ノスタルジア
「子供、なんだろ」
「……ルシエをお願いしたんだけどねぇ」
クランクの希望空しく、サイードはサイードのままであった。
のっそりと起き上がった彼は、右膝を立て右肘を乗せて剣呑にクランクを睨む。
幾度も剣を交え、生死を感じてきた結果、その鋭さは確かに強烈だった。まるで、研ぎに研いだ名刀のように。まるで、誰もを拒絶する絶対不可侵の結界を作り出すが如く。
しかしクランクは、それ以上に悲しかった。
そこまで彼等を駆り立ててしまう何かと、そうさせてしまった切っ掛けに対して、目の前に自身の無力さを提示されたかのような色を宿してサイードを見る。
「海の王がお前の言った通りであれば、相手は子供だ」
「しかも、そこに食い付くんだ」
疲れているのだろう。サイードは眠たそうに時折目を閉じて、無意識に浅い息を何度も吐いた。
それを申し訳なく思いつつ、クランクはこんなチャンスは2度とこないだろうと、彼等と1対1で向き合いたいと願う。
「真実、知りたくないの?」
クランクは、知りたかったのだ。彼は、誰よりも人の傍に居る。立場も思考も、全てに於いて。だからこそ、どうしても納得がいかない。
人の性格は、生まれついたものよりも置かれた環境が大きく影響する。それは人間だけじゃなく、犬や猫にしても同じ。
ゼフは大した問題だと思っていないだろうが、ルシエ達の価値観の元に気付かなければならないと、クランクの心は切実に訴えてくる。
しかし、それを覗くには、こちらも曝け出さなければ微塵も警戒は緩まないだろう。
だから、彼は揺らがせる為にそう持ち出した。
睡眠の邪魔を怒るでもなく黙ってクランクの言葉を聞いていたサイードは、そんなに言いたいのかと呆れながら、伏せていた瞳を開きそれに合わせて口角も上げていく。
そこには、躍動する煌きがあった。かかる銀も相まって、まるで月が零した雫のようだとクランクは感じた。
「俺達の苦労を、無駄にするって言うのか」
その時、サイードの瞳に宿ったのは、愚かしさを愛する感情というのが一番相応しいかもしれない。もしくは、ノックをしようとも扉は決して開かないという表明か。
それでもクランクは引けないのだが、彼は分かっているのだろうか。真実、と言っている時点で、現在に偽りがあると明かしている事を。
「俺はね、人形劇を見ても楽しいと思えないんだ」
さらり、さらりと空が揺れる。髪も瞳も、爪まで彼は空色だった。
それをサイードに向けて伸ばしたところで、月を掴む事は叶わない。零した雫さえ、受け止められない。
分かっていながら、クランクは言った――知りたい、と。
「何を」
「君の、歴史」
彼等は、ここまで直球な誰かに出会った事が無かった。しかもサイードは、特にこうやって踏み込んでくる無法者を嫌う。
だからこそゼフが心地良く、だからこそヒントを与えようと思うのだ。それをどう処理するか、観察するのが楽しいから。
しかし、アピスに来てから短期間で様々な事柄と遭遇し、様々な心情と対面してきた彼等。
人はそう簡単には変われない。されど、見解とは常に変動していくものだ。
サイードは最近、その中でも大きな分岐点を向かえている。
真っ直ぐ真摯に向かってくる空に、月の雫は触れることを許した。掠る程度、ほんの少しだけ。
「俺の歴史、ねぇ。……つっても、陽の国から語れば良いか?」
「笑えない。言っておくけど、こう見えて俺は真剣なんだよ」
「ははっ、垂れ目ってのも困りもんだな。緊張感がまるでない」
三日月を真似る空に、サイードは髪をかき上げながら笑った。
「なら、もっと分かりやすく言うね。河内紗那の歴史が、俺は知りたい」
「俺達は、確かにそいつを元に生まれたが、本人はとっくに消えてなくなってるぞ」
もし、今のサイードを見て、丸くなったと感じる者がいたとしたら、それは完璧に彼に騙されているということになる。
覚えているだろうか。サイードがサイードになった時、彼は奪う者と定められた。
それは何も、命や物だけでは無い。心、も当てはまるのだ――ただし、この場合は奪うというよりも惑わすと言った方が正しいのかもしれないが。
「捨てた、ということ?」
「あぁ」
しかし、クランクには、サイードの仕草全てが本物に見えていた。
彼は幾多もの人の感情に触れてきた。だから、好きであり嫌いとなっている。
