エピローグ
アピスでは、精石と呼ばれる全ての基盤である精霊の王から授けられた恩恵により、十の国に分かれていたとされる時代があった。
けれどもある日、その精石は突然砕け、そうして世は混乱の時代を迎える。人々はそれを、いつからか悪魔期と呼び、歴史として語り紡ぐ。
精石を失ったことにより、何年か続いた悪魔期に於いて何度も戦いが巻き起こり、新たな国が誕生しつつ幾つかの国が滅んだ。
そして、後に訪れたのが英雄期と呼ばれる、若い王たちによって築かれた時代だ。
この時代によく語られたのが三人の王で、それぞれが太陽王、賢王、星王と民に称えられたのだが、ただ一つ不思議なことに、交流の深かった彼等の出会いだけは誰も知らなかったらしい。
当時、内乱から復興したばかりで弱小だった陽の国を悪魔期から守りきった、太陽王ティルダ陛下。甚大な災害にも屈せず、大国として堂々とし続けた風の国の賢王シルフィード陛下。民族としての悲しき運命を独創的な案で覆していき、耀かしい女王として君臨した星王アナスタシヤ陛下。それぞれで素晴らしき才覚を発揮した彼等は、長年に渡り深い交流を持ち続けたという。
王らしく国としても、数少ない信頼できる友人としても――
さらに謎とされたのが、生涯婚姻関係を結ばなかった星王が宿した子の父と、生涯正妃を迎え入れなかった太陽王の関係である。それもまた、おそらく賢王だけが知っているのだろうと、誰にも明かされる事がなかった。
さて、この物語を手に取った者ならば、疑問に思うことがあるはずだ。
そう、精霊王が居て、精石があり、そしてそれの破壊がくれば、最も語られるべき存在がそこに居る。時代ではなく存在として、破罪使たち悪魔は欠かせないだろう。
けれど、地上にある悪魔期について記された文献を読み漁り、英雄期の礎となった書物を探しても、どこにも悪魔と破罪使について残されてはいないはずだ。
払われた犠牲や現れた存在。成り立った物事全て、まるで幻だったように地上からは消え去っている。
ムスイムの内乱はただの内乱として。ウェントゥスの死神の鎌は、竜巻という災害として――
大きなものは当然、些細な出来事さえ残さず全て、人々の記憶から奪われていた。
当然、そんなことは魔法であっても出来はしない。それを越える力が及ばなければ不可能だ。
その理由を三人の王は勿論、破罪使たち悪魔と深く関わった者達は知っている。知っているから、生涯明かさなかった。
だからこそ全員が、英雄期に様々な形で語られたのだろう。
破罪使たち悪魔は確かに居た。破罪使が精石を壊し、悪魔が人々に混乱を与えながら、世界を担う精霊王が結んでいた約束を壊した。
けれど、進んだ道の途中で重ねた罪の殆どは、災害として記憶を塗り替えられ、気付けば時代へと変わってしまう。
そんなこと、知っていれば納得出来ない者ばかりだろう。罪から逃げるなど、許されることではない。
だからこそ、破罪使たち悪魔に深く関わった者達は選択した。
一人一人の前に姿を現した、翡翠もしくは水晶の言葉に悩み苦しみ、二つに一つを選ぶ。
「忘れるか、秘めるか。これは約束ではなく、契約だという事を忘れるな」
王であれ何であれ、人間である限り、選ばずに終わる事は無理だった。
それを提示した者は、比べることすらおこがましい高みに在る。彼等は、自らの約束のため、そうすることを選び実行していた。
そうして覚えている者は秘めることを選び、許せない者は忘れる事を望んだのだ。
天使軍はそのあり方を変え、国に拘束されない中立軍として異世界人である勇者が率いることで存続する。彼もまた、英雄期を語るに欠かせない英雄だ。
夾の仲間として、共に世界中を駆けたのは二人の仲間。三人は度々、二人の師匠に助言を求めつつ、必死に日々を生き抜いたそうだ。
そして、英雄期で目立って語られたわけでは無いが、長年の戦歴に於いて利き腕を失いながらも賢王を護り時に助言をしていた道化師もまた、選択した一人である。
地上にて、秘めることを選んだのはこれで全て。たった、たったの九人だけが、彼の存在を心に残した。彼等は事ある毎に空を仰ぎつつ、想ったそうだ。
与えられた言葉や苦しみ、抱いた想いに届かなかった悲しみ。そこから様々呼び起こしながら、そうしてそれぞれ戦ったという。
戦って、相応しい時に相応しい形で没していった。彼の存在がどういった結末を迎えたのか知らないまま、自身の物語を閉じていった――
けれど、破罪使たち悪魔は形を変え、悟られることなく一つの何かとして残っていたりする。
天上から降り注ぐ羽根として、人々は知らずそれを声に乗せた。
捻くれ少女の物語が終わってから、九年後の世界をせっかくだから残しておこう――
国に属していない村も増えたその後のアピスにある、長閑で穏やかな小さな家から、生まれて数ヶ月の幼い命へと歌を語る母親が居た。彼女は愛する子供が眠ったのを見届け、静かに窓の外へと目を向ける。
家のすぐ傍を流れる川のせせらぎや、風に揺れる木々。広がる青空も、日々を生きて行く上でとても美しく彩ってくれる世界の一部だ。
まだまだ若く美しい母親である女性は、優しい笑みを一つ子供へと向け、立ち上がってするべき用事を済ませていく。
