第二話 レイジ
11月21日 07:35
「無理しなくていいけど、出来れば学校に行きなさいね」
康代は上着を着ながら器用に部屋をのぞきこんだ。
彩香は毛布に包まったまま返事もしない。
「じゃあね。ご飯は食べるのよ」
苦笑いの顔が襖の陰に消えて、玄関でゴソゴソしている音がぼんやり聞こえる。
「そうだ!ちょっと待って」
毛布を跳ね上げて、靴を履きかけた母を呼び止めた。
「あのさ、前に住んでた所で私より少し年上のお兄さん居た?」
「何よ、いきなり。・・お兄さん?」
康代は彩香の慌てぶりに目を丸くした。
「今、二十歳位の人で、もっと上かな?わかんないけどその位」
「今、二十歳位・・?あぁ、そういえば彩ちゃんが保育園のとき、近所に中学生の男の子が居た、けど」
「けど?なに?」
「すごい悪い子だったから、あまり接点は無かったはず」
「その人なんて名前?もしかしてレイジ?」
「レイジ?」康代は眉間に皺を寄せた。
「そんなだったような、違ったような。れいじ、レイジ、・・・エイジ。そうだ英司だよ」
「エイジ?あれ訊き間違えたかな?レイジじゃないの?」
「ううん、英司だよ、思い出した。何度かうちで夕飯を食べてったことがあったのよ。ご両親はすごくいい人でね。仕事の遅いとき預かったことがあって、無口で大人しくて・・あれ?」
「悪い子じゃないジャン」
「何年も前だからあやふやね、でも近所じゃいい噂が無かったのよ」
「なにそれ」
「何よ、仕方ないでしょ。また思い出したら教えてあげるから。じゃあね」
康代はそう言うとバッグの肩紐を賭け直し、折畳み傘を片手に仕事へ出かけていった。
彩香は暫くぼおっと立ち尽くしていたが、また部屋に戻るとベッドに潜り込んだ。
毛布をかぶって大きな深呼吸を一つ。
昨日見たエミリの人間とは思えない形相は一晩寝たぐらいでは忘れられそうも無い。
でもそれ以上に頭から離れないのが「レイジ」と名乗った青年だった。
膝の震えが止まらないほど怖かったあの時、彩香を見る真っ黒な瞳はとても優しく、懐かしくて、どんな言葉よりも安心できた。
薄暗かったけど顔はハッキリと覚えている。
「れいじ、レイジ、れえいじ?」
しばらくすると窓の外から、小さい子供の声が聞こえてきた。
昼間にそうそう眠れる体質ではなく「あぁもう!」と、毛布を弾き飛ばして飛び起きた。
テーブルの上のトーストはすっかり冷めていたが、食べ終わると少し元気がでたような気がした。
「やっぱ行くか!」
時計は10時を回っていた。
素早く制服に着替えて家を飛び出した。
「みんな大丈夫かなぁ」
菜月とは夕べ電話で話をしたが、かなり興奮しているようで内容が正確に伝わったかどうかは疑わしい。
ぐったりしていたエミリ達と一緒に搬送された病院から、康代に迎えに来てもらって直接帰ってきたので、鞄は学校に置いたままだ。
母親の真似をして折畳みの小さな傘だけ持って出た。
曇り空の下、風は意外に穏やかだった。
商店街は人目が多いので避けた。
遠回りになるが町はずれにある小高い山、正式な名前は解らないけどみんなが「さきやま」と呼んでいる標高200メートルほどの山の中腹にある長細い公園をのんびりと歩いた。
小学校以来だろうか?久しぶりに歩いてみると思った以上に結構距離があった。
山の上の方には神社があり、転校してきたころは菜月とよく行った。
確か公園の真ん中辺りに鳥居と石階段があって、両側に生い茂った林が真夏の日差しも遮っていて涼しかった記憶がる。
小学校の何年だったか、その石階段で菜月と並んでアイスを食べた時のことを思い出した。
「懐かしいなぁ、たまにはこういうのもいいかもね」
黄色くなったイチョウの葉が、風に踊りながら降ってくるのを見上げながら歩いた。
小さな子供達が砂場で遊んでいて、その母親らしい若い女性たちがその横で井戸端会議をしている。
気付かれないように、自然に早足になった。
「ん?」
遊具のある砂場エリアを抜けた時、ふと立ち止まった。
「あれ?誰かがいたような・・」
一陣の風が吹き抜け、背後から鳩が数羽、大きな羽音を立てて飛び立つ。
「うわ!」
思わず身をかがめた。
「よぉ、久しぶり。ずいぶん大きくなったな」
驚いて顔を上げると、通路わきに並ぶベンチにふんぞり返って座る若い男の人がいた。
「そんなに驚くなよ。思い出したんだろ?」
「れい、にいちゃん?」
と言おうと思ったが喉奥で止まった空気が出てこない。
大きな瞳でジッと見つめたまま薄く唇を開いたが、何から話せばいいのか。
「何だよ、なんか言えよ」
レイジは背凭れに頬杖をついた格好で少し不機嫌に口を曲げる。
