手向ける花は花水木
それは始まりの調。終わりの合図。
「こんばんわ、ウェントゥスの皆さん。一風変わった恋文は受け取って頂けましたか?」
変化の兆しを察した月と星が隠れる中、ウェントゥス全体に柔らかい声が響き渡る。それ程の規模で声を届かせるには、通常何十人もの魔術師が必要だった。
しかも、城壁に群がっていたならまだしも、夜中な今、夢の世界に沈んでいた者達にとっては意味が通じない上に迷惑極まりない。
ほとんどの静寂に支配されていた家々からは、慌てながらも次々と淡い灯りが点り、ウェントゥスは強制的に目覚めさせられた。
「中々、斬新でしょう? 死体とその血で綴った手紙なんて」
「惚れちゃうこと確実です」と声は続いた。その後ろでは、警戒を報せる高音の笛が絶えず響く。
城壁の死体に群がっていた野次馬は、滑稽ではあるが一様に辺りを見渡して声の出所を探していた。
「それで、答えを聴かせて頂きたいと、こうして参上した次第です」
クスクス、クスクス。四方から聞える笑いに人々は戦慄する。
城からは騎士が大勢飛び出してきており、その手にはそれぞれ誇りが携えられていた。
当然、門は全開である。ルシエはそれが動き出した際、軽やかに城壁の上の僅かな足場へと移っていた。
風の国の城は、正門は高く聳え立っているが、城壁自体は成人男性の四人分ぐらいの高さで、夜であっても暗闇にはならない城の周囲であれば、注意して見ると直ぐに気付ける。
ご機嫌に鼻歌を歌いながら、手紙が綴ってある上まで行こうとするルシエ。それさえも首都に響き渡るのだが、誰かの叫び声がアピスでは聴き慣れない歌を遮った。
「あそこに人が――!」
綱渡りするかのように両手を広げてバランスを取り、片足分しか無い足場を歩くルシエを見つけたのは、野次馬の一人であった。
「おや、見つかってしまいましたか」
それをきっかけに、ただの野次馬は騒ぎ、騎士は剣を抜き、魔術師に構えるよう命じる声も聞こえる。始めは怪しむだけだったのだが、一瞬にして緊張感が漂った。
全員が気付いたのだ。星も月も無い今夜。ルシエの頭上で輝く銀が、この国の希望そのものである王冠だということに。
その中で、野次馬の誰かが例の青年の名を叫んでいた。
――サイードだ! サイードか?
――いや、違う。だったらあれは?
――何者だ!
――何をするつもりだ?
口々に叫び、面白いほど困惑し、群集は混乱する。その群れは止まる事無く増え、ルシエの口角も比例するように上がっていく。
ルシエは今、素顔を晒してお姫様とのお茶会の時と同じ格好をしていた。違うのは、腰に抜き身の剣があることぐらいか。
風の民が見たサイードの剣とは変わり、今ではそのブレードは漆黒。だからといって、それがルシエとサイードを別人にさせるわけではない。
それでも、人々は最終的にサイードでは無いと結論付けた。
瞳や髪の色は同一。闇夜のせいで見極められないというわけではなく、その二人の人物は似ているようで顔付きがまったく違った。
一見大した差では無いが、仮面を取り払った表情と容姿は、サイードの何倍も中性的で性別を思わせないのだ。お姫様は青年だと思っていたが、群集の中には女だと感じている者もいる。
周囲の混乱を堪能したルシエは、優雅で美しく右手を胸に当てて左手を剣に添え、ゆっくりとお辞儀をした。
貴族でも出来ないような洗練された仕草。このような状況でなければ、周囲の者を男女問わず全員、虜にしたことだろう。
しかし、ルシエが顔を上げて眼下に広がる景色を見下ろした時、人々は慄く。
「光栄に思うが良い。此処が始まりの場となり、お前達が選択できる猶予が生まれる時」
淡々と、抑揚無く。慈悲も無慈悲もそこには無い。あまりの人間味が無い声に、その姿を見ていない者達まで言葉を奪われ、ウェントゥスは異質な静寂に包まれた。
ルシエはお辞儀をした体勢から城壁の上に腰掛けると、足を組んで腕を支えに顎を乗せ、もう片手は身体の横で壁を掴んだ。
「我が名はルシエ。崩壊と死を導き終焉を告げる――破罪使だ」
リラックスした状態で、薄く色気漂う唇から零れた言葉。それは、未来永劫アピスの歴史に刻まれるもの。
そしてルシエは、さらに体勢を崩して王冠を外しわざとらしく大袈裟に、群集がしっかり見れるよう掲げながら解放の歌を紡ぐ。
旅の始まりは静かに密やかに、陽の国からだった。
だが、ルシエとしての本当の始まりは、今日この夜、この瞬間なのだろう。
