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その背に黒の羽根を  作者: 林 りょう
第九章:捻くれX真実の行方=再会
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悪魔に捧げたレクイエム




「初めまして、ノアールモ」


 悪魔の好む色合いを持った蝶が止まった指で結ばれた契約は、一つの約束と繋がっていた。

 罪の香りに誘われたのか、それとも単純に羽根休めを望んでいたのかは分からないが、止まった先で蝶が気まぐれに言葉を放つ。


「マルヴィジーオが迷惑をかけてしまったね」


「そうでも無いよ、というどころか、彼女の欲は想いの塊だからね。今までで一番真っ直ぐで、愚かで……。羨ましく感じられるほど清々しかったよ」


 美しい歌の余韻に浸る月と星々が気付かぬ間に、砕けたベニトアイトの破片が遥かな美を形作る。王の解放を眷属である闇の精霊、密やかな温もり(ジン)が喜び、より一層月光を空に映した。


「そう言ってくれると助かるよ。それで? 頼みたいこととは何だろう」


 闇という、人によっては恐怖の対象にもなるものを象徴しているにしては、とても好青年な印象を抱く精霊王。彼は、光を持った闇という闇の光(ノアールモ)そのものだった。

 話の飲み込み具合も、何を重点に物事を判断しているのかも、とてもはっきりしている。


「危険を犯してまで、君を連れて彼女に会いに行った甲斐があったよ」


 話が分かっているようで助かると、ルシエが機嫌良さそうに笑う。

 その時の唇の上げ具合が人を小馬鹿にした不敵なもので、月はひっそりとあの残虐で強い青年がもう居ないのだと実感していた。


「そうだね。そのせい(・・・・)で、断ることが不可能になってしまったし、個人的に期待を持つ羽目にもなった」


「断っても良いんだよ? それならそれで、そういう結末だったというだけだ」


 ノアールモの濃紺の先で、ルシエは偽り飾らない心を闇の中に灯す。ゆっくりと背後に広がる風景へと視線を移し、清々しそうに笑っていた。

 マルヴィジーオを解放し彼女の精神内へと入った時、ルシエの右手にはウラノス達紡ぎの民から預かった闇の精石が同行している。

 その時の身形が影響されるだけの模造品でしかなかったが、それでもルシエ側から愛するマルヴィジーオを映す眼の媒体として働いてくれるには十分で、だからこそノアールモはルシエが自分を求めていることが把握できていたのだ。


 サイードとはまた違う強さを持ち、どんな言葉にも屈しない悪魔の王。ノアールモにとって、破罪使は十二分に王であった。

 懸崖を吹き抜ける強い風で暴れる髪を押さえつけながら、眼下に広がる未来で歴史を縫う紙となるであろう木々を眺め、静かに「また一つ、旅が終わったよ」月へと報告する姿は、絵画に変えてもその美しさを弱めないだろう。


「断れるわけがない」


 ノアールモは、ルシエの肌に媒体が触れていたことで、それが本心かどうか感覚で判断することが出来ていた。マルヴィジーオに放った辛辣な言葉の数々も、持ちかけた取引も全て、蝶が見極めている。

 だからこそ思う。ルシエに期待し、一つの運命を委ねてみようかと――


「だって、あなたは近い形とはっきり言った。望みは同じじゃないと、分かりにくい誠実さを見せてくれただろう?」


「分かりにくいのは性分なんだ。だから、どうか苛めないでくれないか」


 相手側の意思を汲み、それに合わせるのではなく、自らの欲望を示した上でその先にある利益を仄めかし惑わす。実に姑息で周到な手段だ。

 分かっているというのに、それでも惹かれてしまうのは、嘘で塗り固められた真実に飽き飽きしているからだろうとノアールモは思った。奇麗事はもう聴きたく無いと、心が疲れ果てている。


 困ったなと眉を下げるルシエに近付いたノアールモは、そうしてゆっくりお互いの手を合わせ温もりを行き交わせた。

 どちらも冷たいが、ひんやりとした温もりのあるノアールモと違い、ルシエの冷たさは氷結の儚さを思わせるもので、だからこそ、そこに命を感じる。


「どうして? と聞いてもいいだろうか」


「内容にもよるけれど、答えられる範囲では善処しよう」


 雰囲気がどことなく似ている二人は、手を握り合ったまま同時に首を傾げ、静かにそれぞれが持つ光を月明かりに混ぜていく。

 ノアールモは控えめに窺い、ルシエが左手で促す。最後の最後で、新しい種類の『どうして』が生まれていた。


「どうして、抗おうとは思わず、戦おうと思ったのかな」


「隙を見つけてしまったら、捻くれ者はそこを突かずにはいられないんだ。それだけだよ」


「それだけ?」


「それだけだ」


 あっさりと返ってきた答えに、「あなたらしいね」と笑いながら、ノアールモはじっくりと金色を見つめた。

 月よりも明るく星よりも淡く、不思議な煌きを持つ瞳で見た世界は、その輝きと同じ様に美しく残酷だったのだろうなと、もう一度だけ「本当にそれだけなのかな」ノアールモが追及すれば、ルシエは降参して視線を外す。


「それだけの、つもりだったよ」


「なら、全ての終焉を委ねても良いだろうか」


 冷たい手は変わらないけれど、出来ることなら温もりが分けられれば良い。嘘の塊である悪魔が本当は、嘘が下手で真実を言わないだけの不器用な者だとノアールモは知ったのだから。

 いくらでも作れる理由さえ、こうして誤魔化しきれない破罪使を、愛を成就させている精霊王が想う。


「それは出来ないよ、闇の精霊王。終焉はそれぞれに帰る。けれど、…………やっと会えた」


「マルヴィジーオに後で怒られてしまいそうだ」


 感慨深く絞り出し、そっと自分の頬で冷たい温もりを感じるルシエ。求めていたのは自分ではなく闇の精霊王だと理解していても、どこか光栄で妖艶に感じ、ノアールモは誤魔化すようにクスリと零した。