ただ、それは睥睨しているとも感じられることで、誰をも理解できると思っているのであれば傲慢でしかない。
「だったら、俺が拾うよ。それなら、文句無いでしょ」
それでも、クランクはそう言った。
それに対してサイードが零した失笑は、一体何を含んでいるのだろう。
歴史は、学ばせてはくれど教えはしない。そこにあるのは、事実と欺瞞に満ちた声や言葉の集合体。
彼は、その中から掴み取ることが出来るのだろうか。
「仕方が無いな。後で、つまらないとか文句垂れるなよ」
そのものであるクランクにさえ癒しも腐敗も及ぶのだと、彼は結末になってやっと知るのだが、それはずっと先の話。
そしてこれは、ルシエ達にとっての敵へと向けられた最も大きなチャンスだったのだが、君は気付けるだろうか。
思い出す為、月は瞼の裏に隠れた。一言も聞き漏らすまいと真剣な空に、月の光に染まった雲で紡がれた糸が揺れる。ゆらゆらと、それは猫がじゃれるよう誘ってくるかのように。
「……雨ばかりの、憂鬱な季節だ」
サイードが語り出した瞬間、乾いた音さえ黙ったのだった。
河内紗那。彼女は、梅雨真っ盛りの湿った日に産声を上げた。
標準体重、母子共に健康。何の問題も、特筆するものも無い普通の赤子であった。
そして、その成長過程にも、これといって特別なものは何も無い。周りと同じように立つことを覚え、言葉を覚え、成長していく。
しかし、平凡な彼女の両親が、周りとは少し違った価値観を持った人間であったのは確かだ。
2人は極々一般的に、恋愛結婚の末に彼女を生み落とした。
彼等は、夫婦二人三脚で会社を経営する者であった。
それは、別に可笑しい事では無いだろう。確かに平均以上の収入を得る富裕層の人間ではあったが、それは違いにはならない。
彼女に影響を及ぼしたのは、彼等が特別を好む人種であった点だ。
平凡は劣等、秀でることが優等。つまり、彼等は自分達が勝ち組みで、尚且つ優秀で、だからこそ、そんな親を持つ娘もまたそうでなくてはならないと考えていた。
それにより彼女は、同年代の子供達が泥に汚れて遊ぶ時間、教科書片手に机に座り、遊ぶ事が仕事だと集団行動を学ぶ時期に、様々な知識だけを詰め込まれる幼少期を過ごすこととなる。
だが、それもまた、彼女のみが特別変わった人生を歩んでいることにはならない。
確かに、平凡とは言い難い環境ではあったが、言ってしまえば余裕のある暮らしの代償でもあるからだ。
同じような境遇を持った子供は、地球にもアピスにも数多存在するはずである。
人には、得意不得意がある。人だけでは無いが、生態としてではなく社会で生きる上でもそれは出てくる。
言語に長けるが、数字に疎い。料理は美味いが、掃除が苦手。千差万別種類があるものだが、何か1つでも不得意だったら劣等とはならないことぐらい、わざわざ説明しなくても大丈夫だろう。こんなこと、言葉にする必要を感じない程当然のことだ。
河内紗那。彼女にとって不運だったのは、両親が数字でしか優等を認められない事にあった。
そう、テストの点数。成績だ。
彼等の子供は、決して劣等では無かったはずである。そもそも、子供にも大人にも、そんなものがあるのだろうか。
この問題を考えはじめれば、話が逸れてしまうこと確実なので無視するが、彼女は残念ながら興味ある分野には存分に力を発揮できたが、その反面、湧かなければ悲しい程に無関心となる性質だった。
それ故、成績はどうしても平均から抜き出ることが出来なかった。
ある意味素直すぎて、不器用だったのかもしれない。
それでも、両親は諦めずに様々な手段で教育を施す。しかし、どちらにとっても残念な事に成果は出なかった。
そして、そんな親子にとうとう終焉は訪れた。彼女の両親は、完璧に彼女を諦めたのだ。
馬鹿な話である。成績が良ければ、未来の可能性は広がるかもしれない。
しかし、悪ければ生きていけないと、自らの子供でいる資格は無いと何故言えよう。
河内紗那。彼女が親と最後に過ごしたのは、小学3年生の社会の小テストが返却された晩だった。
それ以降、彼女は食事を自分で用意して独りで取ることとなり、行事も常に独りで出席することになる。
卒業式も、入学式も、運動会が体育祭に変わるまで成長しても、ずっと、ずっと。
「お金は出してくれてたし、捨てられたわけじゃないから良いよ」