精霊と人間、ルシエによる壮絶な戦いが幕を開ける。そしてその奥で、もう一つ、大きくも小さいゲームがスタートした。
空気が震えた――
お姫様は引き続き、私室の客間で一番好きな紅茶とお茶菓子を楽しんでいた。
普段なら当に寝ている時間であるが、今日ぐらいは構わない。いや、今日だからこそ構わないだろう。
騒然とした状況の城内、しかも今は部屋を煌々とさせようが困らない。
「ふふ、本当に不思議な方だったわ」
ギリギリ足がつくぐらいの高さの椅子に座り、足を揺らして一人で笑う。視線は、誰もいない正面の席へと向けられている。
「私も、好きと堂々と言えば良かったのかもしれないわね」
それでも独り言は止まらない。
つい少し前まで、お姫様は一人では無かった。重要な役を担い、それを全うしたのである。
麗人、というのが相応しいのだろうか。少なくとも、お姫様が知る中で誰よりも美しい人との一時は、身構えていたのが馬鹿らしく思える程に楽しかったと振り返る。
しかし、その表情は微笑みつつも儚く弱弱しい。
「今頃気付いても遅いのでしょう。でも、きっと意味はあった。……ね、そうは思わないかしら?」
そして徐に、お姫様の独り言が誰かに投げられる。視線はそのまま、優雅にカップに口を付けながら、彼女は背後に気配を感じた。
「お気づきでしたか」
「いいえ、私は武人ではないもの。唯一の友が教えてくれました」
現われたのは、お姫様が待ち構えている者では無かったが、嬉しい人物ではあった。
「さすが、聖女ってとこですか」
その者の言葉に小さく笑ったお姫様は立ち上がって振り返り、予想外の訪問者と視線を合わせるのだが、そこには騎士服とはまた違う、シンプルながら上質な服に身を包んだリュケイムが居た。
「お父様の御用で来られたのでしょう?」
険しい表情をしたリュケイムとは違い、お姫様はとても落ち着いている。
しかし、こうまで落ち着いていられるとは、本人も思っていなかった。
「今すぐお返しするというのであれば、陛下は不問にと」
「なんともまぁ、甘い事。だからお父様は、お兄様の好き勝手に振り回されるのですよ」
リュケイムは道化師でいられなかった。彼は、主君から少女の真実を聞いてはいたが、所詮忠誠を誓う方の血族でしかないという認識しか持っておらずノーマークだったのだ。
女が恐れるに足る瞬間は、狙いを付けられた時と金に関係する時だけ。そんな風にしか思っていなかったのかもしれない。
ましてや、主君の娘は十を過ぎたばかりの少女だ。一体何が出来ると思えるだろう。
「貴方もですよ、リュケイム。私など、眼中にも無かったでしょう?」
だから出し抜かせて頂きました。お姫様は、堂々と胸を張って言った。
「精石はもう本来の場所へ。相応しい方の手へ。お返しする事は不可能です」
「なっ!? 貴女は、それが何を意味するか分かって言っているのですか! 子供の悪戯じゃあすまされないぞ!?」
そして、リュケイムが求めている情報を憚る事無く曝け出す。当然彼は驚愕し憤慨するのだが、お姫様は最後のフレーズに侮辱されたと眉を潜めた。
「あまりに無礼すぎる。私は王女です。身分を弁えなさい」
「……最早、貴女は王女では無くなった」
そうだろう。一連の会話から推測するに、さっそく王冠が盗まれたことに王が気付き、ただでさえ荒れている現在の城内、隠密に対処できるよう私兵であるリュケイムが動いたというところか。そして、盗んだのがお姫様だと分かったからこそ、こうして彼が部屋を訪れたのだ。
素直に返せば、王位継承権は失うも、その罪は明るみにならなかったかもしれないが、それが出来ないと分かった今、最早お姫様はただの人にもなれなくなってしまった。
「お覚悟を」
しかし、お姫様は反抗も戸惑いも無く堂々としており、その様子にリュケイムは違和感を覚えた。この空気を知っている。達成感と幸福感だ。案の定、その身を預からせてもらう為に差し出した手を、彼女が取る事は無かった。
そしてお姫様は、望んだ相手との繋がりを得る為、最初で最後、自ら戦おうと口を開いた。
「リュケイム、私を」
「姫様! ……何故、貴方がこちらに」
残念ながら、それは突然の乱入者によって遮られてしまったが、礼儀も無く大きな音をたてて開かれた扉の先には、お姫様が望んだ相手がいたのだった。
「レイス!」
今までの緊迫した空気から一転、年相応の花の咲く雰囲気にリュケイムは少々困惑した。
同時に、元部下の空気の読めなさに心底呆れるのだが、それも一瞬で、レイスの表情が何時に無く険しい事で何かがあったのだと否応無く気付く。