「レイ兄ちゃん・・だよね」
ようやく出た言葉に、レイジは軽く笑った。
「幾つになった?高校生か?」
「・・来年ね」
「大きくなるわけだ。もう恐竜の説明は要らないよな」
レイジは体を起こして冷ややかに笑う。
無意識につられて笑顔になる。
昔の記憶が頭の中をものすごい勢いで駆け巡り、刹那いろいろな事が思い出された。
最近では思い出しもしなかったこと。いや、この町に越して来てからは全く考えもしなかった、まだ小さかった頃の事。
恐竜の本はレイジが見てたのを、脇の下から潜り込んで読んで貰ったんだ。
泥遊びでパンツを汚したときには履き替えさせてもらったことを思い出して、笑顔が引きつった。
「今から学校か?お前良い子じゃないだろ」
「そんなこと無いよ。良い子だよ」
言ってから妙に恥ずかしくなった。
良い子って歳じゃないよな、と思いながら首を振る。
「あ、あの、昨日は何であそこにいたの?いや違って、昨日はありがと」
レイジはまたふんぞり返った。
「あの子達は学校のクラスメイトで、だから、助けてくれて、その」
自分でも何と言えばいいのか分からなくなってスカートを握り締めた。
「落ち着け。相変わらず話すのが下手だな」
「そ、そうかな、でも」
「あの子達は大丈夫だった?・・・なら良かった」
言わんとすることは何とか伝わったようだ。
「でも、一体どうやったの?」
「何が?」
「エミリたち酷い状態で、もしかしたらって思ったけど、レイ兄ちゃんどうやって治したの?」
「治したわけじゃない、俺はまだ治療行為はできないんだ」
「まだ?」
「そう、まだ医師免許は持ってない、卒業してないからな」
「じゃぁ医大生なの?!すごい!」
彩香は眼を輝かせてた。
「なんだよ、その対応の変化は?でも昨日の件は内緒だぞ、無免許で医療行為をしたら卒業すらできなくなるからな」
「うん、うん、絶対誰にも言わない、約束する!」
「あの子たちは見たところショック性のひきつけを起こしていた。だからショックを和らげる処置をしたんだ。応急だけどな」
「すごーい、パッと見て解るなんて流石レイ兄ちゃん」
「ただ原因が分からない、何らかの薬品反応だとは思うんだけど、あんな所で起こるショックなんて聞いたことがない」
「でも、博物館でなんか薬臭いよね」
「ははは、そう言やぁそうだ。強いホルマリンは麻酔効果もあるしな!」
「そうなんだ」
「ただそれだけじゃなく気をつけろよ、この辺、少々物騒になってきてる」
「うん、わかった」
彩香は兄に諭される妹の様に頷いた。
「そうだ!私の家、すぐ其処なんだ。今度遊びに来てよ、お母さんも今近くの病院で看護師してるんだよ、連絡先教えて!」
「今度な、今は早く学校行け」
レイジがそう言ってベンチを立上がると、同時に強い風が地面の落ち葉を巻き上げた。
細かな埃が彩香の睫毛を突付く。
「うわ、すごい風・・」
堪らずに固く目を閉じる。と
「またな」
風の音に混ざって確かにそう聞こえた。
風が過ぎ去り、目をあけると其処にレイジの姿は無く、代わりに小さな男の子が立っていた。
「あれ?小っちゃくなった?まさか」
「おねえちゃん、何してんの?」
男の子は彩香を見上げて不思議そうな顔をしている。
「早い!もう行っちゃった!」
「ねぇ誰と話してたの?」
男の子はじっと見詰めて動こうとしない。
落ち葉の舞う広場のなか、既にレイジの後姿すら見当たらない。
小さくため息をつくと彩香はしゃがんで男の子に視線を合わせた。
4歳ぐらいだろうか、片手にはおもちゃのシャベルを握り締めている。
「友達とお話ししてたの、見えなかった?僕は此処で何してるの?」
「僕ね、自転車の練習してるの。後でパパに見せるの」
「ふーん、自転車は何処?」
「ママが持ってる」
と指差した方から、小さな補助輪の付いた自転車を腰を屈めて窮屈そうに押している女性がいた。
「慶ちゃんこっちよ。ほら、もっと乗るんでしょ」
母親はこちらに気が付くと軽く会釈した。
「ごめんなさいね。この子兄弟が居ないから私以外の人が珍しくて」
綺麗な人、彩香は思わず見とれた。
「大丈夫ですよ。私も兄弟居ないし、気持ちわかります」
「あら、そうなの?慶ちゃん、パパがもう来るからお姉ちゃんにバイバイしようね」
「バイバイ、またね」
男の子は無言で手を振って母親に手を引かれて行った。
その先の階段のところに父親らしい人が上がってきたのが小さく見えた。
すると男の子は駆け寄って飛びついた。
笑い声が遠くに聞こえてくる。
「パパか・・・」
彩香は小鼻でため息をついて、学校へ向かった。
