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その背に黒の羽根を  作者: 林 りょう
第三章:捻くれX騎士=水と油
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翳すのは誇り



 ――舞台を用意しよう。


 それは、誰の言葉なのだろうか。

 波乱、波乱のウィーネ杯で、歴史はあるが所詮お遊戯の枠から抜けない大会で、世界を揺るがすような運命がいくつも交わり定められた。

 しかし、それを知るのは覚悟を決めた本人達のみで、全てを把握している者は誰もいない。

 望む者ですら、舞台を用意するだけしかできない。そうして、意志を持つ人形を躍らせる。

 それをさせるにも、踊るには音楽が必要で、奏でるには楽器が必要だ。さらに、楽器があっても奏者がいなければただの物。


 ――まずは、産声を。


 誰かが楽しそうに笑う。楽しみで仕方が無いとはしゃぐ。用意だけが、誰も気付かないままに着々と進められた。


 ひとつの大会のメインイベントであり、クライマックスでもある戦い自体が壮大な何かのファンファーレになるのかもしれない。









「さて、とうとう始まります! 優勝者への特典であり、我らが自慢でもあるウィーネ騎士団団長、レイス・アレフィセー・アランドル様とのデモンストレーション! 両者美丈夫で女性は大興奮なことでしょう! 是非とも、剣技でも我々を魅了してほしいものです。サイード選手は、果たしてどこまでレイス様に食いついていけるのか? 片時も目を離せません!」


 協議の結果、決勝戦が再度行われることはなかった。

 陰では、リュケイムが何か手を回したとも囁かれるが、その真偽は分からない。

 

 太陽は当に頂点を過ぎ、リュケイムと副団長との試合は既に終わったが、語らずともその勝敗は分かることだろう。


 そして今、因縁の対決というほど縁があるわけではないが、お互いがお互いに何かを抱えている二人が、会場の中央で剣を抜き対峙していた。


「正々堂々と団長を殺れるなんて、こんな良い機会は二度と無いだろうな」


「いやいや、殺すのはルール違反だよ」


 どうやらサイードは、疲労から回復したようだ。不敵にレイスを睨み付け、舌なめずりをしていた。


 そしてレイスも、余裕を取り戻したのか冷静にサイードを見つめていた。

 その周囲には、半径三メートル程の円が白い線で地面に引かれていて、サイードはそれが気に食わないと言いたげに一瞥する。

 本来、優勝者は手合わせを願うという形で試合を行う。言わばこれは、優勝者の為というよりも、他国に自国の戦力を見せ付ける為のものだ。

 そして、試合そのものも、結局はスカウト目的もあるので、これだけの手練れが自国に下っているという牽制にもなる。

 そもそも、騎士団団長たる者、そう簡単に負けることはないのだ。だからこそ、ハンデとしてレイスはその円の中だけしか動けないのがルールである。


 これは、サイードにとってもとても煩わしいルールであった。

 その円から出られないということは、自分が打ち込まない限り接近できないということなのだから。


 どうするか、と考えている間に、大袈裟な開始の笛が吹かれ、盛大な歓声と共に試合が始まる。


「遠慮無く来ればいいさ」


 ニコリと舐めてかかってくるレイスだが、彼もサイードの力量の一端を森で垣間見ている。決して、油断をしているわけではない。


「その円、邪魔なんだが」


「ルールだから、仕方無いさ。私にはどうにも出来ないよ。……君が消してくれれば、問題無いがね」


 その言葉に、サイードが四方に立つ騎士に視線をやった。


「じゃあ、消すまでお互い手は出さないってことで良いな?」


「君の言葉を信用して、一度痛い目見ているからな。約束はしない」


 レイスの瞳に一瞬だが黒い光が掠める。おそらく、森で迷いかけたことを言っているのだ。

 「ねちっこい男は嫌われるぞ」とサイードは返しながら、視線はもう一度白い線へ。どうやらそれは、石灰か何かで書かれているだけのようだ。


 それなら、とサイードは走った。

 レイスが警戒を強めて動きを追い、剣を握る力が増す。サイードはそれを無視して、剣で線を一閃。そして、ほとんど空になっていた男装魔術師の魔法に自身の魔力を僅かに上乗せして、小さな風の刃を作り出した。