「夜分遅く、ご無礼をお許し下さい」
「構わないわ。眠れなくて、丁度リュケイム様に相手をして頂いていたところですから」
何も知らないであろうレイスは当然、深夜にいくら幼いといっても女性で王族な方と二人きりになるのは非常識すぎる、とリュケイムに非難の視線を向けるのだが、逆にリュケイムは、お姫様の自然な嘘に舌を巻いた。
「どうかしたのか?」
そして、レイスが話を切り出しやすいよう、自分も装いながら非難の視線を無視して聞く。
本来、王の私兵であるリュケイムにその権利は無いのだが、どうせ隠したところで無意味だと身を持って知っているレイスは、大して戸惑うことなく状況を説明する。城の周辺で騒ぎがあったこと。それで城内の警備の変更があること。少しばかり騒がしくなってしまうから、侍女を寄越して部屋に護衛を配置させて欲しいこと。
騒ぎについては、聴かせるにはあまりに血生臭すぎる為、かなり掻い摘んでであったが、お姫様にはそれで十分であった。
十分、というのは、その中心にルシエがいるからでは無い。知らなくて良いことだと知るに十分ということだ。
「そして、念の為、御身のご無事を確かめたく」
最後にレイスがそう言うと、お姫様は満面の笑みを浮かべて嬉しそうにしたのだが、その時の彼女の瞳を見てリュケイムは悟ったのである。
気付いているのだ、と――
「分かりました。では、私は後少しだけリュケイム様とお話がしたいので、侍女と護衛はリュケイム様に呼んで頂くわ。寝るかもしれないから、護衛も女性でお願い」
「は!」
そうして、レイスは騎士の礼を取り退室する為背を向ける。その際、リュケイムに向かって意味ありげな視線を投げたのはどういう理由があったのか。
リュケイムもリュケイムで、レイスに射ぬかんばかりの視線を向けており、強さだけでいえば何倍も上だった。
そんな中でも、お姫様の瞳はレイスだけを追っていて、扉のところまで彼が来た時、その目尻にはうっすらと涙が溜まっている。
「レイス」
縋る様な、切ないさえずりだった。
呼び止める声にレイスは振り返るが、残念ながら彼はその変化に気付かない。
「このドレス、以前、貴方が褒めてくれてとても嬉しかったわ」
「……もったいないお言葉です」
意味が分からないと困り顔ながら礼儀で答えるレイスに、お姫様は小さく笑った。今の彼女の立場を知るリュケイムが、その態度に怒りを抱き、必死で押し留める様に拳を握っている。
「それと、私最近、お手紙を書くのが楽しくて。少ししたら届くでしょうから、絶対に読んで下さいね」
「ありがとうございます」
今度は怪訝な顔をするレイスだったが、余程急ぎなのだろう、それではと挨拶をするとあっけなく去っていってしまう。消えた彼に向けお姫様が呟いた言葉は、リュケイムにしか届かなかった。
「約束、ですよ」
男女が二人きりになってしまう場合、扉を僅かに開けておくのがマナーだが、しっかりそれがされている事に苦笑しつつ、お姫様は自分で扉を閉めて鍵まで掛け、暫くそこに寄りかかって動かない。伏せられた瞳と小さな肩は震え、彼女は大事に仕舞っていた大切な気持ちとの決別を済ませる。
リュケイムは黙ってそれを眺めていた。
「……すいません。あまり長いと侍女も不審に思うかもしれませんね」
その背中にあるのは何か、リュケイムは知らない。しかし、振り返った時、お姫様の目元が僅かに赤くなっていたその理由は分からなくもない。
お姫様も、一人の立派な女だったのだろう。だからといって、すべきことは変わらないし、彼女の真意を探ることは避けられないものだ。
「不審も何も、呼ぶ必要はないでしょう。もうこの部屋には居られないのですから」
そうして連れて行かれるのは牢か、幽閉か。直ぐに断罪されはしないだろうが、その命は風前の灯火だ。
そこからさらにリュケイムは、消えた王冠を探す命を受けるはずだ。どうしても話さないというのであれば、拷問さへ厭わない。彼の瞳は、お姫様に明確にそれを伝えている。
しかし、お姫様は動かなかった。扉に背中を向けて体勢を変えるだけで、一歩も。微塵も――
「先程の言葉の続きです」
そして、お姫様の身体からは風が生まれ、部屋の明かり全てを消した。リュケイムは慌てることなく剣に手をかけ、彼女の動向を見守る。
コツリ。お姫様の靴が床を叩き、リュケイムの剣を握る力が強まる。
コツリ。それでも怯まず、剣の届く範囲まで歩いて身長の倍ほどある頭上の瞳を見た。
