屈しない心の詩と風の精霊王
静かに息を吸い吐き出せば、まるで生きているかのように声は踊った。
「その心に眠りし誓い」
お姫様から精石の付いた王冠を渡されてから延々と頭に響き、最早覚えてしまった詩の始まりを口にすれば、掲げる翡翠が明らかに光り始める。
どよめく群集だったが、それは光り出した王冠に対してか、儚く美しい声にだったのか。
「それは正しく絶対の領域」
込められた意味など分からないだろうに、それでも人々はその響きに酔いしれ始めた。
ルシエは目の前に掲げていた王冠を、さらに高く上げながら続ける。瞳に何も映さず無心でいれば、身体の中の何かが奪われていく感覚がよく分かった。
「司るは敗北に砕けぬ不屈の魂」
風が背中を押すようにルシエの周りをクルクルと舞い、その相手をさせられている髪が徐々に長さを変えていく。星の代わりに輝く銀は、先端から次第に精石に引けを取らない翡翠を宿し煌いていった。
その時、多くの風に混じり一片の言葉がルシエに届いた気がした。まるで分かっているかのように、同意するように、ルシエはふわりと微笑み瞳を閉じる。
身体は前回程では無くとも十分に疲労を抱き始め、瞳もまた鈍痛を感じていく。
「纏えば絶対の鎧として」
静まり返ったウェントゥスで響き続ける声。天使の歌声だと賛辞を贈れるのは何も知らないからこそで、次からは悲鳴と争いの中での無慈悲な鎮魂歌にしかならないかもしれない。
ルシエは、大きくなっていく疲労と苦痛で顔を歪めそうになるのを必死に耐えながら、それでも紡ぎ続けた。
「翳せば守りの盾として」
そして、小さな小さな戦友に宛てた祈りを止めて瞳を開こうとした時、一際大きな激痛がそこを襲う。頬を何かが伝うが、涙で無いのは確認しなくても分かる。
「放てば打ち砕く刃として」
風の伴奏に、人々の悲鳴が加わった。
黒だった視界はうっすらと赤みを帯び、消える気配の無い激痛に思わず片目を押さえれば、掌にはヌルリとした感触がある。一体それは、誰から溢れたものなのか。
「それは他が為に背を押さん」
ルシエの瞳からは涙の代わりに血が流れ、白い頬を不気味に染める。その光景で人々がパニックに陥るが、ルシエは見下ろすだけ。そして、見つめられるだけだ。
向けられる視線は畏怖、恐怖、困惑、警戒。色々あれど、全てが黒い。
しかし、見つめられる側は、何処にどういった瞳を向ければ良いのだろう。
見下すにはあまりに対象が多すぎ、見つめ返したところで、何かを得られるわけでもない。
微笑は失笑へと変わった。
歌の最中、別の単語を入れる事は出来ない。その為、声に出さず紡がれるが、託されるのは嫌いだと言っている。
掲げる王冠を支える片手が傾いでいき、疲労と痛みは最高潮に。それでも毅然と振舞うルシエの掌から、王冠は滑り落ちていった。
腰にまで伸びた髪は、夜空を飾る風のカーテン。落ちていく様を眺める瞳は、翡翠の秘宝。
群集は、落とされた王冠を受け止めようと、混乱しながら必死に天へと手を伸ばす。誰かの指が掠めそうになった時、最後の一節が降り注いだ。
「再び己が手で吹き荒べ」
王冠を飾る希望が砕けた瞬間、人々の目を強烈な閃光が襲った。
同時に発生した暴風が悲鳴もその持ち主すらも一掃し、城壁に座るルシエの目の前には、深緑の長いローブにフードを被り全身を隠して僅かに俯く者が浮いている。
しかし、ルシエは驚かず、自身も痛む身体に鞭打って立ち上がり謎の人物と向き合う。
「初めまして、風の精霊王」
「……お前が、矛盾する者か」
風の精霊王と呼ばれた者は、低音で腹に響く声で呟いた。
その声やルシエの頭二つ分ほど高い身長からして、恐らく男になるのではないか。陽の精霊王とは違い高飛車な態度は今のところ感じられず、ルシエはこっそりと安堵する。
