1人の騎士の結末
まるでそれが当然かのように、定めかのように、ルシエは言い放った。
さらに、それだけでは終わらない。
「飛び、舞い、踊り。さながら妖精の如く」
「ルシ、エ?」
ゼフが戸惑いの声をかける中、指をそっと唇に当て、表情を変える事無く詠唱を始める。
レイス達は途端、我に返るのだが、矢が放たれても意に介さずルシエは動かない。
尋常ではない魔力が凝縮された気配がし、当たりそうな矢は全て人為的な風が方向を変える。
目的も、覚悟すらも呑み込んだルシエの狂喜。何も映さない瞳は、それでも逃がしはしないと希望と退路を奪っていた。故に、無駄だとわかりつつ矢を放つしか出来ない。
大地の純血種であった女騎士が私では無いと叫び、彼等は四方を突然せり上がってきた土の壁で囲まれている。
それは、大地の精霊である内気な技師がルシエの願いにより作り出したもので、いくら純血種といえど、活路を見出すことが出来ないものだった。
「翼、尾、爪。それは火炎に身を捧げた証」
通常と違い、一文では終わらない詠唱。隙は大きくなってしまうが、その分威力も通常とは段違いなのだろう。ルシエの全身を淡い赤の光が覆っていく。
まず、バサリと背中から翼が生まれた。天使の翼に似て美しく非現実的で、次には竜のように太くしなやかな尾が現れる。そうして最後に、ルシエが唇に添えていた指を離して腕を下ろせば、両手から足まで達する長い爪が。全て炎で形成され、周囲の空気が揺れていることから、相当な温度だということが窺えた。
「陽は照らし、火は祓い。それが形と成りし時、陽は眩ませ、火は滅する」
その姿は美しいとしか言えず、赤い瞳と腰まで伸びた髪が見事に調和していた。
「赤く、紅く、朱く。我を飾れ。さすれば、望みの宴が始まる」
ルシエが瞳を伏せ、魔法は完成した。
しかし、それは幸福をもたらしてくれる天使の歌では無い。姿だけはそうかもしれないが、その者の本質を表す瞳が違う。
果たして、悪魔か死神か。
「陽の……」
呆然と見守っていたゼフは、思わず呟いてしまったのだろう。最早、今のルシエの姿は人とは言えない。今にも自身の炎に呑まれてしまいそうなほど、精霊側に近かった。
「ねぇ、助けて欲しい? ……救われたいのですか?」
粗末な土で出来た鳥籠の上から、無機質な声が人々へと降り注いだ。すると中からは、必死で醜い縋るさえずりが、いくつもいくつも返ってくる。
ルシエはやっと表情を変え、しかも、慈愛に満ちて朗らかな笑みを浮かべるのだが、ただ一人、レイスだけが引き締めた顔をして生気に満ち溢れていた。
人は死を恐れ、懼れ、畏れ。終わりだと嘆く。しかし、人が最も力を発揮するのは、それを強く感じた時だ。
だからルシエは、生を踏みにじり虐げれば、更なる場所に進めるはずだと信じてやまない。
「その先にあるのは、きっと」
光の戻った瞳でレイスと向き合い、ルシエは答えた。
「良いでしょう。助けてあげます」
――君の覚悟を踏みにじる形でね。
それからはあっという間であった。
バサリと背中の翼を羽ばたかせたルシエは、籠の中の鳥達の望みを叶える為に飛んだ。悠々と、楽々と。
悲鳴と怒号と断末魔が奏でる円舞曲で、次々に相手を代えながら華麗に踊る。ステップを踏むたびに翼が、尾が、爪が人々の身体を掠め灰にしていく。
「悪魔め! 人の心を弄べるだけ弄び、そうして魂を喰らうのだな!」
「いやですね、助けてと言ったのはそちらでしょう?」
次第に敵は、肉体での抵抗を諦めて罵倒を盾に対抗する。当然、大したものにはならないが、それ以前に絶望が心を壊していくのだった。
ルシエは、まるで赤子の相手をするように、柔らかく暖かく「許してと助けてと言ったから、自分に利益が無くても珍しく従ってあげているんだよ」と言う。
これは、ルシエなりの礼らしい。自惚れを戒めてくれた敵に対する、自分に出来る最高の謝礼。
「これのどこがっ!」
思わずレイスが叫べば、恍惚とした視線が彼に注がれた。
