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その背に黒の羽根を  作者: 林 りょう
第九章:捻くれX真実の行方=再会
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新たな物語を始めよう



「俺の勝ちー。いや、俺達の勝ちって言うべきか」


「あぁ、もう! 本当に、してやられたわ! なんで私は、あなた達二人を選んでしまったのかしら」


 前方では、男が当然だと言いたそうに朗らかから一転、サイードに似た笑みを浮かべており、背後からは感情的に叫んだ死の精霊王の声が響いてくる。

 けれどもやはり、紗那は状況が掴めないままだ。


 なのに、死の精霊王から紗那へと視線を戻した男は、彼女にだけ純粋に嬉しそうな表情を向けて近寄ってくる。

 不思議な恐怖が紗那を襲うが、意思に反して身体は動かなかった。


「不思議な家は魔女が魔法を掛けた、精霊の王子様でした。彼は、見事暗黒の竜を討ち滅ぼしたのです」


「けれど、暗黒の竜もまた、魔女に姿を変えられたお姫様。彼女にも、隣に寄り添う王子様が居たんだ」


「でも、魔女も元は、お姫様だったはず……」


 背後では、死の精霊王が突如物語を語り出し、男が続きを紗那に教える。

 しかし、紗那も知っていた。真実を隠した、一つのおとぎ話を――


「そうだ。だから出会ってきただろ? 不思議な家を真正面から欺き、魔女は内側で騙し。そうやって、暗黒の竜が全てを制した」


「相打ちと言えるかどうかも微妙な終わり方だった」


 じりじりと、紗那がやっと闇を後退できそうになれば死の精霊王が邪魔をし、そうして困惑している間に彼女は男の手が触れるのを許してしまう。

 しかし、とても温かいと思っていたはずの手は、常にひんやりと冷たいはずの紗那でさえ凍えてしまいそうなほど、温もりというものを持っていなかった。

 紗那はその感覚を知っていた。別の形、別の世界で何度も感じた、人が持つ冷たさとはまた違う、温かさを失った冷たさ。死体の温もりというものを――


「…………え?」


「これでも思い出さないなんて。俺、まじで泣きそうだわ」


 今度こそ、薄い唇から困惑が漏れた。

 それを拾いながら男はクシャリと顔を歪め、必死に零して紗那を抱き締める。


 雨も血も、何も降っていないというのに、夾と再会した時のようなスノーノイズが耳に響いた。背筋の凍るような不気味な冷たさに、心が痛む。

 それでも紗那は何も、男に関して知っているという情報以外、何も自分の中から拾えないままで、それがどういったことなのか、とうとう悟ってしまう。


 魂を失うということは、それが育む人格や感情を形成してくれた光景――根源の記憶を失うということである。ある種、記憶喪失と言ってもいいのだろうが、厳密に言えば情報ではなく光景を失うのが魂の消失であり、取り戻す可能性が無いわけではない記憶喪失とは違い、魂は欠ければ二度と修復が不可能だ。

 だから、何度男について問われようが、いくらか記憶力がある紗那でさえ、どうやっても答えを出せないだろう。


 けれど、この先永劫を消費する身だ。暇つぶしに悩んでも良いし、性根の腐った死の精霊王を問い質したり、男から様々な手段で聞き出すのも一興かもしれない。もしくは、このまま知らないままが良いのだろうか。

 男の持つ冷たさで逆に落ち着いた頭を用いて、紗那がそんなことを考えている間にも、物語を終わらせたい二人は彼女を取り合うよう間に置いている。


「離れている間に、少しは落ち着きを身に付けてくるかと思っていたわ」


「俺は仕事とプライベートをしっかり分けるタイプなんだよ」


「本当かしら。あなたみたいなのが、物語を語り紡ぐなんて芸当、出来るとは今でも信じられない」


 二人とも紗那より身長が高く、頭上で交わされる会話だが、その声はしっかりと彼女の耳に落ちてきていた。

 「逐一腹立つ女だよな、あんたって」そう貶す男と、「こんな奴のどこに……」と呟く死の精霊王。そして、紗那はゆっくりと首を傾ける。


「物語を、語り……紡ぐ……?」


 本で出来た塔にて、純白と濃紺によって知らされた真実。彼等は居るべき者が不在となった一室を覘かせてくれた。

 そして、無限ともいえる闇の中、前後を塞ぐ二人もまた、おとぎ話を語りつつ物語を終わらせようとしている。

 一体誰の、一体どんな物語が閉ざされようとしているのか――


「…………私?」


「そう、紗那の物語を終わらせるんだ。だから俺も、その一部としてこうして再び会うことが出来た」


「私からの拘束を上回る力に選ばれ、語り部として対価を払い終えた結果、ね」


「じゃあ、全部を知って……?」


 黒と碧色を見上げれば、男は満足そうに、死の精霊王は不満気に否定をしない(・・・・・・)