「マルヴィジーオがあなたに屈した時点で、断る理由は無くなっているよ」


「一つ、聞いてもいいかい?」


「勿論。そうすればお相子だ」


 額を重ね共に微笑めば、吐息だけではなく存在も溶けあってしまいそうな一枚が出来上がり、月が切り取ろうと瞬きをする。

 世界にそれを映してしまわないよう、雲が慌てて月を隠し星が光を強めて誤魔化していれば、心が作り出した闇と世界が生んだ闇の瞳から光が消えた。


「……そうだね、石にしてでも縛り付けると思うよ」


 その間にルシエの質問は終わっていて、内容を月は聞き逃してしまった。

 一体どういったものだったのか、ノアールモが「酷い質問だ」と苦笑していたところから、あまり良いものではなかったのだろう。


「でも、それが聞けて良かった。その選択を考えられる精霊王が居るだけで、二度目はきっと起こらないだろうから」


「そう願うのなら、出会って間も無い私より、君を想う二人に託せば良い。その方が、彼等もきっと喜ぶ」


 今度はルシエが苦笑し、「託すのは苦手なんだ」そう言ってノアールモの額から離れた。


「それに、あの二人は影を見ていただけだから。精霊王としては、その違いに気付いてから、この先どうなるか分からない」


「気付いた上で、君と最後まで共に居たとは思わないのかい?」


「甘やかす気は毛頭無いさ。それが、答えだ」


 繋がれたままの手から力が抜けるのを感じ、消えてしまわないようノアールモが力を込める。

 そうして尋ねた。


「私に望む願いは?」


 幸せを運ぶ魔法使いにはなれないけれど、種になりたいその願いに水を蒔くことは出来るよと、ノアールモが歌う。

 それに答えるように、ルシエは詩の無い曲を口ずさむ。


「魂での契約を。君の力を貸して欲しい――」


 誰の力も求めず、そこにある力を活用するだけだったルシエにとって、その言葉の重みは計り知れないものだった。

 長い年月を掛けて大きくなってきたズレや想いのすれ違いが巻き起こした現在(いま)、ルシエの存在そのものが変化であり元凶でもある。


「契約が成立すれば、後はもう消えていくだけだよ。十番目は最後であり、起動でもある」


「分かっている。元よりそれは、覆しようの無い確定した運命(・・)だから」


「だからこそ、もう少しこの世界で自分に甘えても良かったんだ。そんなに焦らずとも、世界の全てが崩れるにはまだまだ時間はあった」


 ノアールモの言葉にルシエがフルフルと頭を振り、お得意の薄っぺらい笑みを見せた。

 拒絶を映すその表情は猟奇的で、直ぐに失言だったと気付くのだが、ルシエは今までと違い非難するでもなく取り繕うでもなく、淡白な心情を曝け出して切なさだけをノアールモに感じさせる。

 

 きっと、精霊王である自分がどれだけルシエに本心から語りかけようが、言い訳にすらならない声でしかないのだろう。分かりつつも止まらないのは、()しんでいるからか。ノワールモは自分の心を分析しつつ、自らを写してくれる瞳を覗いた。

 それをあっさりと外し、手まで離し、ルシエは懸崖のぎりぎりまで足を運んで、今度は空を見上げる。


 そして、振り向き様に牙を光らせ言葉を剣とし構えた。


「けれど、そうすればアイツはさらに奪うだろう? 満たされるよりも欠けることを、何よりも破罪使は認めない。だから、……ね?」


 伸ばされた手は、何を誘おうとしているのか。終ぞ、その本心を誰にも語らない破罪使は、それでも言葉巧みに様々な思惑を飲み込み続ける。


「魂で、契約を結ぼう。君が、マルヴィジーオとの穏やかな未来を掴みたいというのならば。……それを阻む存在に、絶望を与えてやろうじゃないか」


 満月を背にそう囁いた破罪使は、犠牲となった悪魔二人をその身に嗤った。

 左右で大きさの違う翼が満月の上に影を作り、羽根を散らす。その背に黒の羽根を宿した破罪使は、みすぼらしいボロボロの翼を美しさに変えて、頷いたノアールモに言う。


「さあ、行こうか。最後の精霊王へ会いに」


 真実を内に抱きながら、その全ては悟らせずに歩んだ道のり。

 最後の契約は、言葉も痛みもなくひっそりと結ばれたのだが、それはきっと闇の精霊王の慈悲だった。今日だけは、闇に沈んだ獣の歌だけを月や星に覚えていてもらいたいからという、身勝手な慈悲――


 せっかく取り戻した強さを代償に、そうして破罪使は闇の力を手に入れる(・・・・・)。それこそが、一年にも及ぶ殺戮の中で目指していた結末への一手であり、それがどういうことなのか、ノアールモのみならず全員が知るのはその僅か一時間足らず後のことだった。







 ノアールモが自分と契約を結んだ時の様子を思い出している間に、紗那の足元には刻々と闇が広がっていた。

 蠢きながら身体にまとわりつく闇は、部屋に居る全員にそのおぞましさを感じさせながら、同時に彼女がずっと抱えていた目的そのものも狂気で知らせる。


 陽と大地、空の三人はその異常さに悲鳴を挙げた。

 水と風、海の三人は永遠の別れを突き付けられ、悲しみを抱きつつ想いを受けて踏みとどまる。そうやって、金色を捉え、光と闇、星と雷の四人は、その狂い加減と予想外の終結に感心するしかない。


「何…………を……?」


 そして、自らの罪の結果を突き付けられた生の精霊王、デルフィニウムは、ただそれだけを絞り出すのに精一杯。彼は大きな音を立てながら紗那に近付き、震える手でゆっくりと闇に触れようとする。しかし、その闇が彼を受け入れることはない。


「世界の端、混沌の掃溜め。君達は確か……、そうだ、底無しの深淵(ブラックホール)と呼んでいるんだっけ」


 デルフィニウムの手が触れれば、靄のように通り抜けていくだけだというのに、そう言って歓喜に微笑む紗那の足首から徐々に身体に沿って伸びてくる闇の手は、確実に彼女を捉えて離さない。

 それでもデルフィニウムは、何度も何度も、紗那の身体から闇を払おうと手を振った。


「そこでは、時間さえも喰われる闇だけが広がっているとされ、一度落ちればどんな存在も抜け出す事が出来ないと言われているんでしょう?」


 その度に、紗那がクスクスと笑いを零し絶望を舌の上で転がした。

 闇の手もまた、少しでもそれを味あわせてやろうと緩慢な動きをしている。


「だから言ったんだよ、知りたくなどなかったと。君が神であったなら、抗おうなんておこがましいことを思わずに済んだんだ。運命だと受け入れられた。けれど、現実はただの精霊王で、絶対ではなかった」


「今すぐ力の行使権を奪え、闇の精霊王!」


 笑い声に混じり雄弁に語る紗那の影で、デルフィニウムが次の手段を講じようと叫ぶ。

 しかし、指名を受けたノアールモは首を振るだけだ。「私との間で結ばれたのは、魂の契約だ」そう言って動こうとしない。


「それに君は、力で捻じ伏せた結果起こってしまう弊害――反抗で痛い目を見ているからね。無意識にでもそれを恐れるあまり、だからこそ言葉を多用した。でも、人は見下す物だからと私を無視し、その恐れと驕りで隙間が出来た」


