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その背に黒の羽根を  作者: 林 りょう
第九章:捻くれX真実の行方=再会
101/104

響いたソナタに誘われて


 足元に広がる赤黒い液体。血走った目で見つめながら、貫いた感触を味わう狂った思考。興奮状態の犯人との間、割り込んできた結果犠牲となった物体は、どうしてか微笑みながら言った。


「――無事で良かった」


 強すぎる痛みは感覚を麻痺させるのか、内側からも赤が込み上げ足元の小さな海をさらに広げる。それでも大人になりかけの青年は、背後で呆然と佇む同じく大人になりかけの少女にはっきりと告げ、くず折れた。

 周囲では悲鳴と怒号が混雑し、勇敢な数名が青年から犯人を引き剥がして拘束しており、危険だからと少女を庇う大人もいたが、一目で絶望的な青年の状態を見て誰かが止めた。

 誰がどう見ても、どちらともが大人っぽい顔立ちではあるが若い男女を恋人同士だと悟り、理不尽な現状に憤怒する。


「失敗したなー。恰好良く庇って、その後犯人を取り押さえる予定だったんだけど」


 ヘラヘラと暢気に笑う青年だが、彼の全身は真っ赤で、少女へ伸ばしたつもりの手はたいして動いていない。

 かくいう少女は、青年の姿を微動だにせず眺めるだけだった。正確には、彼の身体の下から広がって行く赤い海を見つめて動かない。


「ほんと、無事でよかったよ」


 青年は、少女が何度も見ていた気の抜ける笑みを零したつもりで、彼女が今まで見せたことのない表情を浮かべているのに気付き、心の底から嬉しく思いつつ心臓の鼓動を止める。

 だから知らない。瞳を閉じた青年が作った海に膝をつき、後は冷たくなるだけの抜け殻に触れながら少女が言った言葉を、彼だけが理解できる思いの篭った声を、彼は知らない。


「何してんの?」


 そのせいで、上辺の響きだけしか拾わない人々が少女を冷徹だと後ろ指差し、青年の若すぎる死を悼む。

 手遅れになってから到着した事態を収拾する人々が、少女の黒い瞳の中で青年の身体を布で覆っても、彼女はもう一度同じ言葉を繰り返して、されるがまま引き摺られていく。


「――可哀想に」


 誰もその中身を開こうとはせず、冷徹だと言った次には現実を受け入れられないのだろうと、少女にとっては常に傍らにある言葉の雨を降らした。


「可哀想?」


 雨が痛いと、少女は思った。赤が綺麗だと、彼女は感じた。だから、パチパチと素早い動きをしていた瞼に向かって、その光景を切り取ってしまおうと命じる。

 永遠に、一生、褪せることのない時にしてしまおう。どうしてそう思ったのか、少女は未だに分からないままで、切り取り焼き付けたはずのその景色も、もう、彼女の中に存在しない。


 けれど、それでも少女は覚えている。

 そうやって、今までの人生で最も美しいと判断したその光景を切り取った瞬間、周囲の喧騒から置き去りにされた自分の耳元で静かに響いた甘美な囁きを――


「私と同じで、狂った嫉妬に壊されてしまったのね」


 それが始まり。それが全ての始まりだった。

 鈴の音よりも清らかで、しかし、長い年月で積み重ねられた憎しみによってねっとりとした雰囲気を持った声が、少女を最終的に底無しの深淵(ブラックホール)へと落とす結末を作り出した。