これは、彼女がいつか零していた言葉だ。
しかし、家を追い出されないから捨てられていないと言えるだろうか。
社会的に禁忌として、非難の対象になるからそうはならなかっただけで、彼女は法律に触れない姑息な方法で見捨てられたのではないか。
思うのだ。確かに、虐待というには些か大袈裟なのかもしれない。しかし、嫌われているで済ますには無理があり、当てはめるなら無関心。
それが物事であれば、幾らでも感じて構わないだろう。しかし、人に対してその感情は憎しみよりも残酷で、愛より軽やかで。言葉よりも隙間無くびっしりと、存在を否定してしまう。
それでも、彼女は笑って言ったのだ。
「でも、それが今の私を作っているから。私が私を好きなんだから、それで良いでしょ?」
返す言葉が見つからなかった。本人が良いと言うのであれば、彼女以外が評価しては駄目なのだろう。
しかし、それまでの間に、普通に愛らしく普通に笑う子供だった彼女は表情を欠いて、捻くれ者と言われて他者と中々相容れない人物になってしまっている。
そうさせたのに、少なからず育った環境は影響しているだろう。もっと、他者に好かれる者になれたはずなのだ。
「仮に、人に好かれる性格だったとして。それで、私が私を好きと言えなければ価値は無い。だから私は、満足してる。好きと言えている間は、今の私のままで構わないよ」
そして彼女は、興味は無いと読書に励むのだった。
河内紗那。彼女はそういった人物に成長した。
それが、彼女の簡単な歴史である。哀れで、平凡で。捻くれる理由にはなれど、世界を捨てて幾つもの命を軽やかに奪える心の要素にはならない歴史。
「そうして、オリジナルは神の試練によって捻くれ度を増した後、俺達を作って消えたのでした。めでたし、めでたし」
時間にして、20分程。
本人にとってはつまらない話を語り終えたサイードは、大きな欠伸で締めくくった。
世界を捨てた捻くれ者の結末は、あまりに呆気なくあまりに簡潔。
聞き終えたクランクの表情は、俯いていて分からない。しかし、納得していないのだけは確かだろう。
彼が知りたいのは、あくまで歴史だ。これだと、ただの生い立ちでしかない。
そんなものから、どうやって学べと言うのだろうか。どこに、彼等の動力源があると言うのか。
「……空っぽじゃん」
しかし、サイードは月を隠したままで面白そうに笑っていて、ぽつりと落とされた言葉でさらにそれを増す。
空色の髪は、まるで山奥で静かに流れる小川のせせらぎのように揺れながら、クランクの表情を隠し続けた。
「彼女は、綺麗な言葉で飾るだけで、まるで空っぽだよ」
人に好かれるには、まず自分を好きでなくては。自分で自分が嫌いなのに、人が好きになってくれるわけが無い――よくある言葉だ。
でも、とクランクは思う。
「自分が好きだから、それで良いってわけでもないでしょ」
クランクとて、精石を壊す上で、人と争うのは避けられないことだと重々理解しており、さらにルシエが人を殺さないといけない理由も知っている。
地球とアピスは天秤に乗った関係だ。それには、命の数も含まれている。
アピスで減少し続けてきた精霊は、確かに命である。しかし、命の前に成分なのだ。
崩れてしまったバランスの影響を身代わりの如く受けた地球。相次いだ災害で、まさか猫の子一匹死んではいないと思えるだろうか。
救世主なのに悪。なにもそれは、精石を破壊するからだけでは無かった。本人には不本意かもしれないが、人を救う為に人を殺すことも含まれている。
だから、クランクはそれを責めることは出来ない。
だからこそ、彼はルシエ達の動力源を知りたい。
精霊王云々を抜きに、快楽主義者に救われる世界だと皮肉を笑わなくて済むように。
「俺に言われてもな」
「だって、そんなことで、そんな人生が、君たちの根本になるとは到底思えないじゃん」
それに対しサイードは、英雄だって昔は荒くれ者だったりするだろと笑うのだった。
精霊王が、世界の為に生きているわけでは無いのと同じように、切っ掛けとは些細なもので十分なのだと。
「でも、空っぽか……なるほどねぇ」
サイードは、今度は声を出しながら笑った。くつくつと、クランクの感想を嬉しそうに反復する。
項垂れていたクランクは、怒らせたかとヒヤリとするも、その反応に違和感を感じてやっと顔を上げた。
