真実の不協和音
結局、十分な休息を得られなかったサイード。
しかし、彼はクランクとの会話の中で、曰く素晴らしい作戦を思いついたとご機嫌であった。
「君は、河内紗那のことをどう思ってるの?」
それは、クランクのこの不躾な質問にも鼻歌交じりで答える程に。
睡眠は諦めたのか、立ち上がり再び島で彷徨うのを再開しようとしている背に投げられた言葉に、サイードは声高らかに笑うのだ。
「嫌いに決まってるだろ」
愚問だとそう言って、サイードは黒光りする剣を出現させる。その意図は、少しの衝撃で崩れてしまう島の物を、手当たり次第破壊する為だった。
全てが黒い愛剣で揺れる唯一の白い翼の輝きに、クランクはゾッと悪寒を覚えた。
まるでそれは、澄み切った水の一部を濁し漂う血液のようだ、と彼は思う。
違和感、不信感。その血は、そういった警告を五月蝿く彼に訴える。
残念ながら、その原因に気付くことはないのだが、誰であろうがそうだったことだろう。サイードが、そうさせているのだから。
「ちなみに、私も嫌いだからねー」
さらに彼等は、見た目を変化させなくても、他人に見分けさせる技術をいつの間にか身に付けていた。
故意に乾いた音を響かせて歩きながら告げられた声に、後姿を追うクランクは茶色い髪の女を見る。実際は、シルバーの髪を揺らし白いシャツに黒のパンツの姿だが、視覚を凌駕する程の雰囲気の変貌。
リサーナは振り向かず、尚も言った。
「勿論、ルシエもね」
「君達なのに……?」
クランクは、初めてのリサーナに何の印象も抱けなかった。それは、サイードとルシエが濃いからなのだろうか。
違う、と彼は呟く。そうさせるように演じる女なのだ、と女好きの彼は察した。
人間との交わりを決して許さず、行為を生殖としか考えないゼフと違い、クランクはその快楽と感じる温もりを好んでいる。
ロウジャーの街で騒いでいた事で分かるように、様々な女を見てきた彼は、その生物がどういった面を持っているのか分かっているのだ。
腕力では決して男には勝てないが、その分女という生物はとても賢い。精神が男とは別格だ。
クランクが、女の全てを分かる男が居たら是非会ってみたいと思う程に、彼女達は人生を演じる。
偽っているわけではなく、本心の時も、彼女達は純粋に演じているのかもしれない。煌びやかなだけでは無い、人生という泥にも塗れる舞台でだ。
歴史が動く時、そこには必ず女の影があると言われるのにも、彼は納得することだろう。
時に寂しがり屋で、時に我侭で、時に可愛らしく。何故か、リサーナの雰囲気で頭がお花畑になってしまったクランクは、女の美しさを思い出して無意識に微笑んでしまっていた。
その目は、見事にリサーナの腰の下に釘付けだ。歩く度に揺れるそこに、歩き方まで変わっていると冷静な分析もしてはいるのだが、どうやら精霊王も煩悩には勝てないらしい。いや、この場合はクランクの気質か。
「生きてく中で出会う全ての人を好きだと言う奴がいたら、それこそ化け物だろうね。人類皆仲良し、にはなれないじゃない? 親とて人。子だって人。子が嫌いになってしまう親が居る様に、親が嫌いな子が居ても不思議じゃないでしょ」
リサーナは、右手に持つ剣の重さに文句を言いながら、両手と全身を使って1本の木を砕いていた。
しかし、これ以上疲れたくないのか、乱雑に剣から手を離す。
「んもう、剣って野蛮すぎて嫌い!」
その仕草の女らしさに、クランクは完全にやられていた。
思わずくすりと噴き出しながら、彼は彼女の元に近付こうとしている。
「ちっ、あの女。俺の剣を乱暴に扱いやがって!」
しかし、瞬きした次に彼の視界に入ったのは、苛立ちながら即座にその剣を拾うサイードで――
「え、サイードいらない! リサーナちゃんでずっといこうよ!」
「へぇ、誰が、誰を、いらないって?」
思わずの失言に慌てて口を塞ぐが、時既に遅し。悪魔は冷笑を携えて、自慢の牙と爪を構えている。
クランクには、オプションとして角と翼も見えていた。
「お、落ち着いて。取り合えず落ち着いて、ね?」
両手を突き出し必死に宥めるも、サイードには何の効果も成さない。
逃げ場は、と探し始める辺り、クランクも残念な子だ。実体化を止めて隠れれば良いのだから。
「……休息を取ったのでは無かったのか」
しかし、そんなクランクに天の助けとばかりに救世主が現れた。
