第四話 勃発
彩香は階段を駆け上った。
スカートが足にまとわりついて、動かすたびに不快感と焦燥が積もる。
でも、それをかき消すように二段飛ばしで駆け上がった。
小田桐、浅野がそれに続く。
2階から4階まで一気に駆け上がると、そこは薄っすらと霧がかかったように曇っていた。
鼻腔を刺すようなツンとする異臭も漂っている。
廊下の突き当たりにある理科実験室の辺りから、煙が湧き出しているのが見えた。
「菜月!」
叫びながら廊下を走った。
薄紫に色付いた煙が目に染みて涙が視界をゆがめる。
目を擦りながら煙の湧き出している準備室のドアノブに手をかけたが、中からカギがかかってる。
「菜月!大丈夫?返事して!」
返事の変わりにガラスの割れる音がした。
すぐ隣の実験室の戸を力任せに弾いた。
中はさらに濃い霧がかかっていて教室の隅は全く見えない。
彩香は窓側にある準備室へのドアに駆け寄り、非常ベルに負けない大きな声を張り上げながら、勢いに任せてドアをはねのけた。
「菜月!大丈夫!」
準備室の中は、濃い煙で何も見えない。思わず吸い込んだ煙に喉が詰まる。
「戻れ!奥へ行くな!」
彩香の咳を聞いて位置を推し量った刑事たちが叫んだ。
それに続いて数人の足音が近づいて来る。
彩香はその声には構わず、ポケットからハンカチを取り出し口に当てると、煙の中へ足を進めた。
「菜月!返事して、誰か!」
進める足に重い何かが引っかかった。
軟らかくて足がめり込む。
「菜月?」
うつぶせになって倒れている制服の背中が見える。
しゃがみ込んで顔を覗き込んだが明かりが足りない上、煙と涙でよく見えない。
彩香は無我夢中で抱え上げると、煙の少ない実験室へと引きずり出した。
「此処から離れろ!後は任せるんだ!」
小田桐と浅野が教室内に駆け込んできた。
浅野が駆け寄り、彩香が抱えていた生徒を抱え上げる。
髪の毛を振り乱した生徒の顔がちらりと見えて全身の毛穴が開いた。
青白い頬に赤黒く血管が模様のように浮き出している。
だらりと垂れさがった腕や足にも同じように黒い模様があった。
「下がれ!」
浅野が叫ぶ。
「まだ中にも友達がいるんです!」
彩香は煙にむせながら必死に訴える。
「きゃぁぁ!!」
準備室の煙の中からガラスの割れる音に続いて悲鳴が上がった。
「菜月!」
その声が菜月だとすぐに分かった。
腰を上げ、再度煙の中へ飛び込もうと体制を作ったまさにその時、準備室の中からモノ凄い突風が吹き出し、彩香の体はまるで紙細工のように簡単に吹き飛ばされた。
ジャンプしてもないのに両足が浮き上がる感覚は、恐怖以外の何物でもない。
床に転がりながらようやく開いた片目でドアを見ると、濛々と溢れ出して来る煙の中に、大きな黒い影がユックリと動くのが見えた。
その影は壁が動いたかと思うほど大きく輪郭がはっきりしないが、手足、頭があるのは解った。
ドア枠をくぐってのそりと此方に向かって来る。
彩香は目を疑った。
「え?何、あれ」
その影の頭からはクワガタのような大きな角が二本、天に向かって突き出している。
真っ黒な全身の中で、なぜか二つの眼だけが赤く光って見えた。
彩香は恐怖のあまり声が出ない。
立ち上がろうにも、腰から下に力も入らない。
両腕で上体を支えるのがやっとだ。
ゆっくりと彩香に近づく黒い影は、煙の中、徐々に輪郭を整えた。
角に見えたのは兜だ。博物館で見た様な中世の戦士が付けたあの兜だった。
顔には骸骨を模った黒い仮面をつけている。
全身に甲冑を付け、背中には黒いマントが揺れて、体が一層大きく見える。
手に持っている長い槍は、先端が燃えるかのように揺らめきながら青白く光っていた。
刀身が光を反射しているのではなく、刃そのものが光を放っている。
それが彩香を目掛け、兜の頭上で構えられた。
手足は震えるだけで、逃げたくても動かせない。
仮面の奥の眼が光を増した瞬間、青白い槍の刃が目の前を縦断した。
「!」
鼻の頭から数ミリの所を、青白い光が掠めた。
間一髪。
彩香は両肩を掴まれ、机の陰に引っ張り込まれた。
「言うこと聞きなさいよ」
眼を瞬くと、顰めた顔の小田桐が彩香を抱きかかえるようにして、床に倒れこんでいる。
「こっちだ!」
二人は机の陰に隠れながら、小さく身をかがめて後方へと床を這った。
頭上で何かが弾ける音が響き、水道の水栓が目の前に落ちてきた。
鎧兜が槍を振り回している。
迂闊に立ち上がれない。
右上から机の破片が降ってきたり、左から天井材の一部が落ちてきたり、まるで教室が破裂しながら崩れていくようだ。
足元の床がバチン!と大きな音を立てて割れたかと思うと、青白い槍の刃が突き刺さっているのが見えた。
目標を見失って怒りに任せて槍を振り回しているのか。
通常の人間の行動とは思えない。
―人間?そもそもあれは人間なのか?