「死ねばもう、怖がらないで済むでしょう? 痛い思いをしなくて良いんですよ」
「なっ……」
絶句。空しい音と共に、レイスそのものでもある剣が地に落ちた。
「生きる苦しみから、助けてるんです」
追い討ちをかける言葉で、レイスが瞳を大きく厚い手で覆う。それでも、耳からは失われる生の最後の訴えが止まらない。
一人、また一人と救いを施されていく中、レイスに出来ることは何も無かった。
「貴女には特別な、一層の感謝を」
「や、やめて! 娘が、夫が待っているの!」
胸に宿った清い騎士道からついてきてくれていた大地の純血種である女騎士の声が、一際胸を抉った。
切実な訴えすら、ルシエは「所詮、他人でしょう?」と残酷な言葉で返すのだから、最早これは一方的な虐殺だ。
お姫様にしたように、それ以上の美しい光景を作り出しながらルシエが跪いて女騎士の手の甲にキスを落とせば、彼女は灰となって風に浚われた。
後に残るのは静寂。本当に微か、レイスの喉の震える音が止まらない時を教えてくる。
ルシエは土の壁を平らな大地に戻し、恐ろしい光景を作った魔法を消した。
翼も尾も、爪も煙となって跡形もなくなり、立ち上がってレイスへと近寄る。
「泣いてるのですか?」
膝をつき拳を地に叩きつけたレイス。それを、歩み寄りながら不思議そうに眺めるルシエ。
お姫様の命を陥れて、ついてきてくれた者を犠牲にしてまで望んだレイスの結末は、あまりにも残酷であった。
「……貴様は」
「はい?」
レイスを待っているのもきっと、肉体すら奪う絶望であろう。そんな彼が出来るのは、残っているのは、今まで培ってきた剣の腕では無い。――言葉であった。
小さすぎた呟きが聴き取れず、首を傾げたルシエに真っ直ぐ向けられた瞳は、とても輝いていた。
「君の! 君の、元居た世界は、皆、そのように生きているのか」
突然の質問に、ルシエは遠い地球を想った。
魔法など無い世界。今ではあちらの方が幻想になりつつある。
科学の発達した世界。この世界が同じような発展を遂げることはあるのだろうか。
空はどちらも同じ。ただ、夜の輝きは若干差がある。
愛しそうに目を細めたルシエに、レイスは気付かなかった。
「皆、必死に生き、理想を抱き、日々を乗り越えている。それを、こんな塵のように扱うのが、当たり前であっていいわけがない! いくら精霊の為だとしても、同じ人間にこんな仕打ちが出来るはずがないだろう!?」
「つまり、人間じゃないと言いたいのでしょうか」
「そうだ!」
大の男が泣く姿など、平時であれば情けなく思えることだろう。しかし、ルシエはその涙が美しく見えた。
反対に、頭の隅でサイードが鼻で笑う。
結果、二つの感情が混ざって苦笑を携えながら、レイスが落とした剣を足で蹴って遠ざけて、ゆっくりとしゃがんで目線を合わせる。その動作で傷が疼いたのか、チラリと視線を肩に送っていた。
「残念ですが元の世界は……、居た国はですけど、剣など持つ必要の無いここより何倍も平和な場所でした。人の死を見る機会はあまり無かったですし、仕方無く殺すなんてこともまずあり得ない。禁忌とも言える程です」
だから、当たり前ではないと片膝を立て、腕を置きながら言う。流れ続けるレイスの涙が、もう片方の傷の響く左手で掬われて、ルシエの指を飾った。
「だったら!」
「貴方の言う人間の定義とは、一体どのようなものなのかな」
何故そのような事が出来るのかという質問は、まるで誤魔化すように問われることで阻まれ、次元の違いすぎる話題に涙が止まる。
不気味な静寂である。土の槍は幾らか形は崩せどそのまま、死体がぶら下がった状態で。残りは全て、灰となって空気中に消えてしまったが、地面に残った僅かなそれは、つい先ほどまで息をし、動き、感情を持っていた。
そんな場所で、二人はまるでカップルが星を眺めながら未来を語り合っているようだった。