「矛盾する者?」
しかし、聞き慣れない言葉に首を傾げた。
風の精霊王は、まさか知らなかったのかと言いたいのか、おかしそうに肩を揺らせた。
「内に秘める心と正反対の行動を進んで行い、一人涙するのだろう? それを矛盾と言わずなんとする」
ローブの隙間から伸びた腕は、しっかりとルシエを指差した。その指の先にある爪は異様に長く、それだけで凶器となりそうだ。
ルシエは示された場所に無意識に手を触れ、それが血の涙だったことに気付く。馬鹿にされていると分かるには、それだけで十分だった。
一瞬にして剣呑な表情に変わり、腰の剣を抜いて空へと駆ける。そこまで怒りを抱く理由など無いはずなのだが、何かが癪だったのだろう。その迫力は鬼気迫るものがあった。
しかし、黒の刃は風の精霊王を捉えることが叶わず、鈍い音を立てながら見えない壁に阻まれる。その際、反動か衝撃でフードがパサリと落ちていった。
ルシエが初めて見た精霊王は、人間に似た造りで、人間には到底勝てない完璧な美を有する容姿をしていた。
切れ長の瞳とルシエよりは長いが無造作な髪は翡翠そのもので、大きな特徴として鋭く尖った耳がある。どう見ても男ではあったが、それでも誰をも虜にしてしまいそうな冷徹な美。何より息を呑んだのが、切れ長の冷たい瞳に填められた翡翠の輝きの奥だった。
その美しさは、世界屈指の詩人でも芸術家でも無理かもしれない。そこで煌く本質が、何より美しいかった。
瞳は心を写す鏡だと誰かの名言があるが、風の精霊王が澄み切った心を持っているからそう思えるのか、それとも絶対的な力があるからかは、その感情を抱いた本人であっても理解出来ないのだろう。
「黒の天使は白い悪魔ということだな」
風の精霊王は、まるで甘噛みでしかないと、軽く手を振って作り出した風で吹き飛ばす。危うく城壁に激突しそうになりながらも、ルシエは間一髪で免れて彼を睨みつけた。
好んで良く使う風の加護であるが、その頂点には所詮敵わない。
自身を落ち着ける為に深呼吸したルシエは、見下ろしてくる氷の視線に舌打ちしつつも、体勢を整えて改めて風の精霊王と対峙することにしたようだ。足を再び城壁の上に下ろし剣を指輪に戻した。
「聖女がお好みだったら、残念ながら楽しめないだろうし、好きにすればいいよ」
「……全ての王と契約しなければならないと聞いたはずだが?」
「興味無い。解放出来ればなんとかなるでしょ」
しかし、謙るつもりは無いらしい。陽の精霊王の言葉は当然覚えているが、絶対と言われてないのだからと、元々精霊王と契約を結ぶつもりが無かった。
痛い思いは、解放の時だけで十分だというのが本人の言い分である。
風の精霊王は予想外の発言に驚いたようで、僅かに片眉を吊り上げるが、それが本心からだと分かると笑った。
冷笑さえ美しいとは、精霊王とは恐ろしい。
「気に入った。気に入ったついでに、お前の思う自身の役割を見せてもらおうか」
まさかの反応に、ルシエはあからさまに嫌そうな顔を浮かべるが、無言の訴えは悉く無視されて諦めるしかなさそうだ。
深く溜息を吐き、頭を抱えつつも唐突に跳躍して風の精霊王同様空に浮かぶ。
そのまま高度を上げてウェントゥスが一望できる所まで行くが、風の精霊王も黙ってついてくる。
「どうせなら、盛大にいこうか」
「少なくとも、翼は黒いようだな。では、その前に契約といこう」
風の精霊王は、至極ご満悦でルシエの顎を掴んだ。
そのまま無理やり視線を合わせられ、そこでルシエが見たのは、舌なめずりをして背徳な感情を抱いている王の顔だった。
ああ、彼は人を嫌悪している。ルシエは感じた。それと同時に、ゾクリと恐怖とはまた違う何かに全身が震える。
「男のような女を襲っているのか、女のような男を襲っているのか。……不思議な気分だ」