 それには殺傷能力はほとんど無く、線を刻むというよりも周囲の砂を小さく抉って上から隠している。自身も線の上に足を滑らせ踏み消して、円はすぐに消えた。


 この奇行に驚いたのは観客である。始めは、サイードが強気で攻めていったのだと勘違いして興奮で唸ったのだが、まさかこのようなことをするとは。ざわりざわり、と周囲が騒ぐ中、一度開始位置に戻ったサイードは、剣を肩に乗せてニヤリと笑った。


 そして、レイスではなく軽く首を上げて周囲に大声を張り上げる。


「我らが団長の全力、是非見てみたくは無いか!?」


 空いている手をわざとらしく広げてアピールをし、サイードはレイスも戦えるように仕向けていく。


「観客は目で、俺はこの身で! もし俺が勝ったら、それはそれで一興だろう!?」


 言葉そのものは、立場も何もあったものではない。当然、騎士達は馬鹿にされたのかと眉を顰めるのだが、平民の観客達は大いに沸いた。

 次第に、促しの合唱をしだし、進行役が咎めるも収集が付かない状況にまで発展する。

 そこでやっと、サイードはレイスへと視線を戻して一言。


「これなら問題ないな?」


 そう言って笑った。


「民の期待に応えるのも、我々の役目だからね。これなら、仕方が無い」


 レイスも、消された後がはっきりと残る線に目をやり、まるで不本意だと言うような態度を取りながら歩く。

 サイードも合わせて一歩を踏み出し、騒ぎは合唱から再び歓声へと切り替わった。


 レイスは、型にのっとった構えで歩きながら線の跡を踏む。

 サイードは、肩に乗せていた剣を体の横にエッジを下に向けて構えて片手で振るう、いつものスタイルにもっていく。


 二人の足並みは次第に早まり、そして――


「君を私は認めない!」


「はっ! てめぇに認められたって嬉しくないなぁ!」


 美しい金属音と共に、お互いの誇りが交差した。


 ギリギリと僅かに押し合い二人ともが飛び退くように離れるのだが、表情の違いが大きい。サイードは楽しそうに笑い、レイスは怒気を含んだ厳しい顔だ。


 一方が一歩動けば相手も動き、二人は其々で隙を窺う。その様子を、気付けば会場の誰もが固唾を呑んで見守っていた。


 ただ、その中でサイードに期待を寄せる人間はいないだろう。皆、考えるとしたら精々が、あの小僧は我らがレイス様を相手にどこまで粘れるのか。

 サイードも実はそうであった。精霊や陽の精霊王の力を全力で使えば、少なからず自信は持てる。しかし、剣術のみだけではセンスは勿論のこと、経験が重要だと分からない程馬鹿では無いし、自惚れてもいない。