後少しでも腕の力が緩んでしまえば、と手加減無しで振りかざされた剣を奇跡の白羽取りで防いでいた彼は、その声の主に懇願の視線を向ける。
ゼフは呆れて大きな溜息を吐いていたが、そんなことは関係無いと潤んだ瞳で訴え続けた。
「サイード、そんな阿呆に構っている暇はないだろ。体力、精神共にこんなのの為に使うとは、色々と感化されでもして弱くなってきているのか?」
「ちょ、ちょおおお! 風の、ゼフさん? もっとストレートにスマートに助けて頂きたいのですが!?」
やれやれと、何故かサイードの怒りを買うゼフ。そのせいで、眉間から僅か数ミリのところまで剣が迫ってしまったクランク。
サイードは盛大に舌打ちをして、彼等を睨みつけた後に剣を指輪に戻した。
「し、死ぬかと思ったあ」
ほっとしたクランクは、今度は中腰で見事な海老反りを披露しており、腰に大分負担が掛かっていた為にそこを摩りながらゆっくりと立ち上がる。
「切られても、即座に水に戻れば問題無いだろう」
「そーいう問題じゃありません!」
突然の生死の境に、テンションがヒートアップしつつあるクランクだが、ゼフはそうかと軽やかに流すだけであり、サイードなど最早どうでも良いと苛立ちをぶつけながら、我道を突き進んでいる。
「弱くなってるとか、ふざけんな。てめぇの好き嫌いを、人にまで押し付けてくる根暗精霊王のくせによ」
どうやらゼフの挑発がお気に召さなかったようだ。再度剣を出し直して作業を再開する彼だが、乾いた音は乾いた鈍い音へと変化して島を支配する。
それだけじゃない。結構本気で癪に障ったのか、ルシエの魔力が大幅に乱れたのだ。
後方で1人騒いでいるクランクと、それを適当に流していたゼフ。彼等はその瞬間、肌をゾワリと舐められる感覚に襲われた。
今までは、必要最低限使用して乱れていなかった魔力だが、それは感情によって左右される。
行き場のない放出によって、歓喜したのは周囲の物体。木も草も、大地も、失った生に気付かないまま崩れるだけの残骸。帰る土すらも失ったそれ等にとって、魔力はどんな弔いよりも喜ばしいものだった。
まさしく、天に昇れるもの。運良くサイードの近くに生えていた木と草、踏みしめていた大地は、砕けて破片になること無く消えた。
時間を早送りされたように、徐々に枯れ、腐り、分解されて消える。
「……へぇ」
そして、その様子を目撃したサイードの怒りも消えた。
彼は、微笑を携えながら近くにあった大きめの岩へと触れ、今度は故意に魔力を流す。すると、それも砕けるのではなく消滅した。
「成る程な。結局は、魔力が全てってことか」
この島全てに、魔力が無いわけでは無い。全てが、形を保つだけの最低限の魔力しか残っておらず、死の残った島と言う方が正しかったのだろう。もしくは、時の止まった島か。
だから、普通なら極自然な現象である生物の魔力の放出すら無く、ほんの少しの衝撃で砕ける脆さだったのだ。
「ゼフ、クランク」
確かに、弱くなりかけていたかもしれない。サイードは自嘲しながら、同行者2人と向き合った。
彼等は、ルシエの契約精霊である。しかし、その力の行使権はあくまで彼等にあり、魔術師とは精霊に力を借りている者のことだ。
だから、とても便利に思えるその力には制約が多くあり、この世界の人間は全員が魔力を有していながら騎士であったり一般人だったり、魔法に頼りきった文化を築いていない。
今回は、真実にブレンドされた嘘の情報で、その関係を逆手に取られたというわけだ。
名を呼ばれた2人は、サイードを見るも固まって何も言葉を発せられなかった。
彼の身体の周囲は、どんどんと漏れ出る魔力によって揺らめき始める。魔力の枯渇、というのは勿論人間にだって起こり得る。
精霊王2人を実体化させている今、他に回せる魔力にそう余裕は無いはずだった。
しかし、彼等は主の心配が出来ない。させてくれない。
クランクがコクリと唾を呑み込み額から汗を流す横で、ゼフは眉間に皺を寄せて弁解の方法を探す。
そんな2人に月の雫を細めた主は、朗らかに微笑みながら言った。
「そんなに心配しなくて良いよ。サイードもリサーナも、全員、君達の力を借りるつもりは毛頭無いから」
今まで歩く度に聞こえていた乾いた音は、さらさらと再生されて静けさを音にする。