 そうして、身動ぎして二人の間から出ようとすれば、黒い爪が紗那の顎を捕らえた。


「ちょっと、普通俺が先だろ」


「うるさいわね。もっと感動的にしたいのなら、少し黙っていなさい」


「いや、意味が分からないし」


「あなたを思い出させてあげるのだから、少し黙っていなさいと言っているの!」


 せっかく落ち着いた思考も、最後の出会いが衝撃へと塗り替えていく。そして、抵抗する間もなく、死の精霊王の唇が紗那のものに重ねられ塞がれた。


「っ――!?」


「うーわぁ……。だからって、その方法しかなかったのかよ」


 自分が男だったらきっと、天にも昇るような経験なのだろうなと、死の精霊王の美しさの一部、長い睫を見ながら思った紗那だが、柔らかい感触と共に闇の中で思うことでは無いなと異質さがおかしくなってくる。そうしてクスリと笑みを零しつつ、視界の端に映った男の絶望具合がさらに面白いと、目を閉じて身を任せた。

 もし、口付けによって人間に影響のある毒でも盛られればあっけなく死んでしまうだろうが、二つが一つではなく一つずつの相応しい在り方に戻った今なら、それは永劫を闇に溶け込ませるより何倍も幸福である。

 しかし、死の精霊王がそんな慈悲を与えてくれない事など、紗那が一番良く知ってる。

 死の精霊王はねっとりと絡み付くように紗那の側へと押し入り、その度に喉を通る何かで身体が熱を持つ。満たされる喜び、失われる悲しさ。悪魔が経験し、紗那は得る事が出来なかった感覚が全身に走った。


「何して――」


「私の知っている、あなたを渡しただけよ。こうなってしまった以上、持ち続けたところで腹が立つだけだもの」


 暫くして、熱く異質な口付けと拘束が緩んだのを感じ、紗那が押し退けながら唇を拭うと、死の精霊王は静かに囁いて自ら距離を離す。意図を拾おうと見つめる先で、碧色は薄く笑った。


「まあ、あなたの横に居るか弱い王子様を思い出して、嬉しいかどうかは別だけれど」


「いやいや、嬉しいに決まってるから」


「それはどうかしら」


 そうしてやはり、紗那を置き去りに二人は相対す。

 しかも、死の精霊王が知っている紗那とは、一体どういうことなのか。問い詰めようとすれば、さらなる異変が彼女を襲う。

 必死に駆け抜けた旅が終わったと達成感を感じていたのも束の間、騒がしさを消してくれない現実を、底無しの深淵が拒絶してくれれば良いのにと思わずにはいられなかった。


「いっ……、痛っ――!」


「落ち着きなさい。元々少ないのだから、すぐに治まるわ」


 魔力抵抗の影響を受けていた頃のような頭痛によって、思わず頭を抑えて呻けば、他人事だからか簡単に言ってくる死の精霊王に苛立ちすら覚える。ただ、こういった痛みを凌ぐには、目を閉じてジッとしているのが一番だとも良く知っているので、紗那は反論せず痛みに従った。

 すると、瞼の裏側では目まぐるしく様々な場面が過ぎ去っていく。温度差のある表情で歩く男女。首を傾げる女を嬉しそうに見つめる男。瞼の裏をスクリーンに、知らない自分がそこで生きていた。


 ほんの、数分だったのだろう。

 時さえ呑み込み拒絶するこの場では、誰も正確な感覚を掴めなかったが、そう長くはなかったはず。紗那はゆっくりと、本当にゆっくりと身体を起こして頭に添えていた手を離した。