 実際は、自分ならざる者によって強制的に意識を内側へ持っていかれ、恋人の悲劇(・・・・・)のせいで気を失ったと周囲に思われた少女は、そうして出会う。

 視界に広がる、純粋になれない黒。その中でちらつく不純物は、どうやっても取れはしない。


 けれど、再び少女が瞼を持ちあげた時、彼女が見た世界は出会いとは何かを違えていた。

 闇だけが広がる場所で、金色を主張する女が言う――


「色々と話をする前に、一つだけお話を聞かせてあげる。頑張った共犯者にだけ贈る、とっておきの物語」


「あぁ、なんだ。あなたか…………」


「ふふ、白昼夢? それともあれかしら……、落し物でも拾った?」


 出会いの日と同じ様な、けれど全く異なる場にて、紗那は魔女と再会した。

 問い掛けに首を振り、座るにはどうすれば良いのだろうと自分の体の置き場を思案している間に、今ではもう慣れた魔女の自分勝手な語りが始まる。


「とある二つの国を隔てる山に住む、一人の女の子のお話です」


 それを聞きながら、紗那は全てが終わったのだと実感した――





 とある二つの国を隔てる山に住む、一人の女の子のお話です。彼女は、一年の殆どが冬である、人間が住むには厳しい山で一人生活をしていました。

 その女の子は産まれた時からそこに居り、自分が成長しているのかどうかさえ曖昧にしか分かっていない、そんな不思議な子でした。


 窓から外を眺めれば、広がっているのは冷たい結晶が作る白い世界のみ。一本の木さえ生えることが許されない場所に建つ小さな家が、女の子の世界です。

 普通に考えて、そんな場所での生活は困難でした。

 食糧を得るにも木の実は一粒も落ちず、山を飛び跳ねる冬鹿さえいない山。いたとしても、女の子が深々と積る雪の上を歩きながらそれ等を集め、狩るのは不可能だったでしょう。


 しかし、女の子にはたった一つ、家がありました。彼女を作る世界の全て。

 その家は魔法の家でした。望む物が、望んだ時に望んだ量だけどこからか現れる、そんな家。だから女の子は、外が極寒であろうが、自分が兎一匹捕まえられない非力であろうが関係なく、毎日快適に過ごします。

 当然、そんな不思議で魅力的な家なのですから、山の両隣の国からは度々人が尋ねてきました。

 噂が広まった当初はこぞって人が押し寄せ、その時はさすがに家が本領を発揮していたりしましたが、礼儀正しく女の子に乱暴をしなければ、彼女は訪れた人を抵抗無く招き入れます。

 そうして言うのです。「居たいだけ居て良いよ」と――


 不思議な家は何も無い白いだけの山が気に入っているのか、それとも女の子がそうなのか、ともかく場所を移そうとしませんから、家の恩恵を受けたいのであれば住む以外方法はありません。しかも、家に現れた物を家から持ち出すことも不可能だったので、こぞって押し掛けた人は直ぐに消えてくれたのです。

 そして、女の子に招き入れられた者もまた、数日数週間後には去っていきました。


 家を調べたいと訪れた魔術師も、山に迷い込んだ旅人も、人生に絶望した青年も、お金が無くお腹を空かせていた者でさえ、気が付けば家から出て行ったのです。

 しかし、誰もが目的を達成させていたわけではありませんし、満足したわけでもありません。

 魔術師は、調べても調べても、結局家の不思議を解明できませんでした。

 旅人は、家を発った三日後、迷いに迷って雪の下に沈みました。

 人生に絶望した青年は、絶望したまま自らそれを断ちます。家で満たされたお腹が再び空いても、その者の手にはお金がありません。


 では、どうして全員、楽園とも言える家を出て行ったのでしょう。

 魔術師は、家の不思議は分かりませんでしたが、彼が知りたい魔法を教えてくれる本を沢山見る事ができました。

 旅人は、今までの旅路での冒険の数々を聞いてくれる女の子、そして屋根のある寝床を得ました。

 絶望した青年は、そのきっかけである社会から離れ、静かな山に辿り着いたはずです。お金が無い者も、それが無いままいくらでも満腹感を味わえました。


 これを楽園と言わず、何と言えば良いのでしょうか。

 けれども全員が、その期間はバラバラでしたが、暖炉が常に灯る暖かい家から身体の芯まで凍りつきそうな雪の上へと足を踏み出すのです。彼等は招き入れてくれた女の子に言います。


