もういいかい、まーだだよ
誰が悪かったのか。
誰が原因なのか。
人は、予想外の出来事に遭遇した時そうやって嘆く。
しかし、分かったところで何もならないだろう。探ったところで、元には戻らない。
なら、何故人はそれを望むのか。
それは、自分が無関係でありたいから。自分だけは正でありたいからだ。
では、正とは一体何なのか。
正義とは、果たして人に何を授けてくれるのだろう。
それを求める者こそ、限りなく悪なのではないだろうか。
正と悪。人とヒト。
それが、人の作り出した世界だ。
仲間外れの動物の、異端な生物の絶対。
ホモ・サピエンス。知恵のある人。
人間はいつしか、自らをそう定めた。
しかしその知恵とは、生きる為のものだろうか。それとも、個々の存在を示す為のものか。
必要で、不可欠なものなのだろうか。
きりの無い謎の問いの答えには、辿り着けることはないと思う。そもそも、このような疑問を抱き考える事自体、細胞の無駄遣いなのであろう。
生きる事に意味を求めることこそ、無意味なのだから。
ルシエは黙々と、長閑な平野を歩いていた。
国によってその気候が様々なアピスは、決して旅に優しい世界とはいえない。灼熱の地もあれば極寒の地もあったりと、差が激しいのだ。
しかし、今居る国はとても穏やかで、その足取りを軽快にさせる心地よさがあった。
ただ、天候は曇り空。今のルシエの気分を表しているかのようである。
「何時まで不機嫌でいるつもりだ」
何より、今までの旅と違うこと。それは、同行者が出来てしまったということだ。
いつもの全身黒のスタイルのルシエが振り返った先には、深緑のローブで同じように顔を隠したかなり長身の男がいた。
「ゼフが要求をのんでくれるまで」
男を見る金の瞳は怒りで燃えている。
しかし、ゼフと呼ばれた男は、肩を竦めるだけで相手にしない。
あからさまな大きな舌打ちすら効果を成さず、ルシエは再び前を向いて歩き出した。
風の国での精石の解放から、既に一週間が経過している。ゼフと呼ばれた男、彼はその間に出会ったわけではなく、風の国を出る時からずっとルシエと共に居た。――彼は風の精霊王だ。
「私はお前の行く末が見たくて契約をしたのだ。なのに、傍に居なくては意味が無い」
「何度も聞いた。でも、それだったら、絶対に契約に同意してない」
荷人はその間、このやり取りを何度も繰り返していた。
そして、お互いが一歩も引かず平行状態が続いている。
あの時、風の精霊王がルシエと結んだ契約は、その魂までをも縛りかねないとても強力なものだったらしい。
お互いが何かを代償にし、決して違えることのできない呪いじみた契りが交わされるもの。
ルシエは血液と孤独を、風の精霊王は時と力を差し出し、それは結ばれた。
だから、陽の精霊王とは比べられない力をルシエは手に入れられたのだ。風の精霊王という、強大な力を――
まあ、本人はただの契約と思っていたから、不本意で詐欺紛いだったことは否めないが。
ちなみに、ゼフとはルシエが風の精霊王に与えた名である。正式にはゼザルフで、一々風の王と呼びたくないからと、名が無かった彼に与えたもの。
それもまた、お互いを縛る契約の一端になってしまうのだが、ルシエは気付いていない。
「だから、せめて普段はどっか消えといてってこっちの要求ぐらいのんでよ」
「私はお前の」
そして、この有様である。
しつこいと、ゼフが先程と同じ言葉を言いかけたので、ルシエは溜息でそれを止めた。
精霊王は精霊でありながら、恐ろしい程の力を持っている。そのお陰か、実体で人の目に映ることが出来るのだが、当然本来の精霊として存在することも可能だ。
ルシエは、契約については諦めることにしたが、常に共に居られることだけは嫌がっているらしい。
逆にゼフは、そうでなければ深い契約を交わした意味が無いと言う。
結局は、どちらかが妥協するか我慢し、慣れるしかないのだろう。
「あー、この前からほんとついて無い。陽の国で運全部使い切ったのかも」
「仕方が無いだろう。本来、一番最初に水を解放しなければいけなかったのだ。アレは放置されることを嫌う」
麻袋を一つ肩に持つだけのルシエと、荷物を持っていないゼフ。そんな二人の旅路は、ぽつぽつとたまに会話をするだけの静かなものだ。
頭の後ろで手を組み、空を見上げながら歩くルシエが零した言葉に、ゼフは律儀に諭してやっている。