「殺す行為に何も感じない。弄び、踏みにじることを平気でする。それが人間じゃないと言うのであれば、確かに否定は出来ません。しかし、皮膚が裂けて血管が破れれば、貴方と同じ成分で色をした血液が流れますし、身体の構造も一緒です。間違いなく、人間ですよ」
肩を指差して示せば、レイスが大きく頭を振った。そういう意味ではないと、言葉が上手く通じないことに驚きながらだ。
勿論、ルシエも何を言いたいのか分かっていないわけではないが、だからどうしたと思うだけ。それこそ、ウィーネ杯でサイードが抱いたものと変わらない。
「私が言いたいのは心だ。人間が人たる上で最も重要な、精神だ」
「へぇ……。では、それは誰が決めたのでしょう。目に見えない、形すら無い。同じものが一つとしてないのだから、定めることは出来ないでしょう」
「君にも父上や母上がいて、温もりを与えられ、そして優しさを知り。支え、助け合って生きてきたはずだ。生かされているはずだ!」
噛み合っているのかいないのか、段々と微妙になってきているのだが、必死なレイスは気付かない。
その姿を眺めつつ、だからこそ心は形を望まなかったのかもしれないとルシエは思った。
器官の一つとして存在してしまえば、壊れたら最後、消えてしまう危険が生まれる。手を加える事が可能になるかもしれない。それを恐れたから、心は目に見えないものであることにした。
そうすれば、壊れても直せるかもしれない。定まっていないから、自由に変化ができる。ただ、それにもデメリットはあって、こうして自分の様な存在が出来てしまったのだと。
少しロマンチックすぎたと、思わず笑いかけてしまったルシエに、理解してくれないのかともどかしさを感じてしまったのか、レイスが突然上体を起こし細い肩を掴んだ。
予想外の、しかも傷のある部分を容赦なく掴まれたことで、抑える余裕も無くルシエは思わず呻くのだが、レイスは構わず叫ぶ。
「友や、家族がいるだろう!? 皆、一人では生きていけないんだ!」
つまり、レイスは良心を持てと言うのだろう。慈悲や尊重、手を取り合って生きていけと。
アピスの人々の要である精石の破壊という責務を負っているルシエ。確かに、もっと穏便で犠牲の少ない方法がいくらでもあることだろう。
それは、本人だって気付いているし、その上でこの道を選択している。
だから、この質問にあえて言葉通り答えるとすれば、残念ながらレイスの期待には応えられない。
「いませんよ」
「……は?」
そう、ルシエにもサイードにも、リサーナであれいないのだ。
アピスで出会った人物なら、レイスも含めて何人もいる。ただ、お姫様でさえ便宜上戦友としただけで、本来の意味では共に戦った他人。
「貴方は、何度も惜しいところまで近付くくせに、最後で選択を間違ってしまうのでしょうね。姫様然り、ウィーネ杯でのサイードとの試合然り、リサーナ然り」
ペットを愛でるように笑ったルシエの前では、レイスが目を見開いていた。
リサーナという少女は、覚えたのが最近だというのもあるが、忘れようにも忘れられない存在。情け無い結果を導いた部下を全力で叱責した後に待っていたのは、元上司からの厳しい説教と呆れだった。
まさか、あれさえも目の前の者だったとは、その影の大きさにレイスは絶句した。
「全て、ぜーんぶ、この世界で作ったモノです。親も、友人も、恋人だっていない」
そもそも作る気さえ無いのだと、語らずともレイスは察した。ただ、彼が知らないのは、地球でさえそういった存在とほぼ無縁の暮らしを目の前の者がしてきたということだ。アピスに来た理由が、人生のやり直しであれば違うかもしれないが、ルシエの内面を知っていれば、それでさえ自信満々で後押し出来無かったりする。
「そういうことじゃ……」
結局、どうやったって二人は――サイードも含めて三人は、水と油で反発するしか出来ないのかもしれない。
ルシエの中に、一人相撲、空回り、そういった意味の単語が浮かんだ。
「でもまあ、これでも一応、良心や優しさは存在するんですよ? それがただ、他とズレているだけだと思います」