「君も共に行かないか?」


 女の子は読んでいる本から顔を上げないまま、首を振りました。


「だと思ったよ」


 誰もが女の子にそう返し、一瞬だけ家の中を冷たい風が通り抜けて消えて行く。そうして彼女は、よく知る独りに戻ります。


「……寒い」


 女の子はただ一言呟いて、家が願いを叶えました。

 そんなことが、何回も何年も繰り返されたある日。女の子が少女だったり娘と呼ばれるぐらいになった頃です。またしても、不思議な家にお客が訪れました。


「ここが噂の、人形の住まう城かい? 思ったよりも質素なんだね」


 お客は、少女と近い年齢の表情豊かな青年でした。彼は身体の雪を払いながら、視線を合わせずに「良かったら、暖炉へどうぞ」と囁く少女に人懐っこい笑みを向けます。

 そうして、二人の生活が今までの者達と同じ様に始まり、すぐに終わると少女は思っていたのです。



 


「けれど、少女の考えとは裏腹に、その青年は中々帰ろうとはしなかったわ」


 金色の魔女は、そう言って一区切りつけ、自分の髪と同じ色の瞳を持つ者と視線を合わせた。

 闇の中、落ち着き無い仕草を繰り返していれば、魔女はアドバイスをしてくれる。


「ここでは、座っていると思えば座っているし、横になりたいと思った時にはもう、横になっているわ。浮びたいなら、試してみても楽しいはずよ」


「その原理でいけば、結構快適に過ごす事ができそうだね」


「そうね。ただし、出ることは出来ないけれど」


 闇の中で浮ぶ二人は、自分達を認識する事が可能だった。潜んでいた魔女の魂が、底無しの深淵に落ちたことで隠れることを拒絶したからだ。

 紗那が魔女の教え通り椅子に座っていると思い込めば、身体が楽になる気がしてやっと落ち着ける。それを気配で感じた魔女もまた、これで物語を再開できると優雅な手付きで髪を耳に掛けた。


 久し振りの再会なのだから挨拶をするべきなのだろうが、魔女は何故か物語を聞かせたくて仕方が無いらしく、紗那はこうなってしまえば譲らないと分かっているからこそ黙って続きを待った。

 そうすれば、魔女が満足そうに唇を動かす。


「それだけでは無い。青年は、今までのお客とは全然違いました」


 闇の中、語り口調に戻った魔女の声が木霊した。





 青年は、今までのお客とは全然違いました。とにかく彼は、少女と共に何かをしようとしたのです。

 それは掃除であったり、お喋りだったりと様々でしたが、青年は毎日毎日、女の子に笑顔を浮かべ続けました。


「おはよう、今日も良い天気だね」


「……雪が降っているけれど」


「でも、この山では雪が降っているのが当たり前なのだろう? だったら今日も良い天気だ」


 このように、朝の挨拶から始まって、少女に向かって不思議な事を言いながら笑うのです。彼女は毎日、本ばかり日に五冊以上読む生活を何年も続けていたのですが、青年が来てからというもの三冊読めれば良い程に生活は変化していきました。


 そして、ある日。少女が青年の名前を覚え、挨拶をされる前に挨拶をする程には親密になった頃の事です。彼は言いました。


「今日は珍しく雪が降っていないから、少し散歩に出てみないか?」


「え……?」


 暖炉の前で寛ぎ、いつもの様に本を読もうとしていた少女は、青年の突然の申し出に驚いて聴こえているというのに思わず聞き返してしまいます。そうすれば、彼は相変わらず気の抜ける笑顔で言うのです。


「外に出てみよう」


 少女は、自分が外に出た事があるか把握できない程、何年も家に閉じこもっていましたから、基本的に体力はありませんし寒さにも弱いのですが、それを伝えても青年は一歩も引きませんでした。


「けれど、雪が降っていないということは、今日は天気が悪いということ。そんな日に出掛けたりはしないでしょう?」


「どうしてだい? 良い天気でも悪い天気でも、それぞれで魅力的な風景が沢山ある」


「私は、本の中から覗ければそれで十分。だから、外に出たいのならあなた一人で行けば良い」


 少女がそう言って本に視線を戻そうとすれば、あろうことか青年はそれを取り上げ、彼女の細い身体を膝に乗せて囁きます。


「君と一緒が良いんだ。君と一緒に景色を見て、そこでの感情を共有したい。勿論、家の中でも幸せにはなれるけれど、それでは君の幸せを分けてもらうしかできないから」


「……共有? 分ける?」


「そうだよ。昨日までは、君の世界に俺がお邪魔していた。だから今度は、俺の世界に君を招きたい。俺の持っている幸せを、君に伝えたいんだ」


 少女は青年の言葉が不思議で仕方がありませんでした。膝の上で身体を捻り人形のように透き通った瞳で見上げれば、彼はいつもの様に笑って頷き「少しで良いから、ね?」冷たい身体を暖かく抱き締めてきます。