というか人間じゃなければあれはなんだ?
狂人、彩香の中で恐怖が増幅した。
小田桐は腰を屈めて、彩香を抱えながら机の間を這い蹲り、後方の出入り口を目指す。
準備室からの煙はその量を増やし続け、実験室内はさらに霞んできた。
鎧兜は動くたび重そうな音を立てて、槍で周りの障害物を手当たりしだい破壊しながら二人を追ってくる。
普段聞いたことも無い破壊音が耳の奥まで響き、体中の震えが止まらない。
「もう少し我慢しろ」
実験室の後ろ、彩香を引きずったままようやくドアに辿り着いた小田桐が小さな声で励ます。
ドアを開けようとするその背後で、ガシャンと音を立て甲冑が止まった。
音と気配で次の行動が読めたが、小田桐に振り向いて応戦する余裕は無い。
小田桐に抱えられた彩香がスーツの肩越しにそれを見ると、鎧兜は小田桐の背中目掛けて構えていた槍を、まさに振り下ろす瞬間だった。
「やめてぇ!」
やっとの思いで悲鳴を上げたその時、背中のドアが開き、其処から飛び出した黒い物体が鈍い音を立てて兜に直撃した。
バスケットボールくらいの大きさだ。
教室内に響いた衝撃音は何かが潰された音も混ざっていて、ただのボールがぶつかった音ではない。
兜が体制を大きく崩し、仰け反りながら倒れていくのがスローモーションに見えた。
そのすぐ横でゴロンと床に転がったのは、黒いヘルメットだった。
彩香は肩をすくめながら見上げると、黒光りする厳つい革つなぎを着た男の人が、銀色の拳銃を構えていた。
「課長、早くこっちへ!」
「良いタイミングだ、園茨警視」
小田桐は彩香を抱えたまま廊下へ這い出して、壁に身を隠した。
「凶器を放せ!」
園茨が声を荒げた。
壁の向こうで、ガシャガシャと鎧の擦れ動く音が聞こえる。
彩香が立ち上がろうとすると同時に、鼓膜が破ける程の破裂音が数回、校内に響いた。
あまりの音に悲鳴を上げる間もなく頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
園茨の視線の先の銀色の銃口から微かに硝煙が立ち上る。
園茨は鎧兜が床に倒れ込んだのは確認したが、煙が充満してきてその姿を見失ってしまった。
ちょうどその時、消防士が数人駆け上がって来て、壁の消火栓からホースを手際よく引き出して教室内へ放水を始めた。
その勢いは窓ガラスを破り、中の煙は外気に引きずりだされるように見る間に消えていった。
隣の準備室のドアも消防士の手斧で壊されて放水された。
実験室内は次第に鮮明になっていく。
小田桐と園茨、それに浅野の3人は消防士の後ろから張り詰めた顔のまま拳銃を構えていた。
やがて煙が晴れ、水浸しの床がはっきりと見て取れるようになった。
「止めてくれ」
小田桐はそう言って放水を止めると、銃を構えたまま教室内へゆっくり足を踏み居れた。
浅野が少し間をあけて続く。
刑事達は物陰を注意深く確認したが、鎧の姿は何処にも見当たらない。
「消えた?」園茨が呟いた。
実験室の水浸しの床にはヘルメットが転がっているだけだった。
三人はゆっくりとお互いの距離を縮めて、溜めていた息を、深く吐き出した。
「何だと思う?」
「・・・」
園茨は首を振った。
浅野は言葉も無く、膝の震えを必死に堪えている様だった。
「人が居るぞ!」
準備室に居た消防士が大声で呼んだ。
すぐに担架が3台運ばれてきて、それぞれに生徒を乗せて階段へと急いだ。
「入らないでください」
彩香の後ろで、消防士の大きな声が響いた。
「そこに生徒が居るんです!」
保険医の岡野だ。
消防士が止めるのを迫力で跳ね返し、廊下の隅で体を小さくして座り込んでいる彩香に駆け寄った。
「一倉さん、大丈夫?」
「先・・せ、い・・」
震える唇から出る声はそれが精一杯だった。
岡野の手を掴み、ガクガクと音を立てそうな膝を押さつけて立ち上がると白衣にしがみ付いた。
体中がブルブルと震えている。
「大丈夫、もう大丈夫だからね」
岡野の声に少し体が緩むのを感じながら涙が止まらなくなった。
声もなく泣きじゃくる彩香の肩と頭を岡野は力強くゆっくり抱きしめた。
「一倉・・」
遅れてきた公彦は、何してよいのか分からないまま、岡野に抱えられている彩香を少し離れた場所から見ていた。
