つまらないのは、満たされているからだ
今日もまた平凡な一日が終わる。
周りがざわめきながらこの後のことを相談し合ったり、ただ笑い合ったりしている中、独りごちて鞄を手に教室を出る少女が居た。
名を河内紗那という少女は、いつも通りファミレスのバイトに励んで、夜も更けた頃に家へと帰り着く。
日本人の特徴である黒い髪は腰まで長く、瞳も同じく黒い。一般レベルの高校に通う普通の少女であった。ただし、少しばかり複雑な家庭で、尚且つ独特な性格と体質を持っているのが、彼女から人々を遠ざけがちだ。
バイトで疲れた身体を引きずりながら暗い家へと辿り着くと、紗那を迎えたのはリビングのテーブルの上に無造作に置かれたお札だった。
「律儀なのか、なんなんだか。わざわざ預け入れなきゃいけないこっちの身にもなってほしいよ」
というか、こんなにあっても困るんだけど。そう言いながら手に取った紗那は、暫く黙ってそれを見つめる。彼女は父親と母親、そして自分の三人家族であった。過去形であるのは、とうの昔にその両親は家に寄り付かなくなり、今や繋がりは金銭面だけといえるからだ。
しかし、それを悲んだり寂しいと思わないのが紗那という少女である。
本人はそれで良いと思っており、むしろそう思うのは駄目なのだろうかと疑問に思っている程だった。
つまらない奴、可愛げのない奴、可哀想な奴、寂しい奴。紗那と関りを持った人は、決まってそう言う。彼女にも少なからず友人がいて、関係を持った異性だっていた。しかし、現在では全てが思い出であり他人になっていた。
「お風呂、入ろう」
高校生が持つには聊か多すぎる金額を財布へと仕舞った紗那は、荷物を無造作に近くのソファーへと置いて風呂場へと向かった。
そうして脱衣所にて、制服を乱雑に洗濯機の上へと放りながら考え事をする。
子供の頃はそれなりに愛嬌のある普通の子ではあったが、今ではあまり表情が出ない。年々、両親の仲が険悪になっていくのと同時に真逆に成長していったのだ。
しかし、それが関係していたのは明白だったが、本人曰く原因では無いという。やっと素でいられるようになったらしい。
色々な人に、聞き飽きるほど捻くれてると表される子ではあったが、紗那はそんな自分が嫌いではない。
ただ、最近何度も思い出すのが、高校に上がる少し前、近くの公園で出会った人物についてだ。その人だけが、紗那を優しい子だと言っていた。
「君は、優しさというものをちゃんと分かっているんだね」と、無駄に整った顔で笑っていた。
ほんの数日前まで忘れていたというのに、何故かここ最近、その人物の記憶ばかりが紗那を占める。
全裸になり、シャワーを浴びて一日の汚れを落として、その間に溜めていた湯船に身体を沈めながら、紗那は「うーん」と唸った。
「確か、この世界を好きかと聞かれて……」
本人にとって、この行動は無意識であった。気付けば何故か、記憶を掘り起こして唸る毎日。まるで何かの前兆のようだと感じている。
「色々話した最後に、何だっけ」
チャポンと目の前の水を無意味に掬いながら、さらにその人物との会話を思い出そうと頭を捻る。しかし、一番重要な部分を思い出せずにいた。
仕方なく、その人物の姿からおさらいしていこうと掬った水を戻し、鼻の下まで身体を落とす。
ブロンドの肩までかかる綺麗な長髪に、透き通るようなブルーの瞳。正確な身長は知らないけれど、細身の身体付きが印象的だった。
ただ、そこらの俳優よりも格好良い容姿のくせして、口調がなよなよしているのが勘に触って苛々した覚えがある。
「ひっさしぶり~ん。いっやぁ、見違える程に育っちゃって、まぁ!」
紗那は、思考の海に沈みすぎていて気付いていなかった。一人であったはずの風呂場で、自分以外の声が響いたことに――
「それで、君ならとか何とか言われて、確か最後に」
「もし僕に限界が来たら、力を貸してくれるかい」
喉元まで出かかっていた答えは、直ぐ隣から授けられた。
そうだ、そう言われたんだと瞠目する。しかし、深入りすれば後戻り出来なくなる気がして、追求しなかったんだと、当時の心境も思い出した。
「今でも、この世界は好きかい?」
何故ならあの時も、こんな風に寂しく笑っていたから――
と、そこでやっと、紗那は自分の思考の可笑しな点にやっと気付いた。ハタと目を瞬き、ゆっくりと横に視線を向ける。
「やっほ~。やっと気付いたぁ?」
「は? ……はぁ!?」
驚きに思わず立ち上がり、口を無駄に開閉させて、言葉にならない声を上げながら指を差したその先には、今の今まで紗那の頭を占領していた人物と寸分違わない人物が居た。
ただし、浴槽の縁に顎を乗せ明らかに鼻の下を伸ばし、身体を上から下まで隅々観察している男が、だ。
「女の子の成長は著しいねぇ」
「っ――! こんの、変態!」
そして、男が発した言葉に自分の姿を思い出し、顔を真っ赤に染める。
次には叫びながら、素晴らしいフォームで繰り出された右ストレートが、男の顔面へと炸裂した。
「うぼぅふっ!」
嫌らしい視線に思わず出た手がしっかりと現実だと教え、けれど羞恥が大きすぎたからか、沙那は混乱していてしっかりとした思考が出来ない。
とはいっても、全裸を見られたことに対しての感情よりも、自分の無防備な姿を見られていた事の方が、紗那にとって恥ずべきことであった。
「あぁ! お風呂に鼻血が!」
風呂場には、紗那のズレた悲鳴が響き渡った。