 そう、青年は少女に恋をしていたのです。

 始めは噂話に興味を持った程度でした。青年が少年だった頃から、少女の家を訪れた者、見た者、様々な形で彼女の話を耳にして会いたいと想いを募らせ、自信を持って旅が出来るようになった今、とうとう会いに来たのでした。そうして恋をしたのです。


 だから青年は、少女にとって今までとは全然違ったのです。

 たとえば男のお客が来た際、当然少女は異性ですから、生理的な欲を向けてくる者はおりました。

 中にはとても乱暴な者もいたほどです。そんな輩は当然、家がすぐさま追い出しましたが、少女が嫌だと思わない限り、家も少女もそれを受け入れてきました。

 しかし、青年は違います。彼は欲ではなく、想いを少女に向けました。そしてまた、彼女の想いを望んだのです。


 青年はそれを望んだのですから、彼が家に居る限り、その願いは叶えられなければなりません。

 少女が嫌だと思えば家は彼女を優先しますが、青年の申し出を聞いた時、彼女が感じたのは疑問でした。この人は、どうしてこれほど自分に関わろうとするのだろう。どうして彼は、出て行かずにいられるのだろう。そうやって不思議を抱いたのです。


 少女は、今までのお客が何故出て行ったのか、漠然とではありますが分かっていました。おそらくそれは、恐怖だったのです。或いは薄気味悪さ。家の魅力と比べても、彼女と共に居るのが耐えられなかった。

 だからこそ、青年が不思議でたまりません。だって彼は、とても優しい瞳で自分を見て笑ってくれるのですから。

 愛想笑いでも、哂いでも、嗤いでもなく笑ってくれる。それは少女にとって、これまで読んで培ってきた大量な本の知識を以ってしても解けない疑問でした。


 その日から、少女と青年の新しい毎日が始まります。

 そうして、青年は知っていきました。少女が本当は笑えること。笑っていたこと。

 嫌いなものや、嫌なこと。悲しい時もあれば、喜んでもいた事。知らなかった少女を知っていったのです。

 それは少女も同じでした。違うのは、彼女は青年だけでなく世界を知ったのです。彼の世界はとても広かった。広く、温かかった。

 それはもう、山の寒さが気にならないほどで、一見何も変わっていないように思える少女ですが、彼女を知った青年は、十分に楽しんでくれているのを知っていたので、毎日毎日、少しずつ家から出る範囲を広げながら二人は雪道を楽しみます。


 ただ、面白く無いのは不思議な家です。少女の唯一の世界だった家は、二人が外に出るようになってからというもの、日に日に知らない少女の部分が増えていき焦りました。

 家にとって、少女は家があってこその少女で無くてはならなかった。それを脅かす青年が、いつしか邪魔に感じていきます。

 次第に家は、青年の願いをあまり聞き入れなくなるのですが、少女が嫌だと思わない限り追い出すことだけは出来ません。さらに、その嫌がらせは逆効果となり、より一層二人が外に居る時間が増えていきました。


 そして、そんな日々が続き、少女がとうとう青年以外にも分かる微笑みを見せられるようになった頃。家は我慢が出来なくなったのでしょう。その日は皮肉にも、猛吹雪が止んで普段以上に美しい銀世界が山を彩っていました。

 少女と青年が日課となった散歩へと手を握りながら出ていた時、事件は起こったのです。


「せっかくだ、君がこの世界に足跡を残すと良い」


 何の痕跡も無い銀世界を前に、青年が優しく促しました。


「あなたがそうしたいんじゃないの?」


「俺は、君の進む道を見てみたいんだよ。君が作る道を歩いてみたい」


「変なの。あなたはいつも、不思議な事を言うのね」


 少女は淡く口角を上げつつ、優しい視線の願うがまま繋いだ手を離し、銀の世界を一歩二歩と可愛らしい足跡で飾っていきます。背中に、好きだと思えるようになった青年を感じながら――