「ま、存分に俺の礎になってくれってね」


 ふわり、とその足を柔らかな風が包む。僅かに身体を落とし、サイードは一気に間合いを詰めた。

 当然、レイスは素早く反応して下半身に力を込める。


 金属音はまだしない。


 サイードは、素早くレイスの目の前にまで迫っていったのだが、そこでは剣を振らずに跳躍し背中に回った。

 そして、躊躇無く胴体を分断するつもりで一閃する。


 観客が悲鳴を上げる暇も無い動きだった。


「……甘い!」


 しかし、そう簡単にいくのなら、レイスは団長の座にはいないだろう。


 響く金属音。レイスは後ろを振り返ることなく、両手で前に構えていたはずの剣を逆手に持ち替えて攻撃を防いでいた。

 そして、すぐさま構えを直して身体を動かし、攻撃後に出来る隙を狙い反撃を繰り出す。


 サイードが剣を片手持ちするのは、剣そのものが軽いから為せる技でもあるが、それ以上にその俊敏性にあった。

 上からのレイスの攻撃は、お得意のバック転で避ける。地面に手をついて中腰となった体勢を立て直すことなく足に力をいれ、そこから再び接近。


 それも簡単に防がれてしまうのだが、お互い攻撃と反撃を繰り返す形でそのまま剣の打ち合いとなり、まるで曲を奏でているかのように会場に美しい音が響いた。


 観客の誰もが、男ですら、両者の剣技と姿に見惚れた。


 暫くは、打ち込めば払われ、払えば打ち込むという動きが続き、その途中で何度か押し合いをし、その度に二人は瞳で会話をしていたのだろう。

 サイードはいっそう笑みを深くし、レイスは怒気を濃くする。


「姫様は、契約されている精霊と、とても親密な関係なのだ」


 しかし、それは突然であった。何度目かの剣の交差の際、レイスは囁くように声を発した。

 その瞬間、サイードは不吉な予感を抱き、それこそ飛び退く。

 僅かに開いた距離。永遠に続くかと思われた攻防は一端中止となったのか、二人は若干息を荒げながら対峙に戻る。


 サイードの顔から笑みが消えた。


「その精霊が、とても興味深い事を教えてくれたそうだよ」


 止まっていた思考が、フル稼動する。王族であるお姫様の契約精霊は風の精霊王の眷属である悪戯妖精(シルフ)だ。その精霊は臆病で用心深いが、一度信頼を得られれば強い絆を結ぶ事が出来る。

 しかし、ルシエの存在は精霊にとって例外で絶対であり、何を不安に思うことがあるのだろう。

 万が一、仮にだ。お姫様がルシエ同様、精霊と意思疎通を図れ、そして精霊がルシエの存在を明かしたとしても、少なくとも彼女が障害になることは無い。この仮定自体、かなり確立の低い事ではある。

 ただ、ルシエは自分だけという驕りは抱かない。自分だけは特別だ、という感情を許さない者だった。


 だからこそ、その懸念を抱くことが出来るのだが、戦いの最中ではあったが視線を来賓席に移せば、そのお姫様は明らかに頷いたのである。それは、確実に意味を持ち、訴える仕草だった。


「君は、精石を壊す為にこの国に来たのだろう?」


 珍しく、サイードの目が大きく開かれて驚きを露にした。

 お姫様にだったのか、レイスの言葉にだったのかは分からない。

 しかも、何かを言う前に、まずは身体を動かすことに集中しなければならなかった。


 勝敗を競うというのに、相手の意識が移ったのが分かりながら黙って待ってくれる者はいない。

 そもそも、レイスはそれを見逃す未熟者でもない。


「余所見は禁物だ」


 頭上からの素早い一撃が、サイードを襲う。


「わざとだよっ!」


 サイードは慌てて剣を翳し、腰が落ちかけながらも片手を剣身(ブレード)に添えて踏ん張り、大きな舌打ちと共にレイスの足を素早く払った。


「なっ!?」


「くそっ」


 咄嗟の行動でレイスは見事に体勢を崩し、サイードへの注意を怠る。

 しかし、不安定な体勢で防ぎ、そのまま攻撃に転じた為に耐える力が弱まったせいで、サイードの剣が宙を舞った。

 このままではまずい、と腕を支えにレイスの腕を蹴れば、二本の誇りが地を叩く音が重なった。


 そして距離を取ったサイードは、やっと、お姫様に対して余計な事をと毒付くことができた。焦るなと自身を律しながらも、その表情は険しい。


 考え通り、精霊がお姫様に教えたとしてもそれは障害にならないであろう。ただ、だとしても、お姫様が信用した相手がルシエにとってもそうなるとは限らならない。


 どうするべきか必死に考えるも答えは一つしか無く、しかもそれは、早急に対処せねば今後を危ぶむが、今実行するのは厳しいという最悪の展開だった。


「焦っているようだね」


「……てめぇ」


 レイスは笑っていた。それも、してやったり顔である。

 今度はサイードが怒気を含むこととなった。その感情のまま、レイスの懐へと入り拳を繰り出す。それはあっさりと避けられ、彼から一撃を貰ってしまうが、それでもサイードは怯まず蹴りを脇腹に入れダメージを返した。