 死の精霊王が渡したものが一体何だったのか。問い詰める必要はもう無い。それは、紗那の魂の中に居た彼女だから出来る例外的な奇跡であり、罰でもある。

 失った魂はどうやったって修復できないが、死の精霊王が与えたのは情報としての紗那の根源だ。感情が宙吊りのまま自分を知ることは、素直に喜ばしいと思えるものではない。


 そうして向けた視線の先に居たのは、期待の篭った瞳を隠しきれずにいる男――嘗て、自分の盾となって死んだ恋人。

 リルを正面から串刺しにした際に気付いた、思い出せない記憶そのものが目の前に居る。自分が冷酷だとそう思えるきっかけでもあったというのに、何故忘れていたのかまで理解してしまった。


 紗那の唇が震えた――


「何、してる、の……?」


「久し振り、って言って良いか?」


 届かなかった言葉は、そうしてやっと、届けたかった者へと渡る。

 姿を変え、世界を変え、存在の形を変えることでやっと、やっと――


 ただ、死の精霊王の言った通り、紗那にとってそれは喜べるものではなかった。

 男が言っていた嬉しいは、自分に当てはめていたのだと紗那には分かる。良く知る彼なら、そうやって自分を勝手に巻き込んでいくのだ。


「何してるのさ、二人とも……」


 紗那はそう零すのが精一杯で、その後は深い溜息を吐いて床に突っ伏すように闇の中で膝を折り、乾いた声を零した。


「人の唇を奪ってしたことが、よもやこんな、こんな……」


 取り戻したのは記憶という情報。失ったのは、光景という感情の大本。そうすれば、紗那お得意の客観的な考察が否応無く発揮され、彼女は無自覚な感情をとうとう得てしまう。宙吊りのまま、情報として意識した。

 だからこそ、二本の異なる手が伸ばされるが遠ざかりつつ、紗那は小さく「最悪だ……」零して苛立つ。

 失った物が戻ってくること事態は、確かに嬉しいことなのかもしれない。

 けれど、犠牲としたものが帰ってくるのは、それまでに決めた様々な選択を覆し、無駄にしてしまうことだってある。特に紗那は、自分も他人も、多くを奪って闇へと落ちた。今更何かを取り戻すなど、彼女の誇りが許せない。


「紗那なら絶対、怒るだろうなぁって思ったけどさぁ。せっかくこのお姉さんが、俺の魂の死を遠ざけて身体の中から出ないようにしてくれたんだ。これは、利用するっきゃないかなーって」


「挙句、世界に選ばれて、分不相応な語り部にまでなったんだから、信じられないわ」


 だというのに、それを仕出かした二人は、何の悪びれも無く言って笑った。

 こうなればもう、紗那の方が哂うしかない。多くを零してしまった掌を見つめつつ、小さく一息だけ密かな感情を吐いて、「まさか、精霊王に勝って人間に負けるなんて」と不器用に口元を緩める。


 死の精霊王から渡された情報の中に居る自分は、男が上っ面が良く、人付き合いも上手いが、その実自分よりも捻くれたかなり器用な者だったと知っていたはず。だから、それが新鮮で別れず興味を持っていたのだ。

 そして、そのせいで生の精霊王が危険視し、試練に見せかけて殺した。奪ったのだと、そう死の精霊王から出会った瞬間教わった。


「それで? 仲良く三人でこのまま永劫を語り合おうってわけじゃないよね」


 だから、立ち上がった紗那は言う。

 この場に純粋な者など誰も居やしない。誰がどんな闇を腹の中に持っているか、分かったものではない――


「勿論。邪魔者は退場するべきだろ?」


「一体誰がそれに当てはまるのか、甚だ疑問ね」


 否定すらしないのだから、性質が悪い。

 紗那はひっそりと「全員が当てはまるだろうね」と、不思議な組み合わせと予想外の結末の先に立つ。


 精霊王を制した捻くれた破罪使で悪魔が一人。愛に溺れて転落した精霊王が一人。真っ赤に染まって眠ったはずの捻くれた死体が一人。そんな三人の奏でた奏鳴曲(ソナタ)は、終わりと始まりを示した。