 けれど、唐突にそれが消えた気配を感じ、驚いた少女が振り返ろうと足を止めます。そんな時でした。


「駄目だよ。約束したんだから」


 青年と自分以外の声が頭に響いたのです。それこそが家が放った言葉でしたが、彼女は家が喋れるなど知りもしません。

 そして困惑しながら振り返ると、そこにあったのは自分が残した足跡だけでした。さっきまで手を繋ぎ、歩いていた青年はどこにも見当たりません。


 少女は途方に暮れました。

 青年が何故消えたのか、先程の声が何なのか。そういった疑問が湧く以前に、途方に暮れたのです。

 前も後ろも右も左も、少女を囲むのは銀だけ。しかも、最悪なことに、雪が再び降り始めました。

 そして気付いた時には、帰り道と青年が居たと示してくれる、大きさの違う二つの足跡が消えてしまっていました。こうなればもう、少女は呆然と立ち尽くすだけ。彼女は一人、極寒に震えます。


 少女は家の外に出る際、常に青年に道を委ねていました。行きは勿論、周囲を見るのに忙しかったせいで帰り道も覚えて居ません。家が何処か分からなくなってしまったのです。


「約束……?」


 「ひんやりしていて気持ち良いね」と言ってくれた自分の体温が凍っていく感覚。知らない世界で置いてけぼりにされてしまった寂しさ。そんな場所で、少女は頭に響いていた声を思い出し呟きます。

 

「……約束」


 けれど、それが一体どういったものなのか、その声と結んだ約束が分かりません。

 その代わり、別の約束を少女は思い出しました。


「君はきっと、外の銀世界と同じなんだよ。悲しいぐらい真っ白で、自分も世界も知らなすぎる。だからこそ目敏くなってしまって、人は怖がるんだ」


「……白に色は目立つから?」


「そんな感じ。そうして君も、迷子になるのが怖いから外に出れなかった。でも今は、俺が居る」


 気の抜ける、だからこそ温かい笑顔と共に蘇った言葉。「いつだって、俺が君の手を引いてあげる」そう言って、世界を教えてくれた人。

 なのにどうして――


「どうして居ないの?」


 少女の声は、雪に混じって埋もれてしまい、彼女でさえ見つける事ができませんでした。

 そのまま、数時間、もしかすれば日を跨いでいたかもしれません。ともかく、少女の感覚全てが消えかけた頃、迷子の彼女にまた違った声が降り注ぎます。

 雪に埋もれかけた少女を見付けた高い声。それは、不思議の家を作った張本人、(いにしえ)の魔女でした。


 魔女は言います。


「可哀想に。いらっしゃい、温かいスープをあげましょう」


「大丈夫。それより家が分からなくなってしまったの」


 少女は返しました。

 すると、魔女はとても悲しそうな目をして、凍ってしまった少女の頬に触れて尋ねます。


「あなたが帰りたいのは、ただの家? 違うでしょう?」


 まるで子守唄のような不思議な響きを持ったその言葉で、少女は気付いてしまうのですが、魔女は尚も続けます。


「あなたが取り戻したいのは、白い世界? 違うでしょう?」


 透き通っていたはずの少女の瞳が濁っていき、どこか虚ろになり始めた頃、魔女はその言葉を言いました。


「いらっしゃい。大切な王子様を取り戻す力を与えてあげる。――黒におなりなさい」


 少女は違うと言ったつもりでした。

 探しているのは望んだ物を望んだ分だけ与えてくれる不思議な家で、(かれ)は何も奪わない。沢山のお話の中で攫われるのは、王子様ではなくお姫様。全てが逆だと、魔女に伝えたかった。

 けれども魔女は笑うだけで、少女の意識も落ちていくだけ。


 魔女は言いました。


「約束は絶対なの。あの家はね、住んだ者を閉じ込めてしまうとっても悪い子になってしまったわ。私の言う事なんて聞きやしない」


 そうして少女に魔法を掛けるのです。


「だから、あなたの世界を取り戻す為にも、あんな家は壊してしまいましょう」


 そうして少女は竜になったのです。全ての記憶を奪われながら、暗黒の竜となり不思議な家にとってのお姫様を奪いました。



 