その目の前をストレッチャーが慌ただしく通り過ぎていく。
救急車へ運び込まれる菜月は他の3人と同じように酸素マスクを着けられ、意識の無いままストレッチャーにゆられていた。
その首には黒い筋が、ツタの様な模様を描いている。
校庭に救急車がいるという初めての光景を、残っていた生徒達は心配と不安の眼差しで遠巻きに見守っていた。
「菜月・・」
「近づかないで!」
思わず駆け寄る彩香を、救命士の怒鳴り声が制した。
無情にもドアを閉めて走り出す救急車にすがるように手を伸ばした。
「菜月・・・」
彩香はサイレンの音が小さく聞こえなくなるまでその場に立ち尽くすしかできなかった。
救急車に続いて消防車が出て行っても、その場を動くことができない彩香の肩を、岡野はずっと握り締めていた。
放した瞬間に倒れてしまいそうな程、彩香の体は震え続けていた。
数歩後ろでその姿を見ていた公彦は、声を掛けることすらできず両手の拳を握り締めていた。
左肩をポンと叩かれて振り向くと、埃だらけの小田桐が疲れた顔で立っていた。
「みんなの無事を祈ってくれ」
そう言うと公彦の返事も待たず、彩香たちの所へ行って何か伝えた。
公彦の位置からは口が動いたのが見えるだけで何を言ったのかは全く聞こえない。
岡野は頷いて、彩香と一緒に誘導されたパトカーへ乗り込んだ。
パトカーはサイレンを鳴らしながら校門を出て行った。
「一倉・・・」
公彦は歯を食いしばり、握り締めた拳に力を込めた。
・病院
彩香はパトカーの後部座席で、岡野に肩を抱かれたまま、窓の外の街並みをただ呆然と瞳に写していた。
パトカーは被害にあった生徒たちが搬送された病院へ、数分遅れで到着した。
玄関で待っていた浅野の案内で廊下を足早に進んだが、足がもつれて半ば引きずられるような格好になった。
途中で看護士が彩香の状態を確認しに来たが、彩香自身は怪我一つ無いので、取り敢えずベンチで待つよう指示をされた。
刑事と看護師のやり取りが聞こえて、被害にあった生徒たちは既にICUに運び込まれているのだと分かった。
出入り口が見えるベンチに、岡野は彩香を包み込むようにして腰掛けた。
腕組みをして頭を垂れた浅野が、何度もため息をつきながらその傍に立ちつくす。
看護士たちは3人の目の前を慌ただしく走り、ICU出入りしている。
「何が聞こえた?」
突然の声に、座っている岡野が顔を上げると、小田桐が携帯電話をポケットに仕舞いながらすぐ横に立っていた。
「我々は全く聞こえなかったが、君には何か聞こえたんだろ?」
「あまり強制しないでください。子供ですよ」
学校の時とは全く違う声色の小田桐には、先ほどとは違う迫力があった。
岡野が慌てて遮った。
「先生、勘違いしないでくださいよ。あなた方を守る為のことです」
そう言った小田桐の左手には包帯が巻かれていた。
彩香の前にしゃがむと深呼吸してから続けた。
「君には判っていたんだろ?」
岡野の胸に顔を埋めていた彩香が、顔を上げて小田桐を見た。
その目は真っ赤になり少し腫れていた。
「・・・」
「ショックだよな。昨日に続き・・、許せないよな」
小田桐の優しくも力強い声に、彩香は小さく頷いた。
「おじさんたちが絶対に犯人を捕まえる。約束する」
「・・・」
「落ち着いて。ゆっくりでいい、教えてくれ。あの時何が聞こえた?」
彩香はゆっくりと座り直した。
「刑事さんが話している間、他の誰かの声で『来たよ』って聞こえました。女の子、私と同い年ぐらいの。そのあと、昨日の、博物館の、風鈴てゆうか、チリーンってゆう、小さな、鈴のような音がして」
支離滅裂な言葉の継ぎ接ぎを、小田桐は急かすことなく、ただ頷いて聞いた。
話しながら彩香は何度か深呼吸した。
「何だろって思ってたら、菜月の泣き声というか、悲鳴のような声がして、それで・・・」
彩香は俯いて肩を小刻みに揺らし、口を噤んだ。
「そうか、何かの音、博物館でも聞こえたのかい?」
「気のせいかとも、思ったんですけど」
「その時、誰かを見たかい?」
「・・・」
「ゆっくりでいい、思い出して」
彩香ははっとして顔を上げると葉切りとした声で言った。