・13:02
高層ビルが立ち並ぶオフィス街の間を縫うように走る道路は、昼前に降った雨の影響で込み合っていた。
昔からの運河を越えて、彩香の住む町からは電車で50分程離れた街の中、黒と銀のカラーリングが異様に目立つバイクが車道の脇に止まった。
人の溢れる歩道の奥には、大きなガラスの自動ドアがあり、その脇には腰高の看板に店舗名『アーベント』と書かれていた。
黒いレザーのつなぎは肩や肘、胸と背中がプロテクターで盛り上がっていて格闘技でも使えそうだ。
グローブをはめたままキーを抜き、歩道を歩く人波を物ともせず闊歩して自動ドアの前に立つと、真っ黒なヘルメットは荒っぽく外された。
中から現れたのは訝しげな顔の園茨だった。
スーツ姿とは打って変わって園茨にはエリート官僚の臭いはなく、この姿だけを見た人は何処かの格闘家かと思う程、その目付きは尖っていた。
独身の浅野の、夜な夜なの趣味であるネットワークのウェブサイトでこの店の名前は簡単にヒットした。
ギャラリーアーベント
ホームページの説明では絵画、骨董品、古美術品などを扱う店のようだった。
名前が同じだからという単純な理由だが、何か手ががりがあるかもしれない。
園茨はガラス張りの入り口から店内を見渡した。
照明がいくつか点いていたが誰かが居る様子はない。
入り口の前に園茨が立っても自動ドアも動かない。
力任せに開けてみようかとガラス戸に手を掛けてみたが、人目の多い此処ではさすがに気が引けた。
軽く息を吐き出しガラスに映った自分の顔を見詰める。
此処に来る事は小田桐にも話した。
特に反対は無かったが、捜査の主流からは外れていたのでパトカーは使いたくなかったし、一人で動くので個人所有のバイクを使ったのだった。
ガラス越しに再度、店内の様子を伺ってみる。
白い壁の奥に、ひとつだけ絵画があるのが見えた。
応接セットの他には特に何も無い殺風景な店内だ。
園茨の想像していたギャラリーとは全く違う。
もっと絵画や壷などが所狭しと並んでいるのを想像していたし、園茨の知る限りではそんな店ばかりだ。
昨日見た鎧兜と、この店のイメージとでは共通点が無いように見える。
「そんなに簡単には繋がらないか・・」
一人出来てよかったと、諦めと呆れが胸の中で重なった。
店内を呆然と見ながら立ち尽くしていると、背後で車が止まる音がした。
ガラスにそれが映る。
園茨のバイクのすぐ後ろ、重そうな黒いセダンから黒いスーツ姿に身を固め長い髪を後ろで纏めた、いかにも仕事のできそうな若い女性が一人降りてきた。
セダンは女性を下ろすとすぐに走り去った。
ガラス越しに、闊歩する女性のその姿に見とれた。
あまり女性に見とれた経験などない園茨にとって、今自分が眼と心を奪われているなどと自覚は全くなかった。
女性は颯爽と歩き店に近づいてきた。
しかし、ドアの前の園茨に気がつくと慌てて方向を変え、その後ろを通り過ぎようと足の動きを早めた。
園茨は振向き様、声を掛けた。
「ちょっと待って。此処の人ですよね」
顔を伏せ足早に立ち去ろうとする女性の前に走って回り込み、身分証明書を出しながら道を塞ぐ。
「警察です。此処の店の方ですよね?2,3質問したいのですが」
女性は足を止めて、唇を噛んで暫らく俯いていたが、ようやく顔を上げた。
その間の僅か数秒間が、園茨には時間が止まったように感じた。
磨かれたような白い肌の中の大きな瞳が園茨を見つめ返す。
芸術のようなその美しさに、思わず息を呑んで言葉が続けられなかった。
呆然とする園茨を見つめ返す女性の目付きが鋭くなった。
「今すぐ此処から逃げて、早く!」
小さくも迫力のある声だった。
園茨は思わず聞き返した。
「逃げる?何を言って・・」
「早くっ!」眉間にシワをつくり、怒気さえ含んだその声に一瞬たじろぐと、その隙を突いて、女性は園茨の脇を駆け抜け、走り去ったと思っていたセダンに乗り込んでいった。
「君!ちょっと待っ・・」
直後、園茨は背中に凄まじい程の風圧を受けた。
体が前のめりにバランスを崩す。
鼓膜が破れるかと思うような大きな爆発音を伴って、背後から粉々になったガラスが砂嵐のごとく吹き付ける。
辺りの街路樹が枝を揺らし、歩道に停めてあった自転車やバイクが風圧で倒れるのが見えた。
歩道に倒れこんだ園茨が、耳鳴りに眼を瞬かせながら起き上がると、画廊のあったビルの一角が真っ黒な煙を吐き出している。
「ガス爆発だ、消防車を呼んでくれ」
通行人らしき声が、遠くで叫んでいるように聞こえる。
園茨は一瞬の出来事に唖然とする他出来無かった。
カミングアップス~ン♪