ルシエの威圧感は、サイードの比では無かった。ルシエの怒りを見れば、物に当たり怒鳴り散らすサイードのなんと可愛いことか。
そんな冷静な怒気は、その得体の知れ無さ故に精霊王さえ凍りつかせるのだ。
「サイードが言ったはずなんだけどね。居るなら居るで、都合がいいだけの存在だって」
そうだったでしょう、とゼフの頬に細い指を滑らせながら、ルシエはクランクに向けても微笑む。君は少し深入りしすぎだよ、と彼は釘を刺された。
「やれやれ。どうやら、相手の出方を窺ってばかりで、下手に出すぎていたみたいだね。サイードは、戦闘にだけ集中してくれた方が良いのかもしれない」
クスクスと、駒鳥の囀りのように透き通る声は、乾いた音よりも不気味で陰湿だ。
今日のルシエは、サイードが剣を指輪に戻さずに代わっているから、手に持つそれのせいで尚更悪魔の雰囲気を濃くしている。
柄頭の先で揺れる白と黒の対極な翼。それが奏でるは、悪魔のシンフォニエッタ。
「ヒントは良いよ? それは、どんどん出してくれて構わない。だけどね」
ルシエは、出来の悪い教え子を諭す教師の様に淡々と、ひっそりと、それでいて有無を言わせない圧力を持って、その手にある剣を躊躇無くゼフの肩へと突き刺した。
「っ!? ……ルシ」
「これは、ゲームなんだ」
突然のそれに、何の抵抗も出来なかったゼフ。その所業に言葉を失うクランク。
ルシエはそれでも笑っており、逆手に持つ剣の切っ先は、ゼフの左肩のさらに奥へと進もうとする。
「君たちは、相手の持ち駒だ。もしくは、こちらの潜ませた伏兵。ゲームマスターの意思に反して、盤上を乱すことは許されない」
ゼフが語ったこの島の由縁。それには、ルシエ達の身を案じる個人の感情によって、攻略の活路となる核が奪われていた。
それが、ルシエの言う対戦相手の指示によるものであれば、何の問題も無かったのであろう。しかし、ルシエはゼフの感情によるものだったと判断した。
それは、心配であり相手を想うこそのものだ。だが、受け取る側によって、それもまたまったく違う意味を持つ。
「あまり、嘗めないでくれるかな」
君なら分かってくれると信じているよ、そう言ったルシエはゼフを解放した。
苦しそうな表情の彼が押さえる肩からは、血が一滴も漏れていない。片膝を地面についたゼフに、急いで治癒を施すクランクをルシエは咎めなかった。
「ルシエ、何で急にこんなことするの……」
傷口に添えられたクランクの掌は、淡いスカイブルーの光を灯らせていた。その幻想的な色とは反対に、彼もゼフも表情は暗い。
クランクの思わずの問いに、ルシエは瞬きを繰り返す。理解できないのはクランクの方なのだが、彼の質問がルシエには意味不明だった。
「だって、余計な真似をするから。もしその理由が、試す為だったり騙す為だったり、価値を図るものだったら、寧ろ喜んだのに」
そう言ったルシエの表情には、悪意も何もかもがごっそりと抜け落ちていた。
クランクの唇が慄き震えるのは当然だろう。壊れている、と彼は自身が気に入って着いて来た筈の相手を恐れた。
「それにしても、綺麗な場所だね。苦しくなるほど、ノスタルジックだ」
そんな彼等を置き去りに、ルシエは空っぽの島で嬉しそうだ。
しかし、サイードとは違い、決して砕こうとはしなかった。代わりに、優しく愛でながら魔力を流して終焉を送っている。
クランクは、その違いに疑問を抱いた。彼の瞳が、ひっそりと色を薄くして観察の眼に変化していく。その先では、宿木で休む鳥だった抜け殻を優しく撫でて、消える様子を微笑んで見ているルシエがいる。
「あ……」
「出来れば、一つ一つ見送ってあげたいところだけど、さすがにそれは面倒だからね」
そして、クランクは2つのことに気付いた。
1つは、砕くと消すの違い。それは、恐怖と羨望そのものだ。サイードは終焉を恐れ、ルシエは終わりを望んで歩いている。その矛盾が、行動に現れているのだろう。
さらにもう1つ。お世辞にも、ルシエの魔力容量は、精霊王と契約するのに相応しいとは言えない。
だというのに、2人の精霊王の実体化に加えて治癒、さらには魔力の放出。無駄遣いが出来る余裕は無いはずだ。
彼は、その魔力を良く知っていた。
持ち主の性格を表すが如く荒々しく、傲慢で、自分に嫌悪を遠慮無く伝えてくる正反対の性質を持つもの。
「なんで、陽の魔力を!?」
「さあ、怠惰な海の精霊王を引きずり出してあげよう」