「良くは見えなかったんですが、背の高い男の人が歩いてて、先生か博物館の人かと思って、付いていこうとしたら、中澤に呼び止められて・・」
「どんな格好だった?覚えてるかい?」
「黒いコートを着て、縁のある帽子を被って」
「顔を見た?声は?」
「後姿だったから・・」
「で、その後があの事件か」
彩香は小さく頷いた。
「分かった、ありがとう。大きな手掛かりになるよ」
小田桐は何度も頷いて言った。
「浅野君は2人をお送りして。それから大井先生に、ここの病院の住所と電話番号を連絡しといて」
小田桐は立ち上がりながら浅野に指示すると、踵を返して歩き出した。
彩香は岡野を訴えるような目で見た。
菜月のそばから離れたくなかったのだ。
「この子は私が送りますので大丈夫です。もう少し此処に」
「先生、お気持ちは分かりますが・・」
立ち止まり顔だけ振り向いた小田桐はそこで言葉を切って、有無を言わせない冷厳な視線を岡野に向けた。
その間が何を意味するのか、彩香には分からなかったが、岡野は顔色を変えて立ち上がった。
「分かりました。一倉さん、私が送るから行きましょう」
「でも・・」
彩香は抵抗したが、その力は余りにも弱かった。
「そうだ。これを彼女に処方してください。安定剤だそうです」
小田桐は小さな紙袋を岡野に渡すと、軽く頭を下げて再び踵を返した。
2人は浅野に誘導されて玄関へ向かい、タクシーに乗り込んだ。
「何かあったら学校へ連絡いただけますか?今夜はずっと誰かいますので」
「わかりました。必ず」
浅野は、岡野の心配そうな顔をなだめる様に笑顔できっぱりと言い切ると、また院内へ戻っていった。
胸騒ぎが収まらない彩香の横で、タクシーのドアが無情に閉まった。
・20:00
夜の帳に包まれた団地の入り口で、タクシーは静かに止まった。
ドアが開くと、冷たい風が音も無く入り込んでくる。
「本当に此処で大丈夫?」
岡野が心配そうな顔で彩香をみつめる。
「大丈夫です。ありがとうございました」
彩香は呟くようにそう言うと、タクシーを降りて、団地の間に延びる歩道を一歩一歩踏みしめるように歩き出した。
背後でタクシーのエンジン音が遠ざかるが、振り向く気にはなれなかった。
あんな事があったのに団地の中は普段と変わらない風景だった。
疎らに人が歩き、ほとんどの家の窓に明かりが灯り、食器の当たる音や、小さい子が練習する楽器の音が聞こえる。
階段をよろめきながら上がり、5階にある家のドアの前でため息を落とした。
菜月達のことが片時も頭から離れない。
なのに周りは当たり前のようにいつもの日常を送っている。
笑い声や、怒られて泣いている子供の声が、別世界の作り物のように聞こえる。
まとまらない頭でも、いつもの動作は体が覚えていた。
鍵をドアに差し込むと、ピーと確認音がしたが鍵は開いていた。
「あれ?開いてる。変だな」
ゆっくりとドアを開けると、冷たい風が嫌な匂いを乗せて、部屋の奥から吹き抜けた。
リビングから漏れる明かりが廊下でおかしな動きをしている。
照明が揺れているのだとすぐにわかった。
「お母さん?」
玄関で立ち尽くす彩香に、中からの返事は無い。
彩香は眼を見開いて、急いで靴を脱ぎ廊下を走った。
リビングへ駆け込んだ彩香の瞳に真っ先に映ったのは、部屋の真ん中に置かれたテーブルの上に、覆いかぶさるように倒れている康代の姿だった。
敷かれているベージュ色のカーペットに赤黒いしみが広がり、部屋の中は目茶苦茶に荒れていた。
「お母さん!」
悲鳴のような声で駆け寄って、康代を抱き起こそうと肩に手を回すと、かすかに康代の唇が動いた。
「サヤ、逃げて・・」
力なく彩香を見上げる康代の顔の半分は血で染まり、その中にある眼は充血して真っ赤だった。
「なんで・・」
彩香は余りにも酷い母親の姿に、これが現実なのか夢なのか区別が付かなくなった。
体中の血管が沸騰したように全身がビリビリと痺れて、心臓の音が鼓膜に張り付いて響く。
風がまた吹き抜け、彩香の髪が顔にまとわりついた。
何かが擦れる音がして顔を上げると、バルコニーのカーテンが揺れて、捲れ上がったその下に、こちらを向いた靴が見えた。誰かがバルコニーにいる!