「めでたし、めでたし――」


「……全然、めでたくないと思うんだけど」


 目を閉じ、静かに聞き入っていた紗那だが、なんとも煮え切らない中途半端な終わり方で物語は締め括られた。

 誰も救われていないし、誰の願いも叶っていない。魔女の話は、物語と言って良いのかも危ういものだ。

 それを指摘すれば、紗那に向けられたのは心底感心した視線。金色の魔女はゆっくりと近付き、頬へと触れた。


「ほんと、してやられたわ」


 そうして、碧色(セレスト)を潤ませる。

 ただ、魔女はどこか満足そうでもあった。現実を受け入れ、諦めを滲ませながら紗那の全身を包み込む。

 そこそこ長身な紗那を超えるスラリとした身体の全てを使い、まるで闇から守ろうとするように強く抱く。

 けれども、唇から零れる言葉に、優しさや労いは微塵も込められていなかった。


 それどころか非難している。


「約束は絶対だと言ったじゃない」


「私は同意した覚えが無いよ」


「でも、契約をしたはずよ。二人で協力して、生の精霊王に絶望を与えようと」


「けれど、契約の内容に、あなたの願いを叶えるというものは無かった。むしろ、私が騙されていたのだから、文句を言われる筋合いはないよ」


 別人でありながら、紗那にとっては生まれた瞬間から常に傍らに在った存在。夢の中で、何度も何度も幻を現実にしてきた魔女。闇しかない永劫と共に、やっと別つことが出来た精霊王――

 紗那は抱き締めてくる豊満な肉体を押し返し、鋭く強い視線で死の精霊王を見た。


 見た目だけでいけば、生の精霊王よりよっぽど生き生きした美しさで、彼の方が何倍も死に相応しい陰湿さを持っている。

 けれど、紗那は知っていた。この精霊王こそ、誰よりも一番姑息で醜悪で、欲望にしか忠実にはなれない()だということを。


 そんな悪意の篭った視線を、死の精霊王は見つめ返しながら懐かしく感じ目を細めた。それは彼女にとって、切望していた世界を写している。

 戦士のような、窮地を乗り越えてきた熟練の旅人のような強い世界。自らが生きるべき、相応しい場所だ。


「すっかり変わってしまったわね。色も、姿も、中身も全部……」


「そうさせた一人が良く言うよ。板ばさみどころか、包囲された逃げ場の無い状態でやり遂げた賞賛だったら、いくらでも受け取るけど?」


 皮肉を言う紗那を見る死の精霊王は、まるで母親のような目をしていた。

 それが何より受け付けないと視線を外せば、今度は黒い指が伸びてくる。これももう、今まで夢で何度も行われてきた儀式じみた交流である。


「馬鹿な子。本当に、してやられてしまった……」


 どこか病んだ雰囲気は闇が拒絶し分散してくが、紗那にだけは纏わり付いて感染させようと必死だ。

 二人が夢の中で直接出会ったのは、そう遠い昔では無い。それどころか、紗那の人生全てを通してだと最近に位置した場所にある。

 しかし、死の精霊王にとってみれば、紗那という人間はまた違った種類で自らの者(・・・・)と思う分身にも似た存在だった。たとえるならば、アピスへと戻り生の精霊王との決着をつける為の仮初の器といったところか。力は封印されているだけで、紗那はそんな自分のもう一つの人格。


 しかし、蓋を開けてみれば、紗那は死の精霊王ではない一人の人間であり、こうして全く予期していなかった結末を迎えた。


 生の精霊王が紗那に伝えた真実はほとんど全てが嘘の欺瞞であり、与えてくれた情報は精霊の属性や世界の情勢など、知識に分類されるものだ。

 反対に、死の精霊王が伝えた情報は自らに関するもの以外、ある程度真実と言って良い。そして与えてくれたものもまた、実践や底無しの深淵についてなど、はっきり言って彼女なくしては勝敗が変わっていただろうものばかり。