「最後ぐらい、私だって出し抜きたいわ」


「…………そういうことか」


 決着は一瞬。

 派手さも、今度は駆け引きさえ無く、魔女の魔法が発動した。


 やられたと悔しそうにする紗那へ、死の精霊王がしたり顔で笑う。彼女は、黒い爪で紗那の顎を持ち上げながら、美しく微笑み勝ち誇る。

 ただし紗那は、自分の手を持ち上げ指先を眺めてから、碧色では無く黒を見た。


「あなたと永遠に一緒に居るなんて、考えるだけで殺して欲しい程だもの。だから、私のいらないもの全部(・・)、さっき渡してあげたの」


 底無しの深淵の中、それでも自分や周囲を識別できるようにと光の精霊王から加護を受けていたはずの紗那の身体は、掲げた指先からみるみると透明に消え始めていた。

 そしてどうなるか、その先を死の精霊王は言おうとせず、楽しそうにクスクスと笑う。

 けれど、紗那は勿論、男も焦らず消えていく指先を通して見つめ合った。


「出来れば静かに終わりたかったけれど、そもそも私の願いが聞き入れられることが無かったのだろうね」


「つまらない。もっと焦るかと思ったのに……」


「あなたもまともじゃないことぐらい、初めから知っているよ」


 金色と黒の視線を自発的に外したのは紗那で、彼女は碧色に意識を戻して肩を竦め、「これが下された罰だというのなら、私は甘んじて受け入れるけれど」そう言って一つだけ「私もとは、失礼ね」機嫌を損ねた死の精霊王に忠告する。

 消えていく身体ごと、魂まで消えてくれればそれ以上喜ばしいご褒美は無いが、先にあるのは十中八九その反対だろう。分かっていてもどうしてか、紗那は苛立つこともなく穏やかでいられた。


()をあまり、甘く見ないほうが良いよ。たぶん、一つ見落としていることがあるだろうから」


 指先から肩、半身が消えれば少しばかりの優しさなのか顔を最後にするように足元から消えていく自分の様子を見つつ、紗那は言う。

 「たかが人間の、しかも死体よ?」さらに「あなた以上に危険視させられる人間なんて、居るとは思えないもの」と思惑が成功したことにご機嫌な死の精霊王だが、嗤うのはいつだって紗那だった。


 焦らず、黙って自分を見てくるだけの男の様子から、彼も何かしらグルではあるのだろうと気付きつつ、たった一つだが見過ごすべきではない事柄を紗那は教える。終わりへの種を蒔いてくれた、愚かな愛に死ぬ精霊王へと――


「彼は、あなたがそう思ってくれている私を飽きさせなかった男だということを忘れないように」


「どういう――!?」


 その時響いた笑声が誰のものだったのか、耳に届くより先に呑まれてしまった音は、本人すら気付かぬまま消えていく。

 男は死の精霊王が女であっても容赦なく、話は済んだだろうと押し退け、紗那の前で笑っていた。


「大人しく死んでいれば良かったと、何時か後悔すると思うよ」


「それは俺が決めること。まあ、ゾンビもどきには強制的にさせられたんだけどさ」


「何がしたいんだか……。期待したところできっと、私に関わるだけ痛い思いばかりするだろうね」


 二人は淡々と会話をするだけ。紗那は両腕共に消えてしまったというのもあるが、男は彼女に触れようとしなかった。

 死んだ時は、伸ばしたつもりで伸ばせなかった。しかし今は、伸ばしたくないと伸ばさない。

 温かそうだと言ってくれたのだ。取り戻し、伸ばしてくれる未来まで待とうと男はこの瞬間決めていた。


君達(・・)の企みが成功すれば良いね」


 けれど、紗那は他人事として男に言った。

 何度も何度も「愛してる」と囁き、何も知らなかった頃の自分を見てくれていた存在を壊したのは、紛れも無く自分だ。だというのに、男は以前と変わらぬ笑顔を向ける。

 別れの後、自分が何をし、どんな日々を過ごしてきたか、語り部として知った上で――


 これもまた、一つの罰なのかもしれないと思いつつ、紗那も真似てぎこちなく笑おうとして失笑になる。

 それすら男は、嬉しそうに受け止めていた。


 そして、嘗てと同じ様に囁くのだ。


「愛してるよ、紗那」


「馬鹿なことを言わないで。もう、何もかもが違う」


「それでも、だ。それでも俺は、あの日、俺が死んだ日に迷子のような顔をして悲しんでくれた紗那を愛してる。魂が壊れて、リサーナでもありサイードでもあり、ルシエでもある今の紗那も、当然愛してる」