「はは、好きなように捉えて良いよ」
風の精霊王の言うように、その光景はとても甘美で幻想的だった。まるで人の辿り着けない領域の住人の逢瀬。
ルシエが笑うと、血色の悪すぎる風の精霊王がゆっくりと近付いていく。冷たい吐息が肌を刺し、血の涙の跡の残る白い頬が淡い赤で上気する。
そして、風の精霊王の唇は目的の場所に触れ、そこから真っ白のおぞましい牙が覗いた。
「耐えろよ」
唇はルシエの喉元を優しく撫でながら、その牙は容赦なく喰らいつく。
「がっ……は」
それは器官まで達しているんだろう、声にならない声がルシエの口から漏れ、目が零れんばかりに開かれるが、風の精霊王は逃さないと細い肩をしっかりと掴み、長身を窮屈そうに曲げながらルシエの内に流れる赤を奪う。自分の液体が吸われ、嚥下される音が耳に響いた。
契約を行うとは思っていたが、まさかこんなことをされるとは露ほども思わなかっただろう。身体の横で大人しくしていたルシエの腕の先、指が何かに縋るように動き訴える。
しかし、失う代わりに陽の精霊王とは比にならない力で満たされていくのも感じていた。
あの時陽の精霊王は、力の一部を分け与えると言っていたが、ルシエは本能でこれは違うと気付いた。
「ち、ちから……力、だけ!」
全力の非難は、風の精霊王の貪りの前ではひどく無力であった。
必死に逃れようとしても、現在進行形で大量の血を失っている身体ではか弱い抵抗しか出来ず、一際大きな嚥下の音が聞こえる。繋がりが築かれ、血という自分自身を分け与える儀式。
「もう遅い。私は共に行くことにした」
喉元から聞こえたくぐもった声は、ルシエの一番の味方である孤独をあっさりと奪うのだった。
そして、その身体、心臓の辺りから翡翠の光が発し、月の代わりに夜を彩る。それは牙の刺さる箇所に吸い込まれるように集中しながら、発光を止めない。
ひゅうと喉が鳴り、解放の時や喉に喰らいつかれた時の何倍も強い痛みがルシエを襲った。
大きく開かれた目尻からは生理的な涙が零れ、無意識に痛みの原因である風の精霊王を引き剥がそうと、滑らかな髪をわし掴む。先程は貧血で力が出なかったというのに、彼はその強さと痛みで僅かに顔を歪めた。
「……契約を」
それでも、風の精霊王の選択は揺るがないらしい。
ルシエの腰に腕を回してさらに引き寄せ密着し、血色の悪い唇を血で飾って自然な動作のキスで促している。
必死に首を振って拒否するが、自身の赤で汚された唇は本人の意志を無視して言葉を発した。
「我が生み出す風となり、荒らせ。名はルシエ、縛る者なり」
「我が主、ルシエ。終焉を見届ける代償に我を縛り、我を使わん」
傷ついているはずの喉は滑らかに震え、契約は成立した。
風の精霊王は満足そうに微笑み、その妖艶さでルシエもつられて引きつった笑みを返す。
気丈さに感心した風の精霊王だったが、その表情は妖艶から試すようなものに変わり、抱き寄せていた身体を大袈裟に突き飛ばした。
「私の役目は終わりだが、お前はまだだぞ。最後が一番キツいはずだ」
契約の儀式の際、精霊の加護はとっくに切れており慌てたルシエだったが、風の精霊王の忠告に驚く。
「え?」
そして説明を求めようと声を出したのだが、後が続かなかった。
突然、心臓が飛び出たいと訴えるかのように強く脈打ち、思わず仰け反る。未だに淡い光りを纏う身体は、ウェントゥス全体を染め上げた。
「――あ゛ああああああ!」
まるで爆発するような発光の中心で、凡そ人とは思えない悲鳴が聞こえた。
途切れる気配を見せない光と悲鳴。それを腕を組んで満足そうに眺める風の精霊王の瞳は熱く滾っており、唇に残った血を舐める仕草が欲望で渦巻いている。
そして、光は弾けた。