 まるで蛇のように足首に巻き付き、ゆっくりと淫靡に動く闇と、それを愛しく撫でる紗那。その前では絶望が広がっている。

 底無しの深淵に落ちれば、その先に待っているのは死の無い闇だ。時をも喰らう空間で、紗那は永劫を消化しなければならなくなるだろう。

 けれど、それこそが望み渇望した最期だった。


「不思議で仕方がないだろう? 底無しの深淵への扉を開くには、闇の精霊王の力かもしくは、数種類の精霊の力を混ぜた混沌を作り出さなければならない」


「だったら無理矢理にでも捻じ伏せろ! 今更、魂のバランスは考えなくて良い!」


 悲鳴のようなデルフィニウムの声が木霊し、その後ろで紗那の語りが止まらない。

 クスクス、クスクス、耳にこべり憑く(・・)ような静かに響く笑い声が、徐々に大きく強い曲を奏で始めた。


「何故邪魔をする……!」


「これがルシエの戦いだからだ! 僕達が介入するべき時は終わった!」


 闇の蛇が太股を犯し、腰を撫ぜ、そうして紗那の歓喜を誘う。

 発狂しながら命令を飛ばすデルフィニウムだったが、紗那の考えをはっきりと知った精霊王の中で、彼の味方をする者は限られていた。


「気付かなかったことが不思議で堪らないよ、デルフィニウム」


「君は少し黙っていろ!」


 闇は確かにそこにあるというのに、触れられないもどかしさ。脆弱な存在に出し抜かれてしまった屈辱。ただ愛しただけだというのに、報われず思い通りにもならない憤り。全ての感情が苛立ちとなり、デルフィニウムが笑い声を止めようと紗那の口を塞ぐ。

 しかし、闇を絡めた腕が簡単にその拘束を解いてしまう。そして、紗那は恐ろしく甘美な笑みをデルフィニウムに向かって浮かべた。


「君が言ったんじゃないか。十の精霊王と契約をした人間だって。だというのに何故君たちは、私の魔法に違和感を持たなかったのだろうか」


 陽と大地、空の三人が従順に、デルフィニウムの望みを叶えようと動けば、それをまず海の精霊王が小さな身体の中にある大きな力で防いだ。その援護に直ぐ様星の精霊王が加わり、さらには鋭利で頼もしい気配を持ちながら雷の精霊王までが加勢する。そこに光と闇まで並び、最後に水晶と翡翠が立つ。

 どちらが優勢かなど、語らずとも一目瞭然で、紗那自身も出し惜しみをしない。

 魂での契約は力の貸与であり、それによって使われた力の支配権は使った者に既存する。

 だから、デルフィニウムの言葉をノアールモがすぐに拒否した。

 それに、行使権を奪えたとしても、今の紗那を捻じ伏せるのは中々に困難だろう。何故なら彼女は、闇の精霊王と契約を結んだばかりなのだ。

 つまり現在、紗那の魔力は精霊王という強大な相手との契約でオーバーヒートしている最中。しかも、これまでで魂が得た力は計四つにも及び、その全てが膨張しているのだ。たとえ力を貸した精霊王本人であっても、それを上回り抑え付けるのは至難の業で、貸与した者達全員が呼吸を合わせなければ不可能だろう。

 中でも、より信用を置いている海の精霊王が率先しなければ、陽と大地だけでは逆に攻撃を受け兼ねない。


「詠唱とは、意思疎通の出来ない人間が精霊に協力してもらい魔法を行使する上での意思そのものだ。風と水ならまだしも、私は貸与された力の属性を使う際にも詠唱をしていた。ねぇ、どうしてだと思う?」


 紗那は、目の前で対立する十人を眺めながらデルフィニウムだけを見つめ、本人としてはお茶目に笑って尋ねる。そうして返ってきたのが、十一の驚愕だ。

 睨み合い、お互いに動きを見計らっていた者達も含め、紗那が零した言葉は一瞬にして全ての意識を奪い去る。


 しかも、誰もが今更そんな教鞭を取ったところでと呆れたりはしない。

 ルシエ自身(・・)が使った魔法は、全てを通して十の内限られた属性である。頻度が高かったのは陽と風で、後は数回と少なく、海と大地、幻術として水が使われた。それ以外は、通常の契約をした上で傍に居なかったというのもあるが、一度たりとも使われてはいない。

 契約の主がルシエである限り、たとえ召還に応じずとも強制するだけの支配権はあったというのに、それをひけらかす事が一度も無かったのだ。

 そして、危機的状況、目立った場面で魔法を使う時、そこでは常に詠唱が響いた。


 けれど、紗那が暴露した通り、良く良く考えてみればそれは不自然極まりない。

 地球での想像(フィクション)の中では、魔法はイメージの力によるものだとされがちだが、アピスに於いてその力は、精霊との利害の一致によってもたらされる利益だ。自らの魔力を代償に、精霊の持つ神秘を強め分けてもらい使用可能となる奇跡(・・)。だからこそ、叶えたい願いを伝える術として、詠唱という言葉が必要となってくる。

 しかし、正規の契約を結んだ水と風の力は例外としても、陽と大地、海の三種類について詠唱は必要なかったのだ。何故なら、この属性は精霊王から貸し与えられた力であり、所有者(ルシエ)そのものにその権限が与えられていた。

 もっと分かりやすく言えば、飼い犬を座らせたい場合はそう指示を飛ばすが、自分に向かって座れと命じる者は誰も居ない。


 それでも、紗那がわざわざそうしていた理由。それを彼女が、自慢気に言う。


「今日この日、私が底無しの深淵への扉を開くのを邪魔させない為だったんだよ」


「正気の沙汰じゃない……! 自分が何をしようとしているのか、分かっているのか!?」


 デルフィニウムの顔に、苦々しさが浮んだ。

 そう、この空間が魔力で出来ている限り、紗那が魔法を使う警戒は怠れなかった。ただし、人間である彼女が魔法を使うには詠唱が必要になってくると思い込んでいた為、潜在的な魔力は低くとも繊細なコントロール技術を持つ彼女の前で気付く事が出来なかった。

 少しでも、魂で契約しているメリットを紗那が知っていると考えていれば、部屋の魔力の異変を感じられたはずだというのに。騙されたりしなかったはずだ。


 紗那だけであれば鼻で笑うだけであろうデルフィニウムも、死の精霊王を内に持ったままの状態で落ちることだけは何としてでも食い止めなければならなかった。それでなくとも、生物が底無しの深淵に望んで落ちるなど、理解できる範疇を超えている。

 不慮の事故ならまだしも、そこがどういった場所か知りながら、それでも恐れず嗤い歓喜する紗那を、到底人とは思えない。


「勿論、笑えるほど理解しているよ? それより君こそ、私の言葉が分かっているのかな。私は、詠唱して魔法を使っていたけれど、それは常にそうだった?」


 しかし、紗那の笑いは止まらない。デルフィニウムの悲鳴も――

 そんな騒がしくなった部屋で、最後の札の中身が曝け出される。一人の人間にとっての正義と、許された唯一の裁き。導く別れ。紗那は言った。


「気付ける要素は多くあったじゃない。なのに君は、この最期(・・)を止められなかった。つまり、私を底無しの深淵に落とすのは私自身だけれど、死の精霊王(あのおんな)については君の責任だ」