「その感情が、一体私に何をくれるっていうの? 私がこうなったのも、あんな痛い死に方したのも、全部その愛とやらのせいじゃないか。なのに、よりにもよってそれを私に言うの?」


 そうすれば、紗那の表情が落ちていったが、男の言葉は止まらない。

 愛を伝えようと必死に生き、そうして死んだ男が一人。愛を拒絶し、愛を憎んだ女が一人。愛に溺れ、愛に破れた王が一人――


 その感情は、一体生きる上で何をもたらし何を奪うのだろう。清らかなだけではないと知りながら、何故誰もがそれに触れていくのだろう。

 分からないが、男は言う。


「それでも、紗那。愛してる――」


 刻み込むように、染みこむように、男はその想いを紗那へと向けた。


「だから俺は、絶対に迎えに行くから。今度はちゃんと、約束する。絶対、必ず、同じ場所に追いついてやる」


「……死体のくせに」


「おう、死体だ。しかも、腐る心配の無い超高性能。だから、俺が俺で居られるなら、世界が変わろうが紗那の見た目が変わろうが、自分が死体だろうが関係無い」


 力強いのか、薄っぺらいのか、らしい(・・・)宣言の前で、紗那は笑わずにいられない。


「そっか……」


 そうして力無く呟いた金色は、どこか闇の中で煌いていた。それは髪にも色を移しつつ、まるで星のように輝く。


「だったら、勝手に頑張れ」


「相変わらず、冷たいねぇ」


「地球に居た時だって、私も……、二人ともしたい事をしていただけでしょう? それが、重なっていただけのこと。私に他人は決められない」


「……だな。だったら俺は、どんなものが待っていようが頑張れるわ」


 おそらく、男は死の精霊王をそんなに知らない。

 だから、紗那がこれからどこに行くのかは合意の上なのだろうが、その中に何かが仕組まれているとは思ってもみないのだろう。

 ただ、死の精霊王もまた、男が紗那以上の捻くれ者だと知らなかったのだから、果たしてどちらが上回るのか、それだけが気になる。


 ちらり、金色と碧色を見れば、彼女は自信満々に見守っていた。


「私と二度と会わなくて済むのは、ご褒美になるかしら?」


「それは最高だね。でも、あなたは上げて落とすのが上手いから」


「ふふ、それはどうも。でも、残念ながらお楽しみは教えてあげないわ」


 死の精霊王の後ろにも足元にも、闇が広がっているだけで、その中心に立つ彼女はだからこそ美しいのだろう。

 紗那は「だと思った」そう言って冷笑し、それを別れの言葉にする。

 どうせ碌でもないことなのだ。精霊王が考えることは、いつだってそう。だから、たとえ因縁の者との永遠の別れだろうが、真面目にするだけで馬鹿馬鹿しい。


「ま、後悔はしていないけれど」


「相変わらず、恰好良い女」


 零した独り言が拾われ、二人の人間は笑った。


「どうしてだろうね。約束を壊して終わったはずなのに、新しいものが増えている気がする」


「それだけちゃんと、息をしていたってことだろ」


 それが嬉しいと言う男に「どうだろうか」と肩を竦めた頃には、紗那の身体は唇も消えようとしていた。

 全身が消えた時、待っているのは始まりなのか終わりなのか。希望があれば、どうせ逆が叶えられるのだろうと、浮かべないように気を付け、二度金色を瞬かせてからガラス一枚分の壁のある動機を見る。