 体術に関して、ルシエはまったくの素人ではなかった。

 地球でのトラブルが増えていった折、その対処法を会得する為に幾つか身に付けていたりするのだ。

 ただ、与えられるダメージの値は両者に大きく差があった。

 サイードは、思わず自分が女であることに憤りを感じてしまう。普段であれば、ふとした拍子に忘れてしまう事実であるが、肉弾戦の際にそれが如実に表れるからだ。

 いくら戦術で補おうとも、体力や力の差はどうやっても男を越えられない。一刻も早く、剣を取り戻さなければならなかった。


 目的を知られている時点で、これは試合の枠を外れている。


 レイスは国を護る騎士だ。そしてサイードは、国を壊す敵である。そんな両者が剣を手に相対していたら、そこにあるのは生と死。


「俺を公衆の面前で殺すのが目的か」


 もし、レイスが騎士では無く、その秘密を明かしたのがお姫様じゃなければ、サイードははぐらかす選択を取ったかもしれない。しかし、忠誠を誓い誓われる関係の者に知られた時点で、それは通用しないだろう。

 半ば自棄になりながら、サイードは問うた。


「……聞きたいことがある」


 ところが、ここで予想外の事が起こった。

 騎士であるレイスが、あろうことか答えをはぐらかしたのだ。


 流石のこれには、サイードがあからさまに訝しむ。口元を垂れてくる血を拭いながらレイスを見ても、彼は動く気配がなかった。


 お姫様の精霊や彼女自身、そしてレイスも何がしたいのか。自分に何かを抱いているというのはサイードも感じていたが、初めてその内容に疑問を抱いた。

 立ち塞がるつもりか、利用したいのか。まさか、協力したいだとか、仲間になるつもりがあるわけではあるまい。

 自分の目的に関することしか気にせず、周囲に気を配らない不注意が起こした結果が今の状況ではあるが、何にしろどれをとっても全てが迷惑である。


 レイスは一瞬顔を伏せ、次にサイードを見た時、彼は意を決した表情をしていた。


「君は何の為に剣を持ち、そして何の為にそれを振るう?」


「どういう意味だ」


「良いから、答えろ」


 しかし、口を出たのはまったく脈絡の無い質問。サイードは困惑する。何がしたいんだと目で訴えるも、レイスは答えるまで動かないと思えた。

 流石にそんな状態の相手を攻撃してしまえば、観客からは大ブーイングをくらってしまうだろう。それに、今更ではあるが、その真意を探らなければならない。


 仕方なく、サイードは質問に答える為に考えた。ただ、先ほどの質問は考えた事の無いもので、眉間に深く皺が寄っている。


 サイードにとって、(ぶき)とは殺すのに必要で、殺すのは邪魔だからである。

 しかしそれは、レイスの知りたい答えではないだろう。

 何故なら、武器の役割や殺す理由にはなれど、サイード自身が持ち、使う理由にはならないからだ。


 だから、さらに深く考えていく。

 邪魔なのは、進まなければならない道を塞ぐからだ。では、それは何故か。


 そうやって、一つ一つを掘り下げていき、とうとう辿り着いた答えはシンプルで、とてもらしい(・・・)ものであった。


「……そうだな。強いて言うなら、俺自身の為だ」


「なんと愚かなっ!」


 その答えが全てである。ただそれは、レイスにとって到底理解し難い答えだった。

 一瞬にしてレイスの表情は嫌悪に変化し、まるで目を覚まさせようとするようにサイードに拳を繰り出す。

 それを避けつつも、サイードは思った。こんなものに、正解な答えなどあるのだろうかと。

 そもそも、何故人間は、物事に対して逐一意味を求め、想いに理由を求めるのか。

 分からない、とサイードは呟く。その先にある価値が分からない、と。


「人は、自分以外の誰かを護る時にこそ、人知を超える力を発揮する! なのに君は、力がありながら己だけの為に振るうのか!?」


「ありきたりな名言をどうも。しかし、それは絶対か?」


 今や戦いは、ただの殴り合いとなっていた。しかも、正反対の思想まで引き合いにされてだ。


 答えを求めること自体、サイードには無意味なことである。

 何故なら、正しい答えが存在する数学にさえ、そこに辿り着くまでの計算式にはいくつかのパターンがある。それも、複雑になればなるほどだ。

 そこでは、一番シンプルで簡単にまとまらず、無駄に幾つもの公式を用いて遠回りしてしまったとしても、同じ数字(こたえ)に辿り着く。それも模範解答にはならずとも当然正しい答えであり、正解を導いてくれる過程だ。