「リュケイム、私を殺しなさい。それを利用して、お父様を困らせる者を貶めるのです」
「っ!? なりません。貴女にはお話頂かなければいけない」
「どうせすぐに露見する事。私が話す必要はありません」
お姫様を見る金の瞳は驚いている。同じ色だというのに違う、と彼女は誰かを思い浮かべてリュケイムへとさらに一歩近づいた。
「それに、貴方には部下の不始末の責任を取る義務があります」
その言葉に、リュケイムの片足が僅かに後退し掛けた。「元部下です」と反論するもその声は小さい。
「殺しなさい!」
――こんばんわ、ウェントゥスの皆さん
その時だ。二人は不思議な声を聞いた。
まるで頭の中に響いてくるかのように、部屋全体から発せられるように、柔らかい声が脳髄を刺激する。
リュケイムは慌てて周囲を警戒するが、お姫様は逆に、そのタイミングの良さに驚いた。
驚いて、感謝する。
「なら、貴方が死ぬことになります!」
その小さな手にはいつの間にか短剣が握られており、リュケイムがハッと気付き視界で捉えた時には、お姫様が目前にまで迫っていた。
そして、考える前に身体が反応し、腕は剣を抜いて躊躇無く振る。
鮮やかな赤と、透明な雫が宙を舞う。
同じく、小さな身体も飛んだ。
「誓約に従い、叶えたまへ。穢れを無に」
小鳥のさえずりという表現が相応しい声を紡ぐ唇は、痛みを感じていないかのように滑らかに詠唱して、風がそれに従い穏やかに部屋を包む。
「殿下!」
リュケイムは己の所業だというのに驚き、お姫様が床に落ちる前に抱き止めた。
残念ながら、その身体は脇腹から肩に見事な致命傷を刻んでいて、どうやっても助けることが出来ないと一目瞭然だ。
何故、と思わず問いかけるが、お姫様は僅かに首を振るだけ。
「お父様に、お兄様の、塔に、行くようにと」
緑の瞳はどこか別の空間を見ながら彷徨い、呼吸は徐々に静かに、小さくなっていく。
外では、謎の声を皮切りに大きな騒ぎが起こっている様子だったが、リュケイムは腕に抱く子供のことで頭が一杯であった。
切った時の、なんと柔らかい感触だったことか。主君の命であっても、子供と女だけは手に掛けたく無いと、意外にも頑なな信念を持っていたリュケイムだったが、このような形でそれを破る事になろうとは道化師な彼でも予想できなかったことだろう。
「彼、に、伝えて」
「……なんなりと」
「貴方は、私の、騎士だと」
咳込むと、内側で流れる赤がリュケイムを責めるように迫り上がり、彼の頬を染める。律儀に主人の指示に従い続ける精霊は、部屋は決して赤を染めさせはしないが、彼にはそうしなかった。
「ごめん、なさ、い。貴方を、利用、しまし、た。だか、ら、貴方、も」
一生懸命言葉を紡ぐが、その声は段々とか細くなっていく。目元からは雫が肌を伝い零れて止まらないが、そこには苦しみや痛みがほとんど無かった。
リュケイムが唇を噛み締め、必死にその最期を目に焼き付けようとする中、お姫様は微笑む。
「必ず。必ず無駄にはしません」
お姫様は、小さく何かを囁いて、それを最後に命の躍動を終えた。彼女は、ルシエとの約束を守れたのだろうか。表情はとても穏やかで、きっと彼女なりに精一杯戦えたのだろう。
戦うとは、ただ武力だけで成り立つものでは無い。
「悪いが、お前のご主人の身体を清めてやってはくれないか」
暫く、お姫様の亡骸を見つめていたリュケイムだったが、そっと瞳を閉じさせて身体を抱えたまま立ち上がり、精霊に言った。
その際、己がこんな時でも剣を離していなかった事に気付き失笑していたが、そこは人生を長く歩いている者だ。黙って鞘に戻して、それきりだった。
精霊は、リュケイムに言われるまでも無いと訴えるかのように、彼には激しく彼女には優しく風を起こしてその存在を消した。
「貴女は王族としてご立派に生き、一人の女として死んだということですね」
その人生に敬意と賞賛を。そして、必ずや無駄にはしない。リュケイムはそう心に誓い、これからのことを算段しながら静かに怒りを蓄えた。
お姫様が何を考え王冠を奪い、誰の手に託したのか。まずはそれを突き止めなければならないのだろうが、それは予想外の形で彼女の言葉通りあっさりと露見する。
その際、リュケイムが何を思い考えるのかは、本人の中でひっそりと潜められるのだろう。
――私は、貴女の戦友になれたでしょうか
美しい旋律を奏でるルシエに届いた、音無き声。
それに微笑みで返したルシエは、暫く瞳を閉じて一人の女の為に祈りを捧げた。