クランクが驚きに声を上げる中、ルシエの髪と瞳が徐々に紅へと変化していく。赤より濃い紅。気高いルビーは煉獄の炎を生み出す。
ルシエを囲うように円を作って燃え盛る炎は、そこから幾つもの手を伸ばして島中へと伸びていった。
「どういうことだよ、風の!」
炎の手は、どんどんと島の中を這って弔いを施しながら精石を探す。あまりの熱気に、ルシエに近付くことが叶わないクランクは、彼に似合わない剣幕でゼフを問い詰めた。
「なんでルシエが、陽の魔力を持ってるの!? 契約は」
「私に怒鳴るな、煩わしい」
肩の痛みから解放されたゼフは立ち上がりながら、そんなクランクの怒鳴り声を遮った。
「じゃあ、説明してよ! なんで止めなかったの! あの高慢ちきが、はい分かりましたとすんなり契約するはず無いって、皆分かってたでしょ!?」
自分より身長の高いゼフの胸倉を掴みながら、クランクは何をそんなに恐れているのか、必死の形相だった。
対するゼフだが、この時ばかりは彼も冷静でいられなかったのだろう。その腕を払うどころか、負けじとクランクの胸倉を掴んで対抗する。
「私が解放された際には、とっくに陽との契約は済まされていた!」
そして、至極最もな反論をした。
しかし、何故そんなにも白熱するのだろう。当の本人は、彼等を全く気にせず島を本当の姿へと変える作業に没頭していた。
「だとしても、使わないようにするくらい出来た筈でしょ!?」
「勝手な! ……貴様はいつだって、肝心な部分を見ていない。わざと見ないように動いているのか?」
陽との契約も、ルシエが生死の境を彷徨っていた時も。ゼフは、まるで弱者を蔑むようにクランクを睨む。
それにしても、世界を担う精霊王同士の衝突は、意外にも地味なようだ。若者同士の取っ組み合いの喧嘩と何ら変わらない。その内容が些かシビアなのも、逆に緊迫感を殺ぐ気がするのは気のせいだろうか。
「そんなつもりは全く無いよ! 俺は俺なりに……くそっ」
クランクは言い負かされて、悔しそうに腕を解いた。その眦には、薄っすらと涙が。それを見たゼフは、その軟弱さに舌打ちで嫌悪を示す。
「駒なんかじゃ、ないのに」
しかし、クランクがぽつりと零した言葉に、思わず殴りかけた拳が止まった。
そんなゼフの表情も、苦しそうで悲しそうで、彼等もしっかり個々を生きているのだと訴えている。
「私達は、守れなかった敗者だ。今更、名乗りを挙げたところで、ルシエは一蹴りするだけだろう」
「だけど、流石にこれは酷すぎる! あの子は、本当は関係無い被害者でしょ!?」
「だったら! お前が説明するのだな。私はこれ以上、アイツの怒りを買う真似は出来ない」
何やら、深く根付いた何かがありそうな会話。
傍観に徹すると言うゼフに、クランクは唖然と唇を震わせながらせっかく離した胸倉を再度掴んで叫んだ。
「どうしてっ!」
「気付いていると言われたく無いからだ!」
今度こそ、ゼフはクランクを突き飛ばした。
肩で息をし、顔の近くで両手を震わせるゼフ。彼もどこか泣きそうで、その姿は人と何ら変わらない。
――君達の奥底に潜む真実に、微笑む者はいるのかい?
ああ、もしこの時、この問いを投げかけることが出来たなら。そうすればきっと、結末は変わっていたことだろう。
「気付かない振りをされることが、どれだけ侘しいのか私達は知っている。だが、私は、それを突き付けられるのさえ、惨烈なのだ」
「……自分の気持ちを全て、相手も返してくれることなんて、ないのに」
「分かっている! そんなこと、貴様に言われずとも忌々しい程にな!」
揺れる翡翠。戸惑う空。クランクは、こんなにも悲愴な風の精霊王を初めて見た。
彼の中でゼフは、常に冷酷で冷静で、自分の痛みなど虫けら以下だと笑っているのだと思っていた。
しかし、そんな最強が、何ら違いなく後悔して嘆いている。彼は、自分たちは大馬鹿者だと、心の中で笑った。
「ルシエ!」
そしてそれは、彼の中で勇気に変わる。
嫌われても良い。消されたって構わない。その代わり、どれ程その身が愚かなのか、彼は伝えようと思う。
「今すぐ陽の力を使うのをやめるんだ!」
クランクの叫びは、島の殆どをあるべき姿へと戻し、行き場を失った命の残骸を昇華させたルシエに届くのだろうか。
島は、辛うじて生き残っていた大地を残し、平野へと変貌して彼等の四方を海で囲っていた。