 考え方、思想もそれと同様、同じものでも掘り下げていくと違っていたりする。そこには果たして、間違いがあるのだろうか。そもそも、こういったものに正解や間違い自体がないのでは――

 基準として、常識と非常識があり、それで分けられるだけではないのだろうか。


「君は、人を切る際に何を思っていた?」


 レイスは、サイードの問いに答えなかった。まるで、都合の悪い言葉は聞こえていない様だ。

 そのくせ、自身を価値観はさも正論のように翳してサイードを諭そうとする。


 両者、既に激しく肩で息をしていた。

 サイードに至っては受けたダメージが大きく、若干足元が覚束ない。片目は殴られたせいで腫れてきており、全身にも痣が出来ている。

 レイスは、そこそこ負傷はしているがサイード程ではなかった。もし彼が、サイードが本当は女性だと知れば、一体どういった反応をするのか。平気で殴っている様子から、是非とも知らないと思いたいものだ。

 でなければ、些か風の国の騎士の有り様に疑問を抱いてしまう。


「何も……。別段何も考えていないが? 俺にとって殺すことは、食事や睡眠と然して変わらない。だが、それが何だと言うんだ」


「駄目に決まっているだろう! お前の正義は、一体どこにある!?」


 頬に一発大きく攻撃をくらい、サイードは地面に倒れ身体を滑らせた。

 予選であれば負けと判断される程のものであるが、最早二人には周囲の声など聞こえておらず、誰も止められない。そもそも、誰も止めようとしなかった。

 ここまで騎士団長相手に粘り、しっかりと試合が出来る者は滅多に居ないのだ。


 サイードは赤い唾を地に吐き、新たに流れた口元の血を乱暴に拭い、痛む身体を無視して起き上がる。そして、膝に手をついてレイスを見やった。


 彼は何を言いたいのか。自分に何を求め、どうしたいのか。そう思いながら、叫ばれた言葉を脳に届ける。

 ルシエだって当然、その手を初めて赤に染めた時には、何かしらを抱いたはずだ。心は確かにある。ただ、そこで抱いた何かを考えた末、そうした自分が出来上がった。それだけである。

 ゆっくりと膝についた手を離し身体を完全に起こせば、頬を鋭い痛みが襲い、小さく呻き声をあげながら顔全体を覆うように片手で押さえた。


 指の隙間から見えるレイスは、一体どう映ったのだろう。


「……正義?」


 サイードはぽつりと呟いた。そのまま、同じく肩で息をするレイスを穴が開くほど見つめる。

 何度も何度も正義と呟き、そうする度にだんだんと口元がヒクつく。

 そうして何度目かの正義を発した直後だった。明らかに口角が上がり、サイードは両手で顔を覆った。


「くっ、くはははははは!」


 まるで泣き笑いにも思える姿だった。顔を上に向け両手で隠し、しかし聞こえる声は愉快で堪らないと言っている。

 おそらく、レイスの言う正義とは、人に優しくしたり、困っている人を助けたり、そういった類の人の道理というものだろう。善意、良心、愛情、慈愛。そういったものを寄せ集め、固めたもの。

 それは、レイスがどんな人物だと思っていたにしろ、ルシエにだって存在し、過去に行動で示したこともある。


 一頻り、サイードは盛大に笑って表情を隠す手をどけた。その下には、瞳を見開き心底人を馬鹿にする表情があり、両手を広げながら叫ぶようにレイスに言った。


「なら聞くが、お前の言う正義とは、正しい道理とは何だ? 困っている者を助けるのがそうだというのなら、悪事を働いてそれを隠そうと必死になっている奴に手を差し伸べるのも、正義になるじゃないか」