 知らなかった自分から、今の自分へと変化したきっかけ――


「愛してるよ、紗那」


 最期と変わらない、いつも浮かべる笑顔を見るのが嫌いじゃなかったと今更知った紗那は、「分かった、負けだよ」消えた唇から溜息と言葉を零して金色を隠した。

 そして、一呼吸置いてから、物語最後の言葉を放つ――


「……大好き」


 様々拒絶するはずの底無しの深淵で響いたその一言。出る事が不可能な場所で伸びた、金が混じった一本の銀糸。紗那はそうして、死の精霊王と男の前から消え去った。


「酷い男ね。これでもう、あの子はあなた以外を見れないはずよ。生きてる者は死んだ者に勝てないのだから」


 けれども、残った二人はまだ、紗那の物語の中で息衝いていて、微かに残留する光の精霊王の加護が闇から遠ざける。


「いやいや、冗談じゃない。俺は一回、紗那となんとか結べていた約束を破っちゃってるんだから、守れないもので上塗りするわけないだろ?」


「相変わらず、態度の差が酷いわね」


 二人は紗那が消えた先を見ながら、言葉を交わし、どちらともなく鼻で笑う。


「私の力を期待しても無駄よ? 一気にとはいかずとも、既に移動は始まっているもの」


「あんたの優しさなんて、考えてすらいないし」


 消えていった先を見つめたまま動かない男は、これから先愛する者が待ち受ける罰と永遠を知りながら、動じずにむしろ喜んでいる。

 死の精霊王はもう一度、「本当、酷い男」と呟いて疲れたように腰を下ろした。


「俺は元々、相手が幸せだったらそれで良いって言えるような人間じゃないんだよ。好きなら好きになって欲しいし、愛してるなら愛されたい。傍に居たら抱きたくもなるし、誰かに抱かれるぐらいならいっそどっかに監禁したくもなるね」


「……あなたとデルフィニウムの違いが分からなくなる発言ね」


「ふざけんな。あいつは、あんたを自分の手の届く範囲に置かなかっただろ? 手に入れてすらいなかったのに、所有権だけを主張してそれを当然だと勘違いしてた。だけど、俺は違う。紗那に受け入れてもらえるよう努力や工夫をした上で、一緒に居たいと望んでただけだ」


 男は振り向かず、さらに続ける。紗那に聞かせれば逃げてしまいかねない、生の精霊王より性質が悪い欲望を、本人では無く想いによって壊れてしまった死の精霊王へと彼は言う。


「紗那には悪いけど、あんた等に感謝してる。ただの人間で、永遠なんて夢でしかなかった俺達に、その狂気が機会を与えてくれたんだから」


「永遠? ちょっと待ちなさい。私があの子にしたのは、そんなご褒美じゃないわ。永遠に続く贖罪と私にとっては地獄でしかなかった重責を押し付けただけ。あなたが何か考えて、彼女をここから出すのに同意していたのは分かっていたけれど、人間の死体風情があまり大きな態度を取らないことね」


 しかし、二人の間に浮かび上がる小さな溝。目的を共有した彼等だが、紗那の考えていた通り、純粋な者など誰も居ないのだ。

 全員がより自分の欲望を満たそうと、蹴落とし押し潰し、上位を目指す。


 嫌な予感を覚えた死の精霊王に向け、男が嗤った。紗那が彼を取り戻した時以上に、悪魔のような笑みを浮かべる。

 運が良いのか悪いのか、死の精霊王はその背中しか見ていなかったが、それでも気配だけは感じていた。


「俺が契約したのは、あんたじゃなく死の精霊王だ」


 赤が濃い一つの世界の平穏を担う精霊王。彼等に死は無く、それでも消滅を望むのなら力を移さなければならない。

 しかし、その力の移動がほぼ不可能だったからこそ、死の精霊王は絶望しながらそれを導いた生の精霊王へ復讐を望んだ。精石となった他の精霊王たちも、その地獄を受け入れるしかなかった。

 それだけ、それぞれが持つ力は大きく、受け継げる物質が世界のどこにも存在してくれない。


 ただ、一人の少女によって訪れた終焉は、たった一つだけ死の精霊王に未来を作っていた。


 紗那の身体は、契約していた精霊王の力の全てを手放したからといって、精霊化が回復したわけではない。魂が修復されたわけでもない。

 寧ろ、あのまま普通に世界の時の中に身を置いていれば、どちらにせよ消滅は免れなかった。

 だからこそ、それを知っていたからこそ、紗那は底無しの深淵に落ちる選択を選べていたのかもしれないが、とにかく生き抜ける身体では無かったのだ。

 生まれた瞬間から、死の精霊王に取って変わる為、内側から様々干渉されていた身は、最初から人間と呼べなかったのかもしれない。それでも彼女が人で居られたのは、その魂が間違い無く人間だったから。