そのズレがそもそもおかしすぎるのだという訴えは、レイスの背中で生まれた気配によって言葉にさえ出来なかった。
「ゼフ、我慢してくれてありがとう。最後にさ、レイスを抑えてて欲しい。それが終われば、当分君の言う事を素直に従うから」
「……絶対だぞ」
レイスが反応するよりも先に、まずルシエが立ち上がって背後に降り立ったゼフに声を掛ける。
ゼフは、今の今まで黙って成り行きを見守ってくれてはいたが、纏う空気は怒気しか無い。にこやかなルシエと正反対な彼は、足下で転がるレイスをぞんざいな扱いで立ち上がらせ、後ろから羽交い絞めにした。
「抵抗する気は!」
「するよ」
死はとっくに覚悟していた。一層、清々しささえある。そんな自分に暴れる意志は無いと訴えかけたレイスであったが、目線の少し下にいるルシエは、今までと打って変わって怪しい笑みを浮かべていた。
「絶対に、抵抗するよ」
残虐さが増した時、その口調が子供染みたものに変わったていたことを、忘れかけた恐怖と共に思い出す。
飄々として掴み所の無いサイード。礼儀正しく平凡な少女リサーナ。柔らかな空気を纏いながら、無邪気で非道なルシエ。
レイスはゼフよりも、アピスで誰よりも、その多面性を見た人物だ。どれが素顔かという疑問は、とっくに通り越していた。
「そうか、君は……」
そして、レイスは気付く。ゼフが背後で訝しむが、その先を言葉にしては駄目だとレイスは思った。
「私も、君のようになれれば、叶ったのだろうか」
「ふふ、馬鹿だね。叶うんじゃない、達成だよ。そして、その先で得るものは何も無い。失う為に歩くからこそ、どうとでもなれるのさ」
朗らかな笑顔と、引きつった笑顔。水と油は溶け合えないが、水が上昇し油が下降することで、同じ器に存在できる。そこに炎が生じれば、高まる温度に反発するしかないが、冷えていればなんて事は無かった。
「……あ、忘れていたよ」
と、そこで、ルシエが突然声を上げてレイスに詰め寄った。静まりかけた感情が一気に危険を高めて、ぎょっとするレイスを他所に、ルシエは遠慮なく瞳を覗きこむ。
「異世界から来たって事と、女だってこと、誰に明かした?」
本当に、忘れかけていたのだろう。しっかりしてくれと、ゼフが気付かれないように溜息を吐き、逆にレイスは、ここではぐらかした場合、何をされるのか敏感に察知して慌てて首を振る。
「誰にも、誰にも明かしてはいなかった! 嘘ではない!」
人は嘘を吐く時、視線がほんの僅かに左に逸れる傾向がある。それが嘘だと認めているだけ分かりやすく。だから、バレない嘘吐きは、全てを塗り固めるのではなく、真実を絶妙な割合で混ぜるのだ。
「素直が一番だ」
レイスの言葉が真実だと判断したルシエは、そうして長ったらしく不自然な前置きを終えた。ここからがやっと、お楽しみの始まりである。
ルシエは、レイスが諦めと喪失感を抱えながら、解放感でも満たされていると気付いていた。そもそも、レイスとルシエの救いについての概念と価値観には大きな違いがある。
「ほんと、馬鹿だね。死にたく無いと泣いた者を生から助け、死を受け入れている者に同じことをするとでも思った?」
「……だったら、何を」
それ以外に何をするのだと理解できないレイスであったが、傷を厭わず左手で自分の額に触れてきた時のルシエの表情で、とてつもなく恐ろしいことが起こるというのだけ分かった。
まるで、新しい玩具を買い与えて貰えた子供のような嬉々とした顔。蕩けそうな美しい天使の笑みは、悪魔の宣告。
時間よ止まれと願ってしまう自分を、精霊王は赦してくれるだろうか。レイスは、意味も無く思った。その背中に居る者が本人であるのだから、皮肉で哀れである。
「後悔、してるんだよね。姫様を裏切ったことや、仲間を犠牲にしたこと。その罪悪感に押し潰されそうで、だけど許されたくは無い。他の何を貶されてもいいから、そういった件に関しては、許されないことを望んでいるんでしょう? そして、死ぬことで、最大限償おうとしている。……違うかい?」