この日ルシエが払った代償は、今まで奪ってきた分のものだったのかもしれない。
しかし、だとしたら、捧げた分は一体どこに消えたのだろう。
等価交換が成立するものなど、極々限られた事柄だけだ。特に心に関するものは、期待する方が馬鹿なのだ。
誰かが語る。
――あれは人だったと
誰かは語る。
――あれは人ではないと
「最悪なんだけど」
首都に降り注ぎながら静まっていった光の頂点で、ルシエの声が聞こえた。
「だが、力の差は歴然だろう?」
くつくつと笑う風の精霊王に、ルシエは首元を摩りながら舌打ちをして寄り添う。
その顔色は、青いどころか今まで以上に健康的であり、先程までの苦痛の色も喉の傷もない。
風の精霊王の言葉通り、ルシエの体内では今、爆発しそうな程の何かが蠢いていた。
手を握り開いてを繰り返し身体の具合を確かめる瞳は翡翠に染まったままで、髪も同じく伸びたまま。
そんなルシエと風の精霊王が並んで浮かぶ姿は兄妹にも見える。ただし、悪魔の、が付くだろう。
「気に入ったのだ、諦めろ」
兄に我侭を言う妹を窘めるようなやり取りさえ、とても美しく異質だ。
風の精霊王は意地悪く笑い、眼下に広がるウェントゥスに視線を移す。ルシエも仕方が無いと、溜息を一つ吐いてそれに倣った。
そこには、見る限り平和な日常の世界がある。
しかし、城壁の手紙から始まり一連の騒動で騒然としているはずだ。
それでも、かなり上空に居る二人の周囲はとても静かであった。
「始まりは盛大に」
「何人生き残るか楽しみだな」
一体何をしようとしているのか、佇むだけの二人からは予想が出来ない。それでも、首都に暮らす人々にとっては碌な事では無いはずだ。
ルシエが新しい力を得て初めての詠唱は、歌となって風の精霊王の心を躍らせた。
右の瞳は陽の赤、左は風の翡翠。髪は翡翠のままで、長さがゆっくりと足首にまで伸びる。
神のような美しさと魔王のような冷気を纏うは、破壊の使者とその僕――
ルシエの魔法によって現れた火は風を自在に変化させ、同時に生んだ風は火を激しくさせていく。それが合わさる時、それは姿を現す。
「安らぎの旅路を」
「そして祝福を」
合わせる様に呟いた二人は、逸らす事無く作り出した光景を見つめた。
ルシエが陽と風の精石を破壊した際、犠牲はあまり出ていない。しかし、それでは生ぬるく足りないとルシエは言う。
消えた精霊の分だけ、それに見合った魂を。被害を受けた地球の分だけ破壊を。そうしなければ、何の為に自分が居るのか。何のために、此処に来たのか。
世界の危機を招いたアピスの人々に償いを求めたいわけでも、裁きたいわけでも無いが、それでも精石が壊れた事で抱く絶望だけでは、ルシエの気は治まらないらしい。
公平も平等も皆無、いつだって無情な世界の中で、その考えはとても愚かでしかないだろう。
「それでも、人間が特別なんじゃない。人間以外が、特別なんだ」
「はは! それをお前が言うか」
「特別なお前が――」そう囁く風の精霊王にルシエは何も返さなかった。いや、返したのかもしれない。
しかし、それは首都に響く轟音によってかき消されて誰の耳にも届かなかった。
「人間は所詮、神の玩具でしかない。だけど、神も人間の玩具」
ルシエと風の精霊王の足下では、大きな炎の鎌がウェントゥスを容赦なく刈り取っていた。
二人は、奪った実感も罪悪感も持たず、魔力の喪失感だけを抱えてそれを眺め続けるのである。
『その心に眠りし誓い
それは正しく絶対の領域
司るは敗北に砕けぬ不屈の魂
纏えば絶対の鎧として
翳せば守りの盾として
放てば打ち砕く刃として
それは他が為に背を押さん
――再び己が手で吹き荒べ』
精石は残り八個。
それまでにアピスに人間は、どれだけ残っていられるのだろうか。