 自分の愛がどれだけ歪んでいるのかも気付かず、精霊の王だからと驕り、多くの命を消す未来を作ったデルフィニウム。そんな彼が神ではなく、一人の()だと認識してしまった捻くれ者が求めたのは、謝罪でも後悔でも無い。

 求めたのは、授けたのは、逃げようのない現実。そして今、盛大な高笑いが部屋に響く。


「時をも喰らい狂わす底無しの深淵では、人間である私の死すら世界の異物として拒絶されるだろうね! それでも、そこも世界の一空間であるのは変わらない。そうなれば、存在するだけで役割を果たしてくれる死の精霊王と君が担うバランスが崩れるなんてことも無い。君が愛する者と再会できる機会は、永遠に失われる……!」


「落ちるのを食い止めれば良いだけだ!」


「どうやって? 君は闇に触れない。この扉は、闇の力を基盤に陽と大地と海、全て魂の契約で得た力によって開かれているよ? 大事に大事に扱っていた駒は役立たずで、捨て駒はもう君の手の中に戻らない。当然、私の心変わりは期待するべきじゃないね」


 闇に囚われながらも拒んでいないからか、動きが封じられているわけでは無い紗那は、本当に歓喜に満ち溢れた笑顔を浮かべながらテーブルの上に足を組んで座り、出揃った札を集めた。

 クスクス、クスクスと、幾らか笑いを堪えようと努力するも、どうやっても噴き出して止まらず、口元を札で隠す。わざとらしく絵柄をデルフィニウムへと向け、紗那は肩を揺らした。


「それでも私を悪者に、自分を正当化したいというのならすれば良い。……ただ、その私を作り出したのは君だと忘れてもらっては困るよ? 捻くれ者はね、圧倒的で敵わないと判断した物事にはとても潔いけれど、一度でも勝機を……、付け入る隙を見つけてしまえばとても貪欲だから」


「人間風情が、これで世界が壊れない保障がどこにあるっていうんだ! 底無しの深淵が、僕たちの力さえ飲み込む可能性が無いと、何故言い切れる!?」


 紗那が動けると知り、容赦なく怒りに任せ押し倒したデルフィニウムが叫ぶ。都合の悪い言葉を払いのけ、愛する女だけを欲する。

 死の精霊王と出会っていると暴露した紗那が望み招いた現状となれば、脳裏に一つの可能性が浮んでしまった。


 直ぐに押し込め、現状の打開策だけを練ろうとするが、それを敏感に察して抉るのが破罪使だ。紗那は悪魔の笑みで言う。


「ほら、君自身が精霊王は絶対では無いと認めている。そうだよ、落ちた先でも大丈夫なんて、誰にも言い切れない。だけど、生きている命にとって、世界とは常に崩壊と隣り合わせなんだ。それに、ほんの些細な切っ掛けで破壊は及ぶ。どれがどういった結果を導くかなんて、一々考えて生きてなんかいられないし、誰が何時英雄になるか、破壊者になるかも気付けない」


「だからといって、君が取った選択は誰よりも世界の破壊を招きかねないものだ! 今すぐ力の行使を止めろ!」


 胸倉を掴み、容赦なくテーブルに叩きつけながらデルフィニウムは迫るが、闇はあくまで紗那を味方し、背後に回ってクッションとなり衝撃を吸収する。

 そして、紗那の顔に掛かった髪を優しい手付きで払った。


「あっはは! やっぱり君とあの女はそっくりだ。そっくりすぎて、だからこそ愛し合えない。分からないだろうけど、こうして君と話している間も、同じ様に彼女も焦って騒いでいるんだよ? 世界を壊すつもりかって、ついさっき君が言ったのと同じ事を喚いている」


 それでも、身構えられずに受けた衝撃でぱらぱらと、テーブルからはみ出て揺れる右手から札が散らばっていく。

 その一枚一枚を拾うのは、冷静な輝きを宿したゼフだ。彼は札に込められた意味を探りながら、屈んだ視線の先にある黒い爪に目を細めていた。


「……誰よりも、世界を壊しかけた者たちが言えた台詞では無いな」


 悪魔に変わってしまった恋人を手にゼフが零した呟きに、デルフィニウムの絶叫を止める威力は無かったが、紗那の視線を得るには十分。彼女は喜びに打ちひしがれた。

 未だにデルフィニウムが、欲望によって精霊王の存在意義を見失っていると気付くには至らないが、それでもゼフの呟きや七人の精霊王のデルフィニウムを拒む行動は、過去が変わった何よりの証拠である。それを作り出したのは、紛れも無く破罪使と悪魔だった。


「そっちは、任せて良いんだな? 身勝手な言い分ではあるが、彼女を頼む」


「本当に身勝手だね。でも……、私は自ら手元に引き寄せないし、手元に在るモノを自ら捨てたりしないと、この場で君が一番知っているはずだよ」


 紗那の言葉に頷いたゼフは、喚くデルフィニウムの襟足を掴むと力任せに引き剥がして雷の精霊王に拘束させた。

 当然、陽の精霊王たちがそれを非難し、実力行使にまで出ようとするが、それは彼女たちの足元から伸びた床が檻となって阻む。


「言ったはず、掌握しているって。君たちは何度も何度も、こうやって機会を逃して自ら敗北を導いたんだ。死の精霊王の時(むかし)も、私の時(いま)も……」


「離せ、離せよ雷……! どうして君たちは、僕じゃなくあんな最悪で最低な小娘の味方をするんだ……!」


 クスクス、クスクス。悲しみを嘲る音が木霊す。

 紗那がこの部屋を自在に変化させられるのは、死の精霊王が身体を支配する割合が大きくなっているからだ。元々放っておけば、精霊王側の願いは達成され、今の状況もそんな瀬戸際に立つ紗那の力を弱め、落ちる為に必要な力を奪い、底無しの深淵へと続く扉の開きを限り遅くさせれば何とかなるかもしれない。

 しかし、打開策は見えたというのに、デルフィニウムはそれを行動に移せなかった。十の内たったの三人しか協力してくれなければ、いくら特別な彼とて七人を上回ることが不可能だ。