 だからこそ、紗那はある程度嫌悪を除いて会話をすることが出来る。終わった今、穏やかな感情で闇に沈んでいられた。


人間側(わたし)からすれば、あなたが世界に立とうがデルフィニウムが残ろうが、どちらにせよだったし。それに、どうしたって私の消滅は覆せないものだったからね。だったら、どちらも欺くほうが面白味があったんだよ」


「違うでしょう? 私はあなたの隅々まで知っているもの。生と同じ様にはいかないわ」


 けれど、いつだって感情を視て(・・)きているのが死の精霊王だ。別れた今であれば欺くことも不可能では無いが、今までの想いは全て魂の中から感じられていて、これからのものも推測されていくだろう。

 紗那は否定も肯定もせず、しらばっくれる様に顔ごと背ける。

 そうすれば、死の精霊王が懲りずにスルスルと近寄って髪を撫でた。闇を照らす月であり、輝きを放つ星でもあるそんな色をした細く柔らかい銀糸。その上で、彼女の爪の色は酷く目立つ。


「たとえ、最早ぼろぼろの魂で、ひび割れた欠片の人格が戻るのではなく混雑してしまって、今までとは違う自分になっていたとしても。思考や口調、価値観が引き摺られたって、変わらないものがあるもの」


「人は生きている限り、変化していくよ。思考も言葉も、価値観も。誰だって、昨日より今日、一日分死に近付いていく。不変なんてありはしない」


「それでも、想いというものは強ければ強いほど、不変であろうとするもの。あなたもまたそうだった。もう、誤魔化すのは止しましょう。私も、あなたも。全てが終わったのだから」


 ゆっくりと頬を挟まれ、至近距離で碧色が笑う。

 魂を檻に閉じ込められていた死の精霊王は、持ち主である紗那を誰よりも、親よりも生の精霊王よりも感じて知っているが、この結末を察するに至らなかったのは、本人が理解していない無自覚な感情が全ての根底にあったからだ。

 魂を感じられるからといって、思考をするのは脳という器官であり、収められるのは情報でしかない。

 だから死の精霊王が読み取っていたのは魂を満たす感情のみで、そこから紗那の思考を推測し内側から操ろうと夢を見せ続けていた。


 けれど、地球からアピスに渡った際、紗那の魂が壊れず欠片を残したことが生の精霊王にとって予想外だったように、死の精霊王もまたそれ以降内側からの干渉がほとんど出来なくなり、全ての計画が狂い始める。

 生の精霊王は檻である紗那の魂を空にし、それを器に死の精霊王を表に引き出して存在を確立しようとした。死の精霊王はそれに加え、生の精霊王を彼女と紗那が今居る底無しの深淵に落とす永遠の決別を計画し、結果、両者共が玩具であり駒だったはずの存在に足元をすくわれた。


 しかし、紗那が再び一つに戻り底無しの深淵に落ちるまでの間、その短時間だけ死の精霊王は本当(・・)の彼女を覗けたのだ。

 悲しみも誰かを想う優しさも、全身で伝えてくれていた弱さ(リサーナ)。揺るがないことがどういうことなのか、その姿を魅せてくれた強さ(サイード)。罪を背負う現実に立ち、未来を望んでいた自分(ルシエ)。その全員が知っていて、紗那が見付けられなかった想い。無自覚な感情という、紗那の願いを死の精霊王は知った。


「さぁ、物語を完成させましょう?」


「……さっき、めでたしめでたしって言っていたはずだけど」


 ただ、当の本人は無自覚なままなのか、それともその願いを抱いた時と違い魂の外も中も壊れかけ穴だらけで忘れてしまったのか、意味が分からないと首を傾げる。

 それを死の精霊王が寂しそうに、非難するように「だってさっきのは、ただのおとぎ話だもの」と言い、紗那との視線の交差を邪魔する銀糸をどける。


「あなたはおとぎ話?」


「違う、これは現実だよ。私とあなたの、永遠に続く闇の始まりだ」


「だったら、物語は終わっていない。……私にとっては、あの男をここに落とした後、あなたの魂を壊す交渉材料として確保していただけだったのだけれど、ね」


 もう一度、「してやられてしまったから……」と憂いを滲ませた死の精霊王は、碧色の中に紗那を閉じ込めようと必死なのか、それとも金色の中に自分を収めたいのか頬から一向に手を離そうとしないまま「物語をしめくくりましょう?」またしても訳が分からない事を囁く。