「ま、さか。やめろ! やめてくれ!」
一言一言が、レイスの表情を真っ青に変化させていった。そして彼は、ルシエの予想通り、みっとも無く情けなく抵抗を始める。
しかし、おかしなことに、死の恐怖のものとは全く違っていた。
「ほら、抵抗した。あは! だからそれから助けてあげるよ」
今更足掻いたところでどうにもならないと、ゼフの拘束の力が絶望へと追い遣る。
今更生きようとしたところでそれを許すつもりは無いと、ルシエがはしゃぐ。
「あ、そうそう。ちなみに、優しさなんだけどさ」
何時そうされるのかという恐怖と、それ自体への恐怖がせめぎ合う中、まるでレイスの反応を堪能するかの如く、ルシエは言う。
「母親の多くは、子供に人に優しくありなさいと教えるよね。でも、それってさ、見返りがあるからこそじゃないのかな。優しくした分返ってくるんだよって言葉、現に聴くじゃない? 勿論、それを見越した下心で教えてるわけじゃないっていうのは分かるんだけど。ただ、仮に優しくして罵倒されるのが当たり前だったら、誰もそんなことしないはずだよね」
何を語るのか。レイスの耳では、最早言葉が意味を成さない。ただただ、目を見開いて絶望を訴え、懇願する。
ルシエは笑いながら、その顔が見たかったんだと歓喜した。
「救いも同じ。報酬や感謝、そういったものがあるから行いたくなるし、行うべきだと言う。たまに、喜ぶ姿が見れれば十分だってのたまうのもいるけどさ、それだって、見る事で得られる何かがあるからこそだ。所詮、偽善者でしかない」
額に触れていないもう片方で、うっとりとレイスの美しかった髪に触れながら、ルシエの言葉は続く。
「一方的で迷惑にならないのは、助けたいと想い、助けて欲しいと願う利害の一致。結局は、自己満足の合成によるシアワセだ。自己を取っ払うだけで、浸れるんだから非難はしないけどね」
そして、「これは一方的な救いだよ」と、純粋な自己満足だとルシエは語った。実際、これから行う行為によって、危惧する存在が減るのだから一石二鳥でもある。
最後に、レイスの人生の結晶でもある利き手の剣だこを愛しそうに一撫でし、地獄が訪れた。
「……と、いうことで。今からレイスの記憶を消して、自責の念から救ってあげる。残りの人生、全てを忘れてお気楽に、能々と暮らしなよ。一人だけ、シアワセになれたらいいね」
「待て! それだけは!やめろ、やめてくれ。いやだ、いやだああぁぁ……!」
悲痛な叫びは次第に弱弱しくなり、夜の闇に呑まれていく。レイスの額に触れる指は、そこだけ淡く緑に光っていた。それは、悪戯妖精の悪戯。大切な何かを奪う魔法。
想像もつかなかったことだろう。死よりも残酷なものがあるのだと、それ以上に恐れるものがあったとは。
ゼフの腕には、レイスの力が抜けていくのが伝わってきていた。風に乗って流れていく、彼の大切な軌跡――
いくら身体が生命活動を維持していようとも、レイスは死んだ。死よりも残酷な形で、終わりを迎えた。
これをチャンスという者もいるかもしれない。いくらでもいるのだろう。だとしても、本人が望んでいなければ、所詮は他人の無責任な評価でしかない。
ゼフが拘束を解けば、レイスはあっさりと地面にずり落ちていき、虚空を見つめる瞳には彼の要素が一切無い。
「あっは! 心が本質だったら、誰にも区別はできないよ。少なくとも――」
その全てを見届けたルシエは、静かに呼吸をするレイスだった肉体をまたいで、ゼフの胸の中へと擦り寄っていく。というよりかは、倒れこんだのだろうか。
何とかローブを掴んだその身体を抱き上げる、細くとも安定感のある腕。ルシエはゼフの首筋に顔を埋めて、次第に震え出す。
「俺は、そう思う。くっ、くはは! ……そこそこ楽しかったかな。でもまぁ、嫌いなのは変わらないけどね」
満月の下、一つの身体から二人の言葉と笑い声が響いていた。