 それぞれの力も、デルフィニウムの特別も、それら全ては個々で見ただけのもの。その強さを繋ぐ架け橋になったのは、一人の少女だった。


「悪ぃな、生の。俺様は、あの小娘に自由を見ちまってな。縛ったお前と違い、小娘は俺に何をさせたと思う?」


「良いから離せ! 僕の命令を聞け!」


「何もさせなかったんだよ。本当にやりやがった。しかも、俺様さえ騙してな!」


 腕の中で暴れるデルフィニウムを強靭な肉体で押さえつけながら、雷の精霊王はやられたと笑う。彼がルシエと出会い死を望んだ際、ルシエはその願いをいずれ叶えてやれると言った。

 けれど、紗那が招いた終焉に死は存在せず、待っているのは永劫だ。永劫の闇――


「生き地獄とさえ言えない地獄だろうなぁ。それでもお前は、笑っていられるのか?」


 雷の精霊王は、ゼフに手を借り身体を起こす紗那に迫った。精霊の王である十一人もの存在を――いや、内側で喚いていると言ったのだから、十二人もを騙し切った脆弱なだけの少女へ、彼が賞賛を込めて叫ぶ。

 そうすれば、紗那はゼフの手にある悪魔を受け取り、口元に添えて示しながらたった一言。


「悪魔だもの」


 笑って言った――


「どうしてだよ、なんで、なんで……! 僕等は特別なんだ、世界そのもので、彼女だけが僕の隣で何の差もなく並べたというのに。どうして僕じゃ駄目なんだ……!」


 紗那の目の前で、仲間である雷に拘束され、絶望の雫を落とすデルフィニウム。彼はまるで、悲劇のヒロインのように繰り返し外へ責任を探しながら、赤子のように喚き続ける。

 それを真似る三人は、檻から箱に変わった空間でくぐもった響きを主張するだけで、誰もその悲しみを掬おうとはしない。

 全てを紗那に委ね、見守っていた。


「そんなの知らない。だって私は、死の精霊王では無いもの」


「当たり前だ! それよりも、このまま君たちは彼女を見殺しにするつもりか!? このまま底無しの深淵に落ちるのを、黙って見ているのか!?」


 多くの言葉が飛び交い、揺らがない歓喜と揺らぐ絶望が混ざり合う。デルフィニウムは紗那の存在を無視し、希望の糸を手繰り寄せようと必死だが、一つの結末を掛けた戦いの勝敗は決している。

 後に残っているのは、勝者だけが味わえる甘美な祝杯。紗那はゆっくりと、凡そ善人とは思えない表情でデルフィニウムに絡み付く。

 わざと右手を伸ばして頬を撫で、無言で微笑み絶望を啜った。


 さらに、独りの宴に最高の贈り物が捧げられた。

 デルフィニウムの叫びを真正面から受け止めたのは、最も弱いとされ人間臭いと嫌悪された水の精霊王だ。彼は、柔らかい美に冷たさを含ませながら、以前は見つめ返せなかった漆黒に水晶の光を放つ。


「見殺しにするもなにも、死の精霊王はとっくに居ない。君が消してしまったじゃないか、生の精霊王」


「なっ――!?」


「真実を見間違う方法なんて、幾らでもある。正義も罪も、愛も絶望も。見方がほんの少し違うだけで、全く別のものへと変化するんだ」


「ふざけるな、水……! 君も、彼女を取り戻したいと騙していただけだろう? 風だって、虎視眈々と魂を刈り取る準備をしていたはずだ! 君達の彼女への愛は一体どこへ行ったんだよ!」


 今更仲違いをするなど、愚の骨頂でしかないというのに、ゆっくりとだが着実に闇に呑まれていく紗那の前で下らない言葉の応酬が繰り広げられる。

 クスクス、クスクス。終曲を奏でるのは絶望と歓喜のみ。そうやってはっきりと言葉にすることで紗那の動揺を誘おうとするデルフィニウムだが、七人は知っている。彼女はもう笑うだけだと。笑って、眠るだけだと――


「もう一度だけ言ってあげる、デルフィニウム。…………チェックメイト、だよ」


 揺らがない視線は一から七に増え、水の精霊王を倣うように全員が言葉にしていった。

 過去がもたらした絶望の現在が、これからの未来へと尾を引かないように。約束を壊そうと、言葉を武器とし妖艶にデルフィニウムへと迫る紗那の背後に一人一人並んでいく。


「死はもう居ないんだ」


「君が殺した」


「ただ、その罪は全員で背負うものだ」


「目を背けるのも当然だけど」


「人間に擦り付けようとすることがそもそもおかしかった」


 違うと首を振るデルフィニウム。悲しそうに彼を見つめる七人の精霊王。それを見て、笑いが止まらない紗那。

 誰が悪いだとか、誰が正しいだとか、種族も立場も違う彼等を前に定める事は不可能だが、デルフィニウムの間違いだけは指摘することが出来た。

 誰よりも自分を知る紗那が、常に『どうして』を投げつけられてきた彼女だけが、デルフィニウムの絶望の種を知っている。


「どうしてだよ……! 君は僕の人形だったはずなのに! そう作ったはずなのに!」


「うん、そうだよ。その結果、私は捻くれ者に出来上がった。知らなかったとは言わせないよ? 捻くれ者は、他人に奪われる(・・・・)のが嫌いだったじゃないか」


「奪ったのは君だろう! それに、君の持っている物で欲しいと思えるようなのは何も無かった!」


 理由は知った。原因も、方法も、目的も明かされた。

 しかし、紗那がデルフィニウムに放つ札は出しきられても、全てを明かすには一枚だけ残されているものがある。


「なのに、どうして! 君は僕に歯向かった!?」


 動機だ――

 これといって、生きることにも頓着しなかった紗那が、永劫を受け入れる程にデルフィニウムの欲望を阻止せんと思ったきっかけを誰も知らない。

 闇を首輪に惜しみない歓喜を映す紗那は、デルフィニウムの絶望の一欠片も残さないと、至近距離まで唇を近付けながらきょとんと首を傾げ、「また忘れてる」と呆れを零す。

 何度も何度も、「言ったじゃないか」と記憶を掘り起こさせてやったというのに、それらを以ってしても始まりに辿り着けない愚かさが馬鹿らしかった。


「絶対に、許さないから」


 一言一言、青白い唇から逃亡を許さない声が放たれ、黒い爪を持つ指がデルフィニウムの胸を抉る。そのまま、笑声を零しつつ移動し始めた狂気は、完璧なバランスで形を作っている耳元で止まった。