「俺は、この島を縮図だと言ったが、ルシエは違った」
乾いた音は、いつの間にか元通り耳を刺激している。近くの石を拾ったサイードは、わざとそれを砕き、どういうことかと見つめてくるクランクに首を傾げながら告げた。
「なつかしい、ってさ」
ふとした仕草がやっぱりどこか男らしくない、と関係無い事を頭に浮かべながら、クランクはそれを受け取った。
途端、彼の頬にサイードには決して流れることのない月の雫が伝う。
突然の反応に驚いたのは、サイードである。ぎょっとして、思わず身を引いていた。
罪悪感とか、そういったものからくる反応では無く、心の底からひいたのだ。
「お前なぁ、まじで意味がわかんねぇ。ルシエが良いなら、あいつが出てくる時にだけお前も実体化しろよ」
やりにくいったらありゃしねぇ、とぼやくだけで慰めようとしないサイードに、クランクは頭を振るだけで言葉を発しなかった。
彼は何を想い涙したのだろう。
罪の重さに対し、痛める心があまりに少ない事実に打ちのめされたのか。たったそれだけで、この大役を引き受けてしまったのかと浅はかさを嘆いているのか。感じる心を培えてない幼さを、悲観しているのか。
――この子達は、愛を知らないのだ。
それが、クランクの結論であった。
さめざめと、彼の涙は止まらない。自分を見つめながら黙って泣かれる、というある種の拷問を余儀なくされたサイードは、深く嘆息して立ち上がる。
その際、下に敷いていたマントを手に取って、容赦なくそれをクランクの顔目掛けて投げつけた。
「うぶっ」
「あー、もー、ほんと調子狂う。お前さ、俺が馬鹿正直に……素直に、一から十まで全部話したと思ってるのか?」
奇妙な声をあげるクランクを無視し、さらに彼の背中に足を乗せて身体を地面につけさせたサイードは、足元で聞こえてくる悲鳴を完全に無視している。
可哀想なクランクは、くぐもった悲鳴が高くなる毎に背中にかかる体重が増していることに気付いていなかった。
「河内紗那はな、分かってたんだよ。気付いていた」
「ぶ、うふー!」
とりあえず足を退けて、と叫ぶも、マントのせいで残念ながら意味が通じない。嬉々と、分かっていながらサイードは、何言ってるか分からないとすっ呆けた。
「少なくとも、どうやったら親に見捨てられなかったか。どうやったら、ごっこ遊びが続けられるか分かってた。あの女は、自分本位な親に振り回されている風を装って、上手い事立ち回ってただけの捻くれ者に過ぎない」
声色は楽しそうだったが、そこには恨みにも似たものを感じる。誰に対してかは分からないが、言葉にすることがまるで許されないかのようだ。
大それた何かを望んでいたわけではなかった、と空耳が聞こえた。
「お前が、俺等に後ろめたい何かを持っているにせよ、この罪は俺等だけのものだ。例えこの世界に来た当初は、まだオリジナルが残っていたとしても。そのオリジナルが、そこら辺にいる極々平凡な女だったとしてもな」
「え、じゃあ陽の精石は」
「そん時はとっくに俺だ」
ダメージによってか、次第に抵抗が薄まってきていた足元の物体を気にかけず、さらに独り言を続けていたサイードだが、さらりと言われた重要な事をクランクは聞き逃さなかった。
慌てて身体を起こそうとしたが、非道にも足の力を緩めなかったサイードのせいで、中々に美しい海老反りを披露することとなったクランク。
意外に身体が柔らかいんだなと噴き出すサイードに、彼は笑えなかった。
「でも、この世界で一番最初に殺しをしたのは、俺でもルシエでも無い。あの女なのは、嘘偽りの無い真実だ」
「……なんで、一番最初に俺を解放してくれなかったのさ」
「さあね。ま、そもそも、こうやって俺等を生み出した時点で狂ってるってことだろ? 環境が内面を作るのは確かだろうが、良い人が実は殺人鬼でしたってのはどんな世界でもザラにあることだ」
周囲も本人も、気付いていなかっただけで。
現在、デルの想定通りに難易度の順に精石を壊していくこととなり、今更理由を説明する必要は無いとはぐらかしたサイードに、それでも俺が最初だったらと力尽きながら零すクランク。
そんな彼に、サイードは冷たく吐き捨てるのだった。
「現実は誰にも微笑まないんだよ。良い勉強になっただろ? 精霊王様」