 けれど、その困惑は一瞬だった。

 紗那がどういうことか深く尋ねようと口を開きかけた時、闇の中でも者や物を認識できるようにしてくれる光の精霊王の加護が新たに発動する。

 マルヴィジーオの精神内で繰り広げられた駆け引きによって得た、紗那と死の精霊王を繋げてくれる力が、予期しない結びを紡いだ。


「攫われた王子様を、君はまだ救い出していない。そうだろ? 紗那――」


 その瞬間、紗那の金色が大きく開き、碧色を呑み込む。右手は頬に添えたまま、死の精霊王が微笑み左手で彼女の手に触れれば、冷たいはずのそこに温かさが宿る。

 しかし、全身が何かを訴えかけても、紗那はその声が誰のものか分からなかった。


「誰……?」


 表情は困惑と警戒を滲ませ、死の精霊王の右手に促されるまま背後を振り返っても鎮まらない。


「相変わらず、締まりのない顔ね」


「いやだって、今の紗那の忘れるがどういうことか理解してたら、喜ばずにはいられないでしょ」


 聞いた事があるとは思う。そう考えながら声の持ち主の正体を知れば、今度は自分が相手を知っていると分かった。

 けれど、その先へと進めない。

 そんな紗那を置き去りに、死の精霊王と明るい茶色の髪に黒い瞳をした男が言葉をか交わす。


 それを観察すれば、人間ということ。自分が、この大人っぽいがたいして年が変わらないであろう男と面識があるだろうことも気付いた。

 ただ、だとしたら、どうしてそんな人物が底無しの深淵(ここ)に居て、死の精霊王と何かを共有しているのだろうか。


「彼は誰……?」


 紗那は暫し、ヘラヘラと緊張感の抜ける笑みを浮かべる男を見つめ、それからゆっくりと頬に触れる手を退けながら碧に振り返った。

 そうして心の底から疑問を投げ掛ける。


「分からない? あなたはあの呆れるほど一途で愚かな、気の抜けた顔の男を知っているはずよ?」


 そうすれば、死の精霊王は至極楽しそうにヒントを与えず背中を押した。

 闇の中でたたらを踏むというのも可笑しな話しだが、紗那は勢い余って数歩進んで立ち止まり困ったように死の精霊王を見る。けれど、彼女は「助けるのでしょう? 王子様なお姫様」と笑うだけ。


「……知っているとは分かるけれど、解らない(・・・・)んだよ。なんか、クランクに似た馬鹿面を見ていると無性に腹が立つような、力が抜けるような……。後、触れれば温かそうだなとかは思うんだけど」


「え、紗那ってば、まさか地球で一緒に居た時から、そんなこと思ってたわけ? うわー、言ってくれればよかったのに」


 かなり失礼な発言を並べても、男は笑う。その感じは、紗那の言うとおり、クランクと似た雰囲気がある。

 男はクランクの名を出した時にだけ若干嫌そうに顔を歪め、その後の言葉で嬉しそうにさらに笑みを強めたが、それでも紗那は首を捻るしかなかった。

 そして、男がクランクとは違う点。友になりたいとルシエを求めたクランクとは違い、とても温かく熱の篭った視線で紗那を見るのだ。何より先ほど、彼は地球と言った。言ってくれればということは、近しい場所に居たのかもしれない。


 けれど、幾つか情報を得ても、紗那は男が誰だか解らなかった。


「本当に、思い出せない?」


「……全く」


「本当に?」


「……君が、おそらく地球人で、私と面識があるのだけはさっきの会話で分かったけれど」


 男は動かず紗那を見つめ、紗那も男を見た。

 デルフィニウムに奪われた、元々持っていたのと同じような瞳。死の精霊王の爪に似た光を宿した視線。良く良く見れば、男の服装にも、紗那は見覚えがある気がした。ただ、漠然とだがもっと綺麗に染まって(・・・・)いた覚えがある。


 そうして、何かを探すように瞬きを繰り返す紗那を間に、男は死の精霊王へと視線を移して嗤った。






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