 デルフィニウムは、先ほどの言葉で自分が何を奪っていたか思い出した。


 けれど、まさか――


 手遅れにならないようにと予測し、先手を打った結果がこの絶望を導くとは思いもよらなかったと、動揺が紗那の指に伝わる。

 クスクス、クスクス。耳元で奏でられる人形の歌は、オルゴールよりも儚い。


 絡み合う想いを追い掛け、手を伸ばし、崩れた足元。それでも必死に希望を仰げば、欠けてばかりの瓦礫が見上げる空を塞いだ。

 紗那は、デルフィニウムにだけ聴こえるよう、ずっと温め続けていた言葉を解放する。そうすれば、歓喜の中に達成感も加わるだろう。


「ざまあみやがれ」


 生き地獄への扉がデルフィニウムを容赦なく吸い寄せ、引き込む。紗那が満足気に胸を押せば、美しい四肢が無抵抗に床を叩いていた。

 それでも諦め切れず、自分を見下ろす金色に漆黒は縋った。


「分かった、負けを認める! 認めるから、扉だけは閉めるんだ! ……ね?」


「ふ……ふは! あははは! で? 認めたから満足して、潔く消滅しろと? どこまで精霊王というのは都合が良いんだろうね。たかが、世界のバランスを人間より明確な形で担っている、何の拘束も無い世界を恐れているだけの存在のくせして!」


 そんな漆黒を、金色が突き放す。

 そこにあったのは、向けられるのは、無情な程に純粋な憎悪。紗那にとって、失った記憶は自身を形作ってくれた根源だ。それを奪ったのが太刀打ち出来る存在だと知れば、彼女の捻くれた心は無抵抗な屈服を許してはくれない。

 ただ、それは戦った理由で、動機とはまた違う。

 旅が始まった時、一番初めに忘れたと認識したのは一体どういった記憶だったのか。それを知っているのは紗那だけで、許さないと示しているモノを察することができるのはデルフィニウムだけ。


「愛していたわけでは無いんだろう!? ――っ!?」


 デルフィニウムがはっきりと指摘をしかけた時、彼の絶望を回避出来るかもしれない唯一の手段、言葉は失われた。

 駒としてしか動けない陽と大地、空に遅れ、主人であるデルフィニウムも自分の絶望だけが跳ね返る狭い空間で四方を囲まれ、愛する者を内に持つ紗那の身体を見送ることすら不可能となる。


「そうだよ、私は愛を知らない。だからこそ、全てを過去にする必要があって、時は褪せるべきだった。だというのに君は、約束を約束のまま消えなくさせ、その存在を他人に戻せなくしてしまった」


 それでも紗那の言葉は容赦なく届き、デルフィニウムの絶望が歓喜を呼ぶ。

 「この結末を招いたのは、間違いなく君だよ」そう呟きながら、デルフィニウムを囲った箱の上に座って笑った。


「……ルシエ? もう、良い? もう、満足出来た?」


 そんな紗那に、今にも泣きそうな声を掛けたのは海の精霊王だ。彼女は、陽の精霊王たちと対峙していた時の勇ましさはどこへやら、小さな身体一杯で悲しみを浮かべている。

 そして、耐え切れない想いを抱え、飛びつきたい衝動を必死に抑え、瑠璃を潤ませた。


「ありがとう。君達のおかげだ」


 足元に広がった闇は、下半身を覆いつくして上半身に及んでおり、今では鎖のように床から伸びた手が紗那の首や腕、胸に巻き付いている。

 見た目だけでも不気味で恐ろしいが、何よりも異質だったのが、そんな状態で満面の笑みを見せる紗那本人だ。しかも彼女は、何の躊躇もなく戸惑いもなく、あっさりとその言葉を七人に向けて贈った。


 どんな痛みよりも残酷な五文字を――


「でも、流石にちょっと限界かもしれない」


 けれど、穏やかな表情は一瞬で、弾けるように翔けて抱き付こうとした海の身体を覆うように、紗那は小さく呟いて呻き声を呑み込みながら倒れた。


「ルシエ!?」


 誰も本当の名前を呼んでくれる者はいないけれど、それでも安心させようとしたのか微笑もうとし失敗。紗那は、染まりつくした赤で部屋を飾った。

 どこが限界か、どこで限界だったのかなど、最早分からないし始めからと言っても良いのかもしれないが、まだやり残した事があるのだと、必死に揺らして返事を求める小さな群青を見る。


「どこも怪我は無い? ごめんね、少し疲れちゃって」


「僕のことなんて良いよ! それよりルシエが、血が――」


「治癒したところで無駄なのが、もどかしいね」


 身体の下で、必死に助けようと瞳を潤ませる海の姿が眩しくて紗那が憂いを零せば、力の入らなくなってしまった身体が柔らかな声と共に抱き起こされる。

 クランクが苦しみを堪える乱雑な手つきで口から溢れた赤を拭い、見えない傷でボロボロな身体を強く包む。


「四人の拘束解除の権限は、君とゼフの二人に与えてある。私としては、デルフィニウムだけは石にしてしまうのをお薦めするけれど、最終的な判断は皆で話し合って決めれば良いよ」


「……良いのか?」


「良いもなにも、私の目的は既に達成されたも同然だから」


 その隣でゼフが顔を覗き込めば、紗那はやはり笑おうと頬を上げていた。

 クランクが触れても闇が彼を受け入れることはなく、床で繋がる底無しの深淵へと誘う手も抱き上げたことで浮いた身体から離れない。


 七人は、部屋に転がる四つの牢獄に目をやり、以前であれば神への冒涜だと罵っていたであろう所業を為し得た者を想う。世界はきっと救われたのだ。今現在、クランクの腕の中で力を失い垂れるだけの手によって、精霊王の周囲に広がる彼等の世界が、特別という隔離で壊してしまった者に支配されたそんな道が、破罪使によって壊された。


「ねぇ、ゼフ。雪が溶ければ何になるか知っている?」


 頭上から聞こえる嗚咽はきっと、勝利を祝福する鐘なのだろう。だからきっと、温かい――

 紗那はクランクを感じながら、流れる川の間から見えるゼフに尋ねた。彼は答えず、掠れた声で「まだ私たちは失格になっていないだろう?」そう尋ね返す。


「勝負は着いたはずなんだけど……、仕方がないなぁ」


 盛大に魔法を行使する派手さや、剣を打ち合う迫力も無く終わった戦いは、たった一つの達成感があるだけでやり切れなさが部屋を満たした。

 既に紗那の顔の右半分まで覆い尽くした闇が、彼女の全てを飲み込むのも目前なはず。

 人間にとって強大な力を持つであろう精霊王を見事出し抜いた悪魔の王は、ゼフが良く知り旅の最中何度も見せていた甘い呆れを浮かべながら、「質問は?」揺れる翡翠に左手で触れる。