きっと、お腹を空かせて帰ってくるだろう。だから自分は、美味しい食事を用意して出迎えるのだ。それを考えるだけで、幸せが胸に広がった。
「ただいま、かあさま!」
そうして、空が鮮やかな夕陽色に染まる頃、待ちかねた存在が二つ、家へと戻ってくる。一つは豪快に扉を開けて母親へと抱き着き、周囲を満たす香りに鼻を動かした。
「おかえりなさい。今日も一杯、とうさまと稽古できたかしら?」
「うん! そういえば、アンナ姉がまた料理を教えて欲しいって、フレデリク先生が言ってたよ」
「なら、明日にでもお邪魔しようかしら。そろそろアンナも、一人で日中を過ごすのは不安だろうから」
日に日にやんちゃになっていく五年前に生まれた息子を抱き上げ、泥でアクセントを付けた笑顔を笑った母親は、たどたどしい彼の言葉を正面から受け止めて、近くに住む自分より若いもう少しで母親になる友人を案じる。
けれど、それを息子に感じさせたりはせず、一日の報告を聞きながら中々家の中に入ってこないもう一つの存在を待ちわびた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
暫くして、やっと出迎えることができたのは、夫であり、父親でもある男性だ。彼は、息子以上に泥をつけた姿で笑いながら、愛する妻に優しく口付ける。
「まあ、どうしたの?」
「久し振りにフレデリクと試合をしたら、熱が入りすぎて。アンナのことは聞いたかい?」
「えぇ。明日、様子見がてらお邪魔しようと思っているわ」
クリーム色の髪にまで泥を付けている男性に「落とそうとして、中々家に入ってこなかったのね」と納得しつつ、女性は「湯浴みの用意が先ね」とやんちゃな二人の鼻を摘んだ。
絵に描いたような幸せな一家である。愛し合う夫婦と、その結晶である二人の子供による日常。
元は騎士だった男性は、小さいながらもそこそこ評判のある道場にて剣の指南をしており、女性は一風変わった味付けの料理が好まれ、度々近くの者達にそれを教えている。
男性は、朗らかな笑みを零しながら湯浴みの用意へと走った女性が靡かせた金の髪を眺めながら、ぽつりと「もう九年か」囁き、もう一人の幼い子供の元へと向かった。
そして、触って泥でも付けたら怒られてしまうだろうと、愛らしい寝顔を見るに留めふと思い出す。
「出会ってから九年……。ずっと、このままで居ような」
幾つか歳が離れた、けれどもどちらも中々に美しいこの夫婦には、一つだけまともではない共通点がある。
それが、二人共が九年以上前の記憶を持っていないことだ。
男性はまだ、知人だったという者が傍に居たお陰で、自分が騎士で任務の最中に事故で記憶を失ったという過去を知っている。その後、国からの保障もしっかり受ける事ができた。そうして現在、騎士の職は失いながらも、剣で食べていけている。
けれど、そんな男性の前に突如訪れ、結果的に愛を育んだ女性は、未だにどんな人生を送っていたのか分からぬまま日々を過ごしている。彼女はそれを運命として別に構わないと言っているが、時たま夜中に魘されているのを彼は知っていた。
「どうしたの? まさか、泥を付けたりしてないわよね?」
「勿論。そうすれば君に怒られてしまうからね」
小さな不安が胸を過ぎった時、背後から掛けられた声が男性を現実へと引き戻してくれる。「なら良いわ」そう言って隣に立った愛する妻が、彼は愛しくて仕方が無い。
ずっと、この幸せが続くように――
そして、仲間外れを嫌うように足へしがみ付いてきたお兄ちゃんを笑ってから、男性は言った。
「愛してるよ」
そうすれば、その言葉を贈られた女性もまた、同じ想いを胸に抱きながら金色の瞳を細めて笑った。鮮やかな金色の髪と瞳は、まるで月のようだ。
「私も愛しているわ、レイス――」
ずっとずっと、この幸せが続けば良い。夕陽が沈み輝き出した月もまた、知っているからこそ、心からそう祈る。
記憶を失い新たな名前を得ただろう女性が夫の首へと腕を回せば、彼女の黒い十の爪がクリーム色の髪を絡めていた。
何が罪で、どれが罰になるのか。何が幸せで、どれが悲しみなのか。
判断出来るのは本人だけで、どれが最も相応しいのかは分からない。
けれど、このまま目覚めないままでいて欲しいと、願わずにはいられない。
結んだ約束と繋がってしまわず、再会することもなく、穏やかさだけがあればいいと――
もちろん、犯したものを考えれば、たとえ覚えている者が少なかろうがそんな甘えは許されないだろう。けれど、古の魔女が最後にかけた魔法で、罪なき者が生まれてしまった。
罪なき者に与える罰などないのだから、せめて十二分な幸せで満たされるまでは、物語が眠ってくれるよう祈りたい。
そうしてその先に訪れる未来にて、世界が語るべきと選んだならば、この本もまた再び誰かの手に取られることだろう。
全ての結末は常に、完成された物語の中に眠っている。
温かな家族の時間を過ごした女性は、そうして月が見守る時間に上の子供と同じ寝台へと入り、彼は大好きな母親へいつものおねだりをするのだ。
「かあさま、いつものお話をして」
「ふふ、仕方ないわね。――とある二つの国を隔てる山に住む、一人の女の子のお話です」
そうして女性は、彼女が唯一覚えていたお話を静かに語り出した――