「誰?!」
彩香の視線は一点に集中した。
強い風がカーテンを吹き上げると、その下から人影が現れた。
真っ黒な長いコートの裾を靡かせて、縁のある帽子を目深に被った背の高い男が立っていた。
彩香は驚きと恐怖の余り体が硬直した。
呆然とその姿を見つめるしか出来ない。
「早く、逃げなさい!」
康代の精一杯の声が彩香の意識を現実に戻した。
彩香は弾かれたように立ち上がるとそのまま玄関へ走った。
少し開いたままだったドアを押しのけて、靴も履かずに通路を走る。
「なんで?」
つぶやきながらも全力で走ると、涙が溢れ出てきた。
今起きていることが信じられない、突然悪夢の中に突き落とされたようだ。
康代の必死な言葉だけが彩香を動かしている。
廊下の突き当たりにある非常階段を駆け下りていくうちに、歩幅と段差が合わなくなり不規則に、1段、2段と抜きながら飛び降りるように走った。
自分の呼吸する音が、体の中で反響しているように大きく聞こえる。
息が上がって苦しくなり、咽喉元は火が付いたように熱い。
少し後ろに追いかけてくる気配を感じて、その恐怖が止まらない。
有り得ない。こんなこと、有り得ない。
自分に言い聞かせるように呟きながら走り続ける。
体中の感覚が遠くなっていく気がした。
動いているはずの足の感覚が無い。
周りの音が消えて、自分の息遣いしか聞こえない。
すべてが夢のように思えた。
何かの気配はすぐ背後にまで迫っていたが振り向く余裕はない。
飛んで
耳元で確かにそう聞こえた。
2階と3階の踊り場だったが、彩香の体は意識せずその言葉に従って、手摺に手を掛け、勢いそのまま両足を揃えて柵を飛び越えた。
遥か下に地面が見える。
手が手摺りを離れて全身が中に舞った。
その瞬間、彩香の体は落ちるのではなく、浮き上がった。
木の葉が風に乗った、そんな感じだ。
ふわりと空中で一回転したかと思うと、すぐに右足が地面についた。
落下の衝撃は微塵も無い。
フワリと着地した。
靴下から地面の冷たさが伝わったのを感じ、彩香はさらに走った。
でも何処へ行けばいいのか判らない。
建物の角を曲がろうとした時、足元のぬかるみに足を取られて激しく転倒した。
冷たい地面に転がりながら滑り込む、体の何処を如何にぶつけたのか激痛が体中に走った。
冷たい泥と、染み出した血で制服はグチャグチャになった。
彩香は唇をかみ締め、よろめきながら立ち上がると、朦朧とする意識の中、康代の言葉を忠実に守ってまた走り出そうとした。
が、前に居た何かに鼻からぶつかった。
「キャッ」
短く悲鳴を上げて弾き飛ばされて、尻餅をつく。
地面の冷たさが手の平から伝わり、恐る恐る見上げると、黒いハーフコートを着たレイジが目の前に立っていた。
「れい・・にい、ちゃ」しゃくり上げ、声が詰まる。
レイジを見上げながら、彩香はぽろぽろと涙が溢れ出てきて止まらなくなった。
レイジは驚いた顔で、彩香の泥と血の滲んだ制服姿を見ていたが、すぐに事態を理解したのか、瞬時に辺りを見回すと、彩香の手を引いて走り出した。
「こっちだ、来い」