「私は、お前を見ながらその奥で死の精霊王(かのじょ)を求めた。だから、クランクのように抱くことすら出来なかった」


「それは、ゼフのお父さん意識が強かっただけだよ、きっと」


 別れの時だと、誰もが理解し紗那を囲む。

 「座りたいな」と頼みながら、悲しみに満ちようとするゼフやクランク、海の前で、紗那は彼等の知るルシエそのまま分かりにくい冗談で、ゼフ以外の者達の笑いを誘った。


「違うと何度言えばお前は理解するのだ!」


 ゆっくりと白い床に下ろされ、絶望を閉まった箱を背にする闇の塊は、緩慢な動作で海を膝に誘いながらか弱く肩を震わせ、機嫌を悪くした翡翠に言う。

 別れは済ましたつもりだったけれど、いざとなれば、存外想いを持っていたのだと気付き、嫌いたかっただけなのだと悟りつつ、言うべきことだけを瞬時に判断する非道さは変わらない。


「だって、仕方がないでしょう? 父を知らない私にとって、君はそう感じる温かさがあったのだから」


 紗那の残された肌を撫でるゼフの手が止まり、悲痛に細められた瞳が彼女を射抜く。けれど、それが答えであり、彼等が交わした約束でもある。


「約束、守れただろうか。君の鎖を私は断ち切れた?」


「ルシエは一杯、いーっぱい、頑張ってくれた。僕、言った通りに色々な所を見てきて、星とも凄い仲良くなれたんだよ? コレから先も、もっと沢山友達(・・)が増えていけば良いなって、そう思えるようにもなったんだよ?」


「ふふ、これからが頑張り時だね、星の精霊王」


「うるさいよ! これでも大分進歩したんだからね」


 今まででは考えられない他愛の無い会話が許される時間はほんの僅かだ。

 紗那は何度も咳き込み、その度に血を吐き、海やゼフ達を汚さないよう顔を背ける。そんな苦しむ様子を見ても、全員が引き止める素振りを耐えることだけは出来なかった。

 

「ねぇ、ルシエ」


 そして、気付かぬ内に話をずらされていたゼフに代わり、クランクが左手を握りながら屈んで頭を撫ぜる。彼の質問は彼らしい、とても優しいものだった。


「君は、自分をどう思っている?」


「前にも聞いたはずだけれど」


「また聞きたいんだよ。今の君の答えが知りたい」


 真摯に向けられた水晶から視線を外した紗那は、残り少ない力で首を伸ばして傍に来るよう訴え、耳元で囁く。「二度も言うつもりは無いんだけど、ルールだから仕方がない」クランク以外、周囲の者達が聞き取れたのはその言葉だけで、答えはたった一人にしか明かされなかった。


「……そっか。そっ……かぁ……」


 けれど、答えを聞いたクランクは天井を仰ぎ赤くなった目元をさらに赤くさせ、震える声を零しながらも微笑んでいたのだから、彼にとっては悔いの無いものだったのだろう。

 そんなクランクを「水は海より泣き虫かもしれないね」と茶化しつつ、紗那はゼフを再び見て「それで? 君の質問は?」と自ら心を魅せる。


「とても残酷なことを聞くことになるぞ」


「構わないよ。破罪使以上に残酷なものは無いと、これはちょっとした自慢なんだ」


 「そんなもの、自慢にならないわ」静かに口を挟んだマルヴィジーオに肩を竦める紗那に残された肌は、左目の周囲と左手というぎりぎりで、それでも声は届くのだから闇も不思議なものだ。


「待ってやれる時間は無いよ」


 最後のチャンスだと、この期に及んで躊躇するゼフを叱咤すれば、彼はどんな状況でも弱まらない金色に口付けを一つ落として隣に腰を下ろし、海ごと抱き締める。


「生まれて良かったか?」


 そうして零された問いを、海が静かに聴いていた。勿論紗那にも届いていて、確かに残酷だが嬉しいと微笑み、何度も何度も感じた頼もしく硬い胸に頭を預ける。彼女は言った。


「当然。だって私は、死にたがりなわけじゃなかったもの」


 見た者に悲しみを抱かせる笑みしか浮かべられなかった空っぽな少女も、激動の旅の全てを終えて大人っぽく成長し、甘く美しい表情で心を乗せられた。

 それはきっと、一人では出来なかったことだろう。共に歩み、隣で様々な感情を見せてくれたからこそ、空っぽな中身に真似るのではなく本人のものとして多くが収まった。

 殆どを失う結果にはなってしまったけれど、それでも根付いたものも残ったものもある。


「君たちから預かった、約束を壊すための力を今返そう。陽と大地、空の三人に関しては、デルフィニウムの件が決まるまでノアールモに預けておこうかな」


 紗那は止まってくれない時に従い、やるべき事を終わらせていく。

 精霊王を縛る鎖が消えた今、彼等の力は本人が自由に使えるものだ。結局、世界の流れは変わらない。戻っただけで、何かが変貌したとは言い難い。

 だったら、どうせなら、世界を担う存在である精霊王たちも、生きられるだけ生きて欲しいとひっそり想い、紗那は全ての契約を破棄してただの人間へと戻った。

 そして、闇に包まれた右手をノアールモに差し出せば、そこには精石に比べ粗末でみすぼらしい三つの石が存在していて、「最期まで手間を掛けるね」そんな労いをもらいつつ未来を託す(・・)


「さてと、これで全部終わったかな」


「っ――! ヤダ……、嫌だよルシエ!」


「ふふ、君はきっと、美人な女性になるだろうね。それを見れないのだけが、少し残念だよ」


 紗那は海の悲痛な叫びに優しく返し、まずマルヴィジーオを見る。彼女の手はノアールモと繋がっていて、「我侭も程々にしないと、嫌われるから気を付けなよ」と忠告すればそっぽを向かれてしまった。


「あの時の質問の答えだけは、忘れないでね」


「勿論。後、一つ反論すれば、私がマルヴィジーオに愛想を尽かすこともあり得ないよ」


 「それはごちそう様」と紗那はさらに視線を滑らせていく。

 少し離れたところで、陽の精霊王を捕らえた箱を椅子に、一連の別れを眺めていたのは雷の精霊王だ。


「君に何か言う必要は無いよね」


「おいおい、それは無いんじゃねぇの? 俺様だって、お前の最期の言葉ぐらい覚えてやる優しさはあるぞ」


 鋭利な肉体を惜しげも無く晒し、「つれないねぇ」と笑う雷の精霊王に、紗那は本気で噴き出してせき込んだ。


「死ねと言ったくせに、良くもまぁ……。だったら一つ、君に最も相応しい言葉を最期にあげるよ。……君たちは、自由だ」


「そんなの知ってるっつーの。今も昔も、コレから先も、俺達は自由だ」


 何が言いたいのか、二人にだけ通じるものがあるのか、楽しそうに笑いながら雷の精霊王の少し手前に視線をずらせば、そこで嫉妬心を向き出しにしているのが星の精霊王。彼と紗那は、海の精霊王を間に置けば永遠に一方的なライバルであり続けるのかもしれない。