「だからって、精石のある国を素通りするってのもなぁ」
「物事には順序がある。それにお前も、万が一の為に治癒は必要不可欠だと言っていただろうに」
どうやら、次に目指すのは水の国のようだ。ただ、風から水の国は徒歩で二ヶ月はかかる道のり。ゼフの力を借りてそれを半分にできるといっても、ルシエにとっては大きな痛手である。
乗り合い馬車を利用するとしても一ヶ月半はかかるので、それでも大分早いが、本人は許せないらしい。
そもそも、本当は水の精石の解放が始まりになるはずだったのだが、その理由は難易度と必要な魔力の他に、水の精霊王が治癒に強いという点にあった。
その必要性を身をもって重々承知しているルシエは、上手い反論が浮かばない。
ウィーネ杯で大斧使いに受けた傷も、レイスにつけられたものも、何とか治癒することは出来たが、大分魔力を消費したのだから。
その事を思い出しつつも、それでも割り切れないのだろう。
「急がば回れって、余裕があればこそじゃないのかと思うよ」
「駄目だ」
足はしっかりと動いていても、口から出るのは不平不満ばかり。
ゼフは、ルシエの細い背中を見ながら溜息を吐いた。
「焦ったところで、意味は無い。それに……」
気付けば、ゼフが足を止めていた。
そして、何かを言いかけて口を噤む。
ルシエはゆっくりと振り返り、フードの奥の陰に潜む翡翠を見上げる。
「それに、何だよ」
サイードの瞳は笑っていた。
何故ここで、ルシエはサイードになったのか、ゼフには分からない。
しかし、何かしら意味があるのだろう。
「いや、何もない。行くぞ」
数秒、黙って見つめ合った二人だったが、ゼフは首を振って再び歩き出した。結局その先を言うことは無く、それでもいつの間にか、無意味な押し問答は深い部分へと侵食していきつつある。
「ねぇ、ゼフ」
横を通り過ぎるゼフを横目に眺めながら、鋭さを消してルシエに戻り、自分と違う広い背中に苛立ちと羨望を抱く。
そして、開いていく距離を無視して言葉を投げた。
「出し抜かれるつもりも、使われるつもりも無いよ。同情も懺悔も、後悔も歓喜だってしない。終わりには、笑って馬鹿にするつもりだから」
「……」
何の反応も返さないゼフだったが、ルシエはそれで構わないと先程までと違っていくらか軽い足取りでその背を追った。
きっと、ルシエはゼフを嫌いではないのだろう。でなければ、どれだけ強制をしても彼の同行を許すはずがない。
それに、二人の雰囲気はどことなく似ている部分があった。
多くは語らず、何も明かさず、それでも所々でわざとなのかその一端を覗かせる。
二人はきっと味方では無い。しかし、敵にもならない気がする。
「君の雰囲気は好きだよ」
ルシエは、憚ることなくそう言って、ぴったりとゼフの後ろを歩いた。
そして、居るのに居ない、そんな不躾に自分の世界に侵入してこない無関心さが好きだと言う。他が聞けば、ある意味赤面してしまいそうな言葉であるが、ルシエの様子から他意は無い。
ただ、次にはその瞳に鋭さが戻る。
「だから、特別に言っておく。最期に笑うのは、絶対に俺達だ」
「意味が分からん」
本当に、ルシエの言いたい事は謎だった。
ルシエになったりサイードになったり。不思議なのは、リサーナが出てくることがほとんど無いこと。格好が関係するのかどうかは謎だが、好き勝手に言い切って、ご機嫌な様子で足に風を纏って駆け抜けて行く。
その魔法の洗練さは、以前の比では無い。やはり、王の力は桁外れなのだろう。
ゼフは、風と戯れるように恐ろしいスピードで走っていくルシエの背中を焦ることなく眺め、ポツリと呟いた。
「サイード、リサーナ、ルシエ。お前は一体、その中の誰に居るのだろうな」
お前とは、果たして誰を指すのか。囁いたゼフは、静かにルシエの後を追う。
その後、結局ルシエは水の国へ行くことにもゼフの同行にも不満を表すことは無くなったが、その代わり、彼に対して遠慮も消えた。
すると、ゼフはあまりの自由すぎる行動に、少なからず契約は早まったかと後悔する事になるのだが、それがルシエの計算の内かどうかは不明である。
――誰にもあげない、誰にも教えない
――最初に気付くのは、一体だーれだ
――早くしないと、泣いちゃうよ
――みんなみんな、泣いちゃうよ
――もう、いいかい?
――まーだだよ
その旅路の最中で、度々ルシエと戯れる精霊の歌は、とても不思議な旋律で響いていた。