 そして、死の精霊王にとって幸運だったのが、望まない終焉の先、諦めたからこそ気付けたその選択肢が何よりも彼女にとって望んでいたものだったこと。


 死の精霊王が入るべき()は、確かに完成していたのだ――


 けれど、デルフィニウムが愛した死の精霊王は既に世界から拒絶されており、紗那を消したところで底無しの深淵からは出られないだろう。

 この闇と、命が育まれる世界を繋いでくれる死の精霊王への想いは、紗那によって断ち切られ、既に亡き者とされている。

 しかし、その紗那は、一方的に結ばされた約束で繋がっていた。


 だったら――


 だったらこのまま、底無しの深淵で永劫に狂うより、訪れるはずのない眠りを得て、してやられてしまった小娘が望まない終焉を与えてやろう。

 それが、金色の魔女の最期の想い。矜持を失った精霊王の末路だ。

 そして、本来、生の精霊王を底無しの深淵へと落とし、世界へと舞い戻った時に紗那の魂を完璧に消す取引材料として得ていた彼女の恋人を別の形で利用し、純粋に出し抜いたご褒美として油断させ、再び目の前で失う悲しみを与えようとした。

 けれど、そこで死の精霊王はまたしても人間相手に出し抜かれる。紗那の忠告は正しかった。


「……やられた」


 深い溜息を、闇は受け取ってくれはしない。

 紗那と死の精霊王の力が馴染むには、幾らか時間が必要だ。いくら完成してようと、一度で全て渡せるほどその力は安くない。

 だからこそ死の精霊王は、死の精霊王だった女としてまだその場に存在していて、紗那の恋人もまたそこに佇んでいる。しかし、言った通り、彼が死んだ際に取引を行ったのは死の精霊王。そう名乗る権利は既に、先ほどの深い口付けで移されている。

 そうすると、男もまた通常の世界との繋がりがあった。紗那以上に硬い、彼女と結ばれた約束――


「愛する者との永遠を望むのは、当たり前(・・・・)だろ?」


 忠告をしっかり聞いておけばと後悔が浮ぶ。

 ただ、一人どころか二人の人間にしてやられたと実感すれば、いっそ清々しくもあり、さらに死の精霊王だった女は思う。


「あなた達みたいな者の方が、むしろ向いているのかもしれないわね」


 捻くれていて狂気を含んだそんな者であれば、壊れることなく世界を担えるのかもしれない。その考えに同意できるのは、同じ立場に身を置く精霊王だけなのだろう。

 しかし、男の考えにある穴が何時か、再び破滅を呼ぶかもしれない。それを指摘すれば、彼は呆れたように嗤った。


「だから、俺は約束を破るつもりはないんだって。言っただろ? 追いつくって」


「けれどどうやって?」


 紗那はこれから、人間だった精霊王として特別を歩めるだろう。おそらく彼女は喜ばないだろうし、女が与えた試練(・・)はそれだけではない。

 けれど男は、人間だった精霊王の人間だった頃の恋人にはなれるが、前任の女が結んだ契約によって死ねない死体でしかなく、同じ立場には立てないはず。それでも、彼は言った。


「そこはほら、紗那とあんたが絶望させてくれた絶好の狙い目があるだろ。だから今度は、俺自身が自分を語る番だ」


 どちらにせよ、男もまた人間では無くなってしまっているのだから、もしかしたらがあるかもしれない。

 捻くれ具合だけでも十分異常なのだから、これから先の新たな物語を見れないのだけが、少し残念に感じるほどだ。


「人は、超人的な力に干渉されなくても、環境だけで十分捻くれも壊れもする。それは、精霊王だって同じだろ?」


 そんな女に向け男の言った言葉は、彼女がとっくの昔に忘れてしまった愛した相手を連想させた。

 種族の名を与え、名を貰い、そうやって育んだ愛は、純粋すぎて汚されてしまったのだろうか。そんな奇麗事を考える女は、「馬鹿ね……」自分に向けて零しながら心の中で涙した。表情では失笑を浮かべ――


「それにしても、いい加減その間抜けな顔をどうにかなさい」


「――っ! し、仕方ないだろ。大好きなんて、初めて言われたんだよ!」


 そうして、底無しの深淵の底へと一人は沈み、一人は約束を辿って浮上した。長い長い時間を有しながらだったが、それでもそうやって紗那の物語が終わる。


 ただ、最後に響いた言葉は、放った一人しか知らない。


「知らないのなら、せっかくの機会だから知れば良いわ。そうして今度は、攫われたお姫様を救う王子様の物語が始まるの」


 闇を抱え、最終的に闇そのものへと変わろうとしていた存在は、そうして笑った――







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