「底無しの深淵に郵便機能がついていれば、海の成長記録を送ってもらえただろうに」


「んなもん、あるわけないじゃん! ていうか、あったとしても、あんたにだけは絶対に送ってやらないし!」


 そう言って唇を尖らせる星の精霊王を、膝の上に居る海が「ルシエを苛めちゃ駄目だよ」と怒り、幼い子供に叱られて不貞腐れる大人に紗那がまたしても笑う。

 その度に赤が散るが、不謹慎でも誰もが床に咲く華を美しく想った。


「それは残念。……さて、そろそろ限界だ」


 力を返したことで、開く扉の早さを遅らせるのが不可能となってしまった紗那に訪れたリミット。全員が見れるよう、クランクの握る左手を持ち上げれば、青白い肌が残っているのは小指だけだった。右目ももう、半分も残っていない。

 

「二人には、たくさん残してしまったのかもしれないね」


「あぁ、多くを残してもらった」


「俺達も、残せたのかな」


 そして、金色が最期に見るのは、冷徹でありながら不器用で温かな自分と似た部分も多い翡翠と、頼りなく優しい柔らかい水晶。二人は、左右で紗那の小さな身体を包み込んで力を想いに強く込める。

 その温もりも硬さも、闇に収まってしまった身体では感じる事が出来ないけれど、それでも紗那は二人の温もりを知っていた。何度も何度も感じ、覚えていた。


「コレから先、どうせ時間を持て余すだろうから。君達がどれだけ面白く、満ち足りた存在だったかを、自慢気に死の精霊王に語り尽くしてやろうと思っているんだ」


「それは良い考えだな」


「俺達は俺達で、出来る事をこれからやっていこうと思うよ」


 振り返って後悔しない過去は少ないけれど、後悔しつつも笑える過去は存外多い。人生というのはそんなものなのかもしれないと、短い一生を振り返りながら紗那は思った。

 そう、短いけれど、それでも満ち足りた人生だった。ただの子供の足掻き、醜い欲望でしかなかったが、それでも地球よりは生きていたと胸を張れる赤い世界。薄れる意識の中、紗那は呟く。


「渡れて、良かった」


「ルシエ……、ルシエ?」


 その身体も意識も、全てが闇に呑み込まれるのだと腕の中で感じたゼフとクランク。それに海も加わり、引き止められずには居られない彼等は必死に、仮初でありながら真名でもある破罪使の名を呼ぶ。

 けれど、紗那の全身を覆い尽くした闇は猶予を与えず、ゆっくりと彼女の身体を床に開いた扉の奥へと誘い始めた。


「っ――! 約束を、新しく約束を結ぼう!」


 そんな紗那へ叫んだのは、弱く強い水の精霊王。全てが一つの約束から始まったのを分かりながら、それでも彼は鎖を伸ばす。


「待っている! 再び会えることを、ずっとずっと、約束を守りながら待っている!」


 これもまた、一つの愛なのだろうか。クランクに続き、風の精霊王までもが鎖で脆い身体を縛った。ゼフが、沈んで行く闇の塊に縋りながら大声を張る。


「雪が溶ければ、希望が芽生える。私達にとって、お前は冬の終わりだったのだから……!」


 白い部屋で鮮やかに広がる赤い華。消えていく闇。見送る七人の王と四つの絶望の前で、そうして破罪使はその一生を終えた。

 最期まで悲しみを雫に変えず、絶望を嗤い歓喜した悪魔は、そうしてこれから待ち受ける永劫に続く地獄の扉の奥へと消える。


 未来を残し、新たな約束を一方的に結ばされながら――


 ピチャンと小さな音をたてながら、闇は消えた。














 さて、これにて破罪使について紡がなければならない全てが語り終わった。

 そこで一つ、訂正させてもらいたい。ルシエが出会った紡ぎの民の長であるエステュイアとウラノスは、この本を河内紗那について語っているものだと言っていたが、実際は彼女と破罪使についての混合された物語である。

 そして今、破罪使についての物語が終幕した。


 ルシエは、派手さは無くとも世界を左右していたかもしれない戦いに勝ち、己の望みを叶えて闇へと沈んだ。

 だからこそ、破罪使についてだけを知りたい者は、ここで本を閉じることをお勧めしよう。残りに記されているものは全て、河内紗那という地球人の結末についてである。


 さらに、それを記すに当たって、今更ながら一つの変化が生まれる。

 当に気付いている者も居るかもしれないが、今現在こうしてこの物語を紡いでいる紡ぎの民(わたし)の役目は、破罪使についてを語るものだ。それが代償であり、対価でもあった。


 ――俺は、上手く破罪使を語れたのだろうか。


 そんな不安は残るが、俺が最後まで責任を持って語り尽くすことは申し訳無いが不可能だ。

 俺が彼女と結んだ約束を果たす為にも、俺の願いを叶える為にも――


 しかし、俺にとっては見守り語るだけしか出来なかったこの地獄の中、せっかくだから最後に一つだけ残しておきたい。

 職権乱用だと言われ様が、紡ぎの民が同胞と認めてくれていたのだから、その優しさに甘えても罰は当たらないだろう。


 そして出来れば、何時かきっと、二人でこの物語を読みながら笑い合え、見つけてもらいたいと願う。


 世界の中心に関わる程に捻くれてしまった、少女に送るこの想いを。直接言えずに終わってしまった、俺の心を。いつかきっと、伝わると信じて――









『どこまでも続く青い空

 見上げるたびに強く君を想うよ


 愛していると囁やけば 好きと返し続けた君

 笑えないから笑ってと

 俺の笑顔が好きだと言った君の目元は赤かった


 眉を顰めるのが君の笑顔

 感情を落とした無表情は泣き顔

 驚いた時には小刻みに瞬きし 苦しい時にはゆっくりと時間を切り取る


 そんな瞳に映る世界は 美しかったのだろうか


 俺の見る君の居た世界は

 それがたとえ荒野であっても煌いていた


 笑わなくても良い

 泣かなくても良い

 会話がなくても良いよ


 確かにそれはつまらないかもしれないけれど

 仕草の中から君の心を見付けるのが何よりも楽しくて

 そんな君の不器用さが 愛しくて仕方が無かったのだから


 たった一つだけ交わした約束は 君を苦しめてしまったけれど

 それでも俺は嬉しく思う


 別れの時の君は 泣かずに泣いてくれていた

 まるで置き去りにされる子猫のように

 まるで迷子の子供みたいに


 俺は確かに君の中に居れたんだね


 悪魔になってしまった君

 悪魔にしてしまった俺


 けれど沢山のそれでも(・・・・)を並べてでも 俺は叫びたい


 それでも君を 愛し続けたいんだ――』









 一組の人間の男女が結んだ約束は、とても幼く純粋な想いの塊だった。





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