしょ」
「そんな事実は全く無い!」
だが、それが分からない外野は心外だと一々突っ込みを入れ、海の精霊王はきょとんと大きな瞳を瞬かせた。
可愛いなぁ。ルシエは思わず零しながら、そんな彼女の頭を撫でる。
「無理に好きになる必要は勿論無いよ。でも、本当に嫌いな相手にはね、苛立ったりもしないんだ」
そして、まるで秘密事を囁くように、人差し指の添えられた唇は言った。
1回、2回。ラピスラズリはダイヤモンドの光を反射しながら、縁取る睫を合わせる。海の精霊王の心に、ルシエの言葉は魔法のように染みていく。
「君が全身で、全力で嫌いだと叫んでいたのは、自分の嫌いな自分が、これ以上誰かに嫌われるのがイヤなだけだったんだよね」
戦慄く青い唇。ルシエは、母なる海へと帰ろうとする雫を壊れ物を扱うように慎重な手付きで拭い、甘い口付けを額に授ける。
その時囁かれた言葉だけは、海の精霊王だけのものだった。――誰かに好きと言われて初めて、自分を好きになるチャンスが巡ってくるんだ。
「さて、君は自分が好きかな?」
堕天使が出会ったのは、天使な悪魔だった。きっと、世界中でルシエが悪魔と呼ばれ、他の精霊王が声を揃えて悪魔な天使と言ったとしても、海の精霊王だけは頑なにそう呼びかけ続けることだろう。
問いかけに彼女は答えられず、代わりに全身で頷きルシエに抱きつく。きっと、この人はいつでもこうやって自分を迎え入れてくれるのだと、その温もりに思った。
「う……」
「う?」
それが、海の精霊王にとってどれだけ嬉しかったか。ルシエの身体に張り付く物体から聞こえた音に首を傾げたクランクだけが、そんな彼女の気持ちを未だに分かっておらず、直ぐ後に待ち受けるソレを察しているルシエは苦笑し、ゼフはとっくに対策を講じていた。
「うわーーーあん!!」
まるで産声のような、全身で表された歓喜。慌てて耳を押さえたクランクの表情も、優しく小さな精霊王を見守っていた。
ただし、精霊王としてのプライドが高いゼフは、彼女の心情に同意出来ないようで複雑な心境だったが、そんな彼もルシエの言葉とやり方を否定しない。
暫く、大海原には泣き声だけが響き、アウラネルクが作り出した波が彼等を囲っていた。