 それ自体は言葉の文である。しかし、いつだって何かを決めるのは人間で、決めたのも人間。

 ならば、否定をするのも人間だ。


 あれはダメ、これはイイ。

 何故、どうして、だから、だとしたら。


 そうやって意味を求め、区別したがる生物は人間以外にいない。それが知能が高いからこそなのか、そうではないのかは誰も知らない。

 だからといってどうこうなるわけでは無いが、ルシエに可笑しさを抱かせるのは、それを他人に押し付けようとすること。


 善悪を区別することだった。


 しかしそれは、なんとも曖昧であやふやなことだろう。もし人間が、他と同じように武器も持たず生身だけで食物連鎖の枠にはまっていたとして、そうしたらそこに、人殺しという罪は存在するのか。

 弱肉強食の世界で必死に抗い、生きるために同種を見捨てたり、仕方なしに殺したりすることは罪なのか。


 答えは否だ。


 でなければ、自然界が成り立たなくなってしまう。肉食獣が他種を食らうことや、子が生まれた際に親を食らうこと。そういったもの全てを、自然の摂理といえなくなる。


 人間とは愚かなもので、そういった光景を見た時には残酷だと評するが、結局は仕方が無いと身勝手にのたまう。

 そうして、自身に影響が及ばない限り、まるでまったく別の立ち位置にいるかのように振舞うのだが、人間の築いている足場、決めてきたものというのは哀れな程に脆いものだ。

 たとえ現実はそうでは無いと言ったとしても、何時どのような形で変化するとも限らない。


「それは違う! 私達は見極める頭と心を持っている。だからこそ、善悪が存在するのだ!」


「なら、俺は人間では無いと? だがそれは、何を基準に定められる。心か? 法か? それこそ簡単に変化するし、そうすれば悪法も存在しないだろう?」


 理解出来ない。お互いが全身でそれを訴える。


 ただ、サイードは考えを言葉にしながらも、自分でそれを否定していた。

 そう思いながらも、ルシエ自身、地球に居た時には今と同じように行動していたわけでは無い。社会では法が定められており、それを犯せば待つのは償いと責任だ。

 アピスに来たからこそ、目的があるからこそ、ルシエはその為に人を殺す。逆を言えば、だからだ。だから、殺すことに罪悪感を抱かず、快楽も抱かない。

 ただそれは、心のどこかで自分は救世主だからと驕っている結果なのかもしれない。割り切っているのかも。

 それに気付いたとしても、ルシエはそれを省みることはないだろうが、とにかく、二人の関係はまさしく水と油であった。両者が相容れることは難しすぎるだろう。


 しかし、二人には決定的な違いがある。

 自分の考えが正しいと信じ、諭す風を装いそれを強要するのがレイスだとすれば、正しいとは思わず、誰にも関係無い自分だけの事だと分かっているサイード。

 常識での正しいは当然レイスだ。人の築く社会で生きる(・・・)のなら、サイードは悪である。


「だから君は、そのような瞳をしている! 死を招く色を持っている!」


 ただ、レイスの言葉は大きなお世話であった。

 サイードは人間だ。ただし、人であることを捨てた人間。意志を持っているだけの生物で、意志を持つからこそ他の生物を代表して世界を担ったのである。

 人にとって不幸だったのは、選ばれたのがそんな考え方の同種だったということだろう。


 お互いに攻撃もせず立ち尽くしていたが、サイードはこれ以上この押し問答を続ける気が無かった。

 素早く視線をレイスから外し、自分の剣を探せば直ぐに見つかる。


 剣は指輪に変える事は触れていなくとも可能だが、呼び寄せる万能な機能は持っていない。その手で、その足で掴み取るしか無く、その距離は少し走れば届く場所にある。ただ、それは相手も同じ。


 それでもサイードは、迷わず駆けた。


「っ!」


「くっ!」


 その動きに素早く反応しレイスも行動を起し、最後の誇りのぶつかり合いとなった。

 高い音と共に、一本の剣が再び宙を舞った。






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